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青森県八戸市 えんぶり

Enburi ,Hachinohe City,Aomori

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Feb.17,2020  柚原君子


八戸えんぶり(重要無形民俗文化財)


概要

『八戸えんぶり』は毎年2月17日から4日間の日程で行われます。初日は早朝から30組を越える『えんぶり組』が八戸市内にある長者山の長者山新羅神社に奉納摺りのあと、市中に移動してメイン通りで一斉に摺りを演じて始まります。
その後は地元の神社奉納摺りや近郊農村および商店への門付けなどを行います。

現在では観光的要素の大きい行事となっていますが、元々は八戸地方の儀礼性の濃い田楽(田植踊)の一種です。八戸地方の予祝芸として芸能史的価値の高いものとして、1971(昭和46)年11月11日に選択無形民俗文化財とされ、その後の1979(昭和54)年2月に国の重要無形民俗文化財指定を受けています。
えんぶり組は八戸市以外にも階上町、南部町、おいらせ町などに数組が存在します。また、一部の小学校や中学校が課外活動として行う『子供えんぶり組』も存在します。

えんぶりの起源
諸説様々にあるようですが、鎌倉時代初期に南部氏の祖である南部光行(なんぶみつゆき)が奥州の地にやってきた頃に始まったというのが通説となっています。
奥州で迎える初めての正月、酒の勢いで抜刀乱舞となった家来たちの騒ぎを、機転を利かせた農民・藤九郎(とうくろう)がにぎやかに田植歌を歌い、農具を手に持って踊ることで収めた事がえんぶりの起源といわれています。
その後、明治時代には『えんぶり』が金銭を貰う行為であるとして一時禁止された時期もありますが、当時の有力者である大沢多門によって長者山新羅神社の『豊年祭』という形で復活を遂げ、現在に至っています。

えんぶりの呼称
えんぶりは太夫と呼ばれる人々が中心となる儀礼性の濃い田植え踊りで、太夫が舞い、その間に祝芸と言われる子どもたちの恵比寿様や大黒様の踊りが挟まれていきます。最後にまた太夫が舞い、一連の舞いが終了します。
太夫は先端に鳴子板や金輪をつけた「ジャンギ」と呼ばれる棒を持って踊りますが、このジャンギが田植え前に田を均すのに用いる柄振・朳(えぶり)という農具に起源も持つものであるために『えんぶり』と呼ばれるようになったと伝えられています。

摺る(する)
『えんぶり』では舞う事を奉納摺りなどのように「摺る(する)」といいます。
『えぶり』と呼ばれる農具を使って田んぼの土を平らにならすことを摺る(する)と表すことから、農具を持って舞う『えんぶり』のことも「摺る」と言うようになったそうです。

えんぶり摺り(舞い)の一連の流れ
農作業に活躍した馬の首を型取った烏帽子(えぼし)をかぶった『太夫(たゆう)』といわれる3人から5人の踊り手が中心になります。烏帽子は長大で、顎にかけた紐と長い巾広のたすきのような布を額にしっかりと締めて固定します。田植え動作の下向きの時、太夫たちは左手で烏帽子に手を添えて支えているようです。
烏帽子には鶴や亀等の瑞獣、大黒様や鯛などがえがかれています。また飾り花を付けている烏帽子もあり、双方の烏帽子はそれぞれ役割が違います(⑤に明記)。

隊列は太夫たちの他に笛と太鼓、手平鉦による囃子方、祝芸を披露する子どもたちの群団とで総勢30名くらいの編成です。

太夫たちによる踊りは、田作りの情景を唱う歌に合わせて、首を傾け傾けしながら、輪や並列を繰り返して踊ります。田植えのから収穫、蔵入れまでの動作で、ジャンギを地面に突き立てたり地面を摺るようにしたり、天を仰いだりする厳粛にして勇壮な踊りです。

踊りの内容と順番は下記のとおりです。

『摺り込み』……先頭の太夫が口上を述べながら、扇とジャンギを額に当てて入場してきます。
『摺り始め』……年の初めの祝い歌にはじまり、種まき、田んぼの代掻きを表します。
『中の摺り』……苗取りの歌に、田植えの踊りを舞います。
『摺り納め』……稲刈りが終わり蔵に俵を積む場面を表します。
『畦留め』 ……大事な 畦(くろ)から水が漏れないようにと、呪文の言葉を唱えます。

基本となるのは『摺り始め』・『中の摺り』・『摺り納め』で、その一つ一つが終わるごとに、『松の舞』、『恵比須舞(えびすまい)』、『大黒舞(だいこくまい)』等の祝舞(しゅくまい)や、田植えの様を滑稽に演じる『田植万才』、曲芸風の『金輪切』『南京玉すだれ』などが入ります。

化粧を施された児童、3歳くらいの幼い子どもによる『エンコエンコ』などが余興舞として入ることもあります。

様々にある祝舞、余興舞のどれが入るかはえんぶり組によって違います。また子どもたちの衣裳も組によって様々な色合いで、行列の華やかさは格別です。

えんぶり摺り種類と烏帽子の種類
太夫たちの摺るえんぶりには、歌や仕草がゆっくりとした『ながえんぶり』と拍子の速い『どうさいえんぶり』があります。

『ながえんぶり』……途中で『ごいわい唄』が入り、『神酒いただき』の所作があり、古い型であると言われています。太夫たちの烏帽子には前髪は無く、主役を務める太夫「藤九郎(とうくろう)」のものにだけ、まっ赤なボタンの花、または白いウツギの花がついています。藤九郎は鳴子(なりご)、他の太夫は鍬台(かんだい・田畑を耕す鍬の柄)を手にしています。藤九郎と他の太夫の舞の動きが異なることも特徴です。
鍛冶町通り

『どうさいえんぶり』……歌も仕草も早く、ジャンギという棒の先に金具のついたものを持ち、太夫全員が同じ踊りをします。烏帽子には、前髪と言われるテープ状の房がついています。首を振りながら摺る太夫の動きに合わせて、色とりどりのテープが揺れて華やかさを添えます。

