京都府京都市右京区 天龍寺
Tenryuji,Ukyoku,Kyoto City,Kyoto
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嵐山を借景とした古刹 | |
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November 30,2024 大野木康夫
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天龍寺の早朝拝観は7時30分から、庭園のみです。本堂に上がるのは8時30分からになります。
参道風景
拝観を待つ人の列は開門5分前で50人弱でした。
開門
多くの人がすぐに嵐山が見通せる曹源池の北側に向かうので、池の東側は比較的すいています。
池の北側付近から見た紅葉と人出の様子
曹源池北側の紅葉
百花苑の紅葉
曹源池西側
日が射してきたので再び曹源池を撮影
参拝口に戻る
本堂拝観を待つ人は少なかったので、8時30分に来ればすぐに入れると思います。
帰路
Mar.28,2022 瀧山幸伸
A camera
B camera
Dec.3,2020 柴田由紀江 source movie
Nov.27,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
July 28,2020 大野木康夫
source movie
北門から入り、曹源池へ
人が少ない庭園
帰路
Mar.24,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
November 24,2018 大野木 康夫 source movie
紅葉最盛期の3連休中日、土曜の朝の訪問
嵯峨嵐山駅から総門へ
参道
方丈からの曹源池
まあまあの色づき
曹源池周辺からの撮影
帰路
November 17, 2018 野崎順次 source movie
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
臨済宗 天龍寺派
大本山 天龍寺
庭園をじっくり見ようと来たが、紅葉が見頃とのことですごい人出である。
パンフレット
法堂、庫裡あたり
大方丈
国史跡、特別名勝 曹源池(天竜寺庭園)
天竜寺の池庭は、池庭の様式が語るように平安期のものであり、石組は鎌倉末期のものであって、夢窓国師の作庭ではない。そしてまた、この池庭は、池は大和絵式の州浜形の典型的なものであり、石組は北宗水墨山水画式のものであって、西芳寺池庭とともに、夢窓国師の作庭ではないことが明らかである。
本庭の面積は約千二百坪で、背後に築山と野筋を作り、築山に竜門式の水落の滝を組み、前に石橋三橋を架けてあるが、この石橋は日本庭園中での最古のもので、三橋の北一石が少し折れて架けられている。その前には鶴島としての蓬莱島を設け、傑出した技術を見せ、北部には亀島があるが、これはまったく石組が荒廃してしまっている。池庭そのものは美しい州浜形で、これは鎌倉期以後には出てこない曲線であり、また池の地割全体が亀の形をしており、いずれにしても、本庭は平安と鎌倉期を織りまぜた池庭であり、傑作中の傑作である。ただ近年の滝付近の修理がまことに悪く本庭を損じている。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」天竜寺庭園より)
大方丈、書院から見る。
池畔から見る。
多宝殿の方へ
帰り、庫裡あたり
Nov.9,2017 瀧山幸伸
当日は観光客が多く、テーマパークのように騒々しかった。特別名勝庭園の鑑賞にふさわしい環境ではない。他の寺社のビデオと比べれば一目瞭然。例えば銀閣も海外観光客が多かったが、マナーをわきまえた客が多く、はるかに静かだった。
京都の寺社では観光マナーやガイドラインが徹底されていない。単に客が増えて経済効果があれば良いというものではない。寺社側の対応にも問題がある。このままでは心ある観光客はますます京都の観光寺社を避けるようになるだろう。
観光客は祈りの目的で訪問している人ばかりではないので、宗教観も異なり、境内でのふるまい方を教わっていない。
撮影マナーの案内と同様に、寺社の境内は祈りや瞑想の荘厳な場であり、水の音、鳥の声、風の音などを感じることも重要な場なので静粛にするように、との事前案内が欲しい。
京都市右京区 天龍寺
Tenryuji,Ukyoku,Kyoto city,Kyoto pref.
