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群馬県高崎市

Takasaki,Takasaki City,Gunma

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Aug.7,2024 瀧山幸伸 source movie

三喜卵太郎

高崎市下里見町1358

      

蕎麦 真人

高崎市柴崎町1666-1

    


Dec.2015 柚原君子

高碕宿概要(中山道13番目の宿場)

行程

高碕駅→定家神社→佐野の舟橋跡→常世神社→上信電鉄の新しい駅「佐野のわたし駅」

興禅寺→延養寺→諏訪神社→大信寺→善念寺→高崎城址→現存する町家など、高碕宿の面影→高崎神社→惠徳禅寺→長松寺と子守学校→山田文庫と岡醤油醸造会社→萬日堂→気を取り直して二週間後に再び。君が代橋→草津道標・若宮八幡宮→上豊岡の茶屋本陣

→櫓のある養蚕農家と一里塚

高崎宿概要

高崎宿は古名を『赤坂の荘』と言い、『お江戸見たけりゃ高崎田町♪紺ののれんがひらひらと』と詠われたほどの大賑わいであったそうです。しかし、高崎城の城下町としての堅苦しさもあり、大名をはじめとする旅人は敬遠する宿だったそうで、そのために中山道4番目の大きな宿でありながら、旅籠が少ないばかりか、本陣も脇本陣もありませんでした。高崎宿には休憩場所が無いので、高崎宿の一つ先の板鼻宿との中間の上豊岡に茶屋本陣と称する休憩場所がもうけられていて、中山道を登ってくる皇女和宮や諸大名が休憩をしたという記録が残っています。

城下町である高碕宿。現在ある高崎城の前身は鎌倉時代初期に築かれていて、その頃の呼び名は和田城でした。宿の機能もあり、その名称のままに当時は和田宿と呼ばれていました。

1590(天正18)年、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田氏が滅びて城は落城。同じ年の1590年、徳川家康が関東に移封されてきます。その家臣として井伊直政が上野簔輪城を与えられますが、1598(慶長3)年に廃城になっていた和田城に移り修理して居城として、名を高崎に改めています(※1)。

このときに計画的な城下町としての整備が行われて武家屋敷、町屋、寺院が整えられ、高崎は八万二千石の城下町として機能していきます。

1843(天保14)年の調査によると、人口は3235人、家数は837軒、旅籠は15軒。全体で27の町に分かれて人馬の継ぎ立ても新町、田町、本町と三町で宿役人が選ばれています。地理的には、越後に通じる三国街道や信州街道の分岐点もある街道の大きな要所でもありましたので、物資の集散地・商業の町、市場町としても栄えていきます。鍛冶町(鍛冶屋職人が住んだ)、鞘町(刀の鞘師)、白銀町(金銀細工師)などの職人ごとに区分けされた町の形態があり、現在でもそれらは地名として残っています。

また、江戸時代中期からは高崎絹(養蚕が盛んであったことを示す上州櫓のある大きな農家が今でも多く目に付く)、製粉、織物工業が盛んな土地となり、それらは現在でも引き継がれて県内有数の工場都市として栄えています。

現在は関越自動車道と北関東自動車道の分岐点、上越新幹線と北陸新幹線の分岐点となるなど、全国有数の交通拠点の都市です。達磨の生産日本一、オーケストラのある地方都市、高崎マーチングフェスティバルが開かれるなど、音楽に関する活動も盛んな高崎となっています。

※1

当初は「和田」と呼ばれていた「高崎」ですが、高崎城城主の井伊直政は、高崎ではなく「松ヶ崎」という名前に改めようとしたそうです。日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職に相談したところ、松をはじめとする諸々の木に栄枯盛衰があります。権力の頂点に立つ大名になれたことに意味をとって『成功高大』が宜しいかと、という助言を受け、松ヶ崎の崎と成功高大の高を取って『高崎』としたという伝承があります。

