京都府京都市東山区 円山公園
Maruyama park ,Higashiyamaku,Kyoto city
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April 2,2022 大野木康夫 source
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祇園枝垂桜ライトアップ
Mar.29,2022 瀧山幸伸
A camera
B camera
November 21, 2021 野崎順次 source
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京都府京都市東山区円山町
円山公園
長楽寺の帰りに丸山公園を通過。それなりの紅葉を満喫できた。
その他
Nov.17,2020 瀧山幸伸 source movie
March 29, 2020 野崎順次
source
movie
本市における最も古い公園で,明治19年12月には太政官布告に基づき公園地に指定され円山公園として誕生しました。その後,明治22年,市制施行時に京都府から京都市に移管され現在も管理しています。その後,明治45年までの間に公園を拡張,自然の丘陵を利用した渓谷を造り,四季の草花を植樹,池や噴水の建設,野外音楽堂※1の建設を行い,現在の円山公園の姿ができ上がりました。
東は東山に続き,西は八坂神社,南に高台寺,北は知恩院等の豊かな樹々の茂る境内地に隣接し,観光地の一環を成しおり,自然の丘陵を利用して回遊式日本庭園を模して造られたこの公園は,そのサクラとともに市内随一の行楽地となっています。
(京都市情報館ウェブサイトより)
知恩院から丸山公園へ
円山公園の園内中央には,通称「祇園の夜桜」という有名な桜があります。 正式名は,一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といい,現在は二代目です。「初代のシダレザクラ」は,根回り4メートル,高さ12メートル,樹齢200年余で,昭和13年,天然記念物に指定されましたが,昭和22年枯死しました。現在ある桜は,これに先立つ昭和3年に,15代佐野藤右衛門氏が初代のサクラから種子を採取し,畑で育成したものを,同氏の寄贈により,昭和24年に現地に植栽したものです。現在の容姿は,樹高12メートル,幹回り2.8メートル,枝張り10メートルです。
(京都市情報館ウェブサイトより)
東の方
西の方、八坂神社へ
八坂神社から祇園、四条大橋
高瀬川の桜
帰途、桂川から愛宕山
Feb.20,2020 瀧山幸伸 source movie
早朝の祇園枝垂桜
奥のシダレザクラとその付近
帰路
夜、八坂神社から円山公園へ
花見風景
祇園枝垂桜ライトアップ
池の映り込み
時計が…
奥のシダレザクラ付近
帰路
雪景色
雨の早朝、祇園枝垂れ桜は7分咲き
池の周りの紅葉
円山公園
京都市東山区円山町473
日本庭園(回遊式)
円山公園の歴史
平安時代、円山公園のこの辺り一帯は、一面に真葛やススキ、茅が生い茂り、真葛ヶ原(まくずがはら)と呼ばれていた。
江戸時代になって、安養寺塔頭の六阿彌が貸席を始め、次第に賑やかさを増していった。この頃に、「慈円山安養寺」の「円山」がこの辺りの呼び名となった。
六阿彌は、夫々庭園美を競い、種々の講の集まりや、書画の展覧、庭での蹴鞠の催しなど大変なに賑わいとなった。
江戸時代の末には桜の木が植えられ祇園の夜桜として花見客が多く押し寄せた。
公園設置の太政官布告に基づき、京都府は1886(明治19)年に円山一帯を公園地に指定し、明治22年京都市内の管理となり、最初の都市公園となった。
場所は、八坂神社・安養寺・長楽寺・双林寺の各境内地が上知された地域で、その後の整備で1892(明治25)年には公園の敷地面積約86,6412㎡となった。
当時の円山公園は、園内の貸座敷、娼家、借馬所、遊戯場などがあり、一方では草ぼうぼうの荒地が混在していた。
公園の拡張及び改修は、明治25年〜27年に民間地の買収と改修の第1次拡張工事が行われ、枝垂れ桜東の低地に池を彫り、植栽が行われ、ようやく公園としての体裁が整った。
1893(明治26)年に完成した噴水
第1疏水の第三トンネル西口から25mの落差を利用し、1.6㎞の距離を鉄管で繋いで完成させた。
この地は日を追ってますます華やかな行楽の地となり、桜・もみじの名所であった。1889(明治22)年には来遊外国人目当ての洋式ホテルもできた。
有名な枝垂れ桜は、祇園感神院(八坂神社)の三院三坊の一つ、宝寿院の庭にあったもので、維新後の神仏分離後も残り、祇園の夜桜として嬌名をはせる。