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
世界遺産庭園:国指定史跡・特別名勝 特別指定年月日:1955.05.30(昭和30.05.30)
国指定文化財等データベース解説文:天龍寺ハ龜山離宮ノ故■ニシテ由來形勝ノ地タリ 興國元年夢窓國師足利尊氏ニ説キテ創立スル所ナリ。其ノ林泉ハ今舊時ノ宏大ナル有樣ヲ偲フニ足ラサルモノアルモ現存ノ池及池畔ノ景致ニ於テ往古ノ俤歴然タルモノアリ。而シテ内庭ハ自然型ノ泉水園ニシテ前庭ハ則テ支那寺院園池ノ體型ニ取レルモノナリ、共ニ我古園ノ尤ナルモノトスヘシ。
夢窓疎石の開山に伴い築造されたものであって、前庭と内庭とに分つ。 前庭はほぼ長方形にして、両側は築地塀により境され、左右対称の地割を有し、勅使門、■池、法堂があり、赤松の疎林から成る。 内庭は方丈庭園と書院庭園とよりなる。方丈庭園は単純な平庭であるが、書院庭園は亀山々麓に設けられ、滝をかけ池をうがち、池汀・滝頭に石を組む。特に滝頭石組は優秀にして当時の景観をよく現わし、嵐山の借景もまた優れている。 禪宗寺院の前庭及び内庭がともによく保存された代表的なものとして特に価値の高いものである。
夕暮れ時に訪れたが、嵐山をバックにした紅葉は一見の価値がある美しいものだった。
天龍寺の紅葉期の早朝拝観は7時30分からですが、かなり知られているようで、それなりの人出でした。
日が射した8時以降は見違えるように美しく見えました。
天龍寺塔頭
かつては150超の塔頭子院を有していたが、今は11院となり、総門から法堂への道の両側に並ぶ。いずれも大きな境内をもっている。
■■永明院
1413(応永2)年に開創された寺院。応仁の乱で焼失、江戸期に再興。蛤御門の変で焼失、山口玄洞氏の寄進で復興、今日に至る。
天龍寺の総門から左の道を通って一番奥、天龍寺法堂の斜め向かいにある塔頭である。
嵐山の山並みを借景にした美しい土壁が続く。境内には天龍寺七福神の一つ、恵比寿天を祀る堂がある。また、夢見地蔵尊と名づけられ、祈念すると夢がかなうとされる地蔵尊もある。境内はとても広い。
■■等観院
門を入ると観音菩薩がやさしく迎えてくれる。ヨガの練習会場に使われる2階の部屋からは、嵐山、小倉山、遠くには比叡山が見える。
■■寿寧院
境内の紅葉が大層美しいとされる。墓地には坂本龍馬の妻、おりょうの顕彰碑が建立されている。
おりょうと父親の遺徳を偲ぶもので、碑文には龍馬から贈られた『又あふと思ふ心をしるべにて道なき世にも出づる旅かな』と刻まれている。
■■妙智院
京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町63
■1453(亨徳3)年開山創建。戦国時代には、二度明に渡った禅僧・策彦周良が住持となり、明文化を伝えた。明治に入って再建された。
策彦周良は宝厳院の「獅子吼の庭)の作庭者である。この庭は妙智院にあったものを移したとされる。策彦周良像は国重要文化財である。
手入れの行き届いた庭が迎えてくれる。のびやかな解放感が感じられる寺院である。文化財を多く有し、文化の香りも感じさせる。
■■西山艸堂(せいざんそうどう)
境内の左手には湯豆腐を供する料理屋西山艸堂がある。
禅の修行道場を思わせる店名は、正しくは「せいざんそうどう」と読み、妙智院の別号でもある。西山艸堂は妙智院の直営店である。
■通りから入る
■参道から入る
■禅味風流「湯とうふ」
■司馬遼太郎「街道をゆく」より引用する。
嵯峨野の清涼寺のそばの「森嘉(もりか)」の豆腐は「嵯峨豆腐」と通称されて有名である。豆腐製造はずるくやろうと思えば、一升の大豆で豆腐を十二丁から十五丁もとれる。「森嘉」は十丁しかとらない。旨さの基本的な理由は、十丁という蛋白質の濃厚さにあるのだろう。さらには、作業の部分ごとの工夫や細心で違ってくるはずである。基本的には技術と誠実さに属する問題である。・・・・そういうことで、私は天龍寺の塔頭妙智院で湯豆腐を食っている。
嵯峨には、湯豆腐の店が多い。始まりはこの妙智院である。寺の収入を観光やあやしげなる供養で賄うよりも、湯豆腐で賄う方が、はるかに宗教的と言える。
鍋の中で煮えているのは「森嘉」の豆腐で、あれやこれや思えば、日本文化を食っている気がしてくる。
運ばれてきた土鍋。たっぷり入った昆布ダシの中には「森嘉」の本場嵯峨どうふが浮いている。 味はよかった。
■■三秀院
天龍寺の総門を入ってすぐ右にある塔頭。総門と並ぶ東の方向にも門がある。
境内はしっとりと落ち着いた風情。東門から入って奥に天龍寺七福神の一つ、大黒天を祀る堂がある。
貞治二年(1363)に夢窓国師の法嗣(後継者)不遷法序を開基として創建された。のち荒廃するが、後水尾天皇によって寛文年中(1661-72)に中興された。