1、いきなり寄り道①「定家神社」

高崎駅に10:30分到着。駅前で貸自転車の様子を聞くと、『駅前にある色のついた自転車ならどれを乗ってもOK。カギはついていないので、市内要所にある自転車集積所に自由に返還OK。旅人にも町民にも優しい高碕!これまた超便利な宿撮影となりそう、と心ウキウキと自転車に乗り軽快に出発!……したのですが、この何人も自由に利用できるシステムが災いして、撮影の途中の門前に止めた自転車が消えてなくなる、誰かが自由に乗っていった!という事件に遭遇。帰途はトボトボと歩くはめになるのですが……。

高崎駅前より先回の倉賀野宿撮影で終了していた浅間山古墳まで自転車で戻ります。見覚えのある浅間山古墳近辺の歩道橋を確認したところで、ユータンして、さて本日の高碕宿の撮影に入ります。上佐野の交差点脇に中山道道標があります。この先の上越新幹線をくぐったあたりに、日本橋より26里目の高碕の一里塚があったそうですが、それらしき明記はありませんでした。この高碕宿には寄り道したいところが何カ所かあり、いきなりですが寄り道します。

定家神社(テイカジンジャ)

所在地:群馬県高崎市下佐野町873

百人一首でおなじみの歌に『駒止めて袖打ち払う影もなし 佐野の渡しの雪の夕暮れ』があります。なんともわびしく心に染み入る歌ですが、この歌の詠み人である藤原定家を祀った神社です。歌に詠まれた佐野は古典和歌に詠まれた名所を意味する「歌枕」

ではありますが、上野国・現群馬県ではなく、近江の国・現和歌山県とされています。ですから、どうしてここに定家神社があるのかは不思議との意見が多いそうですが、学のない私はこの件に関しての深追いはできません。

拝殿、本殿共に緋色が濃く、くっきりとした美しい社殿です。彫刻も鮮やかでした。境内にある歌碑は『佐野山(さのやま)に 打つや斧音(をのと)の 遠かども 寝(ね)もとか子ろが 面(おも)に見えつる 』です。定家神社には高崎市指定文化財として縁起一巻他があるそうです。

                          

2、いきなり寄り道その② 佐野の舟橋跡(サノノフナハシアト)

所在地:高崎市下佐野町

「舟橋」というのは、川に舟や筏を並べて繋ぎ、その上に板を渡した仮の橋のことを言います。相当揺れるとおもうのですが、板の上を人や荷物を背負った馬が渡って行った渡し場ということです。現在は橋脚は鉄で橋は木製となっていて、歩く人と自転車のみが通行できます。橋の幅は想像していたとおりでしたが、思っていたより長い橋でした。

時代劇の撮影が似合いそうです。

橋のすぐ近くには高層マンションがあり、その背後には上越新幹線の白い高架が見えます。橋の斜め横には、上信電鉄の烏川橋梁があります。近くにある定家神社の藤原定家の歌に『佐野の渡し』とありますが、たとえそれが近江の国の佐野の渡しを詠んだ歌であったとしても、この木橋にも雪をかぶせたら歌の風情に叶うと思えます。

橋は木橋で流されることを想定されて掛けられているということで再び驚きです。しかもこの佐野の舟橋は流されることが多いとか。直近では『2013年9月16日に日本に上陸した台風18号による大雨の影響で、群馬県高崎市内を流れる烏川に架かる佐野橋が折れ、通行不能となりました。』というニュースがネットに残っていました。

                

3、いきなり寄り道その③ 常世神社(ツネヨジンジャ)

所在地:高崎市上佐野町496番地

木橋から上越新幹線の高架をはさんでちょうど反対側にあるのが常世神社です。鳥居のかかる細い道を進んだところにこじんまりとした社殿があります。大正9年に建てられたものです。常世神社は他の神社から分霊されたものでなく地元住民が奉ったもの。昔から石の祠としてあったようで、常世が栃木県佐野の領地を横領されてのちに住み着いた「常世屋敷跡」と言い伝えられています。

神社本殿の斜め前に留め金のついた観音開きで屋根のついた立て札がありますが、開けてご覧ください、とありますので開けてみるとアッ驚いた!もう!となりますよ。髭の男の人が目の前にヌーと現れた感じになります。開けてみてください。

