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滋賀県近江八幡市 観音寺城

Kannonjijo,Omihachiman city,Shiga

 
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近郊の観音寺城、桑実寺、教林坊なども含めて評価
 Nature
 
 
 Water
 琵琶湖の遠望
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観音寺城跡

March 2,2019 大野木康夫 source movie

国指定史跡

近江守護佐々木六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。

標高432mの繖山の山頂から南山麓にかけて郭が 広がる大城郭で、中世五大山城の一つに数えられます。

観音寺城が登場するのは南北朝時代。

佐々木氏頼が観音寺に布陣したことが『太平記』に記されていますが、この 時は単なる砦のようなものだったと思われます。

それ以後もしばしば陣所とされているようですが、佐々木六角氏の居住する城として整備されたのは、16世紀前半のことと考えられます。

観音寺城の特徴は石垣を多用している点にあります。

城郭への石垣の本格的な導入は安土城以後のことであり、それより古い観音寺城に石垣が多用されているのは例外的なことで、戦国時代としてはほとんど唯一の城になります。

観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。

これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、方形志向の平面形を呈し、大石を使った壮大な石塁が郭を 囲んでいます。

天文13年(1544)に城を訪れた連歌師谷宗牧は、山上の城の「御二階」の座敷に案内され、そこには「数寄」の茶室に茶器の名品が用意されていて、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を送られたと書いています。

観音寺城 が要塞であるとともに、六角氏の風雅な生活の場所であったことがうかがえます。

永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎・義治親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。

その後、天正7年(1579)に安土城が完成したことで、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。

(滋賀県教育委員会「埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)観音寺城跡」より引用)

現在では観音正寺の管理地となっているようです。

近江では寺社向けに石垣築造技術が発達していたうえに、繖山は岩山だったことから、観音寺城では広範囲にわたって石垣がめぐらされたのでしょう。

城域はおおよそ山全体に及びますが、見どころは大土塁の周辺と本丸から大石垣にかけてに分かれています。

まず、五個荘から観音寺林道を登った駐車場から出発しました。

このルートが一番楽です。

他には、繖山林道の駐車場(400段の石段を登る)、石寺の日吉神社からの道(追手道、順礼道。石段は1200段)、桑実寺からの道などがあります。

駐車場から順礼道を少し進めば、右手に伝布施淡路丸跡があります。

〇〇丸といっても、六角氏の被官の屋敷跡なのでしょう。

小谷城で被官や京極氏の屋敷跡が山上に広がっているのと同じようなものだと思います。

  

伝布施淡路丸跡の石垣

ここだけでも、山城の石垣の遺構としては十分すぎるくらいのものです。

ちなみに、帰りの際に見上げたら、もっと奥の斜面上にも石垣が広がっていました。

                    

伝布施淡路丸の少し先から、Y字路の右側の大土塁跡の遊歩道を進みました。

 

大見付、伝伊庭丸跡

土塁や土橋、石垣が散見されます。

            

大正期に建てられた佐佐木城跡碑

   

伝三井丸跡の堀切、土橋、石垣

      

伝馬淵丸跡付近の大石垣

土塁跡の下に城内屈指の大石垣が築かれています。

通路の整備まではできていませんが、石垣の付近の樹木が切り払われ、見やすくなっています。

               

伝三国丸跡付近の大石垣

先ほどの大石垣からそのまま道なりに西に進めば、別の大石垣があります。

大きな石が使われていて見ごたえがある石垣です。

           

伝三国丸跡の石垣

大土塁の遊歩道沿いに築かれており、虎口のような形状になっています。

           

伝沢田丸跡付近

繖山の最高部に位置します。

     

伝楢崎丸跡の石垣

伝沢田丸の直下に位置しています。

樹木で見づらくなっていますが、相当の規模の石垣です。

                   

ここから急斜面を下っていきます。

    

観音正寺からの道と合流し、伝本丸跡方面に向かいました。

伝本丸跡の手前に、虎口のようなところがあります。

              

