山形県鶴岡市 羽黒山
Hagurosan,Tsuruoka city,Yamagata
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鶴岡市羽黒町大字手向字羽黒山7 羽黒山五重塔 国宝 近世以前/寺院 室町前期 応安5(1372) 三間五重塔婆、こけら葺 19080423 19660611
鶴岡市羽黒町大字手向字羽黒山33 羽黒山三神合祭殿及び鐘楼 三神合祭殿 重文 近世以前/神社 江戸後期 文政元(1818) "本殿 桁行二間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、茅葺、向拝三間、こけら葺拝殿 桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、入母屋造、妻入、軒唐破風付、茅葺、背面下屋庇附属、板葺" 棟札1枚 20000525
鶴岡市羽黒町大字手向字羽黒山33 羽黒山三神合祭殿及び鐘楼 鐘楼 重文 近世以前/神社 江戸前期 元和4(1618) 桁行一間、梁間二間、一重、切妻造、茅葺 20000525
鶴岡市羽黒町大字手向字手向232 羽黒山正善院黄金堂 重文 近世以前/寺院 桃山 文禄5(1596) 桁行五間、梁間四間、一重、宝形造、向拝一間、茅葺形銅板葺 19080423
Aug.4,2023 瀧山幸伸 source movie
随神門付近から参道へ
祓川神橋
須賀の滝
爺杉
五重塔 修復中
随神門に戻る
荒澤寺
峰中堂
羽黒山頂
Jul.26,2023 川村由幸
出羽三山神社
山形県鶴岡市羽黒町手向
Apr.23,2017 瀧山幸伸
参道
羽黒山のスギ並木
天然記念物
羽黒山の山門(隨神門)から一の坂、二の坂、三の坂、にわたり長さ1.7キロメートルの間に樹令200年−300年目通幹囲1−4メートルのスギが右側に284本、左側に301本あり、樹勢すこぶるおうせいで全国にまれなスギ並木である。
(文化財データベース)
天然記念物
羽黒山五重塔 国宝
この塔は修験道で名高い出羽三山の一、羽黒山中にあって、山上の合祭殿へ至る参道脇の杉木立のなかにひっそりと建っている。現在は出羽三山神社の所有であるが、明治の神仏分離以前は数多い寺院の一つ、滝水寺に属していたもので、周辺には多くの堂舎が建っていたという。慶長十三年(一六〇八)山形藩主最上義光が修理した時の棟札に、応安二年(一三六九)柱立、永和三年(一三七七)九厘上とあり、建立年代が知られる。
伝統的な純和様の手法をもち、装飾は一切つけず、総体に古式である。ただし、組物のうち、軒支輪が上部の反転したS字形となるのは新しい手法で、この種のものとしては明王院五重塔とともに最も古い。柱間寸法は初重の各間を尺寸の完数値とし、その総間の七割を五重にとり、二重から四重はその間を均等に逓減させたものらしく、枝割によらない古式な決め方がされている。そのため一枝寸法は各重各間で異なり、初重中央間の枝割に合わせて割りつけられた組物は、他の間では六枝掛にならない。一方、全体の格好をみると相輪長が総高の二割五分しかなくてかなり短く、近世の塔の比例に似ている。しかし、相輪は全体が慶長修理で改鋳されており、当初の高さを伝えているのかどうか明らかではない。
都から遠く離れた奥羽の地にありながら、様式手法は洗練されていて地方作の色合いはうすい。中世の羽黒修験道が中央とつながりをもっていたことを示す遺構といえよう。
(文化財データベース)
羽黒山三神合祭殿及び鐘楼
羽黒山は,月山,湯殿山とともに出羽三山と呼ばれ,古来より,山岳修験の霊場とされてきたところである。三神合祭殿は,その中心建築で,山頂に近い平坦地,御手洗池に南面して建っている。鐘楼は,三神合祭殿の東南に位置している。
三神合祭殿は後方にある本殿と,前面の拝殿が一体となった複合建築である。文化8年(1811)の焼失後,文政元年(1818)八月に完成したことが棟札より明らかである。鐘楼は記録から最上家信によって,元和4年(1618)に建てられたとわかる。
三神合祭殿は,近世初期以来の特異な形式を伝える,類例の数少ない修験関係の建築として貴重である。また,拝殿の壮大な内部空間や,華やかな装飾など,近世末期の大建築としても価値がある。鐘楼は木割の太い雄大な建築で,羽黒山における,近世初期の意匠を伝える遺構として重要である。
