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京都府京都市 琵琶湖疏水 山科疏水
Lake Biwa Canal in Yamashina, Yamashinaku, Kyoto city

琵琶湖疏水 大津付近蹴上岡崎付近

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April 30,2018 大野木康夫

ねじりまんぽ

        

インクライン

         

九条山浄水場付近

                             

蹴上浄水場

                             

府道四ノ宮四ツ塚線を山科へ

           

日ノ岡から琵琶湖疏水へ

  

第4トンネル東側付近

                    

東へ

   

第3トンネル西側付近

              

第3トンネル東側付近

                            

さらに東へ

                                       

東海道線山科大カーブ遠望

     

さらに東へ

                              

山科大カーブ撮影ポイント

   

東へ

           

浅くなっているところはかつて山科の小学校がプール代わりに使っていた場所

                  

April 6,2016 大野木康夫 source movie

安朱橋付近の桜と菜の花

                         



May 2015 中山辰夫

山科疏水

●【コース】藤尾の第1トンネル出口から疏水に沿って東山緑地公園に入り、四ノ宮・安朱・御陵・東山台を経由して第3トンネル入口に至るコース。
途中に諸羽トンネル、第2トンネルや四ノ宮・新諸羽・安祥寺の舟溜がある。唐毘沙門堂に向かうコ〜スも含む。
コース概説図
 

長等山を後にし、藤尾集落に入る。
    

疎水の概況
 

第1疏水の「第1トンネル」西口洞門(出口)
国史跡 近代化遺産
長等山の下を京都市山科区藤尾までトンネル内を流れてきた第1疏水は、藤尾の地で開水路となり、華麗な姿を人々の前にみせる。
    

山形有朋扁額
廓其有容(かくとしてそれかたちあり)
悠久の水をたたえ,悠然とした疏水のひろがりは,大きな人間の器量をあらわしている
    

疏水は両側に育つ桜の古木の間を西進する。左側は道路を挟んで民家、右側は山地である。
          

緊急遮水ゲートと測水機
     
伊達君子選手が学生時代に汗を流した四宮テニスクラブが見える。
橋は三角橋と称される。道から石段を設けて橋の高さを上げ、舟を通りやすくしたといわれる。ここは片側だけである。

洛東用水取入口
     
洛東用水は多目的用途を目した琵琶湖用水の目的のひとつである灌漑用水として、この地で分水され山科盆地の四ノ宮・音羽地区を潤した。

第1号橋(藤尾橋) 
    
ここから京都である。橋の土台部分が煉瓦と石組みでできている。建造当時の土台のままのようである。1888(明治20)年(1888)に建設された。
疏水の第1号橋で、疏水最古の橋。疏水には架かる16の橋が架かっている。のうち、1号から11号までは番号がついている。

「一燈園」周辺
京都市山科区四ノ宮柳山町8-3
西田天香によって明治末期に設立された懺悔奉仕団体。「無所有・社会奉仕・ざんげ」を信条として、各地で便所掃除の奉仕や托鉢を重ね理解者の増加で、1929(昭和4)年山科に集団共同生活の場をつくるに至った。
柳山橋は第2号橋で、疏水建設同時の明治22年(1889)9月に建設された。
     
香倉院は資料館で、西田天香の遺品を中心に、河井寛次郎・棟方志功・倉田百三・等の資料が展示されている。

周辺の桜は古木で、見事である。
               

「四ノ宮舟溜」と「諸羽トンネル」東口(入口)
一燈園の敷地の西端にある。柳山橋の先にトンネルが見え、その前の水路が広がっている。
琵琶湖疏水には、大津から蹴上までに3か所の舟溜りがあり大津から最初の舟溜りであった。琵琶湖疏水は多目的疏水であり、舟溜りは舟運のための施設で、京から大津に上る舟を曳く船頭・曳夫の休憩所とされる。
      

諸羽トンネル
当初疎水の流れは山裾を巻いて流れていたが、1970(昭和45)年の湖西線工事との関係で、四ノ宮舟溜から諸羽に直接抜ける「諸羽トンネル」ができた。
トンネルは全長520m、入口から出口が見える。
    

