山口県柳井市 柳井
Downtown,Yanai city,Yamaguchi
Category
|
Rating
|
Comment
|
General
|
|
|
Nature
|
||
Water | ||
Flower | ||
Culture |
|
|
Facility | ||
Food |
August 16, 2021 野崎順次 source movie 1 source movie 2
パンフレット、柳井駅から北へ歩く。
柳井市古市金屋重要伝統的建造物群保存地区
保存地区は、柳井津でもっとも早くから開かれた旧町の西半分にあたる古市金屋地区で、東西方向に通じる本町通の両側約200メートルの町並みと、ほぼ中央部から南側の柳井川に通じる掛屋
(かけや) 小路の家並みです。
本町通に面して立つ町家は、妻入・本瓦葺二階建て・漆喰塗の大壁造りを基本とし、平入の建物も混じりますが、前面の庇の軒線はそろい町並みに統一感を与えています。また二階壁面に開く窓は、建ちの高い建物正面が調和のとれた意匠となり、漆喰壁の白壁に深い陰影をつけて、大壁造りの重厚な町家をひきたてています。
この保存地区は、中世の商業都市の地割を伝えるだけでなく、近世後半に建築された本瓦葺・白い大壁造りの町家群は、意匠的にすぐれて保存状態もよく、わが国にとって価値が高いものです。
(文部省選定説明より抜粋)
おおむね東半分
国重文 国森家住宅 江戸後期
この住宅は、18世紀後半の建築とみられ、土蔵造りで桁行(奥行)が16.5メートル、梁間(間口)が8.5メートルの二階建入母屋造。妻入の本瓦葺で、南面及び北面(正面)にそれぞれ半間(約90センチメートル)の本瓦葺庇がつく。全体を土蔵造とし、一階正面に「ぶちょう」と呼ばれる建具が建てこまれている。この「ぶちょう」は、三枚の板戸からなり、上の一枚は日中は内側に跳ねて吊り上げておき、下の二枚は柱に彫った溝に沿ってはずして全開するが、夜間は全部を閉める、機能的で開放的な商家の建具である。さらにその前には一本引きの土戸を建てるなど、火災に対する配慮がなされている。
本町通り西半分
掛屋小路
本通りをさらに西へ
宝来橋と愛宕地蔵尊
国登文 柳井市町並み資料館(旧周防銀行本店) 明治/1907/2000移築
木造2階建、鉄板葺、建築面積174㎡
柳井市伝建地区の入口近くに所在。日本銀行技師の長野宇平治の原設計,佐藤節雄の実施設計による銀行建築。長野宇平治が古典主義様式を確立する以前の作品で,正面階下のムクリ状のアーチや薄く張り出したバルコニーなどに様式的な試行錯誤の跡が窺われる。
国木田独歩像
県有形民俗文化財 むろやの園(小田家)
「室屋」は、いまからおよそ330年前、元禄元年(1688年)に、小田善四郎がこの柳井津の地で商いを興したのが始まりです。開業当時は、すげ笠、打ち綿、反物を扱っておりました
が、次第に油を主とした商いに移り、明治の頃からは地主として続いてまいりました。
最盛期には50~125石船を50艘も抱え、西は九州から五島列島、東は大阪と商取引を行い、西日本でも有数の油商として活躍いたしました。4代目六左衛門の代には、岩国藩主から帯刀を許され、惣年寄にまでなりました。
「むろやの園」は、細長い屋敷構えをした、たたずまいで、創業当時とほとんど変わっておりません。南北に119mあり、屋敷面積は2561㎡、建坪1500㎡で、わが国に現存する町家のなかでは最大のものといわれております。元禄14年(1701年)3月10日建立の棟札が主屋にあったといわれていますが現在はありません。18室もある主屋をはじめとする屋敷内の建物は全部で11棟35室あり、江戸中期の屋敷構えがそっくり残っております。た、この屋敷内に展示されたほとんどの品は、小田家が代々使ってきたものです。