⑥祝福芸の種類
えんぶりの太夫たちの摺りの間に入れられる祝芸。子どもたちが歌舞伎役者さながらの化粧で、明るく楽しく縁起物を踊ります。

■えんこえんこ
『金のなる木』といわれる小唄に合わせ、輪に銭が付いた銭太鼓を持って回しながら舞う。

■松の舞
農作業の休憩中、松の枝を持って踊ったのが始まりと言われる舞。ちゃんちゃんこを来て、手ぬぐいを頭に巻き、松を表す扇子を持って踊ります。

■えびす舞
恵比寿さまが鯛を釣る様子を、子どもが釣竿と扇子を使って舞います。やっと釣り上げた鯛を、家内が豊かになるよう家の旦那様に捧げて終わる、おめでたい演目です。この踊りは長く鯛を釣るときに、釣り糸が引っ張られる様子、鯛を釣り損なった様子など、大人たちが釣り糸の前にしゃがみ込んで手伝います。
釣れなくて悲しむ様子などユニークに踊られて、笑いを誘う踊りでもあります。

■大黒舞
子どもが右手に小槌、左手に扇を持ち、おめでたい口上や歌に合わせて舞う演目。

■南京玉すだれ
南京玉すだれを用いて縁起物を作って演じます。



1,長者山新羅神社にて奉納摺り

早朝7時から始まる奉納摺りは見逃せないので、前日に夜行バスにて東京を発ち、本八戸には7時15分に到着。そのまま歩いて長者山新羅神社に。えんぶり組がそれぞれ特色のある衣裳で、神社奉納の順番を待っています。あいにくの小雨で皆さんレインコートを着用。小さな子どもたちも一緒になって並んでいます。寒いのに、早いのに、すごいなぁ、と思いました。でも皆嬉しそう。笛や鐘の人たちの子どもを見守る目線が優しいです。二つ一組になっている太鼓は、一人の人が背中に背負って後ろから叩く人が一人付きます。えんぶり組の旗を持つ人。太夫や子どもの他はお年寄りも目立ちます。きっと昔の太夫や祝芸をした人達なのでしょうね。
雨は時々雪に変わり、底冷えがしてカメラレンズに曇りが生じてしまい、200㎜、85㎜のレンズ使い回し、果てはもう一台持って行ったミラーレスにも数枚は納めてと、臨機応変の技術も知識もあまりない私としては、カメラレンズの扱いが難しい寒さでもありました。後は、なんとか写っていることを祈るのみ、そんな感じの奉納摺り撮影でした。

                                                                                                          

2、長者山新羅神社えんぶり撮影会

奉納摺りが終わった組から順番に、神社前の広場で撮影会と称して踊って戴けます。正面からはなかなか撮れないです。それでも東京のお祭り撮影よりは、どうぞどうぞ前に出て、と優しくして戴きました。

                                                                                                      

3、長者山新羅神社風景

昔は長治山と呼ばれていたそうです。一斉摺りのパレードに出るために神輿が引っ張り出されていました。御由緒は下記の通り。

境内案内板より
『【御由緒】新年の元朝詣でに始まり、春のえんぶり(木+八)・花見、夏のお盛り・森のお伽会、八戸三社大祭・騎馬打毬、秋の奉納相撲、冬の七五三詣でなど人々は、季節の区切を長者山新羅神社の行事を通じて知る事ができる。当社は、延宝6年八戸南部二代藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として、長者山の山頂に神社を創建、社号を三社堂又は虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直営の神社で、領内の一の宮であり又総鎮守であった。元禄7年三社堂を改築更に文政10年、八代藩主信真公が再改築(現社殿)、同時に桜の馬場も開設して打毬の奉納も創設され、爾来1年も欠かさず、大祭日には加賀美流附伝騎馬打毬は、今日迄奉納され、明治14年には、畏くも天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。又、毎年2月17日にえんぶり行列である当社の、稲荷大神の御輿渡御式が、執行されてきたが、これは明治30年以耒のもので、現行の2月17日になったのは、明治42年旧暦廃止に当り、伊勢神宮の祈念祭の奉幣日に合わせたものである。明治2年神社制度の確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に、長者山新羅神社と改称して、現在に至る。
【主祭神】素戔嗚尊・新羅三郎源義光命。【相殿神】倉稲魂命(稲荷神社)・大物主命(金刀比羅神社)・素戔嗚命(八坂神社)・天照坐皇大御神・豊受姫命・誉田別命(應神天皇)。【大祭】8月2日【創建】延宝6年【神紋】源氏菱【本殿】流造6坪【幣殿】入母屋造8坪【拝殿】入母屋造18坪【境内】4898坪【社宝】采配二振・長刀(友成銘)【旧社格】県社【境内社】・高おがみ神社-御祭神高おがみ神、例祭9月19日、創建承和3丙辰年。・桜山招魂社-御祭神護国の英霊、例祭5月3日、創建昭和28年』

            

4、神社奉納摺りのあとのちょっと休憩

神社を降りてきた駐車場広場に、えんぶり組の集合場所がありました。10時から始まる市内での一斉摺りに行く前のしばしの休憩のようです。お鍋で蒟蒻を煮て、暖をとっているグループもあります。
新羅神社よりパレードのある本八戸メイン通りまでは歩いても20分くらいです。
メイン通りまで戻ったのですが、始まるまで40分くらいあったので、コンビニでホットコーヒーを。沿道の人の出は思ったより少なく、前に出たければちょっと歩いて行けば、空いているところはいっぱい。

             

5、鍛冶町通りえんぶりパレード

パトカーを先導にして宮司さん、神輿、各えんぶり組と続きます。今日は月曜日ですが、今年より市の条例によってえんぶりの間は学校は臨時休校だそうです。子どもたちが演じる祝芸が、とてもかわいらしく楽しみです。歌舞伎のようなお化粧もステキ。子どもたちも行列が楽しそうです。

                                                               

 

6-1、市内メイン通りで一斉摺り『十一町えんぶり組』の皆さん

一番の見所です。一斉摺りなのでどの『えんぶり組』に付くかで、違ったえんぶりがみられますが、同時なので残念ながら、ここ!と決めたところから移動はあまりできません。背景など考える暇がなかったので、『えんぶり摺り』の背景には店舗の広告などよけいに入ったか、と反省です。
毎年訪問して、すべての摺りをみてみたいと思います。観客の中には東京より毎年来ていますよ、という人もいました。
太夫たちを中心としてとてもきれいな踊りが続きます。
私たちの前で摺りを披露して下さったのは『十一町えんぶり組』のみなさんです。