伝本丸跡

思ったよりも広くなっています。

   

桑実寺方面に向かって、立派な石垣の食い違い虎口があります。

                       

西側に残る石垣群

                 

本丸大石段

相当の規模の石段です。

                 

大石垣方面に向かいます。

     

伝三の丸跡の石垣

一部だけ残っています。

   

伝平井丸跡の石垣

大規模な石垣が状態よく残っているところで、虎口は観音寺城を紹介する写真としてよく使われています。

                                  

折曲がり虎口西側の石垣

                                    

遊歩道に戻る

        

伝落合丸跡の石垣

        

伝池田丸跡の石垣

虎口が何箇所かあります。

                                  

大石垣へ向かう遊歩道

石垣が散在しています。

     

大石垣

近年、新幹線から見えるように樹木を伐採するなど、整備されました。

石寺の城下から見えるように築いたのではないかと言われています。

                                            

帰路

  

観音正寺

        

権現見附の大石垣

観音寺城の遺構かと思います。

     

奥の院など

    

伝目加田丸跡

 

伝布施淡路丸跡南側の石垣

      

駐車場に戻ってから、石寺の登り口にある伝御屋形跡に行きました。

アプローチ

      

伝御屋形跡の石垣

天満宮となっています。

遺構の中で一番高い石垣かもしれません。

ここから徒歩で大石垣方面に登ることができるようです。

                       

帰路

 


Jan.2012 中山辰夫

東近江市五個荘町・能登川町〜近江八幡市安土町国指定史跡

はじめに“お断り”

今回は、観音寺城調査の功労者である田中政三氏著の“近江源氏”と県教育委員会発行資料を多く引用させて頂いた。

”近江源氏一巻“は、第一回の調査が行われた昭和45年前後の重要な記録が満載で、その当時の状況や、関連社寺の姿など今では見られない記録が多い。登場する白黒写真は、”近江源氏“より引用転載させて頂いたものである。観音寺城は、昭和44年〜45年(1969〜)の発掘調査で始めてその姿の一部が世に発表された。実に400年近く土中に埋没していた。

その後も調査は断続的に行われているが、今も未調査の部分が多く残っており、全貌の解明には至っていない。

 

しかし、巨大な山城で、総石垣造り・山腹には家臣屋敷が分布するという得異な縄張りを持つ点で、観音寺城を除く他の日本五大山城(月山富田城・島根県)・(越後春日山城・新潟)・(七尾城・石川県)・(小谷城・滋賀県)とは違った内容をもつ山城である。

山中に、石垣を積んだ100ケ以上の郭(くるわ)が累々と重なる姿という特異な姿を呈する山城として国史跡に指定されている。

   

繖山(きぬがさやま)

観音寺城がある繖山は湖東平野にひときわ高く聳える独立峰で、ゆるやかな山容の外観に比して急峻であり、自然の要害をなしている。

繖山の遠望(頂上部の建物は観音正寺)

    

標高は433m、近江八幡市安土町から東近江市五個荘町にまたがり、北は大中の湖を隔てて琵琶湖を一望におさめ、南は老蘇森(おいそのもり)を中にして箕作山(みつくりおやま)と相対している。二つの山の間を新幹線が突っ走り、平行して国道8号線(中山道)が走っている。さらに、安土山にも近く、接している。

繖山からの遠望

 

観音寺城概要

全山郭で埋まった大要塞と犬追ババでの犬追い図(1550年頃 城主義秀)

     

遣り水の遺構と水給排水対策

    

城郭の区分

    

観音寺城に関係する周囲の社寺・ほか

   

観音寺城への道−佐々木一族

沙々貴山氏と佐々木氏

    

領地分割・独立

   

観音寺城築城

築城は建武3年(1336)頃に始まり、幾度かの改修を経て文明3年(1471)頃には現在の姿に似た形となったとされている。

  