(パンフレットより)
パンフレットと現地説明板
敷地外観、北から南へ主屋、勘定蔵、米蔵、油搾り場、裏の長屋門
主屋1階
主屋2階
庭と浴室への渡り廊下
主屋土間
二間長屋
中間部屋、道具小屋、味噌醤油小屋
甕の庭を囲む建築群、本蔵、勘定蔵、米蔵、半閑舎など
本蔵の展示
勘定蔵、米蔵の展示
油搾り場
半閑舎、約200年前に上客接待用に建てられた離れ
瓦の庭、山頭火句碑、長屋門
帰途、柳井駅まで
Mar.30,2019 瀧山幸伸 source movie
重要伝統的建造物群保存地区周辺
重要伝統的建造物群保存地区
国森家住宅
山口県の南東部、室津半島の東岸から付け根に位置する。市内からは琴石山を望み、瀬戸内海国立公園の一部としての自然景観を有している。
大畠瀬戸を挟んで対岸には周防大島(屋代島)が横たわる。
1500(明応9)年に将軍を追われた足利義稙が柳井津に立ち寄っているように、柳井は中世には瀬戸内海の主要な港町であった。江戸時代は岩国吉川家(岩国領)の領地で、岩国藩の「台所=御納戸(おなんと)」と呼ばれた。明治維新後も商業都市として発展した。
現在柳井駅北側には白壁が多く見られ、「岩国吉川領の御納戸」と称された昔の繁栄が偲ばれる。
古市・金屋地区を中心とした一帯は、室町時代の町割りが残り、かつ江戸時代に建築された白壁の家々が立ち並ぶ国の伝統的建築物群保存地域である。
これらの家並みは、妻入り・本瓦葺・2階建て・漆喰塗り大壁造りを基本とし、「白壁の町柳井」として知られる。
マークは白壁のうろこ壁と金魚で、柳井ブランドの認証商品に使われる。
■町並み資料館
国登録文化財
この建物は、柳井の有力者が資本金を出し合って設立した周防銀行本店で、1907(明治40)年に建築された。1Fは観光案内所、2Fは松島詩子記念館。
設計は長野宇平治氏の高弟佐藤節雄氏。柳井市が平成10年に寄贈を受けた。平成12年創建当時の姿に改修した。
■商家・国森家
国重要文化財
町筋が燃えた1768(明和5)年以後の建築。全体を土蔵造りとし、1F正面には1本引きの土戸を設けるなどの火災に対する備えが見られる。
国森家はもと手船商、反物商を営み、1803(享和3)年から手絞り灯油、鬢付け油の製造・販売を行った豪商。
■しらかべ学遊館
2004(平成16)年にオープンした。この建物は、江戸時代から明治初期の建築で、油・呉服・繊維卸などの商家である。平成13年に譲り受けた。
■商家博物館「むろやの園」
山口県指定有形民俗文化財
「むろやの園」は、小田家が油商を業としていた当時の屋号「室屋 むろや」に由来する名である。
商標
元禄年間(1688〜1704)創業という小田家は、中国地方有数の大油商で、天明年間(1781〜89)には50艘もの石船を有し、西は九州から五島列島、東は大阪と商取引を行い活躍した。開業時はすげ笠、打ち綿、反物を扱っていたが、次第に油へと移って行った。
南北に119m、屋敷面積2561㎡、建坪1500㎡の屋敷の外観 細長い屋敷構えをした佇まいで、創業時と殆ど変っていない。
■やない西蔵
大正時代末期に醤油蔵として建設された木造瓦葺平屋建、白壁土蔵造りの建物。1980年頃までは西蔵という愛称で使用されていた。
貴重な歴史的文化遺産として保存活用していくため、当時の外観、中の柱や骨組みをそのまま残し、体験工房、ギャラリー等の機能を備えた複合施設として再生された。
■甘露醤油資料館(佐川醤油)
独特の製法による柳井の特産品「甘露醤油」の醤油蔵の一部を、資料館として公開している。
創業以来、杉の三十石桶で醸造する伝統の製法を今尚頑なに守り続け、通常の手造り醤油の二倍の歳月と手間をかけて造られる、芳醇な香りと風味の絶品の再仕込み醤油。
■木地屋小路(きじやしょうじ)
