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岐阜県垂井町 垂井宿

Tarui Shuku post town ,Tarui town,Gifu

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Jan 2018 柚原君子

中山道第57 垂井宿

概要

垂井宿のある垂井町は美濃国不破郡垂井村(現・岐阜県不破郡垂井町)にあり、岐阜県の南西部と濃尾平野の北西端で山と川に囲まれた比較的狭い扇状地に位置しています。古来より近畿圏と美濃以北が交わる交通路として重要な場所でした。

古代の律令制度では日本全国を60あまりの国に分けて、それぞれ地方に、現在の「役所」にあたる「国府」が置かれましたが、垂井は当時重要な関所であった関ヶ原の不破関や大垣市の美濃国分寺に近いこと、美濃国一宮の南宮神社があることなどから、美濃国の国府が垂井町府中にあったのではないか、美濃国はこの地に七堂伽藍をもつ壮大な寺院を建てたのではないかと長年推定されてきたそうです。

1991(平成3)年より発掘調査が行われ国府の存在が証明。「美濃国分寺跡」として広大な敷地は現在は国指定史跡となっています(宿の区切りを大体は一里塚としていますが、歩いて記録したその日の距離で区切ることもあり、また中山道より外れて、あまりにも遠い位置にある史蹟には立ち寄れないこともあり、今回の美濃国の国府跡に関しては、前宿の赤坂宿にて通過しています)。

江戸時代になった垂井宿は中山道と東海道宮宿に通じる脇往還である美濃路の起点・追分(大垣→墨俣→起→荻原→稲葉→清洲→名古屋→東海道宮宿に至る路)であることに変わりはなく、交通の要所となって繁栄します。

宿場の長さは、相川橋南にある「東見付」から前川東の「西見付」まで764m。1843(天保14)年の中山道宿村大概帳によると総家数315軒、人口1179人。本陣1、脇本陣1。問屋場は3ヵ所で、伝馬役50人50疋の人足と馬の手配が行われ、旅籠は45軒。

南宮大社の石鳥居のもとでは毎月5と9の日に六斎市が開かれて、大変な賑わいをみせた門前町でもあります。

物資が集散する賑わいの中で、中山道ではこの宿のみが「大八車」を許可されていたそうです。また宿場の北を流れる相川は、川幅約109mの暴れ川で、橋の流失が多く、特別な通行があるとき以外は東海道の大井川のように人足渡しを行っていたという二つの大きな特徴があります。

垂井の地名由来は宿の中程にある玉泉寺の前から清水が湧き出ることからの命名です。古くから和歌にも詠まれ、現在でも岐阜県名水50選にも選ばれている湧き水です。

中山道の宿場は鉄道の時代になってからの駅の設置が、宿にとって近かったのか遠かったのかによってその後の繁栄や衰退につながっていきます。垂井宿は明治13年には東海道本線の垂井駅が開業して繁栄の速度に乗ることになり、お茶や生糸などを扱う商社もできて、人と物資の集散地として時代に合った発展をしていきます。

さらに明治新政府の版籍奉還以後は行政区分の合併が進んでいき、多様な変化を繰り返していきますが、1954(昭和29)年になって垂井宿周辺の岩手村、府中村、宮代村、表佐村、荒崎村などが合併されて現在の垂井町となっています。

合併50周年を過ぎた垂井町は洋ラン、瓦などは岐阜県での生産量は一位となっています。

(参考文献:木曽川文庫オンライン)

1、追分、東見附、相川、垂井町駅

前宿である「赤坂宿」を青野ヶ原一里塚で区切りを付けた時間が16時。冬の日暮れは早くもう薄暗いので今夜の宿泊地である岐阜駅に戻ります。赤い鳥居の駒引き稲荷神社、続いて駒引き交差点と過ぎて平尾御坊道道標があります。平尾御坊とは願證寺とのこと。

