和歌山県海南市 長保寺
Chohoji,Kainan city,Wakayama
Category
|
Rating
|
Comment
|
General
|
|
|
Nature
|
|
|
Water |
|
|
Flower |
|
|
Culture |
|
|
Facility | ||
Food |
海南市下津町上689 長保寺多宝塔 国宝 近世以前/寺院 室町前期 正平12(1357) 三間多宝塔、本瓦葺 19040829 19530331
海南市下津町上689 長保寺大門 国宝 近世以前/寺院 室町前期 嘉慶2(1388) 三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 扁額1面 19000407 19530331
海南市下津町上689 長保寺鎮守堂 重文 近世以前/神社 鎌倉後期 鎌倉後期 一間社流造、檜皮葺 19140417
海南市下津町上689 長保寺本堂 国宝 近世以前/寺院 鎌倉後期 延慶4(1311) 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺 厨子1基 19040829 19530331
September 17, 2022 野崎順次 source movie
和歌山県海南市下津町上689
天台宗
慶徳山 長保寺
雨が降ったりやんだり、悪条件の撮影行で、国宝建造物で雨宿りもしばし、さすがに境内に人影なし。
寺伝によれば、平安時代中期の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)の弟子の性空によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したという。その後、寛仁元年(1017年)には七堂伽藍と子院十二ヶ坊が完成していたという。創建時は現在地より西方にあったが、鎌倉時代末期に現在地に移り、伽藍も整えられた。現存する本堂、多宝塔、大門(各国宝)はやや時代が下って鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての建築であるが、中世にさかのぼる仏教建築がまとまって残されている点で貴重である。
戦国時代には衰退していたため、江戸時代に紀州藩主となった浅野幸長より5石の寄進を受けた。
寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩主徳川頼宣は、山に囲まれた要害の地にある長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めた。
(ウィキペディア「長保寺」より)
国宝 大門 室町前期 嘉慶2(1388)
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 扁額1面
仁王尊は弘安九年(1286)堪慶と伝えられる秀作である。
境内側から見る。
参道を進む。どこを見ても紀州青石(緑泥片岩)。
国宝 本堂 鎌倉後期 延慶4(1311)
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺 厨子1基
国宝 多宝塔 室町前期 正平12(1357)
三間多宝塔、本瓦葺
その他
国重文 鎮守堂 鎌倉後期 鎌倉後期
一間社流造、檜皮葺
国史跡 和歌山藩主徳川家墓所
徳川宗家を嗣いだ5代藩主吉宗(8代将軍)と13代藩主慶福(14代将軍家茂)を除く歴代藩主の墓所も、悉く長保寺内に営まれた。
(中略)
墓所内の墓の数は28基、うち12基が藩主の墓で、他は藩主室等のものである。初代頼宣の墓を中心に、地形に応じて歴代藩主等の墓が造られているが、いずれも山地を切り取った後に築かれた壮大な石垣を背にして墓標が立ち、墓標を石柱玉垣で囲み、墓標正面には石門を設け、石門の前面は参道になっている。玉垣の内部はすべて花崗岩で、石垣・参道等は玄武岩である。墓標の形状は、初代藩主頼宣のは無縫塔、6代藩主宗直・7代藩主宗将のは尖頭無縫塔、2代藩主光貞・3代藩主綱教・4代藩主頼職・9代藩主治貞のは尖頭方柱型、14代藩主茂承(明治39年没)のは方柱型、10代藩主治宝・11代藩主斉順・12代藩主斉彊のは笠石付八角柱型であるが、同型類の間にも微細な差異がある。6代藩主までの墓は無銘である。
(中略)
和歌山藩主徳川家墓所は、その規模といい、壮麗豪華なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。
(国指定文化財等データベースより)
重森千靑作「寂光の庭」
紀州徳川家初代藩主の菩提寺(ぼだいじ)であることから、江戸時代風にまとめた庭として設計されている。また、延段を挟んで左が七石、右が五石と三石による七五三石組になっている。奇数は永続性を示す縁起の良い数字とされ、室町時代以降このような手法がよく使われおり、京都の龍安寺