            

6-2、太夫達の『摺り込み』と『摺り始め』

型は『どうさいえんぶり』。年の初めを祝い、種まきと代掻きを表す踊りです。馬の前髪の色とりどりのテープが美しく激しく揺れます。

                                 

6-3、祝舞い。女の子たちによる「松の舞」

ほっぺをまん丸に赤く塗った女の子たちが踊ります。愛らしいです。後列の女の子はまだとっても小さいのに、大きいお姉さんたちのテンポにやや遅れながらも、ちゃんと踊れています。とにかく可愛い。大きいお姉さんたちも、小さい子の方を少し気にしながら踊っている様子も微笑ましいです。

                       

6-4、「恵比寿舞」

鯛を釣るところまでも長いですし、釣ったか釣れないかのユーモアな仕草が観客の笑いを誘い、演じる子どもの演技力もなかなかのものがあります。鯛を釣る糸の引っ張りを大人たちが助け、釣れたら観光客から拍手喝采!見ている方もめでたい気持ちになります。10分近くかかる演技。歌舞伎の様に描かれた顔の隈取り、首の振り方一つも渾身の演技で見応えがあります。

                                                      

6-5、「大黒舞」

ちょっと大きいお姉さんたちの大黒舞。キリッとした大黒様たちです。

                     

6-6、子どもたち全員による「松の舞」

農作業の休憩中、松の枝を持って踊ったのが始まりとされる舞い。扇子で表す田植えの仕草がかわいい。

                                  

6-7、太夫たちによる「中の摺」

種をまいた後の摺りですので、苗取りの舞いです。

                            

6-8、えんこえんこ

『金のなる木』といわれる小唄に合わせ、輪に銭が付いた銭太鼓を持って回しながら舞う祝舞い。見ている私たちもお金持ちになれそうな予感がします。振り仰ぐ形が、子どもながらに粋で妖艶です。

                                

6-9、男の子による「松の舞」

先ほどたくさんの子どもたちが一斉に松の舞いを踊りましたが、その中から選ばれた感じの男の子二人が前に出てきます。目線の効かせ方がすごいです。踊りの振りが一瞬止まったところの目線とかすかな間合が、練習量を物語っています。すごいなぁ、八戸の子どもたち。

                                    


6-10、太夫たちによる「摺り納め」

稲刈りが終わって蔵にお米を収納する場面が表されていきます。幾たびか地面すれすれに頭を垂れて御礼の動作があります。種々諸々に感謝の念を持たなければ、と観客たちも思える場面です。

                                         

7、それぞれの町会に帰って行く、えんぶり組の皆さん

市内のメイン通りで一斉摺りを終えてそれぞれの町会に帰るえんぶり組のみなさん。一斉摺りの時は、一つのグループの前で写真を撮るので、他のグループの様子が分りませんが、この退所の行列をみると、各グループの衣裳が違うことが解ります。烏帽子を被った太夫たちの目線がまだまだ鋭いです。

烏帽子の色とりどりのテープが揺れる『どうさいえんぶり』を舞う太夫たちが多いのですが、中には白いウツギの花を付けた『ながえんぶり』を舞う役目の太夫の姿も見られます。『祝』と染めた手ぬぐいを扇子に掛けて凜々しく歩く太夫たち。中学生で構成されたえんぶり組も目の前を通り過ぎました。

姉妹兄弟たちが小さい子どもの手を引いて。祖父が化粧を施された孫を抱いて。恵比寿様たちもえんぶり組によって眉の長さやひげの長さや角度が違っています。烏帽子を外して抱え持つ子も目の前を通り過ぎましたが、高校生のような若者です。
伝承をするのには練習時間も必要で、そして何よりも地域の絆が強くなければできません。地縁の強さ。いいなぁと思えます。
雨が時々でしたので烏帽子にはビニール袋がかぶせてある組も多く、晴天だったらまた違う色合いの行列だったと思います。

                                                                   

8、三八城神社(みやぎじんじゃ)奉納摺り

市内の地理関係がまだ解らず、行列に付いていったら三八城神社に来ました。奉納摺りがあるようです。

三八城神社は、青森県八戸市内丸にある三八城公園内にある神社で、江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつです。この近辺は八戸市内丸という地名で、藩政時代には八戸城の本丸と二の丸のあったところ。
祭神は八戸藩初代藩主・南部直房、甲斐源氏の祖新羅三郎義光、南部氏の祖である南部光行の3人が祀られています。神社名の三八城は三戸郡の『三』、八戸城の『八』、『城』の意と解されています。
(参考資料ウキィペディア)
奉納摺りは新羅神社同様に、太夫たちによる摺りを奉納後、他の人々は神前一礼で、次のえんぶり組が奉納摺りとなります。色々な半纏や烏帽子を押さえた広幅の帯が風になびいていきます。宮司さんが拝殿の中に座って見守っています。

                                              

9、御前えんぶり市庁舎前広場

昼間に市内の何ヶ所かでえんぶり組の踊りが披露されます。御前えんぶり市庁舎前広場
では観客席の中央に姫と殿が江戸時代の衣裳でご観覧になっています。つまり御前でということなのでしょうね。
『重地えんぶり組』のみなさんの摺りです。太夫たちの一人の烏帽子はまっ赤なボタンなので『ながえんぶり』が披露されます。
見学に来た幼稚園児が自分で作ったという烏帽子をかぶっていました。将来の太夫の卵です。

                                                         

10,町の風景

本八戸の駅の方に特に多かったのですが「……らしい」という店舗にかかっている看板が、とてもおもしろかったです。親近感が増します。道路工事のガードルも北国らしくリンゴの絵柄。

                                                                 

11、八戸城跡

1664(寛文4)年頃の 盛岡藩主 南部重直は跡継ぎを決めずに亡くなります。
盛岡藩10万石は2人の弟が継ぐこととなり、新盛岡藩8万石と八戸藩2万石に分割されます。
八戸は南部直房の所領となって八戸藩が成立。廃藩置県の明治まで9代続きます。
八戸城は元々あった盛岡藩時代の館を修築したもので、御殿や蔵のみで天守や櫓などを持たない政庁でしたが明治維新で破棄されてしまいます。
城下町は碁盤の目のように整備されたそうで、市内には城下町らしい地名がたくさん残っています。
城址は現在「三八城公園」になっていて、城址の跡碑が一本建てられているだけですが、御殿は現在の三八城神社付近にあったといわれています。遺構はあまりありませんが、角御殿表門(古桜門)が南部会館の表門として移築されています。
城のあった場所にふさわしく見晴らしの良い高台です。

