京都府京都市山科区/左京区/伏見区/ 滋賀県大津市 琵琶湖疏水施設
Biwakososui,Yamashinaku/Sakyoku/Fushimiku,Kyoto City,Kyoto / Otsu City,Shiga
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このページは琵琶湖疏水の総合ページで、京都市/滋賀県大津市の各ページにも収録があります。
Biwakososui,Otsu City,Shiga |
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Biwakososui,Yamashinaku, Kyoto City,Kyoto |
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May and June,2025 大野木康夫 source movie
【文化審議会答申資料から引用】
(重要文化財)
琵琶湖の湖水を京都へ疏通する長大な運河とその関連施設。東海道とほぼ並行する第一疏水、南禅寺境内を横切り北上する疏水分線は、農商務省及び京都府が立案した計画に内務省土木局が手を加え、工事は田邉朔郎と島田道生を中心に明治23年に竣工。鴨川運河は同27年の開通。第一疏水を補う第二疏水は同45年の完成。舟運、灌漑、防火、発電、水道等の都市近代化に係る多岐にわたる機能を集約した大規模な施設。特に新技術を積極的に導入し、建設当時我が国最長規模を誇った第一隧道は、近代トンネルの規範的存在。明治維新後に衰頽した京都の再興を支えた、京都の近代化を象徴する都市基盤施設。
(国宝)
琵琶湖から京都へ水を運ぶ長大な運河を構成する施設。煉瓦造の第一から第三隧道は、両端に古典主義様式等の装飾を施した重厚な坑門を構え、伊藤博文、山縣有朋ら元勲が揮毫した扁額を掲げる。特に第一隧道では我が国で初めて近代的な竪坑工法を導入し、長大な規模を実現。インクラインは、比高差約36mの上下舟溜間を結び、舟運路の要となる、建設当時最大規模の傾斜鉄路。南禅寺境内を横切る水路閣は、当時最長を誇った威風堂々たる煉瓦造14連アーチ水路橋。西洋技術の習得過程にあった明治中期において、世界的に高い評価を得た類い希まれな建造物であり、明治日本における都市基盤施設の金字塔。また、風雅な園地群などに水を供給し、自然と人工、伝統と近代の景観が織りなす近代京都の比類ない風致を育んだ琵琶湖疏水の代表遺構でもあり、深い文化史的意義が認められる。
【国指定文化財等データベースから引用】
琵琶湖疎水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の琵琶湖畔から、長等山下を抜けて京都府京都市山科の山裾をめぐり、蹴上から鴨川左岸に至り、南下して深草・伏見を経、宇治川に注ぐ近代の都市疎水である。
琵琶湖から京都への運河建設は明治時代以前から計画されていたが、明治十四年(一八八一)、京都府知事に任命された北垣国道は、疎水を開き、これを舟運・動力・灌漑等に利用して京都の産業振興を図ろうとした。北垣は同年、疎水線の測量を命じ、続いて勧業諮問会および上京・下京両区連合会に諮り、事業準備を進めた。
大津・鴨川間の疎水および疎水分線の開削事業は、明治十八年一月、政府の起工特許を得、同年六月、田邊朔郎を主任技師として長等山下を抜く第一隧道から工事が着工された。第一隧道は計画線で約二・四キロメートルと、当時日本最長のものであったが、この工事ではわが国初めて竪坑工法が採用され、長等山西麓の藤尾に作業用の第一竪坑(深さ四七メートル)を抜き、ついで通気用の第二竪坑(深さ二〇メートル)を入れ、東西両口からの掘削と併せて工事が進められた。掘削はほとんど入力により、新型のポンプを次々に導入して湧水を克服し、明治二十二年二月に貫通、翌二十三年二月に完成した。第一隧道に並行して第二隧道・第三隧道の掘削も行われ、それぞれ明治二十年十二月、同二十二年三月に完成している。隧道の出入口には、当時の要人たちの揮亳した石額を飾ったおのおの個性ある形態の門が設置された。この間、隧道以外の疎水線工事や閘門の設置工事も進められた。また、蹴上から大文字山の山麓にそい、南禅寺・若王子等東山の山麓を北へ流れ、高野から西進して堀川へ注ぐ疎水分線も、明治二十年九月に着工し、同二十三年三月に竣工した。全線路の通水試験は明治二十三年三月で、翌四月に竣工式が行われた。なお、この成功をまって、鴨川から伏見に至るいわゆる鴨川運河が明治二十五年に着工、同二十八年に完成している。