「追分東」の交差点を過ぎて「追分橋」に。脇に垂井町指定史蹟になっている石の道標。石の表には「是より右東海道大垣みち、左木曽街道たにぐみみち 」と刻まれています。1709(宝永6)年「垂井宿」の「問屋、奥山文左衛門」が立てた、と教育委員会の説明板があります。ここが美濃路追分ということですね。

相川。幅広い大きな川です。近隣の農民が川越え人足として働き、増水の高さによって「膝下切り水」「腰切り水」「乳下水」などに分けられて賃金が決められていたそうです。ただし、朝鮮通信使や姫道中などの時は木の橋を作ったとあります。

橋を渡ると東の見附。垂井宿の江戸方の入口となります。見附は宿の有力人物が階級のある人物の宿の往来で送迎に立つ場所です。また、非常事態が起きたときに閉じて、宿内の安全を守る場所でもあります。

暮れてきましたので岐阜のホテルに戻ります。今宵満月!

                                    

2、美濃和紙発祥の地→旅籠「亀丸屋」

快晴の中、岐阜駅の織田信長の金ぴかの像に送られて再び垂井駅に行きます。昨日、夕闇の中で見た相川に戻り、ここから出発です。橋を渡って右折。道の正面の遠くに見えるのが旅籠で、そこが枡形のようです。左右の家にはふくしま屋、こまつ屋、長浜屋・丹波屋・若屋・めしうりはたごや・ほうきあきないなどと、業種も共に書かれた看板が掛かっていて、往時を想像しながら歩くことができます。

美濃は和紙が特産ですが美濃和紙発祥の地(一説には、という但し書きがついています)とありますので細道に入ってみます。「紙屋塚」という和紙を作る工房の跡ということです。府中にあった国府に和紙を納めていたとあります。

表通りに戻り、大垣共立銀行の看板の前が枡形。そして左側に「亀丸屋」。1777(安永6)年、浪花講、文明講の指定旅館。「亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、 二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残している」とあります。建物は江戸初期の1777(安永6)年建設。1891(明治24)年の濃尾地震にも耐えた建物。下級武士や商人も宿泊できたが、本陣、脇本陣に次ぐ格式もあった旅籠で本陣、脇本陣がふさがっているときは大名も宿泊したそうです。

主屋2階の一番奥まった部屋には隠し階段もあり、その横の窓は鉄砲を打つための窓との説明。案内板には営業中との記述も見られますが、女将さんが90歳近い高齢のはずで現在も営業されているかは不明です。なかなか威勢の良い女将さんで、文化財指定を断ったこと、テレビの取材を断ったことなどがご近所の方との立ち話で漏れ聞こえてきました。

建物は歴史を感じさせるような圧迫感はなくむしろ「静かな気楽な旅館 亀丸屋」と現在下げられている看板に愛嬌があり、気っぷの良い女将さんの姿が想像されます。

この辺りが宿の中心地。斜め向かい側に格子戸のある白いカーテンの家が問屋場(跡?)。

鯉のぼりのマンホールが可愛いです。相川と川縁の桜とそこに泳ぐ鯉のぼり。縁取りのある豪華なマンホールです。旅先で出合うマンホールもまたその地域を表していておもしろいものです。

                                                           

3、本陣→垂井の泉→石の鳥居

安田歯科医院が本陣のあったところ。跡碑があるだけで遺構はなし。本陣は酒造業も営んでいた栗田家が務め、建坪は178坪もあったそうですが、1780(安政9)年に焼失してその後に建てられた建物は小学校に使われていた、と説明板にあります。

その先に『不破』との表札を掲げた家の庭に、『本陣の屋敷の南西方向に御膳水の井戸があるとの図があり、これではなかろうか』、と書かれた札が立っています。不破さんの表札。由緒あるお宅でしょうか(不破群とか代々山城の南宮神社社家のひとつの不破氏とか……)。