             

12、おがみ神社奉納摺り

八戸城址の辺りは内丸という地名でまさに城のすぐ近くということ。そこに恐ろしく難しい字の神社があります。現在ではあまり見かけないしもちろん変換もできない字です。
一番上に雨、その下に口を三つ並べて、さらにその下に龍と書きます。字の成り立ちから雨乞いに関係しますが、読み方は「おがみ」です。
正式名は「法霊山 おがみ神社」。由緒を読んでいくと、社殿の見た目よりもうんと重々しいものを感じることができます。
旧八戸藩の総鎮守社と呼ばれて複雑な字を頂いている『おがみ神社』の起源には諸説ありますが、有力なのは八戸村柏崎地区の産土神で農業用水などを賄っていた柏崎堤の守護神として創始されたという説で、創建は古く約900年まえの平安後期の頃。八戸最古の神社といわれています。しかし、産土神と呼称されていた頃は土着風習のようなもので神社としての形態があったかどうかは不明とされています。

鎌倉時代になって、現在の神職でもある坂本家七代目「法霊」という修験者が、熊野や京都の聖護院修行の後、東北地方から青森県内の様々な地域を説いて回ったあとに八戸に戻ったそうですが、その時、当地は日照り続きで「法霊」は雨乞いをしたのですが雨を降らせることができずに、自身を人身御供として身を投げるから雨を降らせて欲しいと願い、入水した後に大雨が降ったという伝説があるそうです。
感謝した人々は御霊を法霊明神と祀ったとあります。

神社境内にはお祭りの山車が収納されていてガラス張りで見ることが出来ます。えんぶり同様に国の重要無形民俗文化財に指定されている八戸三社大祭の時に使われる山車です。

由緒ある神社ですが、現在は修復中なのでしょうか、機材が入っていて、狛犬や灯籠がちょっと脇に倒れていたりします。
えんぶり内丸組の皆さんが奉納摺りに。摺りの一部始終をビデオに撮ろうとしたので奉納摺りや祝舞の写真は少なくなりました。ビデオも手持ちであまり上手とは言えず、写真だけにすれば良かったとちょっと後悔。でも奉納後の子どもたちの姿を生き生きと撮ることができました。(この内丸組の皆さんとは翌日に門付けのときに再び会うことができて、門付けの風景を撮らせていただきました。14番にあります)。

                                                                                                                    

13-1 篝火えんぶり前準備中

16:30分頃より薄暮れてきました。篝火の用意が始まっています。

             

13-2 歌謡ショー

地元で活躍されている方々です。

          

13-3篝火点火

中学生が火を起こして市長さんが受け取り、点火となりました。

                            

13-4篝火えんぶり

「横町えんぶり組」の皆さんです。まっ赤なボタンの花が太夫の烏帽子に付いていますので「どうさいえんぶり」が演じられます。祝舞の恵比寿舞は見応えがあります。その他のも撮りましたが、動きが多い舞いでピントが今ひとつでした。

                                                                                                                              

14-1 夜の門付け『東十日市えんぶり組』の皆さん

夕食のために市の中心に出たら、夜の門付けが行われていました。ここでも外にいる烏帽子の太夫たちから、お店の中に入って観て下さい!と親切に。ここでも祝舞をする子どもたちを見る大人の目線がとても優しい。

              

14-2 昼の門付け「内丸えんぶり組」のみなさん

昨日おがみ神社に奉納摺りをされた『えんぶり内丸組』の皆さんの門付け風景にであいましたので、同行させていただきました。薬局の中にどうぞどうぞ!と背中を押されて入れていただきました。お店の方が見守る中、舞いが披露されます。大人の舞いの時、後方で待つ子どもたちの姿勢の良さに感心しました。
踊るときはキリリとした顔つきの子どもたちも、道路の片隅で小休憩のおやつタイムの時などは、屈託のない笑顔です。

                                                                                            

15、卵湯

町の温泉銭湯です。八戸プラザホテルから線路脇を歩いて20分ほどの所に、昭和の色濃い温泉銭湯があるというので行ってきました。下駄箱も籐籠も子どものころに良く行った銭湯と同じものです。奥の棚には置き留めできる棚があって、風呂敷に包んだ一式がたくさん並べられていました。お湯ははんなりとした柔らかさ。星空を見ながら暗い夜道でしたが温々とホテルに帰りました。


         

 

16-1、マチニワ『常番町えんぶり組』演技前の待ち

午後、門付けについて歩くのに疲れて、やってきたのは本八戸の中心、一斉摺りが行われたメイン通りにある『八戸ポータルミュージアムはっち』
えんぶりは色々なところで舞われます。篝火えんぶりは市庁舎前の広場で夜に行われます。更上閣などでは夕方からお庭えんぶりがあります。入場料もまちまちでお庭えんぶりの最前列が3000円。後列で2000円くらいだったでしょうか。お食事が付くようです。
公会堂は1000円、そのほか250円などという所もあったようです。
『八戸ポータルミュージアムはっち』内では『えんぶりin マチニワ』という看板が掲げられていて、時間を決めて、えんぶり組が登場して踊ってくれます。1階の吹き抜け広場では、椅子席や温風機などが用意されていて無料です。地元の子どもたちが傍らのテーブルで勉強している姿も見られる地域の自由に集まれる場所の様です。
時間になって『常番町えんぶり組』の皆さんが幟を先頭に入ってこられました。小さな子どもたちが待ちの時間にあどけない仕草を見せてくれます。えんぶりが本当に好きで楽しそうです。

 

16-2 太夫たちの摺り

烏帽子に前髪があるので『どうさいえんぶり』ですね。
          

                                  

 

16-3,『大黒舞』

女の子3人による大黒舞。1人だけ衣裳が違います。

           

16-4、『南京玉すだれ』

大黒舞のセンターにいた女の子が演じています。
      

 

16-5 『松の舞』

先ほどよりは年少の女の子たちによる『松の舞』。揃っていないところが愛らしいですが、中には目線はもうしっかりと決まった舞いを見せてくれる女の子もいます。どのグループも一人はインカムを付けて、唄や合いの手を入れながら踊っています。
                   