第一期の疎水工事に動員された人夫は延べ四〇〇万人、使用した煉瓦は一、四〇〇万個、木材三〇〇万才(一才は一立方尺)、セメント三〇、〇〇〇樽、ダイナマイト類七、〇〇〇貫目に及んだという(田邊朔郎『琵琶湖疎水工事図譜』)。これらの資材の供給は当時の国内生産のみでは十分ではなく、例えば煉瓦は山科の御陵村(現山科区)に専用の煉瓦工場を建てて大半を焼成し、セメントは過半を輸入し、ダイナマイト・雷管はすべて輸入であった。総工費は一二五万円余で、産業基立金、国庫・府庁下渡金、市債の他、市民への賦課金等によってまかなわれた。
疎水の各所には舟運用の舟溜りが設けられたが、落差の大きい蹴上には、斜面に鉄道を敷き、架車に舟を載せて上げ下げするインクラインが設けられた。また、工事の間、田邊らは米国コロラド州のアスペン水力発電所を視察、琵琶湖疎水でも水力発電を計画し、蹴上にわが国の初の水力発電所を設置した。蹴上発電所は明治二十四年五月に完成し、同年十一月には送電を開始している。この電力は主に工業動力に振り向けられ、また、明治二十八年にわが国初
の電気鉄道(路面電車)が登場するなど、京都市発展の一大動力となった。明治四十一年には、増大する電力需要への対応と水道事業等のために全線隧道の第二疎水が着工、同四十五年三月に完成された。この第二疎水の開削に伴い、蹴上より下流の疎水は拡幅され、蹴上発電所が増設されたほか、夷川と墨染に発電所が新設され、京都市内の電力需要をまかなうようになった。これらの電気事業は、昭和十六年(一九四一)の配電統制令に伴い、翌一七年からは関西電力に継承された。
現在、琵琶湖疎水は、京都市水道局の管理の下、主に京都市民の上水道用水として利用されている。鴨川にそう地点より下流は暗渠の部分が多くなり、かなり改修が加えられたが、夷川より上流については、昭和四十五年の国鉄湖西線建設で諸羽付近の水路が埋め立てられ、新隧道が開削された以外は、基本的にその水路形態・施設をとどめ、明治期の疎水の様相をよく残している。
今回、指定を図るのは、第一疎水の第一・第二・第三隧道の出入口、第一竪坑、第二竪坑、日本初の鉄筋コンクリート橋(明治三十六年竣工)、インクライン、疎水分線の水路閣等である。琵琶湖疎水の開削工事は、西欧の近代的土木技術を学んだ日本人技術者の手になる初期の大規模土木工事であり、明治中期における日本の土木技術水準の到達点を示す土木史上画期的な事業であった。また、舟運・発電・水道等に広く利用されることを通じて京都の近代都市としての発展をもたらした点で、大きな意味をもつものであった。よって史跡に指定し、その保存を図るものである。
令和7(2025)年5月16日に開催された文化審議会で、琵琶湖疏水施設16所4基4棟を重要文化財に、そのうち4所1基を国宝に指定するよう答申されました。
これらの施設は滋賀県大津市(3所、うち1所が国宝)と京都府京都市(山科区5所3基1棟、うち2所が国宝、東山区1所、左京区6所1基2棟、うち1所1基が国宝、伏見区1所1棟)にまたがって分布しており、重要文化財建造物として府県をまたいで1件で指定されるのはおそらく初めてです。
また、新指定でいきなり国宝に指定されるのは正倉院、旧東宮御所(いずれも国所有)に続いて3例目です。
公開期間外の蹴上浄水場第一高区配水池(平成24年に撮影しています)を除き、撮影を試みました。
なお、審議会での指定名称、平成8(1996)年の史跡指定名称ともに正式名称(公の施設としての設置条例は「疏水運河条例」)としての「琵琶湖疏水」となっていますが、史跡指定時の解説文では「琵琶湖疎水」となっているのは、平成8年当時の国語表記の考え方で当用漢字外の「疏水」(人工水路を表す本来の文字)を当用漢字である「疎水」に置き換えたものと考えます。
大津閘門及び堰門(重文答申)
明治22(1889)年の建設
所在地:滋賀県大津市三井寺町7-32
京阪電鉄石山坂本線三井寺下駅から西に100mほどに位置しています。琵琶湖から来た船が水面が低い大津運河に入るために設けられた閘門と、琵琶湖の水を通す堰門からなっています。水運が途絶えた現在は、保守のための船が通るのに使用されています。
管理棟、疏水船の乗船場として使用されています。
大津運河(重文答申)
明治20(1887)年の建設
所在地:滋賀県大津市三井寺町
大津閘門及び堰門から第一隧道までの疏水路です。桜の時期はライトアップされます。
第一隧道(国宝答申)
明治23(1890)年の建設
所在地:滋賀県大津市三井寺町~藤尾奥町
全長2,444mで、建設当時は日本最長のトンネルだったそうです。工期短縮のため竪坑工法を採用しましたが、出入口の中心線のずれは6mmにおさまったということです。園城寺のある長等山の南を通っています。