いよいよ垂井の地名になった湧き水に到着です。

説明板です。

『垂井の泉は、垂井の地名の起源ともされ、その初見 は11世紀に美濃国司を務めた藤原隆経 の「昔見した る井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」という詠歌が知られる。 また、『続日本紀 』天平12年(740)12月条に見える聖武天皇が行幸した「曳常泉 」もこの場所であると考えられている。 元禄4年(1691 )には垂井に滞在した松尾芭蕉が 「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句を残しており、安永4年(1775 )に当地の儒学者、櫟原?斎 が芭蕉の句碑を建立した。

泉の水が湧き出る玉垣で囲われた井口の横には、か つて樹齢800年、高さ約25m、幹まわり約8.2mの ケヤキ の大木があり、長年、垂井のシンボルとして町 民に広く親しまれ、町の木もこの木にちなんで「けや き」とされている。 雄大は姿を誇ってきた大ケヤキも、昭和50年代より 樹勢の衰えが見え始めたため、垂井町では専門家の指 導を受け、地元保存団体と共に保存に努めてきたが、 平成27年 9月11日、静かにその長い一生を終えた。 』

見たところ確かに大きな欅はありません。平成27年に枯れたとあります。泉はとてもきれいでした。

垂井の泉から中山道に戻ったところにある石の鳥居は、南宮大社へ続く参道となります。この石の鳥居は、1642(寛永19)年将軍徳川家光が社殿を再建した際、石屋権兵衛が高さ715cmの明神型石鳥居を約400両の金で造ったとありますので、個人的な建造物だったのでしょうか。

この付近は、六斎市といって月に6回5,9の日に市が立ち、近郷の人々で賑わっていた場所です。ちなみに南宮大社はこの先の南宮山の山麓にあり、「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになった、とあります。鉱山の神である金山彦命が祭神。全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めているそうです。大鳥居を始めとする重要文化財もたくさんある美濃国一の大社。式年遷宮は51年毎。朱色の綺麗な大社だそうです。いつか訪れてみたいです。

                                             

4、有形文化財小林家住宅→本龍寺→西の見附

脇本陣跡はちょっと見逃してしまいましたが、見えてきたお休み処は「旧旅籠の長浜屋」。壊される寸前に町の歴史と文化を守る会が管理。命拾いした古い商家です。

斜め向かいに小林家住宅。以下のような教育委員会の立て札があります。

『小林家住宅主家 国登録有形文化財 平成二十五年十二月二十四日登録 当家は、油屋を営んでいた宇吉家 から小林家が明治十四年(1881) に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」 の屋号で旅籠を学んできた建物です。 建築された年代ははっきりしません が、幕末頃には建てられていたもの と考えられます。切妻造瓦葺 つし2 階建平入りの建物で、2階には両側 面に袖卯建 を設け、庇下には防火用 の濡れ筵掛けが残っています。 外観、室内とも幕末の豊かな商家 に相応しい品格を持っており、防火 対策が随所に残された貴重な建物です。 平成二十六年三月 垂井町教育委員会』

古い商家がたくさん残っている垂井宿。地元の努力が感じられます。

向かい側のお寺は「東光山 本龍寺」。時を知らせる太鼓楼を持つ立派なお寺です。どのような太鼓を打っていたのでしょうか。ちなみに鐘楼はつり鐘を鳴らすところです。山門と書院の玄関は脇本陣から移築されたもの。門前には高札場も立ったそうです。

本龍寺の先の交差点を過ぎた左側に公開はされていませんが、土蔵造りの立派な商家があります。古井という表札が出ています。芥川賞作家の古井由吉氏の縁戚だそうです。

中山道時代にどのような商いをしていたのかの看板が軒先に下げられた商家が続く垂井宿も、西の見附で終わります。駅に戻ります。垂井町は軍師竹中半兵衛の陣屋跡が現存しているそうで、駅前に立派な像がありました。

                                       


June 10 ,2016 瀧山幸伸 source movie

西から東へ

             

                     

垂井の水

                                  

    

美濃街道松並木

    


June 2013 中山辰夫

岐阜県不破郡垂井町

所在

 

