和歌山県紀の川市 粉河寺
(Kokawadera Temple, Kinokawa City, Wakayama)
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紀の川市粉河2787 粉河寺 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 享保5(1720) 正堂 桁行七間、梁間六間、両側面背面庇付、二重、入母屋造、指図3枚、文書1紙 19961210
紀の川市粉河2787 粉河寺 千手堂 重文 近世以前/寺院 江戸後期 宝暦10(1760) 方三間、一重、宝形造、向拝一間、本瓦葺 19961210
紀の川市粉河2787 粉河寺 中門 重文 近世以前/寺院 江戸末期 天保3(1832) 三間一戸楼門、入母屋造、正面軒唐破風付、本瓦葺、両側面袖塀附属棟札1枚 19961210
紀の川市粉河2787 粉河寺 大門 重文 近世以前/寺院 江戸中期 宝永4(1706) 三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 19961210
May 11, 2024 野崎順次 source movie
和歌山県紀の川市粉河2787
粉河観音宗総本山
風猛山 粉河寺
快晴の5月に豪華な枯山水石組をじっくり鑑賞することができた。本堂の内部も正面ガラス越しに拝観できた。
アプローチ、JR大阪駅から阪和線で和歌山駅、そして和歌山線に乗り継いで粉河駅へ
国重文 中門 江戸末期 天保3 (1832)
国名勝 粉河寺庭園 桃山 玉澗式枯山水
国重文 本堂 江戸中期 享保5 (1720)
国重文 千手堂 江戸後期 宝暦10 (1760)
市文 盥漱盤(荷葉鉢) - 安永4年(1775年)、粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作。総高240cm、幅185cm。
その他
February,2023 大野木康夫
source movie
大門橋
大門(重要文化財)
旧南丘家住宅(登録有形文化財)
旧紀州藩御餌差長屋の一部
参道
童男堂(和歌山県指定有形文化財)
童男大士を祀るお堂です。
見えているのは礼堂部分で、奥に正堂が接続しています。
念佛堂
手水舎
盥漱盤は紀の川市指定文化財です。
中門(重要文化財)
中門と本堂は尾垂木の一部に龍が彫られています。
庭園(国指定名勝)
【国指定文化財等データベースから引用】
粉河寺(施音寺)は、国宝粉河寺縁起絵巻などで有名な西国巡礼の霊場の一つとして知られる。今回指定する庭園は、本堂と山門との間の広場をその保存区域とする破格のものである。山門から約3メートルの高さの石段を経て本堂に至るが、この庭は石段の両翼に、土留め石垣の用をも兼ねて組み上げられた石の庭である。それは、主として緑泥片岩に属する巨大な岩石が多数しかも変化に富む手法で堅固に、美しく組まれている。ツツジの刈込みで石の間隙をうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどを植えて飾る。石組全体の構成は向かって左手に重点をおき、枯れ滝・石橋・鶴亀の島などを象徴的に表現し、右手にゆくに従って石の扱いは軽くなっている。
このような構成は庭園としては異例のものであるが、独創的な制作意欲がよくうかがわれる点で、他の定型的作庭には見られない魅力に満ちている。
粉河寺は変遷が多く、作庭の年代も不明であるが、手法からみて桃山時代の豪華な作風が如実にあらわれており、江戸時代初期を下らないころの作であろう。
粉河寺は豊臣秀吉に攻められて全山焼失しますが、その後の第一次再建時に土留め兼用で作庭されたものです。
紀州時代の浅野家が粉河寺再建に着手したため、浅野家家老で茶人でもあった上田宗固(重安)の作庭と言われていたりします。
本堂(重要文化財)
千手堂(重要文化財)
踞木地のクスノキ
May 15, 2022 野崎順次 source movie
和歌山県紀の川市粉河2787
粉河観音宗
粉河寺
大門橋を渡る。巨大クスノキ。大門の手前に善光寺。
国重文 大門 江戸中期 宝永4 (1706)
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺
参道を進む。本坊、童男堂(県文)、出現地、仏足石、念佛堂、露座佛(市文)、太子堂、放出池、荷葉鉢(市文)と続く。
国重文 中門 江戸末期 天保3 (1832)
三間一戸楼門、入母屋造、正面軒唐破風付、本瓦葺、両側面袖塀附属棟札1枚
国名勝 粉河寺庭園 桃山 玉澗式枯山水
今本庭を実測調査によって一覧すると、その石組は明らかに桃山期初期の手法をもっているのみでなく、本庭の様式が一種の玉澗流庭園であることは興味のある点である。
玉澗流庭園は、二つの築山によって、中央に渓谷を表現し、この渓谷の上部に斜線的な石橋を架け、下部を鶴亀石組とし、または橋下を滝として表現することは玉澗流庭園の特色である。
そしてこの玉澗流の庭園は、名古屋城ニノ丸庭園、千秋閣庭園と、この粉河寺庭園において桃山期のものを見ることができるが、名古屋城ニノ丸庭園も、宗箇が近くの尾張岡崎の出身であることから、文献はないが、彼の作庭ではないかという節がある。かように考えると、本庭が上田宗箇の作庭であり、玉澗流典型の作庭と考えられる点に一考を要したい。
本庭は約千九百六十坪の面積があるが、本堂前面の崖地の部分のみが実は本来の庭園であるから、面積はその五分の一以下とみてよい。そして本来なら石垣とする場所を、そのまま巨石を組んだ枯山水としたものであって、様式的にはまことに珍しいものであり、大いに創作したものとして貴重な存在である。