六角氏の絶頂期 桑実寺縁起-足利義晴奉納(1523) 

       

角氏の戦国期の文化−数寄と茶(1544年ごろ)

     

観音寺騒動

   

観音寺城の終焉

  

観音寺城の由来

 

観音寺城平面図、周辺図

    

城郭めぐり 

今回の散策は主要部のみで、今回のルートから外れた部分や今後の調査で明らかとなる部分の方が多く残されている。

観音正寺巡礼道の傍に近い目賀田丸から淡路丸、さらに山上筋の三国丸・沢田丸・他の諸郭を見て、本丸、平井丸、池田丸へと尾根伝いに歩を進める。樹木や草木、叢林で判然としない所が多い。来る時期によって見晴らしが異なる。

山頂から東の主稜線をなす屋根には大石塁を築き、その南の尾根下から郭を配置している。

南斜面では谷を通る道の両側へ、基盤目状に段々になって郭を配置する。

郭の中心をなす本丸が中心でなく、西端に位置する。

  

伝目賀田丸跡と伝淡路丸跡

  

目賀田丸跡

周囲を囲む土塁が分かる

     

伝布施淡路丸跡

郭は総石垣造りである。虎口が二箇所ある。井戸跡らしきものが残っている。野づら積石塁である。

      

大見付跡〜伝沢田丸跡

尾根筋を土塁として利用したもので、どんどん登って行く。

  

大見付跡

  

伝番場丸跡〜伝伊庭丸跡

左右に注意しながら歩くも見落としが多い。歩道が大土塁になっており、大きすぎて気づかないこともある。

    

伝三井丸跡〜伝三国丸跡

伝三井丸跡、伝馬渕丸跡と連なるが、かなりの高低差がるのでむやみに近づけない。

他に山上の城主屋敷の下に家臣達が屋敷を構えた場所とされる、大規模な石垣に囲まれた郭が整然と並んでいる箇所もある。尾根沿いに登る。

    

伝三国丸跡

尾根筋の最も高い場所にあって、三国石と呼ばれる巨石と石塁によって囲まれている。

北側の防御を固めるポイントとして櫓台的な役目を持っていたとされる。

三国丸には巨大な石積の望楼があった、ここに立てば近江のほか伊賀、伊勢3ケ国の山々が望めるとされた。

        

伝沢田丸跡

城内でも最も高い場所に位置する郭だが、尾根の南側にわざわざ尾根を削り込んで郭をつくっている点が理解しがたいとされる。凹地にあるため石垣が見にくい。

    

伝本丸跡・伝平井丸跡・伝池田丸跡

本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある観音寺城の中枢部分である。これらの郭は、郭の中でも特に面積が大きく、四隅を作って方形の平面形を呈し、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいる。

   

伝本丸跡

繖山の標高は440m、本丸の標高は395m、1950㎡とされる。

伝本丸は江戸時代の絵図に「本城」と記され、観音寺城の城主・佐々木六角氏の当主が屋敷を建て、常の住まいとしたとされる。 

虎口は二箇所、平虎口と桑実寺に向かう場所の裏虎口は石塁をずらした食い違い虎口となっている。

    

広場はイノシシに掘り返され地面がデコボコしている。

    

大夫井戸(城主専用)

  

大手口石段

本丸につながる石段。

昭和44年(1969)の発掘調査で、土の下に埋もれていたのが発見された。一番の成果とされる。

最近は大手口とすることに見直しが進んでいる。

  

三の丸跡

大手口石段を下りてすぐの所。池田丸−落合丸−平井丸−三の丸−大手口石段−本丸へ続く経路の大手道でないかとされる。

   

伝平井丸跡

本丸から東南に少し下がった標高375m、面積1500㎡の郭で、本丸と同じ尾根筋を開き構築された二つの郭で成り立つ。

平井氏は佐々木六角一族の中でも沙々貴山氏の子孫で、本佐々木と呼ばれる氏族の支流愛智氏の次子家行を祖とする。

6家老の一人。平井氏の娘は、小谷城主浅井長政の妻として輿入れしたが、お市と結婚することになり、送り返された。堂々たる大手城戸

大きな石が多用された石垣と立派な虎口

    