髭の男の人は佐野源左衛門常世です。領地から追い出されてこの地で貧しい暮らしをしていましたが、ある夜、一夜の宿を求めてきた旅の僧(実は北条時頼)をもてなすことになり、客人に暖を取らせるために大切にしていた梅、松、桜の盆栽の鉢を切ろうとしいる姿が描かれています。「謡曲・鉢の木」の元になったお話ですが、零落した貧乏暮らしの(はずの)佐野源左衛門常世が衣服正しく鬢の手入れも怠らず、武士としてデ〜ン!と描かれているので、扉をあけて、ビックリすること間違いないです。

佐野源左衛門常世は困窮の暮らしにあっても旅人を手厚くもてなしたことで、後に旅の僧(実は北条時頼)に呼び戻されて、奪われた佐野庄三十余郷を常世に返し与えただけでなく、さらに もてなした時に使った薪の種類に合わせ、梅田、松枝、桜井の三荘を 常世に与えた、という結末があります。鉢の木というお料理屋さんを時々見かけますが、そんな歴史物語があったのですね。

     

4、いきなり寄り道その④上信電鉄の新しい駅「佐野のわたし駅」

上越新幹線の高架下を中山道に戻るべく北上します。先ほど木橋のあった横を通っていた上信電鉄の新しい駅があるので、ついでに寄りました。「佐野のわたし駅」です。佐野の舟橋、渡船場、鉢の木など有名な場所ですのに、「佐野のわたし駅」の渡しがひらがなのわたしでは、風情が無さすぎでは?と思いながら街道に戻りました。

        

5、興禅寺(コウゼンジ)

所在地:高崎市新町26

いきなり寄り道をしましたが旧中山道に戻ります。高崎宿まであと少しの道標があります。もう一度上越新幹線の高架をくぐります。南町交差点脇に愛宕神社。和田城の鎮護神として創建された火防の神様です。宿場まんじゅうと書かれた看板があるのが新田町の交差点。その左奥にあるのが興禅寺。1177(治承元)年、新田義重により開基され、和田城主が再興して菩提寺とした高崎で一番の古刹。地蔵堂、庚申塔などが門前にありますが寺内に入ることはできません。

                    

6延養寺(エンヨウジ)

所在地:高崎市下佐野町

新田町交差点の先のあら町の交差点の西寄りにあります。高崎市指定重要文化財の円空作神像があるところです。円空が1681(延宝9)年に上野国に滞在していたことが明白になっているので、この頃の作と言われています。拝観はできません。延養寺から旧中山道に戻り先に進むとあら町の交差点。右に行ったところがJR高崎駅となります。

          

7、諏訪神社

高崎市指定重要文化財

所在地:高崎市あら町85-1

あら町の交差点の左に諏訪神社。小さな神社ですが、軒下に鳥居をつけた平入りの入母屋造り(いりもやづくり)で、向拝(ごはい)の上に千鳥破風(ちどりはふ)をつけた瓦葺です。外壁は土蔵のような総漆喰の塗籠造り(ぬりごめづくり)で、本屋根と裳腰の間には、七賢人の手の込んだ漆喰彫刻がほどこされています。その他、内陣の扉、欄間、鳥居などに見事な彫刻が見られます。裳腰の外壁の下半は海鼠壁(なまこかべ)です。御宝石は「高崎志」によると、重さ2貫700匁(8.125キロ)の鶏卵型で、台座の重さ30貫400匁。この台座は中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の屋蓋(おくがい)を裏返しにして、耳を四足とし、中央のくぼみに御宝石を安置しているそうです。(参考資料:高崎市HP)

1729(享保14)年、1807(文化4)年)に火災を受けていますが、1813(文化10))年の社殿再建の際には焼け残った材料を中扉に再利用したため、火災の痕跡が残っているという諏訪神社です。

       

8、大信寺(ダイシンジ)

所在地:高崎市通町75

あら町の先にある連雀町交差点を右折すると左奥にあるのが大信寺。第三代将軍徳川家光の弟忠長(幼名:国松)の墓所(高崎市指定史跡)です。江戸時代には朱印領地107石という城下町第一の大きなお寺だったそうですが、当時を思い起こすような風景はありません。

