神奈川県横浜市西区 横浜港、山下公園、大桟橋、レンガ倉庫、みなとみらい
Yokohama port, Yamashita park, Oosanbashi, Rengasouko, Minatomirai,Nishiku,Yokohama city,Kanagawa
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横浜市西区みなとみらい2-7-10 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック) 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治31(1898) 石造、煉瓦造及びコンクリート造乾船渠(ドライドッグ)、左右翼壁附属 旧排水ポンプカバー2基 20001204
横浜市西区みなとみらい2-2-1 旧横浜船渠株式会社第二号船渠(ドック) 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治29(1896) 石造乾船渠(ドライドック)、扉船附属、支持構造体(面積3,412㎡)を含む 19971203
Hikawamaru
Nipponmaru(sail boat,Generation 1)
Nipponmaru(Cruise ship)
Diamond Princess
Septemer 8, 2019 野崎順次 source movie
山下公園は、昭和5年3月に開園した公園。関東大震災のがれきを埋め立てて作られました。海への眺望、記念碑や歌碑など見どころの多い公園です。横浜ベイブリッジや港を行き交う船の眺めがロマンチック。童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から昭和12年に寄贈された「インド水塔」、姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴ市寄贈の「水の守護神」など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑が多いことでも有名です。また、山下公園は横浜のバラの名所でもあり、毎年春と秋の時期には、「未来のバラ園」にたくさんのバラが咲き誇ります。
(横浜観光情報ウェブサイトより)
ホテルニューグランドから見る。
未来のバラ園へ
水の守護神あたり
海側、氷川丸
芝生広場
北欧レストラン「スカンディア」
大さん橋から山下公園方面を見る。
ランドマークタワー
October 26,2018 大野木 康夫 source movie
旧横浜船渠株式会社船渠
第二号船渠(重要文化財)
明治29(1896)年の建造
石造乾船渠(ドライドック)、扉船附属、支持構造体(面積3,412m2)を含む
英国人技師パーマーの提言に基づき、明治22年設立の「横浜船渠会社」が明治29年に建設した船舶補修用のドックである。
設計は海軍技師の恒川柳作が担当した。民営のものとしては、現存最古の石造乾船渠(ドライドック)であり、邦人技師の手による明治期の土木技術を今日に良く伝えている。
このドックは昭和48年にその役割を終えたが、所有者と横浜市で検討の結果、平成5年にイベント・スペースとして再生した。
(国指定文化財等データベースより)
マンホール
第一号船渠
明治31(1898)年の建造
石造、煉瓦造及びコンクリート造乾船渠(ドライドッグ)、左右翼壁附属
旧横浜船渠株式会社第一号船渠は,海軍技師の恒川柳作が設計し,明治29年7月に起工,明治31年12月に竣工した。
その後,大正期に船渠の内陸方向に延長された。
現在は,係留されている日本丸の検査,修理に使用されている。
建設当初,第一号船渠は,総長約168メートル,上幅約34メートル,渠底幅約23メートル,渠内深さ約11メートルの規模を有した。
その後,大正期の改修で,渠頭部方向に拡張して総長約204メートルとなった。
旧横浜船渠株式会社第一号船渠は,建設当時,最大規模を有した明治期の代表的乾船渠の一つである。
大正期に築造された躯体延長部分も土木技術の時代的特色をよく示し,乾船渠築造技術の変遷を知る上で価値が高い。
また,第一号船渠は,官民の協調により実現した横浜港修築第一期工事の掉尾を飾る土木構造物で,近代横浜の社会基盤形成史上も,重要である。
(国指定文化財等データベースより)
神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目
横浜大道芸
(Street Performing, Nishiku, Yokohama City, Kanagawa Pref.)