郭を囲む大きな石を連ねた石垣

    

邸宅跡

    

茶亭跡

昭和45年(1970)の発掘調査では茶器や中国産の陶磁器などが現れ、六角氏の風雅な生活の場であったとされる。

上郭からは、泉水の庭、寝殿造の屋敷、茶亭跡が見つかる。連歌師谷宗牧の「御二階」の座敷に案内された記録と合致する。

   

埋み門(うずみもん) 虎口のならびにある。

    

平井丸跡から前方に続く道をたどる。道に詰まれた石は部分的に崩れているが、昔日の姿を語って十分である。

右側の落合丸跡を過ぎると池田丸跡に至る。

     

伝池田丸跡

本丸、平井丸、落合丸と共に同じ尾根筋に構え、面積は約2000㎡。四方石塁で囲まれている。

    

昭和44年〜45年にかけての発掘調査

   

城戸付近の調査時と現状

   

貯蔵庫跡と氷室跡

    

伝池田丸下方郭群

伝池田丸の南東斜面に幾つかの郭が雛壇上に広がっている。

  

大石垣

伝池田丸から二段下がった郭には通称大石垣と呼ばれる高石垣がある。城内でも立派な石垣である。

      また、ここからの眺望は抜群で、東山道からも丸見えで、この高石垣は周囲を威圧していた。

   

伝木村丸跡

郭の四方は、石塁、土塁で囲われている。大きな石が使われている。

        

埋門がある。

   

御屋形跡

石寺集落の最も高所に位置し、ここには現在天満宮が建っているが、六角氏当主の居館跡に比定されている。

標高130mの小高い地点、約100mで城下町石寺の人家、約500m先には中山道が走る要衝の位置に建っていた。

  

日吉神社参道入口を右手に折れ、突き当りの石段を上がる。三方を土塁と石垣で囲まれた「上御用屋敷」という地名を残す場所である。

正面石段は幅6m、長さ約25m、60余段を数える

      

本館屋敷跡

常時の居館とされ、面積は約3600㎡、ほぼ正方形ので、敷地中央に大階段を構え、左右に見事な石垣を積上げて造成した巨大な構えとされる。(田中政三氏が調査し推量された見取図)

     

立地と平面見取図

(田中政三氏が調査し、推量された見取図)

  

高石垣

階段を登りきった最上段から東西に延びる石垣の西側については、西端は尾根まで37m直線に築かれている。

地下の地盤は西に行くほど高くなっており、土台の根石底部から石垣上端までのたかさは、西端で3m、東端では約6mある。隅の積み方が整然とした算木ではないため、比較的早い頃に積まれたものと思われる。

石段は、天満宮以前からあり、昔偉い大将が馬や輿で登り降りされた階段との言い伝えが地元に残っている。

天満宮は江戸時代に移されてきた。発掘調査が未定のためまま眠っている

    

以上繖山に一歩踏み込んだら、巨岩との出会いとなる。それは観音寺城か、観音正寺に関わるものか区別のつかないものが多くさらには土中深く埋もれている遺構も多い。すべてが解明される時が待たれる。織田信長入城以後の観音寺城及び六角家

  

佐和山城に入った信長から六角承禎・義弼父子に、入洛に協力する旨の申し入れがあった。が父子はこれを受け入れず、信長と対立する三好三人衆と手を結び、信長を阻止する道を選んだ。面子と情報不足による戦略決定が滅亡につながって行った。酬恩寺・一休寺にある承禎義賢親子の墓

    

観音寺城→全山総石垣の城→戦国時代にさかのぼる本格的な石垣の構築ついて

   

石寺城下町

繖山南麓の石寺は、全国で初めて楽市が開かれたことで知られる、観音寺城の城下町であった。

 

