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山梨県甲府市 東光寺

Toukouji,Kofu city,Yamanashi

 
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甲府市東光寺3-7-37 東光寺仏殿 重文 近世以前/寺院 室町後期 室町後期 桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、檜皮葺 19270425


November 26, 2021 野崎順次  source movie


山梨県甲府市東光寺3-7-37
臨済宗妙心寺派
法蓋山 東光寺


武田信玄公が定めた5つの寺院「甲府五山」の一つ。
名僧・蘭渓道隆(大覚禅師)が再興し、信玄公が厚く保護したお寺で、信玄公の長男・義信と、信玄公の側室である諏訪姫の父・諏訪頼重のお墓があります。
室町時代に建てられたという、国の重要文化財に指定されている仏殿(薬師堂)には本尊の薬師如来像や十二神将像が安置されています。
武田氏滅亡後、織田信長は甲府善光寺に本陣を置き、東光寺を焼きました。しかし、不思議に仏殿だけが焼け残りました。仏殿の中の柱に、織田軍が乱入した時の刀きずが残っています。また、甲府大空襲でも諸堂は焼失したが、仏殿だけが焼け残り、奇跡な因縁を感じさせます。
美しい庭園は、蘭渓道隆の作った池泉鑑賞式庭園で特にアヤメの咲く時期は見事です。
(甲府観光ナビより)

パンフレット
                


惣門から中門
            


庫裡前の石仏群
          


庫裡から方丈、方丈と庫裏との間の中庭には武田家の家紋の割り菱の刈込がある。
      


県名勝 東光寺庭園 鎌倉時代 池泉鑑賞式
ここで東光寺庭園のことを一考するに当たって、道隆禅師が後嵯峨院の亀山仙洞に招かれた当時、完成されたと思われる今の天竜寺庭園の滝の石組は、いうまでもなく竜門の滝であるが、この竜門の滝では、鯉魚石が一段水落石の上部に組まれている。本来はこの鯉魚石が水落石の下部にあって瀑水をかぶっているのが普通である。しかしこの天竜寺の前身としての当時の亀山仙洞は、後嵯峨院の御座所である関係から、鯉魚石を上部に組んだのであった。
この竜門式の爆布は、黄河の上流にあって、下流から何万尾の鯉魚が昇るが、この爆布の三級岩といわれる急爆を登ることは不可能であり、万一この爆布を登った鯉魚は、化して竜となるという伝説をもっている。道隆禅師はこの竜門の伝説を非常に愛好されたらしく、竜門に関する伝説地を各地に訪ねられている。
このようにして、道隆禅師は東光寺に作庭された時、同じょうに鯉魚石を上部に組まれていることや、さらにまた滝下の三橋の手法が両者全く同一であるのに驚くものがあり、本寺の庭園が天竜寺と同様であり、その点道隆禅師の作庭を裏付けるものがある。そしてまた、道隆禅師は、甲州から信州に入って二三の寺院を中興されているが、信州駒ケ根の光前寺にも竜門爆があり、同様に鯉魚石が上部に組まれている。道隆が信州に入ったことは正史には不明であるが、それは師がその頃逃避行中であったからである。
本庭は面積約四百五十坪を示しているが、戦災で焼失した本堂裏の庭園となり、山畔を利用して竜門爆の石組を設け、下部に池泉がある。下部の池泉は今日相当に荒廃の状を示しているが、幸いに上部の竜門式枯滝枯流れの仮山はよく保存されている。
上部から多数の石を組み下ろし、上部の枯滝の近くに鯉魚石を向かって右側に配置してある。石組はその下が何段かに組まれ、池畔に続いているが、そ.れらの石組手法もよく鎌倉式の手法を示している。別に向かって左側にも、もう一つの枯滝石組が見られる。また池中には舟石を配してあることによって、この付近は室町期になっての改修と考えられる。ともかく本庭は関東地方での傑出した名園である。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」より)

                             

国重文 仏殿
         

仏殿周囲の石仏群
        


禅堂前の枯山水庭園
                 


信玄公の長男・義信と、信玄公の側室である諏訪姫の父・諏訪頼重のお墓
    


お墓からの眺望
   


Aug. 07, 2015 松田浩志


                                                                              


Sep.2011 野崎順次

山梨県甲府市東光寺三丁目7-37

法蓋山 東光寺(ほうがいざん とうこうじ)