江戸時代、第三代将軍は徳川家光。その弟は徳川忠長(松平忠長)。家光は病弱の上、吃音があったために両親(第二代将軍徳川秀忠・正室は浅井長政の娘、お江)は弟の忠長を寵愛して次期将軍にしようとします。一方、家光に付いていた乳母(養育係)は春日の局。春日の局は第一代将軍徳川家康のところに出向いて、長男である家光を立てなければ世の中が乱れる、第一子の家光を次期将軍に、と直訴します。『長幼の序』をもってとの家康の返答で家光が将軍となった顛末は、現在でも言葉として利用されるほど、有名な逸話として残っています。

しかし将軍となった家光は才気活発の弟を疎みます。忠長は両親の傍で育てられ、自分は乳母の春日の局と共に寝起きし、両親にかわいがられなかったという反動もあったのでしょうか、弟忠長を大納言として55万石の駿府城主として住まわせますが、父秀忠の死後に数々の乱行があったとして甲府への蟄居の後に高崎城に幽閉してしまいます。

時の高崎城主・安藤重長のたびたびの嘆願にも耳を傾けず忠長を自刃に追い込んでしまいます。忠長28歳。将軍の家に生れなければ、その才気活発を生かしてどのような人生を送ったのでしょうか。院も殿も大居士もついている立派な戒名を見上げながら手を合わせました。

        

9、善念寺(ゼンネンジ)

所在地:高崎市元紺屋町21

先に進みます。田町の交差点を過ぎて右奥にあります。

群馬県指定の重要文化財「木造阿弥陀如来立像」があるお寺です。1540年和田信輝が開基したとされるお寺です。和田氏が滅びて高崎城の前身である和田城が落城する50年前ということになるでしょうか。本堂をのぞきこんで写真を一枚頂きました。文化財指定になっている仏像の写真と似ていました。本物かしら……。

   

10、高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)

所在地:高崎市高松町 城址公園内

田町北の信号に出ました。旧中山道は、あら町の辺りからこの先の本町二丁目まで街道が伸びています。作られた城下町だけあって、中心地となるこの地は碁盤の目のように道路が交差して宿場のメイン通りとなっています。豊かな城下町の風情を残す大店(おおだな)もいくつかあります。井伊直政が箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築いたという町ですが、後ほどゆっくり見ることにして、あら町交差点に戻って高崎城址に行きます。

概要にも記していますが、1590(天正18)年、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田氏が滅びて城は落城。同じ年の1590年、徳川家康が関東に移封されてきます。その家臣として井伊直政が上野簔輪城を与えられますが、1598(慶長3)年に廃城になっていた和田城に移り修理して居城として、名を高崎に改めています。このときに計画的な城下町としての整備が行われて武家屋敷、町屋、寺院が整えられ、高崎は八万二千石の城下町として機能していきます(井伊直政は整備後に近江佐和山に移っている)。

高崎城は井伊直政の後、酒井家次→安藤重信(子息である重長の代に忠長が預けられた)→大河内輝貞(松平)→間部詮房(徳川家が第6代の将軍に替わったため)→再び大河内輝貞(徳川家が第8代将軍に代わったため・幕末まで同)と城主が替わっていきます。

城は旧和田城を取り込み、旧箕輪城からは多くの構造物を移して築城された記録が残っていますが、明治維新後に取り壊されてしまいます。現在残っているのは、三の丸外囲いの土塁、堀、乾櫓(群馬県指定重要文化財)、東門(高崎市指定文化財)です。

城壁の向こうに乾櫓が見えて、その横に東門が移築されています。東門の前にあるのは乾櫓の説明板で(奥にもう一つ乾櫓の説明板があります)、東門の説明板は門の裏側にあります。

手の届きそうな東門の屋根に落葉がきれいです。東門の説明板をそのまま付記します。

『高崎城東門の由来

高崎城16の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。

この門は寛政10年正月(1798年)と天保14年12月(1843年)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。

この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。高崎和田ライオンズクラブは、創立10周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和55年2月、市に寄贈したものである。昭和55年3月:高崎市教育委員会』