金屋の商家博物館「むろやの園」の東側にある道幅1mほどの細い路地が「きじや小路」である。
かつて角地に「木地屋(きじや)」を屋号とする商家があったことから、その名が付けられた。木地屋は、貞末という柳井の代表的な木綿問屋であった。
小路には、家の出入口が見られ、白壁土蔵の続く「かけや小路」とはまた違う趣を感じさせます。
■かけや小路
白壁の通りにひっそりとたたずむ美しい小路は、かつてあった豪商の屋号「掛屋(かけや)」をとって「かけや小路」と名づけられた。
この小路は柳井川につづき、緑橋付近の雁木(がんぎ)と呼ばれる石段で荷揚げした産品を、表の通りに運んだ通路である。
中世に造られた石積み水路の様子もよくわかり、夏には赤手ガニが路上を散歩するため、「かにが路上を横切ります 人も車もご注意を」と可愛らしい看板もたっている。
■町割と、石積み水路
柳井の町割は、室町時代には作られていたといわれ、排水溝もその時期に作られたものといわれている。
かけや小路に沿う石積み水路(排水溝)は、その時代のものとされ、凹型に加工された石が敷かれている。
■柳井縞
■金魚の由来
≪参考≫
■小田家の旅
江戸時代、旅は大衆化し、特に元禄・享保期頃より民衆は盛んに物見遊山の旅に出かけた。民衆の旅は、マスメデイアの発達していない当時にあって、他所の様々な情報を人々に伝えるうえで大きな役割を果たした。江戸時代の防長地域の民衆の旅を知るうえで格好の情報を、小田家(屋号室屋)が提供する。
商都・柳井津を代表する商家の一つ、小田家は、反物・打綿等の商い、油・ 蝋・鬢付け油の生産販売、地主経営・塩田経営などで発展を遂げ、藩からも大年寄格を与えられている。
小田家に残る旅の文書によると、同家の家人の旅は十三回を数える。最も早いのは、1744(寛保4)年の旅で、これは讃岐の金毘羅参詣と京都・奈良の神社・仏閣巡りの旅で、期間は1〜2ケ月に及ぶ。旅の範囲は畿内が多いが、伊勢から長崎に及ぶ。小田家の旅は経済力の大きさを示すと共に柳井津町の繁栄ぶりも示している。
旅先は九州も多く、全行程47日間に及ぶものもあった。萩と共に長期間滞在したのが長崎で、長崎の持っていた観光地としての魅力が求心力になっていた。
小田家の家人が長崎で見た唐人屋敷・オランダ屋敷・唐人船等の様子を、持ち帰った土産物を手に話すことで、海外との限られた窓口の長崎で触れた異国の匂いを、柳井津の町に運んだともいえる。『街道の日本史、長州と萩街道より抜粋』
■国木田独歩旧宅
明治の文豪・国木田独歩は、青年時代の数年間を柳井のこの地で過ごした。この頃の体験をモデルに『少年の悲哀』や『置土産』などが描かれた。
彼が過ごした市山家は「国木田独歩記念館」に、同じく住んだ藤坂屋の三角餅は、独歩の小説置土産に登場し、柳井を代表する土産の1つとなった。
■藤坂家
独歩一家にとって、藤坂家は柳井最後の居住先であった。置土産の碑は同級生から贈られたもの。
■光台寺楼門
中国明朝様式で造られたちょっと変わった風貌の楼門。この楼門の下で手をたたくと、ワンワン・・・と反響するので、別名「ワンワン寺」とも言われ、人々に親しまれている。国木田独歩の散歩道だった。楼門右手側に「国木田独歩曽遊の地」碑が建っている。
■誓光寺
柳井市柳井3058−1
宗派:浄土真宗 応仁(1467〜1469)の頃開基。
江戸時代には、柳井坊主職という地位をもち、大島郡、熊毛郡、玖珂郡に33余寺の末寺末庵を抱えた。
本堂は、大寺にふさわしい規模の大きな建物で、正徳(1711〜1716)の頃の建立と伝えられる。
境内にあるヒマラヤ杉や、センダンの巨木は、柳井の名木に選ばれている。
■湘江庵(しょうこうあん) 「柳と井戸」 柳井の地名発祥の地
柳井市柳井3058−1
宗派:曹洞宗
般若姫の伝説が残る、柳井の地名発祥の地。ここの水を飲むと美人になれるという言い伝えもあるが、、