垂井宿は江戸から中山道57番目、約440㎞離れている。宿場の長さは相川橋南詰の東の目付から西の目付まで約766mである。

垂井宿は江戸時代以前から宿駅として機能していたし集落も成立していた。垂井駅は中山道の宿駅であり、脇往還の美濃路の起点でもあったため西美濃の交通の要衝であった。中世には鎌倉街道の宿駅として栄えていた歴史があり、江戸時代も交通量も多かった。

宿場は美濃路の追分を控え、南宮大社の門前町として賑わった。石鳥居付近では六斎市が開かれ近郷の大勢の人々が集まった。

垂井宿には問屋が3ケ所あって人足・馬の手配をした。宿泊施設は、本陣、脇本陣、一般用の旅籠屋もあった。

宿場は、西町・中町・東町の三町に分かれ南宮大社の大鳥居を中心に街道に沿って東西に延びていた。

当時中山道を旅する人は浪速講・関東講等の定宿を利用した。

江戸時代、五街道での車の利用は禁止であったが、1849(嘉永2)年、垂井宿において初めて車の利用が許され小型の大八車が走った。

「中山道宿村大概帳」にみる美濃十六宿「引用:街道解説四百年 中山道」 

 

中町の鳥居付近(木曽路名所図鑑)・垂井宿(東海木曽両道道中懐宝図鑑)・木曽街道垂井宿(国芳画)

    

宿場の面影は殆ど姿を消したが、垂井の名前の由来ともなった垂井の泉、専精寺、北は山車倉辺りまでが今でも宿場らしくまとまっており街道沿いは枡状をした宿内に連続した町家が残り往時が偲べる。

今回は飛び飛びであるが、駆け足の街中散策である。 【お断り:行けなかった場所は配付パンフレットの写真を掲載した】

■■垂井宿散策

■町地図

  

■中山道ミニ博物館

 

県から「まちかど博物館」に第一号に指定され、旅用具や史料などが展示。保存されている。見学は事前予約が必要。

中山道研究家の太田三郎氏が自宅の一部を提供されて平成3年に開館。40年かけて集められた資料が並ぶ。

■タルイピアセンター

 

図書館、歴史民俗資料館、歴史文献センタ—で構成された文化施設。

■■いよいよ散策の開始である。スタートはJR垂井駅北口

■追分道標

美濃路の60本ほどの松並木が残っている美濃路。追分は中山道と美濃路の分岐点である。

    

■相川と東見付跡

相川橋上下、伊吹山が小さく見える。

   

川幅約100mの相川は昔から暴れ川で架橋が困難,瀬と淵がいつも変わり危険なため、江戸初期から特別な姫君や朝鮮通信使の通行以外は人足渡しであった。1723(享保8)年の渡し賃は「胸まで45文、腰まで24分」で、増水になれば川留となった。

資料:朝鮮通信使行列「引用:中山道」

  

見付

     

見付は宿場の出入口で、大名等の行列を名主らが迎えたり、非常事態発生の際は閉鎖して通行できなくした。

姫様の旅

中山道は、江戸へ輿入れする姫君の通行が多く、最も有名なのが14代将軍・徳川家茂へ嫁いだ和宮で、他にも多かった。

東海道と中山道を結ぶ美濃路(東海道宮宿〜中山道垂井宿)は、大名や姫君以外にも大規模な通行に利用された。

資料:和宮親子内親王降嫁治の資料「引用:中山道」

    

相川のサクラと鯉のぼり「現在」

  

相川堤沿いには約200本のソメイヨシノが並ぶ。3月下旬から5雄月上旬までの間、400mの川長さにこいのぼりが並ぶ、雪を頂いた伊吹山をバックに泳ぐ姿は壮観で、風物詩となっている。

■東町用心井戸

 

垂井宿は、度々大火に襲われ渇水期に防火用水を確保する必要があった。西・中・東街にそれぞれ一か所、要人井戸をつくった。

ここは東町の井戸で石組、深さとも立派な井戸日照りが続いても枯れない井戸である。

■紙屋塚

   