16-6、『恵比寿舞』

ぽっちゃりとした男の子が釣り竿を持って出を待ちます。
「恵比寿様になるべくして産まれてきた子が舞います」、という紹介に会場が沸きます。めったに笑顔を見せない太夫たちも笑っています。踊りの最中もやはり笑ったり、心配顔の太夫たちの姿。祝舞のなかで恵比寿舞だけが長丁場。恵比寿様の男の子は汗をかきかき踊りきりました。すごいね。本八戸の子どもたち。
                                      

16-7、演技終了。退場。

太夫たちの後半の摺り演技の後に、太夫たち先導の元『常番町えんぶり組』の退場です。舞台を降りたら、やっぱりあどけない子どもたちの姿でした。
            

17、八戸角御殿表門

南部会館のHPに、表門の歴史や本八戸の城下町としての成り立ちや町名の付け方などが詳しく載っていますので、そのまま載せます。

『南部会館のある内丸一帯は、中世以降八戸の要所のひとつでした。南北朝時代に根城を築いた南部氏がこの地方を統治していた頃は、根城と新田城(現在の新井田)、そして中館と呼ばれていたこの場所の3館で敵に備え、「三館一城」のかまえを為していたと言われています。

根城南部氏が遠野に移封になった後、八戸は盛岡南部氏の支配となりますが、この時に根城の町家を三日町・十三日町・二十三日町に、新田の町家を八日町・十八日町・二十八日町に移住させて現在の八戸市街の基礎ができたと言われています。

また、三日町と八日町の間から城への中間に盛岡の城代屋敷があったと言われ、現在の市庁舎前のロータリーにある高野槇は、城代屋敷の庭にあったものだと言われています。

寛文4年(1664年)に設立された八戸藩では、新たに城を築くことなく既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで城として使い、徐々に城としての整備を進めていきました。現在の南部会館は二の丸の一角で、寛政年間には角御殿と呼ばれていたことが「藩日記」からうかがわれます。

寛政4年(1792年)、藩は藩士の煙山冶部右衛門にこの建物に入居することを命じましたが、当時この屋敷は城の大手御門に近く、藩主一族や重臣の屋敷地になっていました。門はその5年後に建てられますが、旧南部会館の一部もこの頃のものであったと考えられます。

明治時代になり、旧藩主が知藩事となり、この屋敷で政務をとっていたことから、「御内務」と呼ばれていました。その後南部家の私邸として使われていましたが、昭和25年に三戸郡町村会のものとなって集会施設として利用され、昭和47年、八戸市に移されました。

南部会館の表門として市民に親しまれている「八戸城角御殿表門」は「棟門」と呼ばれる構造形式で、この形式では全国的に見ても最大級の大きさを誇っています。三間一戸(軒高3.6m、桁行7.2m、奥行5.7m)。昭和53年老朽化により倒壊しましたが、この時棟札3枚と小さな毘沙門天像が発見され、この門の歴史が明らかになりました。

棟札のうち、一番古いのは創建時である寛政9年(1797年)のもので、施主は当時の藩の武官の二番目の地位にある御者頭の煙山冶部右衛門でした。藩の資料によると、彼は「角御殿」と呼ばれる藩邸への居住を命じられ「場所柄相応」の門と玄関を作ることを命じられ、資金の調達に苦しみながらも完成させたようです。煙山氏は門が完成した後、武官最高位の御番頭に昇進していますが、こうした資料が発見されるまでは、「煙山氏は分不相応な門を建てたので屋敷を没収された」という言い伝えがあり、それが覆されたといえます。

毘沙門天像は、門最大の部材である冠木の中央に埋め込まれた木箱から発見された高さ3.6cmの小さなもので、割竹の厨子に収められており、煙山氏など当時の武士階級の信仰がうかがえます。

また、嘉永4年(1851年)の棟札からはこの当時の修理が藩で直接行われたことが知られます。明治42年(1909年)の棟札は藩主が知藩事となって、城からこの屋敷に移り「御内務」と呼ばれた時代のものです。昭和54年から行われた修理ではこうした資料や部材の検討を繰り返し、創建時に近い形に復原され現在に至ります。

門は老朽化しているため、普段は開門しておらず、現在は三社大祭・えんぶり期間中に臨時で開門しております。』(以上、HPより。原文)
太夫たちの被る烏帽子も展示されていて、左右のの絵柄の違いなどをじっくりと見ることが出来ました。門はえんぶりの時なので開門されていたようです。大きな門で全体を撮るために通りの歩道橋の上に上がりました。HP内にあるコウヤマキも見えています。バス停の先の3本そびえる中の1本です。

                                 

18、案内所

マチニワの向かい側にあります。本八戸の案内所。えんぶりの写真展、半纏などが展示されています。

                          

19、更上閣

お庭えんぶりの予約は矢張り取れませんでした。建物だけでも見ておこうと出かけました。空は一転曇り空。雪国特有の変化でしょうか。曇り空からあっという間に雪が横殴りに降ってきました。雪国に慣れない装備ですのでひるみます。

更上閣は本八戸メイン通りの外れにありますが、中心部より歩いても20分くらい。メイン通りをはさんで新羅神社の丁度反対側の位置にあります。

八戸市大字本徒士町に位置する更上閣は明治30年建物で、呉服商、醤油の製造・販売業や繊維工場及び泉山銀行を設立した東北の豪商泉山家の邸宅として建築されています。大正8年頃に来客接待用広間及び二階和室を主屋に対して雁行形に増築。建築面積373㎡。入母屋、鉄板葺、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。明治期時の近代和風建築の遺構として2003(平成15)年に国登録有形文化財に登録されています。

更上閣門も同じく国登録有形文化財に指定されていますが、気づかず写真は撮れませんでした。資料によると1919(大正8)年頃の建築で石材を中心に築かれた鳥居の様な形態とのこと。

建物の中にはお庭えんぶり参加者でないとは入れませんが、建物外観とお庭は撮らせていただきました。筵が敷かれて摺りの用意がされている庭園。L字型の建物と庭に雪が舞いました。

                                                