石垣を積んだ屋敷跡が残り、その一部は現在も住宅に利用されており、当時の面影がしのばれる。

御屋形跡の「上御用屋敷」はじめ、集落内外に「下御用屋敷」「犬の馬場」「馬場道」「溝口」といった城下町らしい地名が伝えられている。

記録では、文明元年(1469)には「観音寺麓於石寺」とみえ、天文18年(1549)頃には「石寺新市」がつくられている。永禄6年(1563)の観音寺騒動では3千の家屋が焼けたとあり、かなり大きな町になっていた。

織田信長による安土城築造後は、石寺城下町の機能は安土城下町へ移された。

   

 

ゆかりの社寺

観音正寺

繖山の南面山上、標高346mの位置に建つ、単立寺院・西国巡礼三十二番札所である。三十三箇所の霊場の内一番高い山坂の上にあるが、四季をとおして参拝客が後を絶たない。寺伝では聖徳太子の建立という。

4世紀ごろから高い文化と権勢を有した狭々貴氏と称する一族が、ここを根拠に存在していたとされる。

自然の岩窟や岩座「いわくら」、大きな石舞台などもあり、古くから山岳仏教の道場、修業の場であった。

嘉元元年(1303)の後宇多法皇祈願、建武2年(1335)の後醍醐天皇中宮禧子の安産祈願などが行われる度ごとに勅使などが派遣され、さまざまな祈願がなされた。

六角氏の厚い保護を受けながら、観音寺城の整備・拡大に伴い山上から観音谷に移り、慶長11年(1606)再度山上に戻った。今の境内は城郭跡で、本堂・ほかの諸堂の地域は上御用屋敷跡とされる。

佐々木氏の滅亡と共に衰微し、最盛期には72坊あったとされる寺院も江戸中期、明治時代に16坊、さらに明治末では3坊、現在では山麓に教林坊1寺を残すのみとなった。

    

教林坊

石寺集落に隣接している。

日吉神社参道口から少しおり、景清道と呼ばれる竹林の小道を左に入る。

教林坊付近には小道沿いに観音正寺の坊跡が並ぶ。

教林坊は、605(推古13)年に聖徳太子によって創建されたとされ、その後、慶長年間(1596〜1615)に、観音正寺を再建した宗徳法橋により再興されたと伝わる。多くあった小院のうち、現在残る唯一の子院である。

    

桑実寺

繖山の西面中央、標高220mの中腹に建つ。この寺院の地域も観音寺城内に含まれ、登城道の途中にある。

白鳳6年(677)に天智天皇の勅願で創建されたと伝えられる。室町時代前期に建造された本堂は国の重要文化財である。

一旦事ある時は直ちに城塞化するよう、石塁や石段、屋敷、山門などが構えられている。

六角氏との深い関わりのもとで中世史に登場する。

    

足利十二代将軍義晴はここで婚儀を行い、匿われた3年間はここが幕府だった。土佐光茂に描かせた「桑実寺縁起絵巻」

は国の重要文化財に指定されている。

義晴が近江に寄寓したことは、六角氏当主の定頼にとって権勢と幕府への影響力を維持する上で大いに益し、絶頂期でもあった。

(三重塔−寛政3年(1792)暴風雨で大破、明治13年(1880)撤去

   

奥石神社

近江八幡市安土東老蘇(おいそ)

祭神:天児屋根命

近世には鎌大明神・鎌宮神社と呼ばれていた。延喜式神名帳に載る。

繖山を神体山とし、同山山頂の磐座(現在は観音正寺の奥の院となっている)を遥拝する里宮であったとする説がある。

奥石神社本紀によると孝霊天皇5年に石切大連が老蘇森に神壇を築いたのが始まりで、崇神天皇の代に四道将軍吉備津彦が宮殿を設けたとある。

    

老蘇森(おいそのもり)