通船テストの航行
     

東山緑地公園
旧諸羽舟溜跡が公園となっている。
     

道脇に「東山緑地公園ジョギングコース」の案内がある。この界隈は散歩道としても人気が高い。
   

疏水には至る所にレンガが使われておりその数は凡そ1400万枚必要ともいわれる。当時の日本国内には疏水工事の需要を充たす生産力がなく、御陵にレンガ工場が建設されたと案内板にある。

第2疏水トンネル試作物と石積跡や第3号三角橋跡

諸羽神社
京都市山科区四ノ宮中在寺町17 散策路左側下に広がる。
    
山科地区で最も古い神社。9世紀頃の創建と伝えられる古社。天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命8あめのふとだまのみこと)を祀る。
この2神を兩羽「諸羽」と称したが、後に祭神が6神に増え、諸羽と改称したと伝わる。
この地は仁明天皇の第四皇子「人康親王)が住まわれたことから「四ノ宮」と呼ばれる。近くに人康親王が出家して隠棲された山荘跡と伝わる「十禅寺」がある。

諸羽トンネル西口(出口)付近
        
出口前は広い「新諸羽舟溜」となっている。舟溜りが出来たのは1970(昭和45)年で、トラックも貨物列車もある時代、その役目は?

現在位置
  

安朱橋(第4号橋)付近
数年前には園児の通り道近くまで猪が漫歩していたとか。
地元の方々がボランテイアで植え付けた菜種が桜の満開を誘っていたが、今年は、鹿が花を喰い、猪が根っこを掘り起こして形無しである。
       

近くに観光船 テスト運航の乗船・下船場が設けられている。 この付近の桜も美しい。
        

安朱橋は1889(明治22)年に建設された。2000(平成12)年改修された。
  

毘沙門堂も近い。
     

現在位置
 

安朱橋近辺で多く飛来する白鷺と疏水で多く見られる三角橋
     

洛東高校
          
この近辺の疏水のカーブがいい

安祥川と第1疎水台疏水の交差点。
水路橋の土台は煉瓦造り。アーチ型の美しい橋である。年代は不詳、明治の建造物か?
     

第6号橋(安朱橋)と安祥寺
洛東高校への洛東橋を過ぎるとS字を描いて南東へと進み安祥寺橋(第6号橋)に達する。
この橋も、1889(明治22)年、疏水建設当初に造られた古い橋で三角橋である。
すぐ北に安祥寺がある。安祥寺橋の先、水路は少し拡がるが、そこが安祥寺舟溜りという。
     
安祥寺
法華経護国寺 宗派:高野山真言派 創建:848(嘉祥元)年 開祖:恵運
仁明天皇の女御”藤原順子“が入唐僧恵運を開基として創建した。往古は広大な寺域を有していた。応仁の乱後荒廃した。正面の建物は江戸時代の復興。
”藤原順子”の「後山階陵」は安祥山中にある。「法華護国神社」は昭和59年に山科に移転してきた。

安祥寺舟溜
         
安祥寺山裾が流れに迫ってきて、左側の散歩道には桜の老木が続く。山科区内も見渡せる

天智天皇陵
      
大化の改新を中臣氏とともに推し進めた天智天皇の陵墓。参道の奥が緩やかな明箕向きの緩やかな斜面に築かれた上円下方墳となっている。
疏水の流れに沿って神域を囲う白いコンクリート柵が蜿蜒と続く。石段を下りて屈曲した道を辿る。三条通りに面した御陵の正面入り口から天皇陵まで約400mある参道は砂利と石畳とで成る。千数百年の歴史をもつ神聖な別世界が、ボランテイアの方々の手で厚く守られている様子が窺える。
コンクリート柵は蜿蜒と続く―陵墓の広さが分かる
    

第8号橋
    

「正嫡橋」〜「本圀寺」
京都市山科区御陵大岩 宗派:日蓮宗 本尊:三宝尊
天皇陵のコンクリート柵に沿って進むと、「本本圀寺」の参道につながる朱塗りの「正嫡橋」がる。渡って参道を進むと朱塗りの立派な「開運門」がある。
入口にある開運門は通称”赤門”と呼ばれており、1592年に加藤清正が寄進したもので、1996(平成8)年に復元された。
      
