京都府京都市東山区 東福寺 2014
(Tofukuji, Higashiyamaku,Kyoto city,Kyoto)
Category |
Rating |
Comment |
General |
||
Nature |
||
Water | ||
Flower | 紅葉 | |
Culture | ||
Facility | ||
Food |
Nov.23,2014 瀧山幸伸 source movie
A camera
B camera
東福寺 伽藍
境内全体図
禅堂
国重要文化財 中世より遺る唯一のわが国最古最大の僧堂建築・坐禅道場 1347年再建 鎌倉風の花頭窓が美しい 扁額「選佛場」 扁額の「選佛場 せんぶつじょう」は禅堂のことである。
東司
国重要文化財 通称百雪隠(ひゃくせっちん) 建立:室町前期、わが国最古 禅僧は用便も修行のうち、東司に行くのも厳しい作法があった。
正面約14m、奥行約35m、切妻造
本堂(仏殿)
17年かけて昭和9年に竣工した重層入母屋造の大建築。堂内の一部には日蓮宗信徒が寄進した柱が使われている。
昭和の再建だが大寺院の風格を備え持つ。天井の蒼龍図は堂本印象作 春の涅槃会には明兆の大涅槃図が公開される。
経蔵・殿鐘楼
浴室
国重要文化財 国内最大、東大寺の湯屋に次いで古い浴室。(1459年の銘あり) 蒸し風呂形式
五社成就宮
十三重石塔は国重要文化財 大鐘楼は京都府指定文化財
庫裏・書院・本坊・方丈
開山堂への表門は国重要文化財
開山堂
開山・円爾弁円を祀る。西側には普門院が立ち、その前庭は禅宗式と武家書院式が調和した名園である。
優れた学徳で武家や貴族から信仰を集め、広く仏教界からの信望もあった弁円には花園天皇よりわが国初の国師号が贈られた。
弁円・聖一国師は1280年入定(にゅうじょう)された 楼閣聳える伝衣閣(でんねかく)にある「三国伝来の布袋」は伏見人形のルーツとされる。
普門院
弁円が常住した方丈。
普門院前の庭園は江戸中期の名園
愛染堂
国重要文化財 丹塗のこけら葺き八角円堂 南北朝時代の建築 昭和12年、万寿寺より移された 愛染明王を祀る
東福寺の門
「東福寺」の寺名は、大事業の基礎を奈良の東大寺に、大事業の盛大さを興福寺にならう、という意味から付けられたという。
東福寺の山内には多くの伽藍と二十五ケ寺もの塔頭が、20万㎡に及ぶ京洛一の広々とした敷地内に建つ。
見上げるばかりの雄大さ、無類ののびやかさ、重層の国宝「三門」は東福寺の至宝である。
だが、この東福寺、1960(昭和35)年頃は荒れ放題で、「禅堂」の白壁は落書きだらけの無残な姿であったという。
昭和の大修理(1969〜78)には、4億4500万の巨費が投じられ、9年間にわたって行われた大事業であった。それが今の姿である。
境内には300点を上回る文化財が臥せている。それらを守る役どころの「門」を集めた。
地図
■南大門 京都府指定文化財
■中 門 京都府指定文化財
■北大門 京都府指定文化財
■二王門
国重要文化財 1391(明徳2)年建立 9.6×7.7m 塔頭・万寿寺にあったものを1597(慶長2)年頃移した。
北大門から入ってすぐ左側に建つ。南北朝時代に建てられた八脚門。開かずの門で阿吽二体の仁王さんは収蔵庫入り。
■月下門
国重要文化財 鎌倉前期建立 3.4m×4.5m 切妻造 「檜皮葺の朱塗りの四客門」とあるが朱は見いだせない。
古色蒼然の感である。国重要文化財の愛染堂の西側に建つ。
■日下門(にっかもん)
東福寺の通用門である。
■六波羅門
国重要文化財 鎌倉前期建立 4.6m×5.3m 白い土塀に囲まれる質素な門。
北条氏の六波羅探題に建っていた遺構を1333(元弘3)年に移建したもの。
左右の丸柱が上部の蟇股を挟むような格好で、本瓦葺の屋根を支えている。随所に矢尻や刀傷の後が残る。
■勅使門
京都府指定文化財 勅使の出入りに使われ、現在は管長が晋山式に臨む際に開けられる。
■三門
国宝 1405(応永12)年建立 25.9m×22.1m 禅宗寺院三門の中で最大最古の雄姿を誇る。
本堂を北に仰ぎ、すぐ南に恩遠池(おんし)を配する。
棟の高さ22m、唐様、和様、天竺様を巧みに取り入れた入母屋造、本瓦葺。
楼上(二階)への急傾斜の階段が左右に付いている。仏壇には珍しく頭部に宝冠を付けた木造の釈迦如来坐像と脇侍仏が安置されている。
天井は極彩色。
楼上の南正面にある「みょううんかく」の三文字は足利四代将軍・義持の筆跡「妙なる雲のたなびく楼閣」の意。妙は「女」偏ではない。
廻廊からは京の街が一望できる。鳥羽・伏見の戦いの際、官軍側の見晴台に使われた。
正面左右の柵内の阿吽の仁王様は傷ついて収蔵庫に保管されている。
豪壮な建屋の構造を支える丸太の柱は尋常の大きさでない。軒を支える四隅の柱だけは方形。
これは1585(天正13)年秀吉が補強させた4本柱(通称太閤柱)とされる。
■開山堂楼門