初代の枝垂れ桜は昭和23年に枯死した。樹齢200余年、根回り約4m、高さ12mもの巨幹であった。
現在の物は2代目で、昭和24年に佐野藤右衛門氏(15代)が、1代目の種子から実生させた。
「初代の桜」 ≪京都市配布パンフレットより引用≫
現在の円山公園
回遊式日本庭園
作庭は1913(大正2)着手、翌年に完了する。 第二期公園改良工事は建築家の武田五一が指揮し、造園は7代目小川治兵衛(植治)が担当した。
植治は水の流れを作庭の主題とし、1911(明治44)年に完成した第二疏水に水源を求めた。疏水が通じていた東大谷廟に鉄管を通して取設、延長し、滝まで引き、源泉とした。従来は私的な庭園を創作の場にしてきた植治にとって、公共の場での造園造りは新領域であった。
100年余を経過した庭園を追う。
庭園全体図
若干の丘陵を利用し、公園という開かれた場に、滝に始まり池に至る渓谷を自然そのままに再現させ、流れの先には枝垂れ桜が存在する。
円山公園東端の山麓近くの東大谷廟北門、長楽寺参道や左阿彌口を結ぶ道から巡回をスタートする。石段を約20mくだると滝口が見える。
三段の滝
こんもりと盛りあがった茂みの中に流れの源があり、滝口から高さにして3mほど落水して流れが始まる。
がっちりとした石で石組された滝廻りは今も微動もしない。勢いよく飛び出した疏水の水は渓流をつくり、最終には船着き場のある海という池へと流れ込む。
その先、10m程の所に沢飛石があり、石にぶつかりながら渓流となり、約5m先の土橋をくぐる。土橋は人里が近いことを示す。
沢飛石の丸みや曲がった松の木は自然のなせる技である。
さらに7m程進むと小滝の岩場があって、水の落ちる音が聞こえてくる。
流れは瀬となり石橋に着く
ここで道は分岐して迂回する。流れは幅細くなって四阿を経由して元の流路に戻る。
本流の流路に戻り、前に進む。幅広の瀬は草で覆われている。道中、様々な石の形・姿、置き方は植治らしいところ。素材の面白みを活かしている。
橋のたもとにガス灯が立つ。
三条大橋の橋脚を用いた石橋に出合う。大橋の改修で不用となり払下げを受けた。平安神宮神苑で最初に使われた。
流れは池に流れ込む。植治が海を想定して成した池と景観である。
知恩院の華頂山から流れ出た水が、海に見立てたこの池に流れ込むまでを植治は描いた。
瓢箪池に架かった石橋の手前から、やや右に枝垂れ桜を眺望するという演出は、枝垂れ桜を意識してつくり出された。長楽館(1909竣工)も建っていた。
池から流れ出た疏水は「いもぼう」の平野屋の前の流路を流れて落ちる。
いもぼう平野屋本家
「いもぼう平野家本家」は約300年に亘り代々受け継がれてきた、京の名物料理「いもぼう」の技と味を一子相伝(いっしそうでん)で継承者にのみ伝承している。
ひょうたん池周辺へもどる。
しだれ桜さまざま
ひょうたん池周辺
植治が海と見立てた船着場と、利用された大橋の橋脚 公園内には多く見かける。
紅葉の頃の周囲の景観
大正天皇の即位大礼(1915・大正4年)に合わせて、岡崎周辺の整備が集中的に行われた時期に、円山公園の日本庭園は改良工事の一環として作庭された。
7代目小川治兵衛は無鄰菴を手始めに平安神宮(中神・西神苑)、對龍山荘、その他を完成し、平安神宮の東神苑、他の作庭を手掛けながらの造庭であった。
現在、この庭園の辺りは、時として雑草が水路をフタしたりすることもあって、気付かず通り過ぎてしまうが、明治に入って京都が復興する際の大きなシンボルとなった円山公園、その中に造られた流れを伴った庭園は、枝垂れ桜や長楽館とも相まって、当時の人々を圧倒させたであろうとその様子が想像できる。
100余年を経過した今も、健全に維持されていることは嬉しいものである。忘れられつつあるのは残念であるが・・。史実と重ね併せてみると貴重な存在と分かる。
撮影 Mar 30,2013
神宮道から円山公園
青蓮院の大楠
知恩院三門
円山公園の桜ライトアップは深夜1時まで
知恩院のライトアップは午後10時終了
April,2011 撮影:大野木康夫
早朝の円山公園、枝垂桜はもう盛りを過ぎてしまいましたが、周囲は場所取りシートで一杯でした。
Mar.2010 瀧山幸伸 source movie
A camera
いもぼう
東山花灯路と公園
B camera
Apr.2009 瀧山幸伸 source movie
祇園のシダレ桜
マジックアワーの幻想変化
花灯路
Hanatouro light up
いもぼう
坂本竜馬、中岡慎太郎像
与謝野晶子の歌のとおり、情緒豊かなしだれ桜は夜が秀逸。
東山花灯路
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