京都市右京区 常寂光寺
Jojakkoji,Ukyoku,Kyoto City,Kyoto
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November 30,2024 大野木康夫
source movie
大河内山荘から北へ
常寂光寺門前
拝観入口
山門前は盛り前と聞いていましたが、最盛期に近い色付きでした。9時半を越えていたので多くの人が訪れていました。
山門前
山門から本堂へ向かう石段は登り一方通行です。トンネル状の紅葉は赤や黄色に色づいて多くの人が石段途中で足を止めて撮影をしていました。
石段を見上げる
登りながら
山門を見返る
本堂付近の紅葉
本堂庭園
多宝塔方面へ
多宝塔付近
本堂へ
鐘楼へ
鐘楼付近
帰路
November 27, 2022 野崎順次 source
movie
パンフレットと現地説明板
アプローチ
門前
山門から仁王門、見頃は過ぎたようだ。
仁王門の左側の坂道を上る。ここらから眺める紅葉が一番よいと思う
鐘楼から本堂回り
堂内特別拝観 本堂・書院と中庭
中庭
書院と寺宝
本堂裏の庭園
本堂の上に行くが、紅葉はあまりよくないので、仁王門への石段を下りて、出口に向かった。
出口周辺
Mar.28,2022 瀧山幸伸 source movie
November 21, 2021 野崎順次 source movie
京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
常寂光寺
紅葉真っ盛りと混雑
パンフレット
山門から仁王門
仁王門から本堂左側の竹林
多宝塔から展望台
開山堂あたり
本堂あたり
末吉坂
その他
Nov.18,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
November 24,2018 大野木康夫 source movie
小倉池
小倉池北側の家
常寂光寺
山門から仁王門へ
仁王門から本堂へ
本堂周辺
多宝塔へ
多宝塔周辺
帰路
Nov.10,2017 瀧山幸伸
京都府京都市右京区嵯峨小倉山3
小倉山 常寂光寺
(Jojakkoji Temple, Ukyo-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)
若いころから嵯峨野には何度も来ているのに、あまり記憶に残っていない寺の一つである。中里恒子原作、吉永小百合主演の映画「時雨の記」をDVDで見たので、来てみたくなった。紅葉の時には混むようなので、真夏に来た。比較的すいていて、外国人観光客も少ない。本堂は再建中で未だ基礎段階。
アプローチ
パンフレットと現地説明板
山門(江戸後期)あたり
仁王門(旧本圀寺客殿南門)南北朝 移築 元和二年(1616)
本堂への石段。映画の中で、紅葉の盛りに吉永小百合と渡哲也が登っていく場面が最も印象に残る。もっと長い石段のイメージだった。
仁王門あたりの庭園
その北側の庭園
庫裡
鐘楼
眺望と妙見堂
本堂庭園
それから
国重文 多宝塔 江戸前期 元和六年(1620)
三間多宝塔、檜皮葺
謌僊祠 改築 平成六年
藤原定家、藤原家隆像が納められている。
多宝塔あたりの石塔と眺望
参考資料
常寂光寺パンフレット
常寂光寺ウェブサイト
A camera
B camera
京都市右京区嵯峨小倉山3
宗派:日蓮宗 本尊:十界曼荼羅 創建:慶長元年(1596) 開祖:日禎
角倉了以とその一族とのかかわりを訪ねる旅
訪れたのは4月と5月。残桜と青もみじの風景が混同している。
■■■「小倉山 峰のもみぢ葉 心あれば 今ひと度の みゆき待たなん」は百人一首にある藤原忠平の歌である。
小倉山は紅葉の名所として古くから多くの歌人に詠われたところである。
常寂光院はこの小倉の中腹にある寺で、山号も小倉山という日蓮宗の寺である。その繊細なもみじ葉は今も変わらず、秋には全山が紅葉し、その美しさは名所として訪れる人々に感動を与えている。「塀のない寺」「花の寺」として親しまれている。