20、更上閣前でお庭えんぶり準備風景『塩町えんぶり組』のみなさん

お庭えんぶりに行かれなかったので、この後どうしようかなと思っていたら、えんぶり組の方々が準備のために集まられてきましたので、準備風景を撮らせていただくことに。空は時々曇り空になって雪も時々舞いますが、暫くして薄陽が射してきました。
えんぶりの子どもたちは衣裳のままに雪遊びをして、大人たちに叱られ、やめるかと思うとまた雪遊び。大人が「こらこらこら!」の繰り返し(笑)。
太夫たちの烏帽子をお年寄りの方々が巾広布で固定しているところも見られました。これ以上締めるくらい締めとかないと、と拳に力が入ります。太夫も膝を曲げて体幹をまっすぐにして耐えます。
顎に掛けている紐もきついようですし、額に巻かれる巾広帯も相当きつく巻かれますので、太夫たちの表情の厳しさにも納得できます。これで下を向いて踊ったり首を振り回したりしますので、大変重労働ではないかと思えます。
準備見学すること1時間あまり。更上閣入口の雪の上にロウソクが置かれ、えんぶり組隊列が更上閣玄関へと移動していきます。
                                                                                                                                                                                                                      

21-1、再びマチニワに。

どこの組かは解りませんでしたが、『大黒舞』が行われていました。真ん中の小さな女の子は周りの大きいお姉さんと数テンポ遅れる踊りでしたが、所作はしっかりと合っていて、一所懸命さが本当にかわいい。

                

21-2、マチニワ演技『塩町えんぶり組』のみなさんの出待ち

えんぶり二日目です、このあと数時間で本八戸を離れます。来たときの新羅神社奉納摺りで境内で演技を見せていただいたのが、確か『塩町えんぶり組』の皆さんだったと思います。
待ちの間にお母さんと息子でしょうか、化粧の直しをしてもらっている姿がありました。
親子で共有できる大切なものがあるのはいいですね。

          

21-3、塩町えんぶり組『太夫たちの摺りはじめ』

太夫たちの摺りです。前髪の鮮やかなテープですので「どうさいえんぶり」ですね。地面すれすれから振り仰ぐ姿が撮りたいのですが、踊りが早くって私の腕では撮れません。

                             

21-4、塩町えんぶり組『松の舞』

舞台のみならず、舞台下でも少女たちが舞います。

                    

21-5、塩町えんぶりぐみ『南京玉すだれ』

とても大きな山や複雑な模様を器用に造る子どもたちです。

         

21-6、塩町えんぶり組『太夫たちの中の摺り』

鉦の音、太鼓がなり、けれど時には静かに田んぼに苗が植えられていきます。春を告げる八戸の伝統の田植え踊り。外は再び雪。春が待たれます。今年もほうさくでありますようにと。
          

21-7、塩町えんぶり組『恵比寿舞』

昨日の朝、新羅神社で奉納のときに舞ってくれた男の子です。インカムを付けて唄って暮れる声もステキです。
また、来年も、やっぱり来てみたいと思いました。
                     

21-8、塩町えんぶり組『大黒舞』

上級生の女の子たちの大黒舞。華やかに舞っています。振り仰ぐ姿がやはり美しいです。
             

22、宿泊ホテルは八戸プラザホテル

本八戸の駅近くにあります。メイン通りより離れていますが、おがみ神社を知り、門付けなどに出会えて良い場所でした。最上階での朝の食事は遠くに海が光って綺麗でした。東日本大震災の爪痕があるのでは、と思って訪ねた八戸えんぶりでしたが、この辺りに津波はなく、亡くなられた方は1名とのこと。
                     

23、パンフレット

                   


Feb.2007, 2008  中村千恵美

 

【2008年 八戸えんぶり 開催日程表】

 2月17日(日)

 ●奉納摺り

 長者山新羅神社 午前7時より

 全えんぶり組

 ●えんぶり撮影会

 長者山新羅神社 午前8時〜9時

 常番町・鳥谷部えんぶり組

 ●えんぶり組待機

 長者まつりんぐ広場 奉納摺りを終えた組から順に待機

 全えんぶり組

 ●えんぶり行列

 長者まつりんぐ広場から午前10時に出発、鍛冶町を通って八戸市中心街へ

 全えんぶり組

 ●一斉摺り

 八戸市中心街(三日町・六日町・十三日町・ヤグラ横丁) 午前10時40分〜11時20分

 全えんぶり組

 ●御前えんぶり

 市庁前市民広場 午後0時30分より

 妙えんぶり組

 ●えんぶり公演(有料)

 八戸市公会堂 午後1時〜4時終了予定

 大久保・細越・子供えんぶり組

 ●お庭えんぶり(三八五交通(株)主催)

 更上閣 午後2時〜2時40分程度

 八戸えんぶり研賛会

 ※1人 1,000円(甘酒つき)

 ●八戸えんぶり実演

 八食センター 午後3時より

 八太郎えんぶり組

 ●かがり火えんぶり

 市庁前市民広場 午後6時、7時、8時のそれぞれ3回

 百石・田代・新組えんぶり組

 ●お庭えんぶり(有料・要予約)

 更上閣 午後6時、8時からの2回

 日計・平内えんぶり組

 2月18日(月)

 ●八戸えんぶり実演

 八食センター 午前11時・午後1時の2回

 石堂・日計えんぶり組

 ●えんぶり公演(有料)

 八戸市公会堂 午後1時〜4時終了予定

 山道・糠塚・子供えんぶり組

 ●お庭えんぶり(三八五交通(株)主催)

 更上閣 午後2時〜2時40分程度

 新井田横町えんぶり組

 ※1人 1,000円(甘酒つき)

 ●かがり火えんぶり

 市庁前市民広場 午後6時

 玉掛えんぶり組

 ●かがり火摺り

 市庁前市民広場 午後7時30分

 塩町・東十日市・八太郎・市庁・福田上えんぶり組

 ※一斉摺りの雰囲気が味わえる一夜限りの特別公演です

 ●お庭えんぶり(有料・要予約)

 更上閣 午後6時、8時からの2回

 仲町・重地えんぶり組

 2月19日(火)

 ●八戸えんぶり実演

 八食センター 午前11時より

 尻内えんぶり組

 ●えんぶり一般公開

 市庁前市民広場 午後1時・午後2時の2回

 常番町・尻内えんぶり組

 ●お庭えんぶり(三八五交通(株)主催)