国重要文化財 1823(文政6)年建立 5.6m×9.7m 入母屋造 瓦葺 二階建
開山・聖一国師の墓所に建てられたのが、山内北方の高台に聳える国重要文化財の開山堂(常楽庵)。
通天橋の北端から石段を右に上った所に位置し、屋上にはエキゾッチックな楼閣が見える。開山堂を護持するかのように建つのが楼門である。
■開山堂裏門
国重要文化財 江戸期建立 2.8m×4.2m 普門院の西側入り口に立つ。
通称「赤門」と呼ばれ、江戸時代の創建時は朱塗りの門であった。古色蒼然である。
■龍吟庵・表門
龍吟庵は東福寺の塔頭寺院である。鬱蒼と生い茂る山麓にある、龍吟庵の方丈は現存最古の方丈建築で、国宝に指定されている。
表門は国重要文化財 桃山期建立 2.7m×4.0m 切妻造 左右に白壁土塀が広がる。こけら葺きの屋根が優美なカーブを描く。
1958(昭和33)年に解体修理が行われた。
まだ少し早い紅葉
東福寺本坊庭園
撮影:Nov.02.2014
国指定名勝
東福寺方丈の四周には庭園が巡らされ「八相の庭」と称されてきた。昭和初期の代表的な作庭家、重森三玲が手掛けた庭園として知られる。
この度、国指定名勝に登録され「国指定名勝・東福寺本坊庭園」と改称された。
本坊庭園は方丈の四方を囲む枯山水の庭で、1939(昭和14)年に造られた。三玲がデザインした庭全体に広がる白砂の砂紋は、70年代後半頃まで伝わっていたが、現在は直線的な模様が描かれている。
今回の名勝指定を記念して、重森三玲の作庭当時の砂紋が再現された。
かっての写真などを基に、植木職人が熊手のような道具を使い白砂に模様を描いた。動きのある力強い荒波がよみがえった感じである。
但し、再現された砂紋は、11月上旬までしか見られない。
再現された砂紋
方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなった。
大方丈は、1881(明治14)年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失したが、1890(明治23)年に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮している。
拝観は庫裏から入る。廊下伝いに大方丈縁側に行ける。これから先は縁側から庭園鑑賞するのみである。室内の撮影は禁止である。
大方丈
内部は、3室2列の6室とし、南面に広縁を設けている。中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸としている。
1890(明治23)年に再建された。唐門・庫裏は明治天皇の皇后であった昭憲皇太后の恩賜建築とされる。
本坊庭園見取図
広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道」に因んで「八相の庭」と称していた。
禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみ。
作庭家・重森三玲(1896-1975)によって1939(昭和14)年に完成されたもので、当時の年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として、広く世界各国に紹介されている。
「八相の庭」と命名され、近代庭園の傑作とされる。
砂紋
南庭
正面が恩賜門である。
西庭
北庭
東庭
恩賜門と庫裏
【大方丈側より】
【境内側より】
東福寺 龍吟庵
京都市東山区本町15−812
Nov.02.2014
龍吟庵は東福寺の塔頭の一つ。
通天橋の東に位置する偃月橋(えんげつきょう)を渡ると、鬱蒼と生い茂る山裾にひっそり立つ。
ここは東福寺の第三世で南禅寺の開山でもあった大明(だいみん)国師の住まいとして、亀山上皇から贈られたものとされる。
表門
国重要文化財 桃山後期建立 2.7m×4.0m 切妻造 左右に白壁が広がり、こけら葺の屋根が優美なカーブを描く。
玄関へ向かう
方丈
国宝 単層入母屋造、こけら葺 桁行8間、梁間6間 南面 室町時代初期の作で現存最古の方丈建築 正面東端に唐破風屋根の玄関を敷設。
方丈の撮影は禁止である。
正面中央には双折れ両開きの桟唐戸の入口を設け、左右の柱間に蔀戸明障子を設置する。書院造と寝殿造の手法が融和した名建築。
扁額「龍吟庵」 足利義満筆
開山堂
方丈の背後に建つ。正面に足利義満筆「霊光」、堂内に「勅謚大明国師」の扁額が掲げられる。大明国師坐像(国重要文化財 鎌倉時代)を安置する。
庫裏 国重要文化財
大明国師解説
三つの庭園
方丈を取囲むように造られた三つの庭園。近代の作庭家・重森三玲(みれい)氏の作庭である。 三庭ともに1964(昭和39)年の作。
南庭(方丈正面) 「無の庭」
一木一草をも用いない簡素な白砂敷き。
西庭 「龍の庭」