■■総門付近
■■仁王門付近
門から本堂へと石段が続き途中の仁王門付近へ。この辺りは、紅葉のシーズンになれば凄い色合を出す。それが納得できる木のひろがりである。
また、ピークを過ぎると散り紅葉が石段をおおい上も下もの紅葉のトンネルが楽しめる。本堂を過ぎて多宝塔まで登ると京都の町が遠望出来る。
嵯峨野の紅葉巡りの中で一番のお勧め場所である。
■■本堂付近
本尊は釈迦如来である。
日蓮宗は釈迦が涅槃時に解いたという「法華経」を最高根本経典とする宗派で、日蓮は法門相承において、はじめに釈迦牟尼仏を建てる。
■■多宝塔付近
江戸初期の桃山彫刻で飾られた桧皮葺の多宝塔。多宝塔は釈迦・多宝両仏が並座する塔。
上層と下層との連続部が亀腹となっているのが特色である。多宝仏は法華経の讃嘆者である。そのため日蓮宗では好んで建てられた。
■■展望極めてよし。
京都市街地の遠景である。
■資料室
総門を入り受付を済ますと、左側に石段があり登ると正面に建つ。普段は閉まっているが展示場として使われる。
この日はいけばな展が開かれていた。什器類が目を惹いた。向かって左側には船小屋が建ち、右側には枝垂れ桜が…最盛期は見事とされる。
□□□角倉一家と常寂光寺の関わりは深い。今の常寂光寺そのものが、角倉一家の全面援助で建立されたのである。
境内に見られる関わりの深さを示すものを並べる。
□□三代目宗忠の長男が若くて死に土倉業は孫の「栄可」が引継いだ。四代目宗桂は名医としての声望があった。明へ二度渡り医術を極めた。
勿論商売の方もおろそかにしなかったが、土倉業は栄可が取り仕切った。
栄可の土倉業で目立つのは近郊の田畑を角倉の手に集中させたことで、斜陽期の寺院の所領を集めた。さらには、政治権力と密着していたこともある。
栄可の活動時期は豊臣政権の最後と徳川幕府の時代にわたるが、当時の市政担当者の権力をバックに大きく展開し、吉田家の家業を盤石なものにした。
この栄可の活動により得た財力が、了以とその子素庵の全生涯を経済的に裏付けるものとなった。
□十数年年上の栄可は、娘の佐乃の婿にと了以を見定めていた。了以は宗桂の子であり、栄可とは従兄弟に当たる。
二人は、了以17歳(1571)、御佐乃12歳で結婚し、翌年には素庵が生まれた。栄可と了以は父子の関係になった。二人の緊密な関係は無形の財であった。
□□角倉一族の系譜と関連事項の一部
1554(天文23)角倉了以 誕生。1558(永禄元)年三代目長男・与左衛門没。栄可登用される。1571(元亀2)年了以の長男、角倉素庵誕生。1585(天正13)秀吉 関白、1590(天正18)年家康江戸城入り。1591(天正19)年秀次 関白。1592(文禄元)年文禄の役。1595(文禄4)年 日槙上人に小倉山寄贈。秀次、高野山で切腹。方広寺大仏殿完成。1598(慶長3)年秀吉没。1600(慶長5)年関ヶ原の戦。1604(慶長8)年了以、家康より貿易朱印状受け、第1回角倉船派遣。
栄可は1610(慶長15)年に世を去った。
□□□寂光寺と角倉家の関係は、境内にある林屋辰三郎氏の石碑が明解に説く。
□□□角倉家と日槙上人(にっしん)との関係
□□角倉家から日槙上人(にっしん)へ
権大納言広橋国光の息男として1561(永禄4)年出生。幼くして六条の日蓮宗大本山本圀寺十五世日栖の門に入り、僅か十八才で同寺の法灯を継ぐ。
宗学と歌道への造詣が深かった。
1595(文禄4)年、秀吉の発願により着工した方広寺大仏開眼の法会が開かれた。一宗より百人の僧侶を出仕させよとあったが、日蓮宗は開祖以来、他の宗教の施しを受けず、又施しも与えない(不受不施)として、当時の日蓮宗大本山本圀寺・日槙上人は宗制をまもって出仕に応じなかった。
これが「不受不施事件」である。秀吉の意向に逆らった日槙上人は嵯峨野小倉山の地に隠棲した。
隠棲するに当たり、日槙上人は寺屋敷を作るために、古来歌枕の名勝として聞こえた小倉山を所望し、栄可・了以父子はこれに快く応じた。
