兵庫県豊岡市 出石
Izushi,Toyooka city,Hyogo
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Nov19.2023 瀧山幸伸
宗鏡寺へ
November 16,2021 大野木康夫
source movie
養父神社から安国寺に向かう途中で思いついて訪問
出石神社入口
諸杉神社のイチョウ
二の丸
本丸
感応殿
仙石秀久を祀る神殿
帰路
January 23, 2021 野崎順次
兵庫県豊岡市出石町
出石町ぶらぶら
出石散策MAP
出石城跡から下りて、藩校弘道館跡に沿う街道筋を東へ
経王寺、高櫓を設けて戦時には砦の役割をしていた。
東京帝国大学初代総理(総長)加藤弘之生家
谷山川沿い
吉祥寺
石部神社と巨大ケヤキ
少し戻り、出石高校を過ぎて北へ入ると、岩鼻稲荷神社、出石明治館
宗鏡寺への参道
手前に願成寺、山門は市指定文化財、禅僧の木像が面白い。
河崎尚之介供養の碑
出石酒造
古い街並みが続く。
辰鼓楼(市指定文化財)
県文 永楽館、近畿最古の芝居小屋
JR豊岡駅近くの大石屋食堂、和洋中なんでもござれ。カニ丼を食べたが、卵丼の上にカニの身が乗っているだけ。
出石家老屋敷
(Izushi Samurai House, Toyooka City, Hyogo Pref.)
source
movie
兵庫県豊岡市出石町内町98-9
白亜の土塀と長屋門のあるこの屋敷は、高級武士(家老級)の居宅として使われたものです。出石城の内堀の近くで、江戸時代後期の上級武士の居住区であった内町通りに面して建っています。建物の外観は、平屋建に見えますが、内部には隠し階段が仕組まれており二階建です。二階は刀を使い難くするためか天井は低く造られ、屋根上への通路も存在します。これらは、襲撃に備えて造られたものと推定されています。
江戸時代における三大お家騒動の一つに挙げられる仙石騒動の中心人物である仙石左京の屋敷跡に建っているので、「左京屋敷」とも呼ばれています。
展示物には、仙石騒動の資料をはじめ無形文化財の大名行列諸道具など出石藩に関する資料を公開しています。
(NPO法人但馬國出石観光協会ウェブサイトより)
パンフレットと現地説明板
建物外部
一階と展示
隠し二階へ
棒術関係資料
再び一階へ
長屋門と白亜の土塀
出石城跡
出石城は、有子山頂上にあった山名氏の城が天正八年(1580)の羽柴秀吉による第二次但
馬征伐の時に落城し、それから二十四年後の慶長九年(1604)に、小出吉英が五万石を領有する但馬随一の城持大名として、山頂の城を山麓に移し、壮大な近世的平山城として築城したものである。天守閣はなく、隅櫓が威厳を保っていた。
城郭の最上出石城本丸庭園の稲荷郭からは、正面に出石盆地の穀倉地帯や出石川、さらに豊岡方面まで、城下の町並みが眺望できる。江戸時代の出石城は、三の丸のみを平地にもった梯郭式縄張りで、小出時代(小出吉英)に築城整備された本丸・二の丸の郭・西の郭と、松平時代(松平忠徳)に建築された三の丸(対面所)が階段状に続き、本丸の東には山里郭を配置する。一の丸は主に藩主と家臣、それに来城者との謁見の場であり、本丸は藩主のプライベート空間であった。
三の丸の対面所(現在の町役場の位置)は元禄十五年(1702)頃、小出氏の後に藩主になった松平忠徳(在位1697-1706)が建てたものであり、それまでの本丸・二の丸にあった諸機能が対面所に移された。
(西桂「兵庫県の日本庭園 歴史と美を訪ねて」2004年より)
現地説明版(出石家老屋敷展示を含む)
出石バス停からのアプローチ
登城門から下の曲輪
本丸西の隅櫓を見上げながら、二の丸へ
本丸西の隅櫓と感応殿
出石城本丸庭園 江戸初期 池泉鑑賞式
文化年間(1804―1818)に描かれた「出石城之図」によれば、本丸御殿に面して庭園が描かれている。元禄十五年頃に、三の丸の対面所移って藩主の日常生活も対面所が中心となったと考えられ、庭園は小出氏時代の江戸初期に造られたものであることは間違いがない。
庭園は小池泉に滝石組を組み、中島を配し、石橋二基を架けた池泉観賞式庭園である。
庭景の中心である滝は、流水式の滝石組で落水しているが、その昔、沢庵和尚がこの本丸での優れた眺望を愛でて詠んだ歌を、大正十五年に桜井勉が顕彰した碑が建ち、主景である滝石組が、本来の姿でないことが惜しまれる。
滝から流れてきた水は、水分石によって中島の両側に分かれ、さらに石橋から水路へと流れ出る。中島は、護岸石組も少なく中洲風の島であるが、石橋が二基架かる。実用性より、景を重点にした石橋である。
池泉の護岸石組も、江戸時代初期の作庭にしては、自然風で簡素な石組である。
本庭は、本丸庭園という藩主の日常生活の場の庭園で、藩主のやすらぎの場としての空間であったと思われる。本丸御殿に面して庭園が現存しているのは、貴重である。
(西桂「兵庫県の日本庭園 歴史と美を訪ねて」2004年より)
稲荷曲輪の高石垣
さらに石段を上ると有子山稲荷社のある稲荷曲輪で、出石の町を眺望する。
有子山城跡への登山道の入り口、「熊の出没にご注意ください」とある。
稲荷参道(かつては御城坂)の石段を下る。
出石に行った目的は、有子山城に上ることでした。
まず、麓の出石城を撮影しました。
有子山城の登城口は出石城の神社の石段の終点です。
しばらく行くと「遊歩道」の立札と「本丸まで980メートル」の標識があります。
先を見ると、「遊歩道」とはとても言えないような急勾配の道が続いています。
たるんだトラロープが張ってあるのは、簡易な手すりとして使うためのようです。