東門の隣には城壁の美しい乾櫓(イヌイヤグラ)があります。

説明版は正面と横とに二年の間隔を置いて設置されています。内容が異なりますので二つを付記してみます。

乾櫓2つの説明板

1、■正面の説明版

『この櫓は、高崎城本丸乾(西北)土囲上にあった。 南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。 高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。 従って、重博在城の元禄8年(1695年)より以前から存在したことが明らかである。 多分、安藤重長が城主であった寛永の頃の建築であろう。

城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから西方300mの地点に当たる。屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。高崎城には石垣はほとんどなかった。

この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない。』 昭和52年5月:高崎市教育委員会

2、■乾櫓の脇にあるもう一つの説明版。こちらは素材形式に重点を置いているようです。

『群馬県指定文化財・高崎城乾櫓

高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰櫓をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(12尺)桁行三間(18尺)の規模である。

外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二ヶ所ずつあけている。

ところが、明治6(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一ヶ所が認められる。妻飾りは狐格子で破風板に懸魚をかけている。

高崎城の築城は、慶長3(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和5(1619)年に安藤重信が入部して、元禄8(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。

享保(1716〜1736)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的にも矛盾はなく、17世紀末の建築と推定されている。その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和54年この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲されており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。指定年月日 昭和49年9月6日:群馬県教育委員会・高崎市教育委員会』

……そうですか。文化財指定のための説明板であったのですね。多分。

何代も城主の替わった高崎城ですが、その後に触れておきます。高崎城は1873(明治6年)年の廃城令をまぬがれて存城となりますが、太平洋戦争時代に第3師官官内分営所が置かれることになります。以後、建造物は移築もしくは破却され、跡地の大半は歩兵第15連隊の駐屯地として使用されたために残っている物が少ない現状となっています。

徳川家光の弟の忠長が幽閉されていた屋敷前に鹿垣が組まれており、暗に自死を促された状況に追い込まれた場所があったはずですが、それはどこだったのでしょうか。残された城の一角以外は公園となり、城の外堀の水流は今でも清らかで、大きな鯉が群れて、乾櫓の落とす影も穏やかなばかりでした。

                                    

11、現存する町家など、高碕宿の面影

メイン通りに戻ります。本日は駅の貸自転車ですので軽快に回れます。重厚な町家、問屋などの面影を探して町を巡ってみます。

田町絹市場という看板がかかっていました。跡地の様で現在は飲み屋さんが集まっていました。

モダンな建物の歯医者さん。続いて高崎市指定文化財である五百羅漢像のある法輪寺。白い花が揺れていた庭先。五百羅漢は見せてもらえず……。本町1丁目交差点脇に金澤屋。1836(天保7)年創業 現在178年の歴史を誇る布団専門店。交差点を左に曲がっていくのが旧中山道。

曲がってすぐの左側に土蔵造り商家の山田家住宅。重厚な作りです。1882(明治15)年頃の建造とのとこと。高崎市重要景観物の説明では以下のようになっています。

『この山田家のある本町地区は、明治13年の大火により町家の大半が焼失した。その後、この一帯の町家は防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きに変貌するが、この店蔵と主屋もその頃建て替えられたものと思われる。その後、昭和37年、都市計画道路の整備に伴い多くの建物が建て替えられ、土蔵造りの店蔵が失われていったが、そんな中でこの山田家は、曳き屋をして残された数少ない例といえる。

北側の通りに向かって熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に備え付けられた軸吊り形式の防火扉、そして漆喰で仕上げられ、更に黒く塗られた外壁を持つこの店蔵は、重厚感にあふれ、通行する人々が思わず足を止める程、印象深いファザードをつくっている。

関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物は、高崎市にはこの山田家以外にはなく、その意味で高崎市民は大変貴重な歴史的遺産を有しているということができる。 (※原則として非公開)』

道の両側に少しずつ商家が続きます。本町三丁目から道は急に細く曲がりくねっていく旧道が見えます。

                                           

12、高崎神社

所在地:高崎市赤坂町94

本町三丁目の交差点を過ぎて左側に高崎神社があります。高崎城初代城主の井伊直政が1504(永正元年)に高崎城改築の際に建立したもので、歴代藩主の崇敬を集めて高崎の総鎮守となっています。平日でしたがお参りに訪れる人が多かったです。鰐口(お参りするときに引っ張って鳴らす太い注連縄の上で、鰐の口の様になっている音が出るもの)が、高崎市指定重要文化財となっていますが、現在はどこかの美術館にいっているそうでみられませんでした。元は高崎城にあったとものと説明板にはありました。