これが常寂光寺につながる第一歩であった。やがて日槙上人を開山に建立されたのが常寂光寺である。
吉田家の菩提寺は、角倉家祖徳春以来二尊院で天台宗であったが、禅とも法華とも深い係わりを持っていたのは、寛容な町衆の風格とされる。
日槙上人坐像が安置される開山堂(本堂)
□□日槙上人から角倉家へ
江戸時代、1606年、了以の保津川開削には、日禛上人も関わっている。
日禛は、備前伊部・妙国寺で千部経読誦会を修した際に、末寺・牛窓の法蔵寺の檀徒に舟夫が多いことを知る。
了以の大堰川開削にあたり、牛窓から18名の舟夫を呼び寄せた。
その時、大檀那の瀬戸内水軍旗頭・来住(きす)一族、豪商・来住法悦が協力したという。法悦は熱心な日蓮宗信者だった。来住配下の船大工、船頭衆が京都に召集された。保津川下りのはじまりである。
船小屋
常寂光寺資料室の左側に建つ。保津川で使われた平底舟(相当品)が置いてある。
来住一族の舟夫は了以に従い舟夫となる。この時、備前の吉井川などで使われていた平底舟が、後の高瀬舟の原型になったといわれている。また、舟夫は丹波保津村・山本村、世木村人などに操船の術を教えた。
□ 舟夫らは、毎年開河期の8月から翌年4月まで京都に滞在し、当初は当寺を止宿所とした。後に角倉家の計らいで、天龍寺小字大雄寺の荒地を開き小屋を建て牛窓より集団で移住した。その地は小屋町といい、後に角倉町と改称したという。今も常寂光寺の檀家には、牛窓出身者が多いといわれる。
□□□ 妙見宮
妙見堂に祀られている妙見大菩薩は、慶長年間(1596〜1615)の保津川の洪水の際に上流から流れ着いた菩薩像を麓の角倉町の船頭が拾い上げ、長らく角倉町の集会所に祀られていたのを江戸時代後期の享和年間(1801〜1803)に常寂光寺に遷座したもの。
また妙見宮内の脇陣には、日禎上人開眼の鬼子母神と十羅刹女および大黒天が祀られている。
「小倉の妙見様、酉の妙見宮」として、水に縁があるため、特に水商売の人達に信仰が高いと言われてる。
□□□吉田光由の石碑
「塵劫記」により江戸期の日本人の数学の能力を高めたとされる。詳細については別途まとまる。
□□□角倉家と常寂光寺との大まかな関りは以上の通りである。
≪参考≫
□□□角倉了以(1554〜1614)略歴
了以は1554(天文23)年生まれ。戦国のさなかであった。幼名 與七、名は光好、のち了以と改める。本姓は吉田氏。父は宗桂で医業。母は不詳である。
既に嵯蛾土倉は医者であった父宗桂の、素倉土倉をも含んで盛大な発展を示していた。
1570(元龜元年)に栄可の一女を娶り、翌2年に長男与一(素庵)を得、翌3年(1573)父宗柱の死を見送り一家の主人となった.19才で土倉の主人となった。
しかし当初は宗家の栄可の土倉の活動が大きく、了以の動きは岳父の影に隠れていた。
了以は生まれつき緻密な科学者的計画性と、大胆な企業者の実行力を兼ね備えていたとされ、学問的にも優れた頭脳をもっていた。「幼にして家庭に学ぶ、頭角毅然たり」との記事も残るように、了以がすぐれた家庭教育の中に育って、抜群の才能を示したとある。しかしその学問は医術に向かわなかった。
林羅山撰の「了以翁碑銘」には、「性工役を嗜み、嘗って筮仕を志すと雖も、信長、秀吉に事うることを肯ぜず」と記される。彼は工役という土木工事の技術を選んだ。筮仕とは仕官で、彼は安土・桃山の時代に生まれ、織豊政権のもとに生きながら、信長・秀吉には仕えなかった。緒川開疏の事業も江戸時代から始まった。
性工役を嗜むことは、ある程度危険を伴う。了以は土木開発ばかりでなく、「板子一枚下は地獄」というような海外雄飛もその性のうちといえた。
了以の履歴については、1603(慶長8)年以降は確実な史料が残る。
が、慶長8年の五十才を迎えるまでは、余り詳しい伝記は知られていない。浄土宗の信徒として珪応了以の法号を受けて入道していたが、将来の飛躍のための基礎づくりを嵯峨の土倉の中で進めていたのであろう。