(文化財データベース)
手向 門前宿坊街
Touge Monzen
羽黒山正善院黄金堂
A camera
B Camera
門前町 手向
Touge
正善院黄金堂
随神門
祓川と須賀の滝
随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。
滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。又、一般的には神域とは随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。
五重塔(国宝)
羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。
三神合祭殿
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。
建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年〜47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。
平成12年、国の重要文化財に指定される。
羽黒山大鳥居
南北朝の末期から羽黒山に勢力を得た大泉庄の地頭武藤氏は、政氏の代に羽黒山の別当を称し、子孫にその職を継いだ。政氏は長慶天皇文中元年羽黒山に五重塔(国宝)を再建、その居城大宝寺(鶴岡)に鳥居を建立させ羽黒山一の鳥居としたが、今はなく只鳥居町の名を残している。今の一の鳥居は鶴岡から羽黒橋を渡り、坦々たる庄内平野を横切って、羽黒街道が羽黒丘陵にかかる景勝の地に高さ22.5mの両部の大鳥居がある。昭和4年山形市吉岡鉄太郎の奉納。
「出羽三山神社ホームページより転載」
宿坊街
黄金堂
「正善院黄金堂は、源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、勝利祈願のため寄進したと伝えられている寺。境内には黄金埋蔵の伝説が残っており、国の重要文化財にも指定されている。」
「山形市鶴岡観光協会ホームページより転載」
宿坊と魔除けの引綱
「門前町手向(とうげ)は、一村総修験で、江戸時代には336坊が軒を連ねた。今に冠木門(かぶきもん)を構え、注連を張った宿坊があり、霞場や檀那場を支配して、道者の宿泊や山案内をする。又、軒に太い綱をつるしているのを見かけるが、これは松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えられている。」
「出羽三山神社ホームページより転載」
『大松明引きで使われた引き綱(8本)は各町の綱延の任にあたった若者の自宅に運ばれる。
翌朝、若者達により成形された引き綱は家の軒下などに掲げられる。』手向では昔から『若者は嫁を取って半人前、綱をのして一人前。」といわれるほど、綱をのす(=かける)ことは名誉なこととされてきた。
こうして「のされた」綱は、次の代の若者が綱をのすまでその家の魔除け・守り神として飾られる。』
「旅館 多聞館ホームページより転載
羽黒山キャンプ場
山形県鶴岡市羽黒町 Sep.30,2011 撮影羽黒山三神合祭殿及び鐘楼 ;重要文化財 1818年築及び 1618年築
羽黒山は,月山,湯殿山とともに出羽三山と呼ばれ,古来より,山岳修験の霊場とされてきたところである。三神合祭殿は,その中心建築で,山頂に近い平坦地,御手洗池に南面して建っている。鐘楼は,三神合祭殿の東南に位置している。
三神合祭殿は後方にある本殿と,前面の拝殿が一体となった複合建築である。文化8年(1811)の焼失後,文政元年(1818)八月に完成したことが棟札より明らかである。鐘楼は記録から最上家信によって,元和4年(1618)に建てられたとわかる。
三神合祭殿は,近世初期以来の特異な形式を伝える,類例の数少ない修験関係の建築として貴重である。また,拝殿の壮大な内部空間や,華やかな装飾など,近世末期の大建築としても価値がある。鐘楼は木割の太い雄大な建築で,羽黒山における,近世初期の意匠を伝える遺構として重要である。(国指定文化財等データベース解説文)羽黒山五重塔;国宝 1372年築