        

13、惠徳禅寺(ケイトクゼンジ)

所在地:群馬県高崎市赤坂町77

井伊直政の伯母の菩提寺。井伊直政和田城に入城の折に城内に移されたそうですが、のちの城主、酒井家次の時にこの赤坂の地に移されたとあります。またこの寺の開山をした和尚さんは、井伊直政が、和田を松崎に替えたいと相談をしたところ松は枯れるが高さには限りがない、それをとって高崎としたら、という返答、以後高崎となったという歴史にちなんだ逸話の残る惠徳禅寺です。

本町三丁目の交差点から旧中山道は急に細くなりますが、ここは赤坂通りと呼ばれています。高崎の古名は赤坂の荘と言われていますので、戦国時代よりある道ということでしょうか。

       

14、長松寺と子守学校

所在地:高崎市赤坂町30

惠徳禅寺の先の右側にある長松寺。高崎市指定の重要文化財である「大間天井絵の龍と後拝天井絵の天女」「涅槃画像」があります。

百日紅の紅が鮮やかな山門をくぐるとすぐに本堂です。後拝天井絵の天女は雨に当たる所為でしょうか少しささくれ立っています。本堂に上がらせていただいて龍の天井絵を見せていただけました。絢爛豪華。時代を感じさせない躍動感があります。絵師は江戸城西の丸の画作も行った狩野深雲とのこと。

帰宅して資料整理をしていたらネットに長松寺の庫裏は高崎城の書院の遺構である、という記事を見つけました。寺の客間になっているそうですが、なんと三代将軍家光の弟、徳川忠長が自刃した部屋との言い伝えが残っているそうです。改築を重ねているので遺構は現在は柱くらいしか残っていないそうですが、大きさは当時のままとのこと。う〜ん、快く見学させていただけるという情報も一緒に載っていました(写真もokとのこと)ので、見られなくて残念です。

が……史実的に正しいのであれば教育委員会が何故黙っているのか、高崎にとって忠長の自刃は歴史的大事件のはず、史跡指定級だとオモウノデスガ……。

そうは言っても長松寺は本陣のない高崎宿では加賀藩の茶屋本陣でした。

長松寺にはもう一つ意外なものがあります。境内にある昭和10年建築の木造瓦葺き(約70坪)の校舎です(昭和19年3月に役目を終えている)。貧困のために農業の手伝いや他家に子守に出される女子が多かったのですが、その子どもたちのために子守学校が設置され全国に320校、群馬県には14校あったそうで、そのうちの一つです。

長松寺の境内に遊ぶ子守の女子は粗暴な面が目立ったので、住職は12名の少人数ながら、本堂を仮校舎にあてて「高崎私立樹徳子守学校」を創立します。その後、39年には、校舎を請地町の北小学校内の南側に移し、私立学校令にもとづいて正式に認可を受け、校名を「私立樹徳子守学校」と改称して住職の校長も認可されます。

北小の教員の応援も得ての、教育目標は、児童の「徳性の滋養」に置き、「お守り第一」「勉強第二」を一貫して、経営の基本目標としたそうです。子どものお守を第一にして子育てに必要な徳性の滋養なんて泣かせますね。そんな時代に健気に生きた子守の女の子たちがいたのですね。

児童の訓練要目も、子守に雇われていることを第一義にして、まず1に子供を大切にする・2に仲よくする・3に嘘を言わない・4に物を散らさない・5に言葉を少なく丁寧にするなどなど、貧困で働かなければならない理由があっても人として成り立つような慈愛に満ちた学校だったようです。

大正14年、それまでの「樹徳子守学校」の子守の文字を省いて「高崎樹徳学校」と改称。そして昭和10年、長松寺境内に木造瓦葺き、平屋建て70坪余りの新校舎が新築された、という経緯でここに子守学校が現存しています。その後は義務教育制が進んだので昭和19年に役目を終えています。