 更上閣 午後2時〜2時40分程度

 新井田仲町えんぶり組

 ※1人 1,000円(甘酒つき)

 ●かがり火えんぶり

 市庁前市民広場 午後6時、7時、8時のそれぞれ3回

 鳥屋部・十一日町・平内えんぶり組

 ●お庭えんぶり(有料・要予約)

 更上閣 午後6時、8時からの2回

 妙・中居林えんぶり組

 2月20日(水)

 ●えんぶり一般公開

 市庁前市民広場 午後1時・午後2時の2回

 櫛引上・上組町えんぶり組

 ●お庭えんぶり(三八五交通(株)主催)

 更上閣 午後2時〜2時40分程度

 東十日市えんぶり組

 ※1人 1,000円(甘酒つき)

 ●かがり火えんぶり

 市庁前市民広場 午後6時、7時、8時のそれぞれ3回

 荒谷・日計・妙えんぶり組

 ●お庭えんぶり(有料・要予約)

 更上閣 午後6時、8時からの2回

 塩町・石堂えんぶり組

 2月21日(木)

 ●お庭えんぶり(有料・要予約)

 更上閣 午後6時、8時からの2回

 売市・大久保えんぶり組

 2月22日(金)

 ●お庭えんぶり(有料・要予約)

 更上閣 午後6時、8時からの2回

 小中野・横町えんぶり組

これらの日程は各サイトや新聞などで調べたものなので、もしかしたら時間等が変更になってるかもしれませんが・・・その際はどうぞご了承くださいね。

■ 八鶴工場での門付け

 

■寒空の下、更上閣で見るお庭えんぶり

東十日市えんぶり組の烏帽子は、他の組に比べて少々赤味がかってますねぇ。

 

■ 三八五交通(株)主催で開かれたお昼のお庭えんぶりの様子です。

3人の太夫さんが同時に烏帽子の前髪を靡かせる姿がイイですね。

   

あ、さて♪ あ、さて♪ あ、さてさてさてさて♪ さては南京玉すだれ♪

扇子の柄をあしらった衣装を身に纏い、祝福芸の1つである玉すだれを披露してくださいました。

玉すだれも、金切輪と同じように限られたえんぶり組でしか見る事が出来ません。

 

東十日市えんぶり組の恵比寿舞は、大人の方がやっていらっしゃるんですね。

それにしても、この方は恵比寿様にピッタリだなぁ!

笑った顔が如何にも恵比寿様って感じで、はまり役だなと心から思いました。

 

■ 礼儀に始まり、礼儀に終わる

八戸市中心街での一斉摺りを終えた後、最後に必ず行かなければならない場所があります。

それは、八戸市公会堂の隣にある三八城神社。

行きは新羅神社から始まって、帰りは三八城神社で終わるんですね〜。今まで知りませんでした。

 

長者山で受付をした順番にえんぶり組が訪れ、三八城神社神殿前で整列し、参拝していきます。

ここで、各えんぶり組は新羅神社で渡された番号札を返し、取締組の6組は太夫さんが腰に差していた刀をきちんと返すことになっています。

 

おわっ! 空木(うつぎ)の花が付いてる烏帽子を被った、石堂えんぶり組の藤九郎さんだ!

去年は赤い空木の花を付けていたような気がするけど、何で今年は白い空木の花になったんだろう?

(昔つけていた白い空木の花を、今年復活させたとか聞いたけ)

 

最後に三八城神社へ参拝した組は、長者まつりんぐ広場で優美な摺りを見せてくれた中居林えんぶり組でした。

これでようやく、一斉摺りの日程は全て終了した事となります。

 

34のえんぶり組が奉納摺りを全て終えたため、神社から宮司さんが出てきました。

 

■ 八戸市中心街にて一斉摺り

賣市えんぶり組が取締組である事を示す旗が、風を受けて揺れています。

(取締組=糠塚えんぶり組、内丸えんぶり組、十一日町えんぶり組、横町えんぶり組、中居林えんぶり組、賣市えんぶり組)

 

途中、各えんぶり組が足を止めて参拝代わり(?)にジャンギを鳴らす場所があります。

それは、八戸市廿六日町に鎮座している 神明様 こと 神明宮。

神様へ失礼のないように、きちんと整列をして境内に向かって深々と頭を下げます。

 

各えんぶり組が所定の位置についた後で、いよいよ一斉摺りが行われます。

 

どうさいえんぶりの中でも特に激しい動作をする大久保えんぶり組の太夫さんは、摺る前にちゃんと準備運動を行っているんですよ。

 

これは金輪切と呼ばれているもので、松の舞やえんこえんこと同じように祝福芸の1つなのだそうです。

恵比寿舞や大黒舞などといった祝福芸とは違い、金輪切は特定のえんぶり組でしか受け継がれていないようです。

多分、禁止令などで廃れていった芸の1つなんじゃないでしょうか?

 

恵比寿舞はどのえんぶり組でもお馴染みですね。

鯛を釣るまでの動作などが面白く、観光客の目を釘付けにしてしまいます。

 

せっかく同じ場所で一斉摺りが行われているのだから・・・ということで、他のえんぶり組にもお邪魔してみることにしました。

六日町の通りでは、塩町えんぶり組が弾むように摺っていました。

 

ありゃ、剣吉えんぶり組はもう摺り終わっちゃったのかな?

それにしても、このえんぶり組はいつも和やかな雰囲気に包まれていますよねぇ。

剣吉の太夫は学生さんのようですし、きっと普段から仲が良いのでしょう。

 

あっ、長者まつりんぐ広場で藤九郎の烏帽子を被せてくれた尻内えんぶり組の親方さんだ!