東口
三尾神社のすぐ南に位置しています。
扁額は伊藤博文揮毫「氣象萬千」
第一~第三隧道の扁額は東口は陰刻、西口は陽刻になっています。
トンネル内
トンネル内の扁額
北垣国道揮毫「寶祚無窮」
トンネル内、第一立坑
西口
京阪バス藤尾小金塚バス停のすぐ西に位置しています。
南側の公道から見えますが冬季以外は極めて見にくい状況です。
扁額は山縣有朋「廓其有容」
第一立坑
所在地:滋賀県大津市稲葉台13
東海道(大関越)の間道である小関越を山科側から登ってすぐのところに位置しています。
フェンスに囲まれており、近づくことはできません。
日本で初めて採用された竪坑方式で掘られた立坑で、地上部の直径5.5m、深さ47mです。
京阪バス藤尾小金塚バス停から徒歩13分です。
第二立坑
所在地:滋賀県大津市藤尾奥町12-24
民家の奥にあり、川の護岸の上を進んでいかないと見ることができません。
地上部の直径2.5m、深さ22.7mで、八角形の煉瓦積みになっており、採光や換気のための施設でした。
疏水船からの風景(第一隧道~安朱川水路橋)
安朱川水路橋(重文答申)
明治23(1890)年の建設
所在地:京都府京都市山科区安朱中溝町48
京都府立洛東高校の東に位置しています。
子どもの頃に蛍が乱舞していた記憶があります。また、夏の暑い日は遊びに行って魚(ゴリ)やタニシを取っていました。
煉瓦の刻印は「ソ+漢数字」、「カ+漢数字」で、山科区御陵に建設された琵琶湖疏水煉瓦工場で作られたものと思われます。
安朱川水路橋続き
疏水船からの風景(洛東高校~第一〇号橋)
府道四ノ宮四ツ塚線(三条通)から第一〇号橋へのアプローチ
第一〇号橋、第二隧道、第一一号橋、第三隧道東口は密集しています。第一〇号橋へは地下鉄御陵駅から徒歩9分です。
栗原家住宅主屋(登録有形文化財)
昭和4(1929)年の建築
コンクリートブロック造3階建、建築面積186㎡
所在地:京都府京都市山科区御陵大岩17-2
【国指定文化財等データベースから引用】
中村式鉄筋コンクリートブロック造の三階建住宅。直方体を複合した外観を持ち、正面中央の玄関ポーチと直上の居間を半円形に張出す。内部は階段ホールを中心に、洋間を主とする各室を配する。中村の唱えた構造的合理性と美観性が具現化されたモダニズム住宅。
本野精吾の設計で京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学)学長の染色学者鶴巻鶴一の邸宅として建てられました。
第一〇号橋(重文答申)
明治37(1904)年の建設
所在地:京都府京都市山科区御陵大岩
通称:山ノ谷橋、黒岩橋
国内最初期に建設された鉄筋コンクリート橋で、田辺朔郎と山田忠三の設計による本格的なアーチ橋です。
第二隧道(国宝答申)
明治21(1888)年の建設
所在地:京都府京都市山科区御陵黒岩~御陵封ジ山町
全長125mの短い隧道です。
東口
石造ポータルで重厚な造りです。右岸から上部に近づくことができます。
扁額は井上馨揮毫「仁以山悦智爲水歡」
トンネル内
西口
煉瓦造ポータルで葱花形の意匠です。
南側の児童公園からフェンス越しに見ることができます。
扁額は西郷従道「随山到水源」
第一一号橋(重文答申)
明治36(1903)年の建設
所在地:京都府京都市山科区日ノ岡堤谷町
国内では最初期に建設された鉄筋コンクリート橋で、田辺朔郎が試験的に架橋したものだそうです。
第三隧道(国宝答申)
明治22(1889)年の建設
所在地:京都府京都市山科区日ノ岡堤谷町~日ノ岡夷谷町
全長852mのトンネルで九条山の地下を通っています。
東口
煉瓦と石造のポータルはゴシック風の意匠です。
扁額は松方正義「過雨看松色」
トンネル内
西口
石造のポータルはルネッサンス風の意匠です。
扁額は三条実美「美哉山河」
蹴上船溜アプローチ
地下鉄蹴上駅からすぐです。第三隧道西口から第五隧道入口までは密集しています。
旧御所水道大日山水源池喞筒所(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市山科区日ノ岡夷谷町17-5
【日本遺産ポータルサイトから引用】
第1疏水から大日山貯水池に水を上げるポンプを据え付けた建物です。かつて、御所水道として、京都御所に防火用水を送水していました。明治期を代表する宮廷建築家であり、京都国立博物館や東京の赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した片山東熊(とうくま)の作品です。円柱付きバルコニーなどを備えた重厚感ある意匠に仕上げています。