出羽三山神社の参道の傍にたっている。 室町時代初期の応安五年(一三七二)ごろに建てられたものである。
髙さ二九メートル余、周囲には緑をめぐらす。塔として正規の手法をとっており、細部手法には室町初期の特徴がよくみえる。当時の五重塔としては、すてに明王院五重塔[貞和四・一四四九](広島県福山市)が国宝に指定されているが、この塔はこれとならんで、室町初期五重塔の代表たりうるものである。(国指定文化財等データベース解説文)杉並木; 特別天然記念物小雨でした。
東照社の裏手にある真新しい東日本大震災犠牲者慰霊之塔と夥しい卒塔婆が心を打ちます。
黄金堂
Koganedo
手向宿坊
参道
爺杉
五重塔
出羽三山神社
法院の意気と情—羽黒山
山 の 雅
羽黒山(標高四一四メ−トル)の頂きに建つ出羽神社(いではじんじゃ)までの表参道は約二キロメ−トル。そこまで峻厳な石段(二四四六段)が蜿蜒と続く。
入口となる随身門(ずいしんもん)を潜ると、登山口といえども始めは下り坂。杉の大木に挟まれた長蛇の石段が先ず、目に飛び込み、幽玄な別世界へと景色が変わる。
いよいよ山岳信仰の聖地に入ったかと身が引き締まる。
参道は石段と石畳が交互に続く丁寧な造りで、道幅は二メ−トル。蹴上げの高さは約一0センチメ−トル。意外に歩き易く気持ちがいい。降雨のせいか石畳は黒光りしている。
神橋を渡ると杉林の中に頭大の玉石を並べた幅五メ−トル、長さ四十メ−トルの敷石の奥に国宝の五重塔が忽然と現れた。樹齢千年を越す爺杉(じじすぎ天然記念物指定)とともに歩んできた長い歴史が周りの雰囲気から窺える。
石段はここから上り坂となる。前方には雨に打たれた石畳の道が真っ黒に浮かび上がり、そしてそそり立っているように見える。石畳は石段となり一の坂(約五00段)と二の坂(約三四0段)と呼ばれ、る急勾配な坂道となる。脇道にそれた南谷に寄るば
フキなどの山草が薄緑色の園をつくる。雨が上がるとモリアオガエルが一斉に鳴きだした。閑寂さと静寂さに飲み込まれそうな神秘的な雰囲気がそこに残されていた元禄二年(一六九八年)、ここに宿泊した芭蕉は名句を詠んだ。
三の坂(約七九0段)を登る。残るは約一キロメ−トル。山頂に向かって延びる石段を見上げると辛くなる。樹齢四、五百年の見事な老杉の間を抜ける涼風に背を押されるような心地で登りきる。
頂上には出羽三山の神々を祀る三神合祭殿(さんしんごうさいでん国重文)が巨大な姿を現す。
政治手腕に秀でた50世別当の天宥(てんゆう)法院が衰退期にあった羽黒山を再興した一六五0年頃の参道は、雨水が奔走し土砂が流れ荒れ放題だったという。登拝者は勿論、山上に居住する衆坊も苦難の連続。そこで天宥法院は「羽黒を一大庭園とみなし、石の長階を創築して一山の雅とし、併せ諸衆の難渋も救おう」と発願した。整備の費用は勧進や信者・篤志家の浄財と松・杉を寄進させた。さらに罪人らの償いによる普請をさせ、築造には10数年要したとのこと。今でも蜿蜒と続く見事な石の道と大杉の並木は苦難の末に生まれた。中興の祖と仰がれる天宥法院は晩年、政争に破れ、東京新島村に流罪となり、そこで没した。
芭蕉も歩いた石の道には縦三0センチメ−トル、横二十五センチメ−トル程の安山岩の切石がギッシリと敷かれ、その表情はどこから見ても厳粛そのもの。両端の縁は直線で天に駆け、周囲の景色を際立たせるようだ。
この石畳の切の量にはビックリする。しかも一滴の水も通すまいと隙間なく敷き詰めた石と石。天宥法院の意気と情熱とが石工にも伝わり、このように頑丈な石畳をつくら
せたのだろう。雨や雪は杉の大木に遮られ、石道の上を流れるだけで排水の備えは所々にある溝だけ。雨水は山地に浸透させ、自然のサイクルにキッチリ守られた石の道は、往時の姿を今に留めている。
江戸時代から続く二の坂の前に建つ茶屋から下に向かって手を振り、励ます老婆の姿を見た。
保育園児たちが登ってきたのだ。毎年、園児から高校生までが遠足で頂上まで登るとのこと。
嬉しいことだ。この素晴らしい石の道を後引き継ぐ芽が若い人たちの中に生まれつつある。
過去からの経緯を思いつつ踏む石段が厳かに思えた。
五重塔と杉並木
スギ並木
爺杉
五重塔(国宝)
鏡池
羽黒山三神合祭殿及び鐘楼
黄金堂
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