ここでも観光客のお子さんに「持ってみるが?重いぞ?」と言ってジャンギを持たせてあげていました。

ふむふむ、尻内えんぶり組は気前の良い方が多いんだな〜。観客の立場からすれば、大変ありがたい存在です。

 

 

■ つかの間のひととき

一斉摺りが始まるまでの間、各えんぶり組の皆さんは今年から長者まつりんぐ広場にて待機することとなりました。

 

お囃子が鳴り始めると、中居林えんぶり組の周りに自然と人が集まってきました。

どうさいえんぶりの摺り方や動作は多くの組を見てきているので何となくわかってきたんですが、

ながえんぶりの摺り方は未だにわからない部分が多いんですよね〜。。。

動きの激しいどうさいえんぶりが撮りにくそうですが、実はながえんぶりの方が撮影しにくかったりします。

 

こちらは中居林えんぶり組の藤九郎の烏帽子でございます。

 

■ しばれる朝に奉納摺り

ながえんぶりの藤九郎さんが被る烏帽子には、椿の花か空木(うつぎ)の花をかたどったものがつけられているんですよ。

 

ジャンギを両手に持ち、神社に参拝する日計えんぶり組の太夫さん達。

 

無事に参拝を終えた太夫さん達は、神社に摺りを奉納します。

   

扇子で空気を切るかのような機敏な動作が、観客の目を引きます。

どの組の太夫さんもジャンギは持っていますが、扇子はごく限られた組しか持っていないようですよ。

 

■ 中心街での一斉摺りが終わり…

 ただいま、三八城神社に各えんぶり組がお参りに来ています。

 

■ 深々と冷え込む、長者山新羅神社にて・・・

2月17日、午前零時。

吐いた息が凍りつきそうな寒さの中で、

番号札を受け取りに来たえんぶり組が新羅神社の鳥居前で摺っている事を皆さんはご存知でしょうか?

今年の一番札は、階上町の田代えんぶり組が受け取っておりました。

八戸えんぶりは奉納摺りが一番最初だと思っておりましたが、この時間帯に行われる摺りもあるという事を人づてに聞きまして。

前日の深夜から長者山新羅神社に足を運び、その様子をこの目でしかと見て参りました。

 

二番札を受け取った大久保えんぶり組の力強い動作を撮影しながら、どうさいえんぶりの摺りにしばしの間、引き込まれておりました。。。

朝の奉納摺りまで待ち切れないと言った様子で摺る姿には、えんぶりに対する熱い想いが溢れているな、というように感じます

 

一通り摺りを終えた後で、白い息を吐き出す太夫さん達。

それにしても、この時期の八戸市は本当に冷え込みますね。

深夜という時間帯でもあったためか、寒さが肌に刺さるような感じでした。

 

■ 春を呼び起こせ、南部地方えんぶり

南部芸能伝承館 で行われた2回目の一斉摺りの様子を紹介していきたいと思います。

  

大黒舞は踊りも勿論そうですが、大黒様に扮した衣装や持ち物など、その全てがおめでたいもののように感じてしまいます。

 

あ、真新しい烏帽子の太夫さんがここにもいました。風に吹かれて前髪が靡いている姿、実にかっこいいですねぇ。

 

この写真は、稲刈りをしていて腰を痛めた右側の子を左側の子が「もう少しだすけ頑張るべや〜」と励ましているシーンです。八戸えんぶりではあまり見たこと のない祝福芸だったけど、もしかして南部地方えんぶりならではの祝福芸だったんでしょうか? うーん、えんぶりは奥が深いなぁ・・

 

ややっ、こちらも八戸えんぶりでは見かけない祝福芸ですなぁ。東通村の餅つき踊りをする女性の方と格好が似ていましたけど、この子達は田植えをする娘っことして祝福芸を披露しておりました。

 

鯛を釣ろうと思ったら、長靴ならぬ爪子(つまご)が釣れちゃったよ!?Σ(゚д゚lll) 恵比寿舞いのユーモラスな演出で、観客の皆さんは笑いの渦に包まれておりました。

 

八戸えんぶりを追いかけていると、「どうさいえんぶりとながえんぶり、どっちが好き?」なぁ〜んていう質問をされたりしますが・・・私個人としては摺りの激しいどうさいえんぶりが好きなんです。太夫さん達の摺りを見ると「ああ、今年もこの時期がやってきたなぁ」ってしみじみしちゃいます。

 

「奉納摺り」とは、毎年2月17日の早朝に各えんぶり組が集合して、長者山の新羅神社に摺りを納めるという一連の行いを指しています。実は私、今まで奉納摺りを見たことが無かったんですが・・・今年はどうにか早起きに成功し、初めて見に行くことが出来ました!

各えんぶり組が奉納摺りを済ませている間、境内では集まってくれたお客さんのために午前8時から撮影会を行います。

朝早い時間だというのに、たくさんのお客さんがいたのでびっくりしました!! 

   

祝福芸は小さい子供達に任せるえんぶり組が多い中で、今やこういう年配の方がやられる祝福芸は大変貴重になったと思います。もちろん、子供達が披露する “えんこえんこ”や“恵比寿舞い”も可愛くて良いのですが、長年練習を積んできた祝福芸を見るのもまた良いものです。

 

えんぶり行列・一斉摺りは、2月17日 午前10時〜 の1回のみしか行われないという貴重なイベント。八戸市中心街にて、えんぶりに参加する全ての組が行列を成して摺りを見せてくれるので、これを見逃すと損失感がでかいですよ。

えんぶりには どうさいえんぶり と ながえんぶり の2種類があると前にも書きましたが、一斉摺りではその2つを一気に見ることが出来ます。おまけに、えんぶり組の子供達が披露する祝福芸も一緒に見られるんですねぇ。写真は、子供達が祝福芸の一つである大黒舞を披露している様子です。ほら、よく見ると打出の小槌を持って踊っているでしょ?

 

この写真も、祝福芸の一つであるえびす舞を披露している様子です。

 えびす舞を簡単に説明すると・・・えびすに扮した子供達が、踊りを交えながら釣竿を持って鯛を釣るという動作の一連ですね。もちろん、釣竿や鯛は本物 じゃありませんよ?w だけどこのえびす舞、鯛を釣るまでの過程が面白い&演じる子供達が可愛い ので、観光客に結構人気があるんです。

 

■ 南部地方えんぶり 初日の様子を紹介していきたいと思います。

 奉納摺りを終えた11組のえんぶり組は、行列を成して上町から一斉摺り会場の南部芸能伝承館まで移動していきます。

 

南部地方えんぶりではながえんぶりを摺る組がないらしく、動きの激しいどうさいえんぶりが披露されていました。

烏帽子が振り落とされるんじゃないかってくらい、本当に激しく摺るんですよ。

   

この写真は、2007年の12月1日に行われた 新幹線はやて開業5周年イベント にて披露された日計えんぶり組の摺りを撮ったものでございます。

 


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