「びわ湖疏水船」の乗下船場のすぐそばにあり、舟の乗下船時に間近で見ることができます。また、付近の大神宮橋からも眺めることができます。
新旧両水連絡洗堰(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市山科区日ノ岡一切経谷町
第二疏水が日岡隧道で第一疏水に合流するところに推移差を調整するために設けられた洗堰です。
日岡隧道(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市山科区日ノ岡一切経谷町
全線トンネルである第二疏水の京都側の出口です。
合流隧道(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市山科区日ノ岡一切経谷町
第二疏水の水を蹴上放水所に導くトンネルです。
蹴上浄水場第一高区配水池(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市東山区粟田口華頂町3
日本最初の急速濾過式浄水場です。設置当初の第1系統の建造物は第一高区配水池を除き平成9(1997)年に撤去されました。
5月のつつじの時期に一般公開されます。(写真は平成24(2012)年5月の一般公開の時のもの)
本願寺水道水源池(重文答申)
明治27(1894)年の建設
所在地:京都府京都市左京区粟田口山下町
明治期の東本願寺再建にあたり、防火用水として引かれた本願寺水道の水源池です。
インクライン(国宝答申)
明治22(1889)年の建設
所在地:京都府京都市左京区粟田口山下町~南禅寺草川町
高低差が36mある蹴上船溜と南禅寺船溜を結ぶ全長582mの傾斜鉄道です。
南禅寺方面に抜ける下部のトンネルは「ねじりまんぽ」と呼ばれる煉瓦を斜めに積み上げたものです。
蹴上発電所旧本館(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市左京区南禅寺福地町41
第二疏水完成にあわせて改築された煉瓦造りの大きな建物です。
ペルトン式水車(附指定)
第1期蹴上発電所に20台設置され、使用されていた水車です。琵琶湖疏水記念館に屋外展示されています。
スタンレー式発電機(附指定)
第1期蹴上発電所に19台設置されていた発電機です。水車と同じく琵琶湖疏水記念館に屋外展示されています。
蹴上放水所(重文答申)
明治45(1912)年の建設
所在地:京都府京都市左京区粟田口山下町
合流隧道からの水を蹴上発電所の送水管に送る際に推移調整を行う洗堰です。
南禅寺水路閣(国宝答申)
明治21(1888)年の建設
所在地:京都府京都市左京区南禅寺福地町南禅寺境内
蹴上船溜から分岐した疏水分線が南禅寺境内を通過するために設けられた水路橋です。煉瓦造、14連アーチで全長93mあります。
第五隧道(重文答申)
明治23(1890)年の建設
所在地:京都府京都市左京区南禅寺福地町南禅寺境内
疏水分線の隧道で南禅寺最勝院の門前から扇ダムに続いており、南禅寺水路閣から最勝院方面に歩いていくと左手にポータルが見えてきます。
第六隧道(重文答申)
明治21(1888)年の建設
所在地:京都府京都市左京区永観堂町~若王子町
疏水分線の隧道で、疏水分線の水量調節のために設けられた扇ダムから若王子取水池に続いています。
現在は暗渠化しており、永観堂の墓地から扇ダム側のポータルの先端が見えるだけです。
南禅寺境内
夷川閘門
明治23(1890)年の建築
所在地:京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町
南禅寺船溜と鴨川間の高低差3.4mを船が通行するために設けられた閘門です。
京阪電鉄神宮丸太町駅から南西すぐに位置しています。
夷川発電所本館
大正3(1914)年の建築
所在地:京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町36
夷川閘門の堰門の水流を利用した夷川発電所の本館です。
現在も稼働しています。
七瀬川放水所
明治44(1911)年の建築
所在地:京都府京都市伏見区深草直違橋北1丁目
鴨川運河と七瀬川の交差点に設けられた放水施設です。
京阪電鉄藤森駅と墨染駅のほぼ中間です。
伏見撞木町(かつての遊郭)
伏見インクライン跡
高低差がある鴨川運河と濠川の間に敷設された傾斜鉄道でした。
伏見発電所本館
大正3(1914)年の建築
所在地:京都府京都市伏見区深草墨染町
鴨川運河の終点伏見船溜に建設された発電所です。
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