この了以の五十年の間に、比較手に年齢間隔の少ない長男素庵が著しく成長し、1603(慶長8)年に素案は三十三才の壮年に達した。了以は子の長男には自由な勉学を許していた。
世は秀吉による天下統一の事業が進められた。堺を始めとした有力商人は、時の権力を巡って利益の争奪を繰り返した。その中にあって、了以は一歩退いた所に位置していた。
角倉=吉田の一家は、宗家の栄可はともかくとして、一般に政治的な動きを取らなかったことが,その家中から学究的人物を生み出すもとになった。
□□□了以の始動 1603(慶長8)年
了以の業績について記録が残されるのは五十才を迎えた、慶長8年頃からである。
父祖の業を継がず、算数地理を学び、早くから眼を海外貿易の業に注ぎ、1603(慶長8)年から18年間、安南、東京(トンキン)に御朱印船を派遣して貿易を営み、巨利を得た。これを角倉船という。京都清水寺に1634(寛永11)年に奉納した「角倉船の図」はまさにこの壮挙を偲ばせるものである。
了以はまた頗る工役を好み、1604(慶長9年)の頃美作に赴き、和計川における高瀬舟を見た。美作は中国の山国で交通頗る不便の地であるのに、このような船運の便があるのを見て「凡そ百川、皆以って舟を通すべし」と思った。
この頃、兵庫県加古川舟運工事が二期にわたって行われた。一期工事は1594(文禄3)年に始まる。二期工事は1604(慶長9〜12)年の間行われた。
了以はこれを参考にしたという説もある。
以後の活躍の経過をまとめる。
1603第一回角倉船派遣(翌年帰国)。1606保津川通船工事。1607富士川工事着手、天竜川通船工事命令出る。(1608中止)、1608朱印船貿易再開する1609角倉朱印船難破、秀頼大仏殿再興開始。1610栄可没、鴨川疎通工事開始。1611瑞泉寺建立、素庵家康訪問。1612富士川工事竣工、高瀬川工事開始。1614富士川改修工事は了以病気の為素庵が完成、大悲閣千光寺建立、了以没「7月」、高瀬川工事完成(秋)、大坂冬の陣。1615大坂夏の陣、素庵淀川過書船奉行となる。1616家康没。1632素庵没
父・了以と息子素庵は一体となって業を果たした。保津川通船工事に当たった1606年、了以52才、素庵35才であった。了以が志した事業は、没後、受け継いだ素庵の手で成就していった。
参考資料≪角倉素庵・高瀬の舟・近江源氏・街道をゆく・常在戦場・角倉了以の世界・富士川舟運遺聞・ウイキペデイア・他≫
2012.11.21撮影
紅葉の常寂光寺、平日なのに多くの人が訪れていました。
仁王門付近は日陰で赤くならず、いろいろな色に紅葉します。
本堂付近
多宝塔
多宝塔付近からの眺め
再び多宝塔周辺
帰路
所在地:京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
訪問日:2011.05.27
JRの青もみじの京都のポスターにもなっている常寂光寺、小さな寺ですが風情の濃い寺です。
20年以上も前から幾度もここを訪れています。特にここの多宝塔が好きで通ったことを記憶しています。
この時期も宣伝の通り、もみじも苔も青一色、微妙なコントラストが目を楽しませてくれました。
Nov. 2007 瀧山幸伸
慶長元年(1596)創立の日蓮宗寺院。小倉山の中腹を覆う静かな地に佇む。
多宝塔は元和元年(1620)建立の重要文化財。
正面石段から、萩の花を両脇に従える塔を見上げるのも美しいが、背後の丘から、塔の屋根越しに見下ろす京都の街並と東山の景観はさらに美しい。
滝の清い水脇に佇む石像、滝背後にひそかに隠れる石像。
それぞれの微妙な表情が、無言の言葉を投げかけて来る。
心の迷いを救うように感じられる、不思議な空間だ。
門前の路地景観
門前を脇に入る細い路地の景観。生垣と、奥に見える茅葺屋根とが美しく調和する。
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