国指定史跡

奥石神社の社叢をいう。

古くから歌枕として都人にも知られ、時鳥や思い出、老いの悲しみなどをかけて多くの歌に詠みこまれた。

中山道に沿うため、訪れる人も多く、鎌倉時代の紀行文にも散見する。

文化12年(1815)に刊行された「近江名所図絵」では奥石神社社叢として杉・松・広葉樹などが描かれている。

(注)平凡社の日本歴史地名大系「滋賀県の地名」では文化2年となっている。「文化2年」については、平凡社のミスか、近江名所図会は、以前に刊行されていた「木曽路名所図会」や「伊勢参宮名所図会」及び「二十四輩順拝図会」から近江図会の記事を抜粋したものともいわれ、それと関係あるかもしれないが不明。

     

沙々貴神社

「延喜式」神名帳にある神社 

佐々木氏の氏神として全国の佐々木一族の崇敬を集めている。

江戸時代には、宇多天皇や敦実親王の式年祭が執り行われた。

      

鵜川四十八躰仏

佐々木義賢が慈母の菩提を弔うために造立したとされる。義賢か義実かは不明

   

参考資料≪近江源氏(1〜3)、観音寺城と佐々木六角、滋賀県教育委員会発行観音寺情報、他≫ 天文18年(1549)、史上最初の楽市が「石寺新市」という場所で行われました。

楽市とは、営業権を独占していた座に属していないものも、自由に商売することを認める政策です。つまり石寺新市においては、誰もが自由に

商売ができるということです。この石寺新市については、地名に基づく研究から現在の奥石神社付近ではないかと推定されています。

中世においては、城下町と市場とが分離していることが一般的で、石寺についても城下町とされる繖山山麓の現集落から離れた奥石神社

付近に市があったと考えられるのです。観音寺城・城下町石寺および石寺新市については、まだまだ調査研究が進んでおらず、不確かなことがたくさんあります。

さらなる調査研究が必要です。

調査・整備にむかって

現在、滋賀県教育委員会では、将来の史跡観音寺城跡の調査・整備にむけて準備作業を進めています。まずは、平成16・17年(2004・2005)の2年間をかけて、「史跡観音寺城跡保存管理計画」を策定いたしました。これは、史跡観音寺城跡を将来どのように管理し、保存・活用を図っていくかの方向性を定めたものです。つづいて平成18・19年(2006・2007)の2ヶ年で、「史跡観音寺城跡整備基本構想・基本計画」を策定しました。これは、史跡観音寺城跡の調査・整備をどのような理念・方法で進めていくかを定めるもので、調査・整備事業のベースとなるものです。これらを経て現地での発掘調査・環境整備へと進んでいきます。本格的な発掘調査・環境整備に着手する時期はまだ未定ですが、平成20年度からは城内の石垣分布調査を行います。滋賀県が生み出した貴重な文化遺産である史跡観音寺城跡の実態を明らかにし、その成果を皆様にお伝えできるよう、努力してまいりたいと思います。

発掘調査と森林伐採

保存管理計画の策定、基本構想・基本計画の策定を経て、平成20年(2008)から史跡観音寺城跡石垣基礎調査がスタートしました。これは、観音寺城の最大の特徴である石垣の現状把握を目指し、城跡全体の石垣分布調査を実施するものです。4年計画で現在実施中です。また、これと合わせて部分的な発掘調査を行っています。

また、平成21年度(2009)に史跡観音寺城跡の森林・竹林整備事業を実施しました。これによって、これまで生い茂った竹や木々に埋もれて見ることの出来なかった石垣や、近づくことのできなかった郭が姿を現しました。整備したのは観音寺城の東端に位置する伝目賀田丸付近と、西端に位置する伝池田丸から南に延びる尾根筋です。伝目賀田丸では郭を囲う土塁が姿を現し、伝池田丸付近では何段にも築かれた石垣を見ることが出来ます。ぜひ現地を訪れ、中世五大山城の一つに数えられる観音寺城の、スケールの大きさを実感してください。

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