境内〜本堂
今ある柳の木は五代目。泉はいまもコンコンと湧き続けている。
この湘江庵は、江戸時代、柳井の町人が集まって句会を催したり、お茶やお花や謡曲の会などが催された。いわば当時の公民館だったわけで、柳井の江戸文化発生の地ともいえるとされる。お堂
境内の左側にある御堂
中央に安置されている。平安末期の作。
日本三大虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)のうちの一体として大変有名である。
■晋慶寺
柳井市姫田12−1
宗派:真言宗 本尊:千手観音菩薩立像
831(天長8)年の開山で旧柳井町では最古のお寺。 1724(享保9)年の作である山門には一対の金剛力士像が仁王立ちしている。(1798・寛政10)年の作)
ご本尊の千手観音菩薩立像は、像高30cmの銅製鋳造で、大内氏が納めたといわれる。平安時代末期から鎌倉時代初期ごろの様相がうかがえる仏像で、市の文化財に指定されており、秘仏となっている。このお寺は、古くから大内氏や吉川氏の信仰が篤かった。江戸時代はこの近辺が政治の中心地だったときく。
愛染明王像は、真っ赤な身体で、天に向けて矢を引く容姿から天弓愛染明王といわれ、恋愛・縁結び・家庭円満などご利益があるとされ、パワースポットとしても脚光を浴びている。
この普慶寺の前を流れる川は姫田川(ひめだがわ)。今から約1400年前、般若姫が九州から上京の途中、ここ柳井へ上陸された時に、この川で手を洗ったことから姫田川と呼ぶようになったといわれている。
■代田八幡宮
代田八幡宮は、社伝によれば天長10年(833)の創建とあり、祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功天皇。
その石鳥居は、寛永16年(1639)の建立とされ、県内では古い形状を備えた鳥居とされている。石大工は、薩摩住人の木賀兵衛と刻まれており、市内伊保庄の下賀茂神社の石鳥居のほか、県内に2基(合計4基)あって市の文化財に指定されている。
■茶臼山古墳
国指定史跡
4世紀末から5世紀初めに造られた、全長90mの前方後円墳。1892(明治25)年に地元の少年が発見した。現在、古墳公園として整備されている。
この古墳からは、古墳出土のものとしては日本一大きい鏡(単頭双胴怪獣鏡)が発掘された。
この一帯を支配したと言われる「熊毛王」が眠る古墳で、墳丘には多くに埴輪が設置され、約1,600年前の姿が復元されている。
併設する茶臼山古墳資料館には、発掘品や、古墳の解説パネルなどを、展示している。
また、ここからの眺めはとてもよく、柳井市街地から四国までを一望できるといわれる。
A camera
B camera
柳井は、大内、吉川の統治下に栄えた商人町である。古市、金谷地区の町割は室町時代からのもので、そのころから市が立っていた。寛文3年(1663)以降の干拓により商人の集積が進み、江戸時代には吉川岩国藩のお納戸と呼ばれ大いに賑わった。約200mの街路に江戸時代の商家建築が並ぶ。建物は主に、妻入り、入母屋、本瓦葺で、白壁が映える。この街並は昭和59年(1984)国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
町のシンボル「金魚ちょうちん」は愛嬌のある顔立ちだ。幕末以降のものだが、夏祭りの宵に子供たちが持ち歩く風情が街並に調和する。
国森家住宅 (国重文)
18世紀後半建築の商家。油を扱っていた。
甘露醤油の醸造蔵
むろやの園
西日本でも有数の油商であった小田家の屋敷で、屋敷面積は約800坪。
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中