お寺も校舎もと欲張って見学させていただいていたら、あららら、門前に止めておいた貸し自転車が無くなっていました。高崎を訪れた人なら誰でも借りることが出来る自転車ですので、乗っていかれても紛失ということは無いのでまあいいのですが、それにしても、旅人の私は途方にくれます。門前の石に腰掛けていたら、土地のご婦人が「どうされました?」と声をかけてくださいました。

自転車を誰かが乗っていってしまった!と言いましたら、高崎の人がみんな悪い人だと思われるといけないので、飴をあげましょう。これをなめながら、バスで駅に戻ってください、と親切していただきました。

今日の予定は君が代橋まで行くつもりでした。とに角歩こうと出かけたのですが、この先の山田文庫と醤油醸造会社の交差点までが限度でした。なんだか力尽きた!

                          

15、山田文庫と岡醤油醸造会社

所在地:常盤町25番

旧中山道は長松寺より坂を下り歪曲している道なりに行くと右側に赤い煉瓦塀として現れてきます。常盤町と記された交差点の左角にあります。このあたりは江戸から明治期の建物が多く残っているようで、後日の中山道歩きでこの交差点を右折して君が代橋のほうに行くのですが、途中にも造り酒屋やウダツの残った商家などがあります。

山田文庫ですが、明治初期から高崎の地に近代産業が興隆する中心となる地域に建っています。明治以前の建物と思われる屋敷蔵、土蔵2棟、明治16年移築の茶室、九蔵町の茂木銀行から移築したと伝えられるレンガ塀があります。

折りしも秋、煉瓦塀の上の熟した柿が絵になっていました。山田文庫の主は山田昌吉。明治・大正・昭和と産業界の中心的な役割を担っています。大正末期のドイツ滞在を経て京大教授、高崎倉庫社長となり、1974年に山田文庫を創設。芙蓉の咲く庭に入りましたが残念ながら時間切れで内部は訪ねられませんでした。

山田文庫の向かい側に醤油醸造会社があります(群馬県高崎市常磐町5番地)1787(天明7)年、群馬県大間々に近江商人 初代 岡忠兵衛が「河内屋」の屋号で醤油醸造業を営んだのが始まり。1897(明治30)年、高崎市常盤町の旧中山道沿いに支店を開設したのが現在の醤油製造所です。

煙突は現在は使われていませんが映画のロケ地として使用されたこともあるそうです。珍しい醤油アイスがあるそうです。店頭にはお醤油ならぬ布袋が飾ってありますが、お醤油の贈答に使用した袋が思わぬヒット商品になっているそうです。軒の低い屋根が二重にも見えるつくりは支店を出された明治期のものでしょうか。

先に進もうと常磐町の交差点より右折方向を垣間見ましたが、徒歩では烏川の君が代橋を越えるのも大変そうで、自転車がなくなってしまったことを理由に、今日はここで終了します。さてさて、どうやって駅に帰りましょうか……。

                    

16、気を取り直して二週間後に再び。君が代橋

先回は長松寺のところで自転車が紛失しましたので、泣く泣く高崎駅に帰りました。今日は高崎の一つ先の北高崎で、駅でレンタルしている自転車を再びお借りして山田文庫のある常磐町の交差点まで行きます。今回はここから。

交差点を曲がるとすぐ左側に「1998年 美峰酒造(株)煉瓦倉庫・高崎都市景観賞」と掲げられた煉瓦塀が見えます。細い道ですので少し引いて撮影。穏やかな煉瓦色。気持ちがなごみます。奥のほうでは煙突も健在のようです。

その向かい側に袖うだつのある家。何屋さんだったのでしょうか。時計屋さん。古い家がところどころにあります。稲荷大明神のあるあたりには並榎村といい、江戸より27里目の一里塚があったそうですが現存していません。

旧中山道は続いていきます。突き当たりに君が代橋の親柱があります。明治11年、木橋だった頃に明治天皇が渡られた記念で命名されています。君が代橋を渡ります。左の山の上に高崎観音が見えます。右には榛名山が見えるはずですがあいにくの雲です。長〜橋です。昔の地図ではこの川の少し上流に渡し場がありその先今は民家になっているところを抜けて国道に戻っているようです。

                                   