開運門をくぐると広大な境内で根本道場、本師堂、加藤清正御廟所等が並ぶ。「金ピカの寺」とされていたが、金の塗色は消された。
秀吉の姉・日秀尼公が寄進した大きな梵鐘の塗色も消された。九頭竜銭洗弁財天は金運・財運の神様。

第9号橋(大岩橋) 
3300mジョギングのゴール・スタート地点に近い。三角橋である。 
   

永興寺
宗派:曹洞宗 日本曹洞宗開祖・道元とゆかりがある寺 
豊川稲荷社分祀る
    

第10号橋(黒岩橋) 国史跡
山ノ谷橋とも呼ばれる。11号橋の実績を活かして1904(明治37)年に造られた日本最初のアーチ型鉄筋コンクリートの橋 永興寺への参道でもある。
       

第1疏水第2トンネル東口
国史跡 近代産業遺産
琵琶湖第1疏水開通当時に架かっていた橋 長さは240m
      
扁額は井上馨により隷書で記された。
「仁以山悦智為水悦」 仁者は山のように知恵が豊かであることを喜び、知者は水のように滞ることなく自在なるを喜ぶ」の意。

第2トンネル西口(出口)
国史跡 近代化産業遺跡
     
扁額
「随山至水源」(やまにしたがいすいげんにいたる) 西郷従道による篆書で記されている。山に沿ってゆくと水源に至り着く。
 

日ノ岡取水池橋 真山科浄水場取水口
    
この地で琵琶湖疏水から取水し、およそ4キロの導水トンネルを自然流化で下り、新山科浄水場に導水する。
この敷地は湖水建設当初の日ノ岡舟溜跡である。東側のみ開けるこの地は、日の出とともに「日が当たる岡」とみわれる。

第11号橋
アーチ状をしたコンクリート製の小橋。 1903(明治36)年に造られた。 幅1.5m 長さ7.2m+
     
この橋の鉄筋は疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されている。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疏水の土木工事などに生かされた。

記念碑
右岸橋詰にある『本邦最初鉄筋混凝土橋”(コンクリート)と書かれた立派な碑。
裏面に「明治三十六年七月竣工 米蘭式鉄筋混凝土橋桁 工学博士田辺朔朗書之」と記されている。
「混凝土」という文字が過去のものとなり読みづらいため、京都洛東ライオンズクラブが「日本最初の鉄筋コンクリートの橋」という新しい石碑を建てた。
  

第3トンネル東口(入口)
国史跡 近代産業遺産 1889(明治22)年完成 850m 
     
扁額は松方正義の「過雨看松色」(かうしょうしょくをみる)。通り雨の中で松の鮮やかな色をみるの意。
  

疎水は第3ンネルを通って「蹴上舟溜」に向かう。







April 4,2013 大野木康夫 source movie

毘沙門堂参道、安朱橋付近の桜と菜の花

                          

四ノ宮、一燈園付近の桜

                       



