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和歌山県湯浅町 明恵紀州遺跡

Myoue Kishu Site,Yuasa Town,Wakayama

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Mar.1,2023 瀧山幸伸

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和歌山県有田市星尾、有田郡湯浅町栖原・有田川町歓喜寺にある率塔婆(そとうば)で、別称「明恵上人紀州八所遺跡」。明恵上人は1173年(承安3)に紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の有田川町歓喜寺)で生まれ、1181年(治承5)に京都の神護寺に入って修行を重ね東大寺尊勝院で華厳経を学んだが、郷里に帰り、耳を切り落とすという厳しい修行を重ねた。1206年(元久3)には後鳥羽上皇から栂尾山(とがのおさん)を賜り高山寺を創建して華厳宗興隆の道場と定めた。上人が没した後、弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆を建立したが、腐朽したため勧進比丘弁迂(べんう)が一族を勧進し、砂岩製の笠塔婆を建立。1931年(昭和6)、塔婆が不明の崎山遺跡を除き国の史跡に指定された。それぞれの塔婆は砂岩の一材から彫り出されたもので、高さは1.5mから1.7m。


明恵上人 紀州遺跡 西白上笠塔婆  康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
 

                                                

 

明恵上人 紀州遺跡 東白上笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原

                                   

 



Feburuary,2023 大野木康夫  source movie

明恵紀州遺跡率都婆(湯浅)
Yuasa Myoe Shonin memorial

所在地 和歌山縣有田郡湯浅町栖原

明恵上人は鎌倉初期の華厳宗の高僧で、紀伊国有田郡の豪族湯浅氏の一族に生まれ、15歳で出家して京都や奈良で教学に励みましたが、23歳になって生まれ故郷に近い湯浅の白上峰に入って約3年修業し、その後33歳になって山城国栂尾に高山寺を開くまで主に有田郡で過ごしました。
明恵上人が亡くなった後、弟子の喜海らが上人の遺徳を偲ぶため、嘉禎2(1236)年に上人が修行した有田郡内の草庵の跡7カ所と生誕地の合わせて8カ所に木造率塔婆を建立しましたが、年月を経て朽ちたため、康永3(1345)年に湯浅一族が石造率塔婆に改修しました。
その8カ所は明恵紀州遺跡率都婆として国の史跡に指定されています。
8カ所のうち、湯浅にあるのは西白上と東白上で、施無畏寺から近いので徒歩で訪問しました。

施無畏寺奥ノ院の標識

おそらく施無畏寺の方が整備されたと思われる新しい標識が立っていて、道に迷うこともありませんでした。
 

西白上遺跡へのアプローチ

ほとんどの行程はミカン畑の作業のためにコンクリート舗装されています。
途中、湯浅湾も見渡せます。
施無畏寺奥ノ院から15分足らずで西白上遺跡の入口に着きました、
           


入口から率塔婆までは急な山道ですが、すぐに到着します。
     

西白上率塔婆

明恵が京都から戻って最初に草庵を結んで修業したところです。
湯浅湾が一望できる白上峰のピークで、頂上にある磐座のような岩の上からは360度の展望が開けます。
明恵はここが港に近く、修行に集中できないとして、東白上に移ったそうです。
                       

東白上へはあまり勾配のない尾根の舗装道を進みます。
西白上から5分ほどで東白上に到着しました。
       


東白上遺跡

明恵はここで修行するに際し、修行に集中するためか、右耳を切り落としています。
ここでの修行で明恵は文殊菩薩を感得したそうです。
海からは少し離れており、高い断崖がそばにあるところです。
                  


帰路

舗装道を下るので12分ほどで施無畏寺奥ノ院に戻ることができました。

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