寺名の「龍吟庵」に因み、龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を、石組で表している。
青石による龍頭を中央に配し、白砂は海を、黒砂は黒雲を、そして竹垣は稲妻模様を表す。
竹垣は雷と稲妻模様を表す。
東庭 「不離の庭」
方丈と庫裏を結ぶ渡廊下に面した長方形の庭園。赤砂を敷いて中央に長石を臥せ、その前後に白黒の二石を配している。狼に襲撃されそうになった国師の身を、二頭の犬が守ったという、国師幼少の頃の故事に基づいて作庭されたとされる。
東福寺三名橋
広大な東福寺の境内には、北谷・中谷・南谷の三つの渓谷を巧みに取り入れている。
谷間を三ノ橋川が東西に流れ、この渓谷にかかる三つの歩廊橋は上流から偃月橋(えんげつきょう 国重要文化財)、通天橋、臥雲橋と称され、この三つの橋を「東福寺三名橋」と呼ばれる。
臥雲橋(がうんきょう)
洗玉澗(せんぎょくかん)渓谷に架けられた三橋の一つ。北門から日下門に渡る本坊の外側の橋 通天橋が一部見える。
通天橋
方丈と開山堂を結んで架かる。洗玉澗に架けられた真ん中の橋である。仏殿から開山堂に通ずる廊下がそのまま屋根付きの橋になった。
ここから眺める渓谷・洗玉澗の紅葉と新緑は絶景。黄金色に染まる珍しい三つ葉楓(かえで)は聖一国師が宋から伝えられた唐楓と言われる。
偃月橋(えんげつきょう)
国重要文化財
三ノ橋川の上流に架かる木造橋廊。塔頭・龍吟庵入口にある。1603(慶長3)年の建築で、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。
偃月は「弓張月」の事
一帯に繁る楓は、開山円爾弁円が中国から持ち帰ったものとされ、葉が三つに分かれ、約200本が生育している。
東福寺塔頭
東福寺の塔頭は総数25寺院ある。その多くが趣向を凝らした庭を持ち拝観できる。紅葉のシーズン、各々の庭園が美しい。
その塔頭の一部の紹介である。
■芬陀院(ふんだいん)
■天得院
桔梗の寺として知られる花の寺。 杉苔に覆われ庭に咲く桔梗が楽しめる春と、 ツワブキと紅葉が 美しい秋の年二回のみ、特別拝観を行っている。
■明暗寺
尺八根本道場。時代劇でよく虚無僧が「明暗」という文字を掲げた偈箱を首から掛けており、一見宗教的な意味を持っているように見えるが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味である。
■栗棘庵(りつきょくあん)
■霊雲院
「九山八海の庭」は、肥後(熊本県)藩主・細川家から贈られた「遺愛石」が有名。
遺愛石を那弥山に見立てて、砂紋で八海を表現する。
■退耕庵
1346年(貞和2)の創建。応仁の乱で衰微したが、慶長年間(1596-1615)に安国寺恵瓊(えけい)が再興(現在ある客殿はこの時の建築である。関ヶ原の役の前年の造営)。
小野小町ゆかりの恋文を胎内に納めて作った玉章(たまずさ)地蔵と小町百歳像がある。
茶室作夢軒は、忍び天井などがあり、関ヶ原合戦の謀議をしたという。(非公開)
明治維新鳥羽伏見の戦いの防長殉難者の菩提所
■龍眠院
■一華院
通常非公開、秋の紅葉の時季には公開され、お茶席が行われる。
苔の絨毯の上に1本だけ枝が伸びた大きな松がある「依稀松の庭(いきまつのにわ)」を眺めながら、一休みがいい。
■龍吟庵
龍吟庵は数ある東福寺塔頭の中で筆頭の塔頭。表門は国重要文化財。方丈は国宝で、日本最古の方丈建築である。
作庭家・重森三玲作の枯山水。白黒の砂は雲を、石組は龍を、竹垣は稲妻を表し、海中から龍が昇天する様を表現している。
表門と西庭
「龍の庭」龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組で表現。
南庭「無の庭」
方丈正面の南庭には、一木一草も用いない簡素な白砂敷き。
東庭「不離の庭」
赤砂を敷いて中央に長石を臥せ、その前後に白黒の二石を配置。狼に襲われそうになった国師の身を、二頭の犬が守ったという。
April 26,2014 大野木康夫
鐘楼
二王門とその付近(慧日幼稚園)
塔頭
臥雲橋
月下門
臥雲橋から通天橋方面の眺め
禅堂
東司
六波羅門
三門
浴室
再び三門から本堂、禅堂
経蔵付近
通天橋
常楽庵
三聖寺愛染堂
帰路
February 14,2014 大野木康夫 source movie
雪の東福寺
北大門
二王門
塔頭群
月下門
臥雲橋から通天橋方面のモノトーンの眺め
日下門
本堂
禅堂
三門
東司
六波羅門
浴室
十三重石塔
偃月橋
龍吟庵
雪だるま
経蔵と殿鐘楼
通天橋と洗玉澗の眺め
雪に霞む伽藍
三聖寺愛染堂
雪の中ではこの建物だけ色彩が映えて異質な感じがします。
常楽庵
洗玉澗入り口から見た通天橋
帰路
鐘楼(萬壽寺山門)
帰りの京阪電車
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中