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山口県光市 峨眉山

Gabisan,Hikari city,Yamaguchi

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August 16, 2021 野崎順次 source movie

山口県光市室積8丁目6-1
臨済宗建仁寺派
峨眉山 普賢寺

平安時代中期寛弘3年(1006年) の創建。
昔から「海の菩薩」として全国各地から広い信仰を集めてきた普賢寺(臨済宗)。毎年5月に行われる普賢まつりには数多くの露店が軒を連ね盛大な賑わいをみせる。境内の奥まった一画には、雪舟作と伝えられる枯山水の庭園(県指定名勝)がある。
慶応元年(1865年)2月~3月にかけて南奇兵隊の本陣が置かれ、約400名の隊士が終結していました。同年3月3日に普賢寺から石城山へ転陣し第二奇兵隊と改称、長州藩公認の諸隊となり四境戦争や戊辰戦争を戦いました。
(光市観光協会公式ウェブサイト「ツアーガイドひかり」より

雨模様の日、重森三玲氏絶賛の庭園を拝観するのが主目的。

パンフレットと現地説明板

    

広大な境内であるが、庭園は普賢堂ではなく、普賢寺本堂(方丈)の南にある。

     

県名勝 普賢寺庭園 室町後期 枯山水
今本庭の石組を一覧すると、まず東南角に巨石三石を用いた蓬莱石の石組がある。巨石は七尺高のものを中心とし、向かって右に三尺七寸高、左に一尺七寸五分高のものを用いて三尊手法の石組を構成している。さらにその奥に四尺高の水平形の石を背景としてあるが、むしろこの石によって三尊石組とされている。
本庭は東北部に長さ十五尺という長石、三尺四寸高のものを配し、まことに豪快な手法で構成されている。この長石によって、本庭全体の石組を統一し、思い切った表現である。
本庭のこのような石組構成を一覧するにつけて、その金体がはなはだしく自由奔放であり豪快であり、武家的雄姿を表現しているから、本庭はただ単なる作庭家の作品ではなく、その背後に武人的な人物のいることが考えられる。そしてまた禅に徹した作風も見られることは、多くの問題をもっていて、傑出した石組として推奨したい。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」より)

                    

核心部の三尊石組

              

庭園その他部分

          

寛政10年(1798)に建立された重厚な山門と3m高の仁王像

              
転法輪(経蔵)

  

性空上人の碑
故事によると、性空上人が仏の導きによって、この室積の地で、普賢菩薩に出会った。そして、寛弘四年八十歳で没し、この地に葬られたという。長い年月とともに墓誌が風化したので、萩藩毛利吉就が、その性空上人の事蹟を偲んで、貞享三年(1686)十二月墓石とともにこの石碑を建立した。
なお、石碑の銘文は、萩藩明倫館学頭、山田原欽の撰によるものである。
(現地説明板)

    

平判官康頼の碑
治承元年(1177)京都鹿ヶ谷の山荘で藤原成親、僧俊寛、平康頼らが平家打倒の謀議をこうじた事が露見し、康頼らは遠く鬼界ヶ島に流された。康頼は途中室積の浦に立寄り、潮松庵の活堂和尚をたずねて出家し名を性照と改め、一首を残した。
「つゐにかく、そむきはてける世の中をとくすてざりしことそかなしき」
康頼は後年許されて京都に帰り、東山の小寺でさびしく半生を送った。
(現地説明板)

   

この石造物は牛それとも象

 

アーチの石橋で掘割を渡ると、普賢堂、子安観音堂、文殊菩薩堂、鐘堂、開山堂がある。

             

潮松庵跡など

   


Mar.30,2019 瀧山幸伸 source movie

天然記念物

峨眉山の全容

 

                                   

室積の港

                    


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