April,2011 撮影:大野木康夫 source movie

区間 滋賀県大津市藤尾奥町18地先〜京都府京都市山科区日ノ岡堤谷町32-1地先

琵琶湖疎水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の琵琶湖畔から、長等山下を抜け、京都府京都市山科の山裾をめぐり、蹴上から鴨川左岸に至り、南下して深草・伏見を経、宇治川に注ぐ近代の都市疎水である。
琵琶湖から京都への運河建設は明治時代以前から計画されていたが、明治十四年(一八八一)、京都府知事に任命された北垣国道は、疎水を開き、これを舟運・動力・灌漑等に利用して京都の産業振興を図ろうとした。
北垣は同年、疎水線の測量を命じ、続いて勧業諮問会および上京・下京両区連合会に諮り、事業準備を進めた。
大津・鴨川間の疎水および疎水分線の開削事業は、明治十八年一月、政府の起工特許を得、同年六月、田邊朔郎を主任技師として長等山下を抜く第一隧道から工事が着工された。
第一隧道は計画線で約二・四キロメートルと、当時日本最長のものであったが、この工事ではわが国初めて竪坑工法が採用され、長等山西麓の藤尾に作業用の第一竪坑(深さ四七メートル)を抜き、ついで通気用の第二竪坑(深さ二〇メートル)を入れ、東西両口からの掘削と併せて工事が進められた。
掘削はほとんど入力により、新型のポンプを次々に導入して湧水を克服し、明治二十二年二月に貫通、翌二十三年二月に完成した。
第一隧道に並行して第二隧道・第三隧道の掘削も行われ、それぞれ明治二十年十二月、同二十二年三月に完成している。
隧道の出入口には、当時の要人たちの揮亳した石額を飾ったおのおの個性ある形態の門が設置された。
この間、隧道以外の疎水線工事や閘門の設置工事も進められた。
また、蹴上から大文字山の山麓にそい、南禅寺・若王子等東山の山麓を北へ流れ、高野から西進して堀川へ注ぐ疎水分線も、明治二十年九月に着工し、同二十三年三月に竣工した。
全線路の通水試験は明治二十三年三月で、翌四月に竣工式が行われた。
なお、この成功をまって、鴨川から伏見に至るいわゆる鴨川運河が明治二十五年に着工、同二十八年に完成している。
第一期の疎水工事に動員された人夫は延べ四〇〇万人、使用した煉瓦は一、四〇〇万個、木材三〇〇万才(一才は一立方尺)、セメント三〇、〇〇〇樽、ダイナマイト類七、〇〇〇貫目に及んだという(田邊朔郎『琵琶湖疎水工事図譜』)。
これらの資材の供給は当時の国内生産のみでは十分ではなく、例えば煉瓦は山科の御陵村(現山科区)に専用の煉瓦工場を建てて大半を焼成し、セメントは過半を輸入し、ダイナマイト・雷管はすべて輸入であった。総工費は一二五万円余で、産業基立金、国庫・府庁下渡金、市債の他、市民への賦課金等によってまかなわれた。
疎水の各所には舟運用の舟溜りが設けられたが、落差の大きい蹴上には、斜面に鉄道を敷き、架車に舟を載せて上げ下げするインクラインが設けられた。
また、工事の間、田邊らは米国コロラド州のアスペン水力発電所を視察、琵琶湖疎水でも水力発電を計画し、蹴上にわが国の初の水力発電所を設置した。蹴上発電所は明治二十四年五月に完成し、同年十一月には送電を開始している。
この電力は主に工業動力に振り向けられ、また、明治二十八年にわが国初 の電気鉄道(路面電車)が登場するなど、京都市発展の一大動力となった。
明治四十一年には、増大する電力需要への対応と水道事業等のために全線隧道の第二疎水が着工、同四十五年三月に完成された。
この第二疎水の開削に伴い、蹴上より下流の疎水は拡幅され、蹴上発電所が増設されたほか、夷川と墨染に発電所が新設され、京都市内の電力需要をまかなうようになった。
これらの電気事業は、昭和十六年(一九四一)の配電統制令に伴い、翌一七年からは関西電力に継承された。
現在、琵琶湖疎水は、京都市水道局の管理の下、主に京都市民の上水道用水として利用されている。
鴨川にそう地点より下流は暗渠の部分が多くなり、かなり改修が加えられたが、夷川より上流については、昭和四十五年の国鉄湖西線建設で諸羽付近の水路が埋め立てられ、新隧道が開削された以外は、基本的にその水路形態・施設をとどめ、明治期の疎水の様相をよく残している。
今回、指定を図るのは、第一疎水の第一・第二・第三隧道の出入口、第一竪坑、第二竪坑、日本初の鉄筋コンクリート橋(明治三十六年竣工)、インクライン、疎水分線の水路閣等である。
琵琶湖疎水の開削工事は、西欧の近代的土木技術を学んだ日本人技術者の手になる初期の大規模土木工事であり、明治中期における日本の土木技術水準の到達点を示す土木史上画期的な事業であった。
また、舟運・発電・水道等に広く利用されることを通じて京都の近代都市としての発展をもたらした点で、大きな意味をもつものであった。よって史跡に指定し、その保存を図るものである。 
(国指定文化財等データベースより)