本庭は本堂正面石段の左右に当たる崖地に巨石を組んだ枯山水で、本堂の南庭に当たっている。そして本堂に向かって左側、すなわち階段の西部中央に巨石を組むが、向かって左に鶴石組、右に亀石組の巨石を見せ、その中央を渓谷式の枯滝石組とし、上部に石橋を斜線に架けている。そして石橋の上部に枯滝の水落石その他を構成し、この枯滝部分が谷となり、左右に築山を見せるあたりが玉澗流の典型様式である。そしてずっと上部東方に九尺八寸高の蓬莱遠山式の石を見せていて、これは名古屋城三ノ丸庭園などと共通し、前述の石橋は名古屋城ニノ丸庭園と共通している。全庭何れも豪華な石組で、階段の東部にもまた巨石による豪華な石組が続くが、この部分は多少後世の補修があって、全体的にはやや弱くなっている。
いずれにしても粉河寺庭園は桃山初期の豪華な石組によって傑出しているのみでなく、玉澗流作庭として貴重な存在であり、上田宗箇の作庭と推考できる傑作である。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」粉河寺庭園より)
石段の西側
西側の詳細
石段の東側
石段の上から見る。
国重文 本堂 江戸中期 享保5 (1720)
正堂 桁行七間、梁間六間、両側面背面庇付、二重、入母屋造、指図3枚、文書1紙
六角堂
国重文 千手堂 江戸後期 宝暦10 (1760)
方三間、一重、宝形造、向拝一間、本瓦葺
鐘楼と巨大クスノキ
Feb.15,2020 瀧山幸伸
本堂
千手堂
庭園
丈六堂
水向地蔵
中門
手水舎
行者堂
薬師堂
十禅律院
六角堂
鐘楼
クスノキ
産土神社
駅前
大門
大門から中門まで
中門
本堂、庭園
千手堂
丈六堂
六角堂 、クスノキ
産土神社
2012.7.16撮影 所在地 和歌山県紀の川市粉河2787 大門(重要文化財)宝永4(1754)年の建築
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺
中門に続く参道
中門(重要文化財)天保3(1832)年の建築
三間一戸楼門、入母屋造、正面軒唐破風付、本瓦葺、両側面袖塀附属
附指定:左右袖塀
庭園
本堂(重要文化財)享保5(1720)年の建築
正堂 桁行七間、梁間六間、両側面背面庇付、二重、入母屋造、正面軒唐破風付
礼堂 桁行九間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、正面向拝三間、軒唐破風付、背面中央部を正堂に組み込む
総本瓦葺
千手堂(重要文化財)宝暦10(1760)年の建築
和歌山県紀の川市粉河2787
撮影日: 2010年7月31日開祖 大伴孔子古(おおとものくじこ)
宗派 粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)
本尊 千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)【草創】
奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。
後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去った。
翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられている。 【沿革】
草創時この方、粉河寺は多くの人達の信仰をうけて繁栄し、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有していたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成した。アプローチ
粉河寺は紀の川の中流にある。JR阪和線でいったん紀の川を渡り、和歌山駅でJR和歌山線奈良行きに乗り換え、岩出駅を出てから再び紀の川を横切り、しばらくして粉河駅に着く。粉河駅からお寺までは緩やかにカーブする1本道である。
お寺のパンフレット
重文 大門
規模の大きい三間楼門で、和歌山県では、高野山・根来寺に次ぐ威容を誇る。宝永四年(1706)総欅造り。金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。
不動堂、本坊、童男堂(県文)、念佛堂、露座佛(市文)、太子堂、放出池、荷葉鉢(市文)と続く。
重文 中門
三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げている。天保三年(1832)の建立で四天王を祀る。「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝候の直筆である。
丈六堂
重文 本堂
八世紀(770)の創建より、数度の造営と改造を繰り返し、現存の当本堂は享保五年(1720)に再建された。江戸時代中期の欅材による代表的建築で西国三十三ヶ所の中で最大である。他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式である。
粉河寺の本尊、千手千眼観音菩薩は絶対秘仏で公開されたことがない。通常、本尊は内々陣(ないないじん)に安置されているが、粉河寺の内々陣にある千手観音像は、本尊の代わりであるお前立ちであり、秘仏である。本尊は、本堂の地中に安置されている。これは、今までの度重なる火災から守るため、このような計らいがされたといわれ、“この先、火事に遭っても秘仏は無事であるように”と、先人の考えから本堂の地中深くに入れられたと伝えられている。
重文 千手堂
宝形造りの三間堂、細部様式では本堂と一脈相通ずる面を持っている。宝暦十年(1760)の建立。正面に千住観世音菩薩両側の脇壇には紀州歴代藩主とそのゆかりの人々の位牌を祀っている。
行者堂、鐘楼、巨大クスノキ、六角堂。
国指定名勝 粉河寺庭園 (桃山時代)
本堂の前庭とその下の広場との高低差を処理する土留めとして、又、その広場から雄大な本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組みで、日本庭園の中でも先例のない様式である。
境内の歌碑、見慣れない鳥、ピチピチすべすべしたトカゲなど。
参考資料
粉河寺HP
日本全国いいとこ自慢HP
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