山口県萩市 萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡
Hagi Hansharo, Ebisugahana shipyard,Hagi city,Yamaguchi
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恵美須ケ鼻造船所跡
アクセス
恵美須ケ鼻造船所跡
1856(安政3)年、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。
同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」が、また1860(万延元)年には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」が進水します。現在も、当時の規模の大きな防波堤が残っています。
2015年7月世界遺産登録決定(明治日本の産業革命遺産) (「おいでませ山口へ」サイトより抜粋)
「庚申丸造船場」、「切組小屋」、「船大工の居住場所」など造船関連跡
ロープで仕切られているが、草も元気に生えており、全体がよくわからなかった。
恵美須神社
造船所跡の入口近くにある神社
movie preview(YouTube)
萩しーまーと
萩反射炉
Hagi-Hansyaro, Hgi city,Yamaguchi pref.
山口県萩市椿東4897-7
国指定史跡 指定年月日:1924.12.09(大正13.12.09)
世界遺産申請中「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」構成資産幕末、鉄製大砲の砲身製造の必要に迫られ、不純物の少ない精錬された鉄を大量に得るため各所で蘭学書に基づき反射炉が建造された。最初に実用炉を完成したのは(田中久重らによる)佐賀藩で長州藩でも佐賀藩反射炉の知見を一部伝授されこの反射炉が試作された。1856年の一時期に操業の記録が残されているがその後は放棄された模様。長州藩では別途青銅製の砲身による大砲を多く製造して下関戦争等に用いた。
(萩市観光協会HP他の記述に基づく)
国内で形が残された幕末の反射炉遺跡は幕府が作った伊豆韮山の反射炉とこの萩反射炉のみとされる。当時の長州の意気込みが伝わってくるように思える。(国指定文化財データベース解説文):
萩町の郊外前小畑に在り。幕末海防の急を告ぐるや安政年間萩藩製鐵所を此の地に營み主として艦船銃砲其の他兵器製造の用に供したり。 反射爐は玄武岩及び煉瓦を以て築造せられ、基底は長方形にして上方に漸次狹小となり分れて二本の煙筒となれり。明治二十七年地震のため其の煉瓦の一部を崩壞せしお善く舊態を保存せり。
S54-6-053萩反射炉.txt: 萩反射炉は、大正12年12月9日に史跡指定されているが、昭和54年、炉の焚口の延長部が存すると考えられる個所を含む土地及び反射炉の保存工事を施工するに必要な土地を追加指定する。
山口県 萩市 恵美須ヶ鼻造船所跡
Ebisugahama-zousenjyoato,Hagi city,Yamaguchi pref.
山口県萩市椿東5159-14 国指定史跡 指定年月日:2013.10.17(平成25.10.17)
世界遺産候補「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」構成資産
幕末期、長州藩による洋式軍艦建造の造船所跡。1857年に「丙辰丸」、1860年に「庚申丸」を建造した。
庚申丸は下関戦争(1863年)で米艦に撃沈されたがその後引き上げられ修復、第2次長州征伐(1866年)で丙辰丸とともに戦闘に参加した。
現在は石造防波堤が残っており建造に使われた小屋の跡が発掘されている。
(国指定文化財データベース解説文からの引用):ペリー来航に衝撃を受けた江戸幕府は、海防強化を図るため諸藩に大船建造を解禁し、翌安政元年(1854)には浦賀警備に当たっていた萩藩等に対して大船建造を要請した。萩藩は財政逼迫等の理由から当初これに消極的であったが、桂小五郎の尽力によって安政2年に大船建造を決定した。桂は浦賀奉行組与力の中島三郎助の助言を得ながら、伊豆の戸田でロシアのスクーナーを建造した経験を有する大工高崎伝蔵を萩に招聘した。安政3年4月、萩小畑浦北端の恵美須神社の先、当時は武家下屋敷地及び埋立地であった恵美須ヶ鼻の地が建設場所に選定され、「スクー子ル打建木屋」「絵図木屋」「蒸気製作木屋」「大工居屋」「会所」等が置かれ(『丙辰丸製造沙汰控』による)、萩藩最初の西洋式木造帆船の建造が進められた。同年12月に進水、安政4年春に完成し、丙辰丸と命名された。丙辰丸の規模は総長81尺、肩20.15尺、深さ10.3尺、2本マストの「スクーナー君沢形」である。造船に必要な原料鉄は大板山鑪場(史跡大板山たたら製鉄遺跡)から供給された。完成した丙辰丸は主に大坂や長崎を往復して物資輸送に当たった。
その後安政6年、萩藩は再度帆船の建造を進めた。山田亦介らが責任者となり、長崎の海軍伝習等でオランダのコットル船建造技術を学んだ藤井勝之進が設計にあたり、長崎の船大工を招いて建造を進め、万延元年(1860)に完成、庚申丸と命名された。庚申丸は総長144尺、肩27.72尺、深さ26.4尺、3本マスト(3檣帆船)のバーク型であり、萩藩の海軍教育に当てられた。こうして萩藩は洋式木造帆船の自力建造に成功したが、蒸気船が主流となる趨勢のなか、外国製蒸気船を購入することに方針を変更し、恵美須ヶ鼻造船所での新たな艦船建造は行われず、閉鎖されたものと考えられる。
反射炉
恵美須ヶ鼻造船所跡
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