琵琶湖疏水(史跡としての名称は「疏水」、解説文では普通名詞として広くつかわれる「疎水」の表記となっている。)のうち、山科盆地を流れる第一疏水は桜の名所として知られています。

桜の季節に自転車で廻ってみました。

第一隧道西口

第一隧道は、建設当時(明治23(1890)年)としては日本一長い(2,436m)トンネルだったもので、シャフト(竪坑)を使って掘った隧道としても日本で初めてのものです。
大津市の三井寺の南側が東口で、山科盆地にある藤尾奥町に西口があります。
扁額の「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」の文字は山縣有朋の揮毫です。(東口の「氣象萬千」は伊藤博文)

      

西口から疏水沿いに西に向かいます。
疏水の両側には桜が植えられています。
ほどなくすると藤尾橋に着きます。
藤尾橋の北側には、伊達公子、木戸脇真也、竹内映二など、日本を代表するテニスプレイヤーを輩出した四ノ宮ローンテニスクラブがあります。

                  

琵琶湖疏水は、運河法に基づく運河であり、かつては大津から京都へ向けての物流の大動脈として、行き交う船で賑わいました。
そのため、疏水に掛かる橋は、船が通りやすいように高くなっており、両側に三角形の石段が設けられていました。(三角橋)
藤尾橋は老朽化により掛け替えられましたが、土台に架橋当時の煉瓦積みが残っています。
次に掛かる橋は、比較的新しいものですが、石積みにより三角橋の形で築造されています。

     

だんだん桜の木の密度が濃くなってきます。
四ノ宮柳山町の一燈園付近は、山科疏水の中でも一番の見所になっています。

                    

一燈園付近から、第一疏水は、JR湖西線建設の際に作られた諸羽トンネルを通ります。
遊歩道は、昔の疏水の流路を通っていくことになります。
途中の山裾に、第二疏水(明治45(1912)竣工、全区間暗渠)のトンネル上部の複製と言われる構造物が置かれています。

     

遊歩道から山科の街並みを眺めることができます。

    

諸羽トンネルの西側、毘沙門道付近には、地元の人の手で菜の花が植えられており、桜と菜の花が一緒に咲いています。

            

毘沙門道から洛東高校までの間も桜がきれいな場所です。

            

さらに西に行くと、安祥寺(非公開)があります。安祥寺は平安時代開基の古刹で、往時は上寺と下寺に分かれて広大な寺域を誇りましたが、現在は衰微してひっそりとたたずんでいます。
京都国立博物館に寄託されている五智如来像(重要文化財)は迫力があります。(現在は常設館改修中のため見ることができません。)

      

さらに西、御陵、日ノ岡地区に向かいます。
桜の木が点在し、朝はウォーキングやジョギングをする人が行き交います。

                    

本圀寺の正嫡橋付近にも、桜の木がいくらかあります。

       

さらに西に行くと大岩橋、次いで山ノ谷橋があります。
山ノ谷橋は、明治37(1904)年建設の日本最初のコンクリートアーチ橋です。
今でも健全で、優美な姿を見せています。

       

山ノ谷橋のすぐ西が第二隧道東口です。
扁額の「仁以山悦智為水歡(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ)」は井上馨の揮毫です。

       

トンネルを迂回して少し行くと、第二隧道西口です。
扁額の「隨山到水源(やまにしたがいてすいげんにいたる)」は西郷従道の揮毫です。

      

山科疏水もそろそろ終わりに近づいてきました。

    

手前に日ノ岡第11号橋がかかっています。
明治36(1903)年建設で、日本で最初の鉄筋コンクリート橋と言われていましたが、近年、神戸市の若桜橋の竣工の方が1箇月ほど早かったと言われています。

   

山科疏水の終点、第三隧道東口です。
第三隧道の西口は、山科区日ノ岡一切経谷町ですが、京都盆地の東端にあたり、山科盆地からは離れています。
東口の扁額「過雨看松色(かう しょうしょくをみる)」は松方正義の揮毫です。(西口の「美哉山河」は三条實美の揮毫です。)

        


以前、野崎さんが山ノ谷橋と日ノ岡第11号橋をwebマガジンに投稿されています。





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