急坂は「本丸まで500メートル」の標識の少し上まで続いています。
ここまで約20分弱かかりました。
ここからはほぼ平坦な道を行きます。
石切り場に到着しました。
登り石垣のような感じで、木々の切れ目から出石の町が見えます。
石切り場から少し行くと、「本丸まで240メートル」の標識があり、そこから2回折り返して上ると第六曲輪の石垣が見えます。
第六曲輪と第五曲輪の石垣
第五曲輪から少し上に第三曲輪の石垣が見えます。
第三曲輪の石垣は大規模なものがよく残っており、壮観です。
第三曲輪の奥、本丸と千畳敷との間に大堀切があります。
千畳敷に登ると残り石などが見えます。
大堀切のところからトラロープを頼りに本丸に上りました。
説明板と休憩所があります。
山名氏城跡
此隅山城跡
有子山城跡
(国指定史跡)山名氏は、室町幕府において四職家の1つであり、最大級の大名であった。
一族が但馬、因幡、丹波、美作など11か国の守護職を兼帯して、「六分一殿」といわれたことが名高い。
明徳の乱では一族相争ったため衰亡したが、嘉吉の乱で勢力を回復し、応仁の乱では、宗全(持豊)が西軍の総帥となった。
但馬は、南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。
この山名氏の本国但馬における居城が此隅山城であり、永禄頃まで使われた。
またその後、天正期に山名氏が築いて移った城が有子城である。
此隅山城は、山名氏の本城であり、文中年間(1372-74)、山名師義が築城したという。
標高140メートルの此隅山頂を中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設けている。
南西にのびる尾根上のくるわには千畳敷の呼称がある。
山麓には、[[宗鏡寺]すきょうじ]、願成寺という地名があるが、かつてその名の寺院があったことを示している。
ただし寺そのものはなく有子山麓(出石)に現存している。
此隅城下にあった町が有子山麓に移転するにつれ、寺も移ったことを示すものである。
此隅山の南方には[[天日槍]あめのひぼこ]を祭神とする但馬一宮、出石神社があるが、永享8年(1436)山名持豊が納めた自筆願文(神床家文書)が残っているように山名氏の尊崇が厚かった神社である。
文明15年(1483)8月、山名政豊は、赤松氏攻撃のため播磨に出陣するが、その出陣の翌日に出石神社の鳥居の横木が落ちたことが「実隆公記」にみえている。
この予兆のように赤松攻は失敗に終わっている。
また、永正元年(1504)には山名致豊と家臣垣屋続成の対立があり、此隅山城は垣屋氏の攻撃を受け、出石神社も灰燼に帰したという(神床家文書)。
永禄12年(1569)8月、木下秀吉、坂井政尚らの織田軍が但馬に進攻すると、生野銀山、子盗(此隅)など18か所が落去(落城)したという(益田家什書)。
この時山名祐豊は但馬を出奔して、堺の商人を頼ったが、織田信長に近かった豪商今井宗久の斡旋で但馬への帰国が許された。
こののちに山名祐豊が築いた城が有子城で天正2年(1574)頃のことという。その名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。
有子城跡は此隅山の南2.5キロメートル、現在の出石の中心市街の南方標高321mの有子山にある。
山頂に主郭とその西方に6段のくるわが階段状に続き、また主郭の東南に千畳敷と呼ばれるくるわがある。
また山腹にはたてぼりの遺構も残る。
天正8年(1580)、木下秀長の但馬侵入によって有子城主山名氏政(祐豊子)は因幡に出奔した。
このあとは秀長が入城し、のち天正13年(1585)前野長康が5万石で入城するが、文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連坐して改易され、その後は小出吉政が6万石で入城し、やがて吉政による近世出石城築城によって廃城となった。
有子山頂にはみごとな石垣が残存しているが、織豊期のいずれかの大名によって築かれたものであろう。
有子城は中世の城郭が近世の城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく示すものである。
このように山名氏は室町幕府の中心的な存在であって、その動向は室町時代の政治体制に常に大きな影響を与えつづけた。
山名氏はその性格上、在京することが多かったとはいえ、此隅山は本国但馬における守護所として重要な役割をはたしてきた。
また有子城はその山名氏の盛衰を示す遺跡であり、かつ織豊期における城の形態をも良好に示している。
すなわち両城跡はわが国の中世の政治史と城郭のあり方を示す遺跡として貴重であり、史跡に指定してその保存を図るものである。
(国指定文化財等データベースより)此隅=子盗みで縁起が悪かったから有子というのがいかにも中世的な感じです。
現在の本丸からの眺めは山城屈指と言われています。
此隅山城跡は出石の町の右手奥に見える山にあったようです。
大堀切への道をロープを握りしめて滑り降り、第三曲輪の石垣を見ながら反対側に回りました。
逆からは第二曲輪を経て本丸に続く道です。
第二曲輪から見る本丸の石垣も見事です。
帰路、急坂はロープを頼りに滑り降りるので撮影の余裕はありませんでした。
麓に下りて辰鼓櫓や街並み、有子山城本丸の遠景を撮影しました。
A camera
B camera
出石城
Izushi castle
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