ドックヤードガーデンとクイーンズタワーAの間にある円形の階段が囲む公園では週末に大道芸が披露される。この日は一輪車を操るアメリカ人、マ−シ−と英国人某で共に日本語が流暢で、面白い芸を見せてくれた。動画には桜木町駅前の日本人マジシャンも含まれている。
Apr.2012 酒井英樹
旧横浜船渠株式会社船渠(旧三菱重工横浜造船所ドック)
神奈川県横浜市西区
撮影:2002年12月[上空写真]
2012年 3月
旧横浜船渠株式会社船渠は横浜市西区のランドマークタワー近くにある。
明治19年(1886)横浜の財界人から新たな築港計画の立案を委嘱されたイギリス人技師H・S・パーマー[Henry Spencer Palmer]は、翌明治20年(1887)桟橋建設とともにドックや倉庫等の港湾関連施設の整備を提言した。
明治21年(1888)の閣議決定で築港事業は官営で実施することとなったが、ドックや倉庫等は民間で建設することになり、横浜財界人は東京財界人の協力を得て明治22年(1889)に「横浜船渠株式会社」を設立した。
ドックの設計を担当したのは、海軍土木技師の恒川柳作で2基からなる石造ドライドック建設を計画した。
横浜船渠株式会社は昭和10年(1935)に三菱重工株式会社と合併し三菱重工横浜造船所となり、昭和58年(1983)に横浜造船所の本牧・金沢移転とともに閉鎖された。
《第一号船渠》
第一号ドックは横浜港に注ぐ大岡川河口の北側にある。
建設当初延長168m、上端幅約39m、下端幅約23m、渠内深約11mの規模を有した設計とした。
明治29年(1896)7月に築造工事が着工され明治31年(1898)12月に竣工した。明治32年(1899)5月に開渠した。
その後、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正6年から7年(1917-1918)にかけて渠頭部方向への船渠の延長工事が行われ、延長は約204mとなっている。
現在は横浜市の所有となり日本丸メモリアルパークとして、渠内に水を入れた状態で帆船の日本丸(先代)が係留されている。
構造上から見ると大きく3つの部分(内陸側から渠頭部、本渠部、渠口部)に区分できる。
渠頭部は大正期の拡張工事の際に建造され、延長は約16mで平面は半円形の形状をしている。
天端に花崗岩を載せた擂鉢状の煉瓦造側壁を二段積んでいる。
本渠部は直線状に約170mあり、建築年代及び構造形式から大きく2つに区分される。
大正期の拡張した際に作られた渠頭部側約43mはコンクリート造の側壁が階段状に築かれ、各段の天端には花崗岩を載せられている。
一方残りの部分は明治期の築造当初のもので、方型の小松石を用いた石造壁面を8段に積んでいる。
左右両壁にそれぞれ斜路を1か所、階段を5か所設けられている。
渠口部は約18mで、側壁はブラフ積(石1本おきに控えをとる工法)で築かれている。
現在の扉船は昭和32年(1957)に新造され、昭和59年(1984)に改修されたものを使用している。
現在、渠内に水井を引き入れているため、構造の大半が水没して見えなくなっている。
石造ドック(船渠)
延長203.5m、上端幅38.65m、渠内深約11m
<明治期>
本渠部 延長127.1m、傾斜法面方形切石積、小松石
渠口部 延長17.5m、垂直面ブラフ積、小松石
設計:恒川柳作
明治時代[明治29年(1896)]
<大正期>
本渠部 延長42.8m、コンクリート造、花崗岩
渠頭部 延長165.1m、煉瓦造、花崗岩
大正時代[大正7年(1918)]
<第一号船渠 上空写真>
<第一号船渠 渠頭部>
<第一号船渠 本渠部>
<第一号船渠 渠口部>
《第二号船渠》
第二号ドックはランドマークタワー直下にある。
延長128m、上端幅約29m、渠内深約10mで、扉船を開閉する設計とした。
渠口部にある銘板石によると、第一号ドックに先んじて明治28年(1895)1月に築造工事が着工され翌明治29年(1896)12月に竣工した。
その後、盤木据付工事を経て、明治30年(1897)5月から開渠し、昭和48年(1973)に機能を停止した。
横浜ランドマークタワー建設計画で保存することとなり、保存改修が行われ、現在は広場・イベントスペースとして再生され一般公開されている。
保存改修後は延長が107mとなった。
使用した石材は小松石と呼ばれる真鶴産・伊豆産の堅石で、ドックの内壁は方型の切石を積み上げた石積みとし、垂直となる法面はブラフ積みとした。
構造上から見ると大きく3つの部分(ランドマークタワー側から渠頭部、本渠部、渠口部)に区分できる。
渠頭部は約25mで、垂直に立ち上がる頭端部の側壁は平面が放射状となり、6段に大積みする石段の外壁側に作業用の階段が付いている。
石段の先端形状は、消波のため円弧状に加工されている。
先端中央部に滝を設けるなどの変更は行っているがおおむね旧態を保っている。
本渠部は直線状に約73mあり、構造形式から大きく2つに区分される。
渠頭部側は22段に積んだ雛壇状の側壁構造となり、左右両壁とも両端に約2mの作業用斜路が付いている。