撮影日: 2011年9月19日当山は臨済宗妙心寺派の寺である。伝えによれば草創は平安時代末期で、興国院と名づけたことに始まるといわれる。鎌倉五山建長寺開山、蘭渓道隆禅師(らんけいどうりゅうぜんじ)は、文永五年(1268)、根拠のないうわさから甲州に配流され当山に入山した。そのため臨済禅とのつながりが生じ、密教から禅宗寺院として七堂伽藍が整備された。甲州禅文化の中心的存在となり、。幕府の禅宗官寺制度では五山十刹の諸山にその名をつらねた。このころ(1320年代)、寺号を東光寺と改めた。東光寺の歴史には不明な部分が多い。室町時代までは歴代住職すら不明で、鎌倉建長寺派との縁もなくなり妙心寺派と変わった。室町時代は武田家の保護尊宗をうけ寺運は栄え、諸堂が整備された。武田信玄は臨済宗妙心寺派に深く帰依し、鎌倉・京都五山にならい「甲府五山」を開いた。長禅寺・東光寺・法泉寺・能成寺・円光院がそれである。信玄の時代、当山の住職は藍田恵青(らんでんえじょう)和尚であった。藍田は信玄の伯父に当たり幼名を武田二郎といい、仁甫禅師につき出家得度した。信玄の帰依は厚く、天文年中、諸堂は再開され寺域は整備された。天文十年四月三日、武田滅亡後織田信長は、恵林寺の僧、七十余人の雲衲らを山門楼上に集め火を放った。快川国師ら高僧は偈(げ)を唱え火定に入った。高僧の中には東光寺藍田和尚がいたことは有名である。江戸期に入り甲府城主柳沢家の保護をうけ、享保二年(1717)、仏殿・薬師如来・十二神将像などが修理され面目を一新した。柳沢吉里の嫡子、幸三郎は享保三年に、時英も同七年早世した。吉里は当山に墓塔を建て二児の菩提を弔った。そのため柳沢家の帰依は厚く、吉里自筆の書画が寄進された。慶応四年(1868)の寺記による規模は御朱印地十四石四斗、境内三千七百八坪、山林三十五町歩余、本堂・仏殿・禅堂・庫裡・役寮・書院・浴室・拈案(てんあん)寮・惣門・中門・黒門・裏門・土蔵・納屋・高春院・耕雲院など、七堂伽藍と数多くの建物は壮観をきわめた。明治維新を迎え廃物毀釈(はいぶつきしゃく)の令により広大な寺領や、寺の背後の法蓋山をはじめとして、多くの山林などが上知として政府に上納された。二十年七月六日、甲府大空襲で本堂・庫裡は焼失。幸い仏殿・山門・鐘堂は残った。パンフレット                 アプローチぶどう畑の村落を歩くと道路の右手に東光寺への道がある。門前には石仏が集められている。                        重文 東光寺仏殿 天文年間(1532〜54)再建

仏殿は低い基壇上に建てられ、方三間(約5.3m)、裳階(もこし)付きで、裳階柱は面取り角柱である。正面中央は引き分けア桟唐戸、両わき四間は格子戸、特に唐様の特色である粽(ちまき)付き円柱と礎石の間に礎盤を入れ、桧皮(ひわだ)葺き重層入母屋様式の屋根は、宋時代の禅寺を思わせる優雅な室町時代の様式を伝えている。

天正十年(1582)四月、武田滅亡後、織田信長は甲府善光寺に本陣を置き、東光寺を焼いた。しかし、不思議に仏殿だけが焼け残った。仏殿の中の柱に、織田軍が乱入した時の刀きずが残っている。昭和二十年七月六日の甲府大空襲でも諸堂は焼失したが、仏殿だけが焼け残り、奇跡な因縁を感じさせる。                      仏殿内部。柱に刀傷が残る。          県文 薬師如来 鎌倉時代

東光寺仏殿の本尊、薬師如来は、正しくは「東方薬師瑠璃光如来(づんぽうやくしるりこうにょらい)」とよばれ、鎌倉時代の作である。この仏様は、東方浄瑠璃光世界の教主といわれ、十二の大誓願を発し、衆生(しゅじょう)の病苦を救い、無明の痼疾(こしつ・長い病い)をいやす如来で、左手には薬壺を持っている。     県文 十二神将(じんしょう) 鎌倉時代

十二神将は薬師如来の従者、分身といわれ、薬師経の読誦(どくじゅ)者を守護する十二の神である。いずれも天衣をまとい、甲冑(かっちゅう)をつけた武将姿で、七千の従者を率いて、衆生を病苦から守るという。のち、十二支の動物と結びついて、頭に十二支の姿を刻むようになったといわれている。             本堂         

県名勝 東光寺庭園

東光寺庭園は、広さは約四百五十坪で池泉観賞式庭園といい、本堂のうしろにある。中国黄河中流の、伝説の「滝門瀑」の滝を登った鯉が滝に変化するさまを自然石の石組みで見事に表現している。滝の落ち口の前方には、人工石の舟が浮かび、蓬来(ほうらい)山を表した山形石を組んだ景色は、一幅の北宋山水画を思わせる。中国風のテーマであり、蘭渓道隆の手になるものと考えられる。る山梨における第一級の名庭である。                心をこめて整備された境内と庭。

                      参考資料

法蓋山東光寺HP

ウィキペディア「東光寺」


Sep.2008 瀧山幸伸 source movie

甲斐善光寺近く、山麓に立地する臨済宗の禅寺。

仏殿の建立時期は明らかではないが、様式から見て室町時代の建立と言われている。山梨市の国宝清白寺仏殿と比較訪問すると興味深い。

正面5間、側面5間、一重裳階付、入母屋造の桧皮葺。

国の重要文化財に指定されているが、国宝級であると思うほど美しい。その印象は、木材の材質、色つやに起因する。なぜこのように美しく渋い光沢を放つのであろうか。木が持つ神秘性のとりこになる。数百年を経てさらに美しさが進化しているとも思える。これとの比較に耐えうる近代建築はどれほどあろうか。

 甲府市東光寺町1949

 

                                     

                               


May.2005 瀧山幸伸 source movie

                  

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