福岡県 太宰府市、大野城市、宇美町 四王寺山と大野城
Shiojisan and Onojo, Dazaifu city/Oonojo city/Umi town, Fukuoka
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Apr.2,2015 田中康平
福岡県 大野城市 大野城跡
福岡県大野城市・宇美町・太宰府市
国指定特別史跡 特別指定年月日:1953.03.31
標高400mの四王寺山山頂部の広い領域に数多くの古代城遺跡が残されている。
白村江の戦いに敗れた後、唐・新羅からの侵攻に備えて築かれた山城の一つで水城、基肄城とともに大宰府政庁を中心とした防衛ラインを形成していた。大野城は日本書紀によれば亡命した百済の高官2名の指導によって造られたとされる。
四王寺山山頂と山腹に土塁が築かれ、また70棟あまりの建物の痕跡が残されている(現地説明板に基づく)。
桜の季節には県内の桜の名所の一つともなっている。
国指定文化財等データベース解説文:従来の指定地は土壘の一部、石垣・礎石のある建物跡、門跡の部分だけであり、大野城全体としてはいわば「点」の指定にとどまっていた。しかし、周知のように大野城は椽(基肄)城(未指定)、水城(指定)とともに特別史跡太宰府に密接する一括的な歴史的意義を有し、しかも最近の調査によって新しく数回の建物跡の礎石が発見されたばかりでなく、従来未確認であった頂上部尾根線の土壘が全域にわたって確認され、大野城の朝鮮山城としての偉容が全体的に把握できる見通しがついたので、大野城関係諸遺構および四王寺跡関係諸遺構を含む大野山(四王寺山)全体を保存するという基本方針に立った上で、とりあえず大野町・宇美町にかかる大野山全域を指定することになったものである。
百間石垣
八ツ波礎石群
焼米ヶ原
岩屋城跡
四王寺山散策(約16分)
【撮影日】2013(H25)年3月26日
【撮影地】福岡県太宰府市、大野城市、宇美町
【説明】
いつもは宝満山ばかりに足を向けており、横目に眺める山が四王寺山でした。古代山城の大野城を知るため、四王寺山の三十三石仏を調査されている四王寺山勉強会の方たちの案内ルート調査に同行させてもらいました。
今回は、大野城について報告します。
P01 宝満山から四王寺山
宝満山5合目からの風景。四王寺山の向こうに博多湾。
P02 大野城説明版
P03 大野城の土塁と城門概念図
土塁の総延長は約8Km。南北は二重構造になっている。
谷あいには城門がもうけられていた。現在9箇所が確認されている。
①坂本口城門
②水城口城門
③宇美口城門
④北石垣城門
⑤小石垣城門
⑥原口城門
⑦太宰府口城門
⑧観世音寺口城門
⑨クロガネ岩城門(現在発掘調査中)
P04 大石垣
谷あいを石塁でふさいでいる。水門はない。
P05 水城口城門の門礎
左右の門礎(もんそ 石を加工した城門の礎石)が残っている。
P06 水城口城門の左側門礎
扉の軸穴と溝が彫りこまれている。
P07 クロガネ岩城門の発掘現場
第9番目となる新発見の城門跡。発掘作業が終了しだい埋め戻される。
P08 百間石垣
太宰府から宇美への車道が谷あいを通っている。
この谷あいをふさぐ大規模な石垣。
P09 百間石垣説明版
大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲まれているが、
谷間は石を積み上げたダムのような石塁になっている。
「百間石垣」は四王寺川の部分を石塁としそれに続く山腹部を石垣
とした城壁で長さが180mほどあることから名づけられた。
P10 大野城説明版 石垣の解体修理
P11 百間石垣 石垣の説明
P12 小石垣説明版
小石垣は城の東北部にあり、二重土塁の内側の石塁である。
P13 小石垣の東側石垣
P14 小石垣城門の門礎
この門礎は平成19年に小石垣の前面を流れる四王寺川の支流から
発見されました。江戸時代の旧跡図には門礎が在ったと記載されて
いたが現在まで確認されず、疑問視されていたものです。
P15 北石垣城門跡
鉄製軸受金具発見場所。現在は埋め戻されている。
P16 出土状況(九博「大野城と四王寺」展資料より)
P17 鉄製軸受金具( 同上 )
P18 熊本)古代山城鞠智(きくち)城米倉復元建物写真
山上には主城原(しゅじょうばる)礎石群や村上礎石群など多くの
礎石群が存在する。こここにはこの写真のような建物があったと
考えられています。
P19 12番札所石仏
江戸時代後期に博多の町で大火事が相次ぎ天然痘も流行した
ことから、観音のご利益にすがろうと1800年ごろ、
近畿地方の札所巡り「西国三十三ヶ所」を模し、博多や
太宰府の人々が協力して三十三石仏を安置しました。
この12番札所の石仏は三十三石仏の中でも最も優美な石仏です。
P20 太宰府口城門
P21 太宰府口城門
P22 太宰府口城門説明板 全体図
P23 太宰府口城門説明板 太宰府口城門とは
P24 太宰府口城門説明板 城門の変遷
P25 太宰府口城門説明板 城門の全体図
P26 太宰府口城門説明板 城門の創造図
P27 太宰府口城門説明板 発掘調査の全景
P28 太宰府口城門説明板 発掘品
P29 岩屋城跡石碑
P30 岩屋城跡からの眺め 南に
天拝山・基山・大宰府政庁跡
P31 高橋紹運墓所
1586年島津軍は九州制覇のため、5万の兵力を
持って北上し、岩屋城(四王寺山)を包囲した。
高橋紹運は徹底的に抗戦し、紹運以下763名が討死する。
紹運享年39才。このとき立花城で戦った息子が立花宗茂である。
P32 大宰府政庁跡石碑
大宰府政庁跡の後ろにたたずむ四王寺山は古代、戦国時代、江戸時代と
それぞれの時代の遺跡をかかえ、それぞれの時代を知ればしるほど
興味がわいてくる山です。
Dec.2008 瀧山幸伸 source movie
岩尾城跡
高橋紹運の墓
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