渠口部側は6段に大積みされた雛段構造となり、左右両壁とも前後に作業用階段が付いている。
渠口部は約6mが保存され、扉船が取り付き、ドライドックの状況を再現した構成となっている。
保存改修工事でドックを支える支持構造体がランドマークプラザの地階構造体と一体的な鉄骨鉄筋コンクリート造に変更されている。
また、底盤部はもとは小松石の石敷きで排水路を設けられていたが、広場利用のため一部のみ保存してその他は新ためられた。
石造ドライドック(乾船渠)、扉船附属
延長107.0m、上端幅約29m、渠内深約10m
傾斜法面方形切石積、垂直面ブラフ積、小松石
設計:恒川柳作
明治時代[明治29年(1896)]
<第二号船渠(渠頭部)上空写真>
<第一号船渠 渠頭部>
<第一号船渠 本渠部>
<第一号船渠 渠口部>
象の鼻パーク
Zounohana park
みなとみらい
Minatomirai
A camera
B camera
Dec.2009 撮影:瀧山幸伸 source movie
1st camera
2nd camera
Feb.2008 撮影/文:瀧山幸伸 source movie
横浜は11世紀以降、平良文の子孫の一族、平子氏によって支配されていた。
鎌倉時代には北条氏により称名寺や吉田兼好も学んだ金沢文庫が建てられた。
江戸時代、大部分は旗本領、天領だったが、金沢は六浦藩の支配下だった。
江戸初期、神奈川、保土ヶ谷、戸塚が東海道の宿駅となり、19世紀前期には神奈川宿は小田原と肩を並べるほどに発展した。
安政元年(1854)、林大学頭とペリーとの間で、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれ、安政5年(1858)米国総領事ハリスによって日米修好通商条約が結ばれ、続いてオランダ、ロシア、英国、仏国とも通商条約が締結され、横浜は安政6年(1859)7月1日開港された。
幕府は運上所を置き、これを境界として以南を外国人居留地、以北を日本人居住地とした。
日本人居住地を5区域に分割して、横浜町と名付け、各区域に名主を置き総年寄が町全体を統括した。
開港当初、横浜からは生糸・茶・海産物が輸出され、絹織物・毛織物が輸入されたが、貿易は外国商館の手に握られていた。
横浜商人は明治6年(1873)に生糸改会社を、明治14(1881)年に生糸荷預所を設立して居留地貿易の主導権を確立した。
さらに明治28(1895)年生糸検査所が設立された。
関東大震災では、死者2万余人、全壊家屋6万戸を出し、デマ事件で多くの朝鮮人が貴重な命を落とした。
昭和20年、横浜も度重なる空襲により、市街地は焦土と化した。5月29日の空襲では、死傷者・行方不明者あわせて14,157名、被災家屋79,017戸を出し、市街地の42パーセントが焼き払われた。
敗戦により、港湾施設の90パーセント、市街地の27パーセントが連合軍に接収された。
この接収により、横浜の基盤整備の回復は、他都市に比べてかなり遅れてしまった。
昭和26年、対日講和条約の調印の後横浜港の管理権が国から市に移り、昭和27年にようやく大さん橋の接収が解除された。
横浜は、このような宿場町、港町、貿易商、中国人、アメリカ軍の歴史と文化を反映しており、異国情緒濃厚な街並と文化が色濃く残っている。それが横浜の魅力だ。
参考:横浜観光コンベンションビューロー
資料:国土地理院
みなとみらい、汽車道、大桟橋
みなとみらい
Minatomirai
汽車道
KIshamichi
春一番の嵐
神奈川県庁
Kanagawa pref office
税関
Custom office
大桟橋
Osanbashi
Jan.2008 撮影:高橋久美子
汽車道
KIshamichi
みなとみらい
Minatomirai
May 2008 撮影: 柚原君子
山下公園から赤レンガ倉庫
Oct.2005 撮影:瀧山幸伸 HD(1280x720)
山下公園
Yamashita park
氷川丸
Hikawamaru
大桟橋
Osanbashi
船のデザインをモチーフにした建築が美しい。
芝生の緑、豪華客船が眼に新鮮で、これに汽笛の音が加われば非日常のロマンチックさもいや増す。
水上バス
Suijo bus
横浜港のシンボリックな動く広告塔であるのだから、見た目のかわいらしさとエキゾチックなデザイン、動きと音がフィーチャーされれば、訪問者の脳裏に焼きつき効果的だ。
その観点からすると、船の形と色、汽笛には特徴がなく、寂しい。唯一浮き桟橋のポールのデザインが好ましく感じられる。
赤レンガ倉庫
Akarenga warehouse
横浜の近代化と発展のシンボル。
明治44年(1911)から大正2年(1913)にかけて建設された。設計は妻木頼黄(よりなか)。
1994年から建物の保存・活用工事が行われ、 1号館は多目的スペースやホール、2号館は商業施設となり動態活用されている。
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