ここは古代の国府近くに位置し、美嚢紙の発祥地ともいわれ、紙屋の守護神「紙屋明神」が祀られている。奈良の正倉院にはこの当時の美濃紙が残っている。

■愛宕神社と東町山倉

  

垂井町は1755(宝暦5)年の大火を初めとして、度々大火があった。寛政年間(1789〜1800年)には西・中・東町内にそれぞれ防火の神≪京都の愛宕神社の愛宕権現)を懇請して祀った。これは東町の愛宕神社である。

   

愛宕神社の奥に建つ。毎年5月2日〜4日に行われる「垂井曳山祭の山車収納庫

■旅館亀丸屋

    

鶯張りの廊下もある。2階からは宿場の様子がよく見えるが、外からは部屋の内部が見えにくくなっている。大屋根の鬼が龜を加えた鬼瓦には「1780(安永9)年8月吉日」「瓦屋 川村惣吉、瓦師 今村庄助 造之」と記されている。

■枡形の道路

 

宿の前にある。

■問屋場 金岩家

  

この金岩家は垂井宿の問屋・庄屋を勤めた。問屋場には年寄・帳付・馬指・人足指等がいて、荷物の運搬や相川の人足渡しの手配もした。

大通行の時には常備の50人50疋の人馬では足らず、付近の助郷村の人馬を集めて運送した。

■丹波屋 松井家

    

1836(天保7)年浪速講道中記に「たんばや幸助」と記されている。現在の建物は1912(大正元)年に建てられたもの。

玄関の上にはWATERと英語で刻まれている。平成19年に外観は宿場の風情を残し、家屋内部は現代的に再生された。

■本陣跡

安田歯科付近にあった垂井宿の栗田本陣は、建坪178坪で門構、玄関、上段の間を備える広大な建物だった。

粟田家は酒造業も営んでいた。本陣跡は明治維新になって学習義校(小学校)の校舎になり、その後役場としても使われた。

  

垂井宿本陣徳利「引用:中山道」

 

■途中見かけた邸宅

思わずカメラが追いかけた。

         

■石鳥居

国重要文化財 1642(寛永19)年造営 石造明神鳥居

石鳥居は南宮参道の入口にある。徳川家光の寄進による。花崗岩を使った明神鳥居型と呼ばれる様式である。

地上から最上部までの高さは7.15m、柱の周りは2.27mある。柱の半分は地下に埋まっているようで地震にも耐える賢固な造りとされる。

鳥居の中央部に社格を表す「正一位中山金山彦大神」の額が掲げてある。両側には一対の石灯籠と道標がある。

     

■古い民家と町並み、礒野邸

旧家は石鳥居から北方向に残る。 土蔵の鎧張りに風情がのこっている。礒野家と記されたものがあった。もともと浅井長政の家臣の中に礒野という人がおられ、その後転身し、財をなしたとも聞くが確認取れず。

     

■脇本陣跡

 

脇本陣跡にはふれあいプラザ夢の屋がオープンしている。裏の庭に脇本陣にあった石灯籠が残っている。

金岩家脇本陣は建坪135坪、玄関、門構があった。玄関・門は明治になって本龍寺に移された。

■旅籠 長浜屋

         

長浜屋は築後200年以上たっている。旅人の減少で明治22年に旅籠屋を止めて酒屋を始め、平成10年頃まで続けた。

その後は町並み保存と活用に取り組む「垂井宿の歴史と文化を守る会」の手で再生が行われ一般に公開されている。

■油屋宇吉家跡・旅館亀屋(現在:小林家)

      

1817(文化末)年頃建てられた。

宇吉は多くの人を雇い手広く油商を営んでいた。信仰心が厚く、南宮大社前の道標などを寄進し、社会奉仕に努めた。

明治初期に小林家が譲り受け,亀屋という旅籠屋として昭和・戦後まで営業していた。土蔵造りに格子を入れ、防火用の濡れむしろ掛けの釘もあるなど商家の面影を残している。

■付近の中山道沿いの商家や元商家の案内 江戸時代の商家が並ぶ。

         

