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トルコ共和国 トロイ遺跡

Troy, Turkey

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Feb.2011 撮影/文:中山辰夫

イスタンブール〜トロイ遺跡〜アイワルク

Istanbul〜Troy〜Ayvalik

(マルマラ海からエーゲ海) Marumara Denizi〜Ege Denizi

昨夜遅く着いたホテルの窓から見た金角湾を挟んだ新市街と旧市街

   

今日の走るコース

目玉はトロイ遺跡。マルマタ海沿いを走り、ダーダネルス海峡を渡り、エーゲ海沿いを走る。エーゲ海文明の地である。

   

イスタンプールの市内から、国道・高速道路を専用バスで突っ走る。スピードはあまり出さない。先ず向かうはトロイ。

    

マルマタ海沿い

マルマタ海沿いにヨーロッパ側を、約5時間半かけて南下し、ダーダネルス海峡のフェリー乗り場まで直進する。

海は穏やか。道路が海辺に差し掛かると住宅が現れ、離れると農地となる。この繰り返しが続く。

     

戸建・マンション

住宅地では、外観が殆ど同じ住宅が数十戸かたまって建っている。建売も多そう。一般住宅か別荘かはわからない。

一戸あたりの面積は広い。マルマタ海沿岸はイスタンブールの人々のリゾート地区と聞く。

    

住宅の屋根

住宅の屋根には数本の煙突が立つ。各部屋毎の暖房用であろう。最近はソーラーシステムに切替える傾向にあるようだ。

テレビのアンテナが加わると賑やかなや屋根上となる。

    

トルコでは、コンクリートで周囲の枠組みをして放置した住宅やマンション物件が見られる。

お金が出来たら次ぎに取り掛かるようだ。枠組みの後は、レンガを組込んで仕上げて行く。耐震強度は大丈夫かと思う?

  

道路の山側には農場が延々と続く。この地域は気候が温暖で、土地も肥沃。野菜の栽培も盛ん。

トルコの食料自給率100%が納得できる。この先も穀倉地帯のオンパレードである。

国道では、幅員の拡張、分離帯の植樹の工事が行われている。

    

「ダーダネルス海峡」・・・チャナッカレ海峡とも呼ばれる

ダーダネルス海峡はオーロッパ側からアジア側に渡る海峡で、マルマラ海とエーゲ海を結ぶ。

フェリ-に乗ったのは、ヨーロッパ側のエジェアパトという町であろうか。20分ほど。賑わいがあった。

    

海に近いためか、魚料理店が多かった。昼食の一品はサバ&ライスでシンプル。

    

海峡は穏やか。エーゲ海に向う。渡った先には、エーゲ文明をもたらした多くの町と遺跡がある。。

    

着いたのはアジア側のチャナッカレという人口5万人ほどの港町。重い歴史を語る要塞跡ものこる。

今はアジア側のフェリー港として重要な町。トロイ観光の基点となるため訪れる人が多い。

1200mと狭いチャナッカレ海峡とチャナッカレにあるキリトバル要塞「引用」

   

トロイ遺跡

Troy

チャナッカレから約30分のところにある。 周囲はオリーブの木に囲まれ、羊の放牧も見られる。

   

前方に広場があって、そこが入り口である。

  

シュリーマンの劇的な発掘物語で知られ、古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスが伝えたトロイ戦争を実証したとされる遺跡である。

しかし多くの謎が残されていて、シュリーマンが発見した財宝も未だに物議をかもしているとか。

今も発掘作業が進行中である。

城壁、家屋の基礎、寺院、劇場の遺跡を含む9つの異なる時代の集落が発掘された。

 

入口付近に大きな木馬が立っている。イダ山の松ノ木で造られた。複製である。1975年に造られてまだ新しい。

創造をかき立てる木馬でがっしりとした造り。上の階まで登れる。木馬の周りにも遺跡の断片が転がっている。

    

長引くギリシャ軍とトロイ軍の戦争に終止符をうつべく、ギリシャ軍は巨大な木馬をつくり、その中に多くの兵士を隠し、トロイの場内に入れる作戦を取った。夜寝静まった頃、一気に攻め入り落城させ、トロイ人は皆殺しとなった。

小高い丘から西側には畑地が広がる。そこはかつて入り江だった。スカマンドロス川が運んだ土砂で埋まってしまい今は海まで5kmほどある。町が出来ている。トロイ戦争の時代は、遺跡の足下まで海が迫っていたといわれる。