17、萬日堂(マンニチドウ)

所在地:高崎市下豊岡町

君が代橋を渡った橋のたもとにあります。良くある話ですが、国道を通すためにこちら側に移されたとか。あちら側にあったとしても、旧中山道沿いではなかったのですね。旅人の信仰よりも、地元の信仰だったということですね。ということで調べてみたら、やはりどこの寺にも属さない物で元は住民の共同墓地だったようです。あちら側からこち側に移すのには、墓石の持ち主の追跡など大変だったようです。あちら側にあった堂宇は江戸時代の物だったそうですが、現在の物は昭和56年建築と新しいものです。

江戸時代の頃には俳人、白石鳥酔が俳句を教える庵であったとも。

室町時代末期に造られた「みかえり阿弥陀像」(高崎市重要文化財)が安置されているそうですが拝観できません。顔が左向きで下方を見ていることから、涅槃像として信仰されたそうです。後日、高崎市の資料写真を見ましたが、立像ですが本当に顔を横やや下向き加減で、珍しい形でした。みかえり阿弥陀と呼ばれるものは全国でも五体に過ぎないそうで、まして京都禅林寺にあるものは国の重要文化財になっている、とか。萬日堂というさして由緒もない堂宇の中にいらっしゃるので、市指定なのでしょうかしらね。

春と秋には一般公開されていますし、代表の方に頼めば随時見せて頂けるという記述もありました。

堂宇の前にある丸い大きな石。「鳥酔句塚」は1775(安永4)年に建てられたもの。句は『おもしろひゆめみるかほや涅槃像』。この句塚の丸い石は俳人、白井鳥酔の歯を分骨した「痙歯塔」(けいしとう)というものだそうです。

          

18、草津道標・若宮八幡宮

所在地:高崎市中豊岡町

萬日堂から国道に戻り歩道橋のあるほうではなく右側に入って行く道が旧中山道です。しばらく行くとまた道がYの字になっているので右手を取ります。途中、高崎達磨を作っているお店などがチラホラとあります。

道はしばらく行くとまたYの字に。今度は左手に行きます。このYの字の交差路には道標。その先右側に「くさつ道」と書かれた丸い石。信濃の国(長野県)に通じていく信濃街道への道標となります。

安山岩尖塔角柱の道標は高崎市指定重要文化財。中山道ではありますが温泉地への案内でもあったようです。奥にあるのは八坂神社。

しばらく街道を歩くと左側に森があります。若宮八幡宮です。1051(永承6)年、源頼義、頼家父子が奥州安倍氏反乱を鎮圧する途中、戦勝を祈願して建立したという神社です。1662(寛文2)年、幕府による社殿大改修が行われています。

江戸の後期には江戸の火消しである新門辰五郎(町火消であり鳶頭・香具師・侠客であり浅草浅草寺門番であった。日本最後の侠客)も参拝に訪れたと説明板にありました。

                                     

19、上豊岡の茶屋本陣

所在地:群馬県高崎市上豊岡町133-12

本日の中山道歩きの一番の目玉と思っていた皇女和宮も休憩した茶屋本陣訪問ですが(何しろ高崎宿には本陣も脇本陣も無いので、是非見学したかったのですが)、なんと定休日でした。仕方なく白壁と門だけ撮影。残念!

平成9年まで個人の方(飯野家)が代々所有してきたそうです。居住のために内部の改装を行って来たそうですが、「上段の間」と「次の間」だけは当時のままだとか。見たかったです。

               

20、櫓のある養蚕農家と一里塚

そろそろ高崎宿の終わりです。平屋や畑など一段とわびしくなった旧中山道を行きます。バス停脇のお地蔵様や金崎不動尊などを見ながら国道18号線に突き当たるまで歩きます。突き当たる右側に櫓のある養蚕農家が。立派な構えです。信号を超えると碓氷川の土手に。一里塚が見えてきました。群馬県に唯一存在する日本橋より7番目の一里塚(112km)です。榎の大木は樹齢200年以上とのこと。昔だったら追いはぎでも出てきそうな寂しさです。

               

この先、土手の道を歩いたり国道に下りたりしながら次の板鼻宿をめざします。

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