石庭がある。
(「庭園ガイドby 繩手真人」ウェブサイトより)
帰途、濱中八幡神社、古い看板、東光寺、下津の街並みなど
December 23,2021 大野木康夫 source movie
大門(国宝)
部分撮影
本堂前へ
本堂と多宝塔
本堂(国宝)
部分撮影
内部
多宝塔(国宝)
部分撮影
内部
鎮守堂(重要文化財)
部分撮影
境内からの眺め
A camera
B camera
所在地 和歌山県海南市下津町上689
大門(国宝)嘉慶2(1388)年の建築
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺
附指定:扁額1面寺蔵の棟礼写「再営由来」によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が建立したとされている。
現在門の扁額は紀州徳川藩の菩提寺になってから頼宣が李梅渓に命じて模写させたものであり、当初のものは妙法院二品親王尭仁の直筆といわれ、裏書に応永24年(1417)6月1日の刻銘があり、現在宝蔵に収納されている。
この大門は元和7年(1621)に塔頭最勝院の恵尊によって修復され、その後天和3年(1683)二代藩主光貞公によって修理され、明治43年(1910)には解体修理がされている。
三間一戸の楼門で屋根付入母屋造り本瓦葺である。
組物は純和様の三手先で三番目のトキョウは尾垂木の上にのり軒を受け、丸桁下に軒支輪をかけ小天井を造っている。
小形ではあるが形態のよく整ったこの時代の代表的な楼門のひとつとされている。
(海南市HPより)
参道
本堂と多宝塔
本堂(国宝)延慶4(1311)年の建築
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
附指定:厨子1基長保寺は長保2年(1000)一条天皇の勅願寺として建立に着手し、寛仁元年(1017)に完成したといわれ、その後仁治3年(1242)寺地を東に移し、延慶4年(1311)現本堂が建立されたといわれている。
当初は法相宗であったが後天台宗、真言宗と変わり、紀州徳川家になって初代藩主頼宣公により菩提寺となって天台宗に改められた。
この本堂は桁行五間梁間五間一重入母屋造、向拝二間本瓦葺の建物である。柱頭を細くする粽、組物の笹繰り、挙鼻などの唐様の手法をとりながら、外観の間斗束、蛙股、連子窓、扠首組の妻飾り、内部の組入天井、吹寄せの菱格子などの、和様の手法によっている。
すなわち旧来の和様へ当時伝来の唐様を巧みにとり入れ、二つの様式を融和混合し、しかも独自の計画と好意匠に成功した和様唐様折衷様式の典型的な建築である。
昭和47年(1972)に解体修理を行ない、正面などの桟唐戸などを修復している。
(海南市HPより)
多宝塔(国宝)
正平12(1357)年の建築
三間多宝塔、本瓦葺
この多宝塔は寺伝では本堂と同時に建立されたとなっているが、構造、手法などから見るとやや時代が下るようである。
康永3年(1344)の弘法大師御影堂建立の勧進状に塔の名が見えることから考えて、そのころにはすでに建立されていたことが知られる。
本堂が和様唐様の折衷様式であるのに対しこの塔は純和様を採用している。
一重と二重の釣合がよく均整のとれた優美な意匠を見せている。
さらに著しく低い亀腹と、勾配のゆるい屋根などがよく調和して一層安定感を与えている。
細部においても、力強い組物に、美しい蛙腹及び折上小組格天井の雄健な手法など外観、内部ともに多宝塔中の傑作の一つである。
この塔は和様であるが内部の仏壇は唐様で、腰の唐草彫刻はきわめて優美な作りであり、正面勾欄は平桁がなく、蕨手と地覆間の網目に巴文の入った透彫は他に類をみない珍しいものである。
相輪の九輪は最上部が脱落し今は八輪しかない。
(海南市HPより)
鎮守堂(重要文化財)
鎌倉後期の建築
一間社流造、檜皮葺
本堂と多宝塔の間の小径を登ったところにある一間社流造、檜皮葺の小さな社殿である。
鎮守堂はかつて鎮守八幡宮、あるいは八幡社と呼ばれていた。
この建物の建立年代については確証を欠き、寺伝では本堂多宝塔と同じ時期の建立とされている。
享保10年(1725)の調書には典拠はないが、永仁3年(1295)の再営となっており、本堂より古いことになっている。
この建物も度々修理がなされ、明治6年(1873)屋根を瓦葺に改めたが、昭和3年(1928)の修理で現在の檜皮葺に復した。
トキョウは和様三斗組、正面 の中備えにして束の足元に渦巻絵様の笈形をつけているのはいかにも和様らしい構造である。
正面 は格子戸を引違いに装置し、内陣正面は板扉構えとしている。
軒は繁垂木で、棟飾りは瓦積にして珍しい一角鬼瓦を納めている。
(海南市HPより)
頼宣公墓所
大門
本堂 多宝塔
鎮守堂
和歌山藩主徳川家墓所
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中