   

ワインや穀物の保存に使われたツボ

  

説明案内の順路に従って古代都市遺跡を巡る。文字が読めない。ガイドがないと歩いていても何もわからない。

 

かなりの高さのある城壁・城門が続く 第四市頃のものか。

   

トロイの最初の都市は約500年ほど続いた。その時の城門や城壁は遺跡の中央にあって住居跡も残っている。

石壁と長屋のような集落が残る。 紀元前3000年ごろ〜 火災で全壊したとされる。

    

石の土台の上に、泥レンガの壁がつくられている。第一市のメガロン式住居跡か。調査中が行われている。

     

第一市ノメガロン式住居跡 人骨の案内があった。

  

城壁跡

    

第二市の紀元前2500年〜2300年頃、直径数110mほどの円形都市だった。城壁も円形を成している。

  

シュリーマンが財宝を発見した掘った遺構の場所。聖域の北側に当たる。

  

正面門に通じる大きな大理石の敷石で舗装された傾斜路(ランプ)もみられる。

  

メガロン式宮殿跡か。

        

塔跡と城壁、右手が城門

    

第八市と第九市の聖域。神殿や犠牲の獣などを捧げた台座がある。

   

ローマ人が建てた第九市の音楽堂 保存状態が一番いい。 これで順路は終わりとなった。

    

遺跡の断片

あちこちに折れた遺跡の遺物を散見した。見入るものが多かった。

        

トロイの9都市

第一市 紀元前300〜2600

第二市 紀元前2600〜2300

第三市 紀元前2300〜1900(第四市・第五市を含む)

第六市 紀元前1900〜1300

第七市 紀元前1300〜1200 1200〜900

第八市 紀元前 900〜350

第九市 紀元前350〜紀元400

3千年前というが、どれくらい前なのか実感が湧かないまま終わった。

50〜60年前に出版された本にある写真の遺跡がそのままの形で目の前に立っていた。

だが、ここで見た遺跡だけでは、古代都市トロイは想像出来ない。

不案内で、一回では把握できない。

トロイを見終えて、バスはさらにアイワルクまで走る。

アイワルクは落ち着いたリゾート地。オリーブ石鹸の生産で知られる。

 

海上には、レスビアンの語源になったというギリシャ領のレスボス島がかすんで見える。

本日の行程はここまで。明日からエーゲ文明で栄えた町に出合う。

エーゲ海の周辺やその島々は、広大肥沃な土地に恵まれず、穀物生産に乏しかった。

日光に恵まれても雨の少ない痩せ地に適する農業は、ブドウとオリーブなどの果樹栽培が主であった。

この果実から取る酒と油が海上貿易の手段となり、先進文化の吸収がエーゲ文明の開化に繋がった。

数千年経過した今も、この地域では、オリーブ栽培が柱となっている。

「雑メモ」

クロワッサンのルーツ

フランスの代表的なパンであるクロワッサンは、実はウイーン経由でトルコから伝わったとされている。

オスマン・トルコ軍は1683年の夏、およそ2カ月間にわたってウイーンを包囲した。このときトルコ軍が焼いていた三日月形のパンを、ウイーンのパン職人が目にした。

ウイーンが援軍によって包囲が解かれた時、パン職人たちはこぞって三日月形のパンを焼いた。

それ以来、ウイーンでは三日月形のパンが定着した。

それから約1世紀が経ち、マリー・アントワネットがルイ16世のもとへ嫁いたことをきっかけに、この三日月形のパンがフランスに伝わった。それが今日のクロワッサンとされる。

トルコ風呂

トルコ風呂は、トルコではハマムという。ハマムは公衆浴場で、いわば日本の銭湯である。

風呂をもつ家庭が少なかったトルコでは、月に何度かハマムに足を運ぶ。

そこはモスクでの礼拝前に身を浄める神聖な場所でもあり、かつては外出の機会がほとんど無かった女性にとってはおしゃべりの出来る社交の場であった。特に、息子を持つ母親にとっては花嫁選びの場でもあった。

オスマン軍が進駐して町を作った時には、先ずはモスクを、次にハマムを築いたといわれる。

今は観光客相手向きのハマムがあって、フルコースが準備されている。

 

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