街並み保存活動が続いている。

■高札場跡

 

本龍寺山門前に横幅約4m、横幅約1.5mの高札場があり、「親兄弟を大切に、キリシタン禁止、人馬賃」など6枚の制札を掲げていた。

■八重垣神社

   

1353(文和2)年、後光厳天皇が祇園社の祭神を迎えて祈願された勅願の宮で、明治の初め八重垣神社と改称した。

垂井の氏神として崇拝されてきた。

曳山倉

   

垂井へ避難されていた後光厳天皇を慰めることから始まったとされる。舞台付の山を作った時期は寛永時代ごろとされる。

5月の例大祭では子供歌舞伎の神前奉芸が行われ、祭礼には京都八坂神社の宮司が参られる。

■本龍寺

不破郡垂井町1234

     

1634(寛永11)年、3代将軍家光が上洛途中朝食をとられた。芭蕉は1691(元禄4)年、この寺の住職規外を訪ね冬籠りした。1809(文化6)年住職規外と白寿坊がここに「作り木塚」をつくり、1855(安政2)化月坊が住職規外とで時雨庵を建てた。1878(明治11)年、明治天皇の北陸東海両道御巡幸の折り、この寺で御小休された。

山門

     

1816(文化13)年頃より西町にあった建坪135坪の金岩脇本陣門及び玄関を明治初期移築した。

本堂・他

       

時雨庵

化月坊が芭蕉ゆかりのこの寺に1855(安政2)年、時雨庵を建立した。

 

作り木塚と芭蕉翁木像

俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号、規外)と交友が深く、1691(元禄4)年、冬当寺にて冬籠りした。

この間に次の句を詠んでいる。

句に詠まれた作り木塚と、当寺に伝わる芭蕉の木像が収められている。

  

■長屋氏屋敷跡

    

鎌倉中期頃から戦国期にかけて、長嶋氏と称する豪族がいた。ここはその屋敷跡で、大きなツバキ(町指定天然記念物)が残っている。

長屋氏宅は、南北朝の争乱で京を追われた後光厳天皇の垂井行在と足利尊氏の垂井止宿に使われたと記録がある。

■西の見付跡

安藤広重の垂井の版画は、ここから西方を見た風景を描いている。

   

■付近の中山道 関ヶ原方面

   

■松島稲荷

    

■一里塚と茶所

1604(慶長9)年徳川家康は旅人のために主要街道に江戸日本橋から一里毎に、五間(約9m)四方の塚を街道の両側につくり頂上に榎を植えさせた。この一里塚は江戸から1112番目で、現在は松が生え、南側だけが完全に残っており、史跡に指定された。

  

茶所は、明治の初め関ヶ原山中にあった秋風庵を現在の場所に移したもので、昭和の初めまでは休憩所として賑わっていた。

 

ここで一旦中山道を、石の鳥居まで戻る。

 

■玉泉寺

 

清水のよこに建つ。1628(寛永5)年、垂井の豪士・吉田作右衛門が両親及び一族の祖先の霊の菩提を弔うために一念発起して建立した。

たまたまこの地より霊水がコンコンと湧き出て止むことがないので寺の名を「臥龍山玉泉寺」と名づけた。

垂井の泉

   

岐阜県の名水50選に選ばれた由緒ある泉。幹周り8mの大ケヤキが見もの。

湧き出る泉は古来から和歌にも詠まれ、「垂井」の地名はここから生まれた。

「東路に名たかき泉三あり 其三つといふは近江国坂田郡醒井泉 美濃国多芸郡養老泉 同国不破郡垂井泉 是なり 其水を試し人のいひけるは養老は醒井にまさり 垂井はまた養老にまさりぬといえり」

■専精寺

   

関ヶ原合戦で活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡といわれる垂井城があったと推定されている。

さらに直進すると南宮大社に至る。

南宮大社

参考資料≪中山道垂井宿、宿場案内書、配布パンフレット、岐阜県の歴史散歩、垂井町史、岐阜県史、他≫

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