明治5年(1872)に塔頭養静軒を合併して現地に再建された。本堂は昭和40年の再建。天井に彫金の鳳凰図がある。
■■弘源寺
1429(永享元)年の創建。
山門
■本堂と前庭
本堂は客殿形式で寛永年代(1624〜44)の造営。
■本堂廊下付近
柱に残る刀傷は、京都御所蛤御門の変1864(文久4)に際し、天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が試し切りをしたもの。
■虎嘯(こしょう)の庭
虎嘯(こしょう)とは、「龍吟雲起、虎嘯風生」(龍吟じて雲起こり、虎嘯きて風生ず)と言う語句から名付けられている。
この出典は『碧巌録九十九則』によるもので、「龍吟」は枯れ枝の間を抜ける風の音を表し、「虎嘯」は大地より涌出る朗々たる響きを表す。
すなわち禅の悟りの境涯を表している。
嵐山を借景にした枯山水庭園が、春の桜、秋の紅葉と調和する景色は嵐山屈指である。
■毘沙門堂
毘沙門堂にある毘沙門天像(国指定重要文化財)は、インドの仏師毘首羯磨の作で、中国を経て日本に伝えられ、はじめは比叡山無動寺にあったが幾つかの変遷を経て550年前に開山玉岫禅師が当寺にお迎えした。知恵・長寿の功徳があり、今も善男善女に信仰されている。
毘沙門堂の正面扁額は弘法大師の直筆で、天井には日本画家藤原孚石筆による四季草花48面の絵画が描かれている。
■応仁の乱以後、宝厳院は転々とした。弘源寺の境内におかれた時期もあった。
■■慈済院
1363(貞治2)年創建。
天龍寺第二世、無極志玄(佛慈禅師)を開基とする。明治5(1872)年、塔頭福寿院を合併した。
元治元年(1864)の天龍寺大火をまぬがれたため、室町時代の建築様式が残っている。
■弘源寺の西隣にある塔頭。素朴な味わいのある土壁が目を引く。
■天龍寺七福神の一つ弁財天を祀るお堂がある。この堂の門「来福門」は唐様の優美な形をしている。
■■松嚴寺
名前の通り、松をはじめとする深い緑に包まれている。素朴な風合いの土壁が味わい深い。天龍寺七福神の福禄寿天をまつる堂がある。
参考資料≪パンフレット、各院のHP,ほか≫
Aug. 2013 中山辰夫
Visit: June 22,2013
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
宗派:臨済宗 天龍寺派大本山
世界文化遺産
角倉了以とその一族とのかかわりを訪ねる旅—3
□□□□概略
□□1339(暦応2)年天龍寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うとして、足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開創されることになった。
「因みのこの年に西芳寺庭園が作庭された」
天龍寺の地は、檀林皇后が創建した檀林寺の跡地で、1341(暦応4)年に地鎮祭を行い、疎石や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝ったともいわれる。
尊氏は諸国の土地を寄進し、光厳上皇も丹波国弓削庄を施入されたが、造営の資金には足りず、補うため、尊氏の弟直義は疎石と相談し、元との貿易を結び造営の資金に充てることにした。いわゆる天龍寺船の派遣である。
□□天龍寺は、1342(康永元)年には五山の第二位に位置づけられた。貿易の成功で、社殿造営は、1343(康永2)年竣工。翌年2年には仏殿、法堂、山門などが完成。3年には霊庇廟(後醍醐天皇霊廟)も落成した。そして、1346(貞和2)年に七堂伽藍が完成し、天龍寺が落成した。
その法要で、足利尊氏は、「子孫一族家人など、末代に至るまで天龍寺への帰依の志が変わることがないこと」を誓った。
□□五山第二位に位置づけられた後、1386(至徳3)年に京都五山第一位となり、鎌倉建長寺と同格とされた。
現在の天龍寺の境内は、大堰川畔に広がっている。現在でも十分に広大な面積であるが、かつては、嵐山全体が天龍寺の寺域であった。境内の子院は150ケ寺を数え、千人を超す禅僧が暮らしていたとされる。
□□角倉家が天龍寺と深い係わりをもつ関係にあった事は、京都に出た角倉家初代・徳春から始まって歴代当主が医を持って足利家に仕えていたことからもうなずける。さらには、天龍寺の僧侶のかかりつけの医者でもあったとされる。
ここでは、今の天龍寺の景色を見ながら、常識とされる角倉家と天龍寺との関係ある情報を時代順に振り返る。
■■■■天龍寺散策
前日の雨も止み、新緑が映えていた。庭園にはアジサイが咲き始めていた。
本堂・他の社殿は目下改修中で、平成26年3月末日まで諸堂の参拝はできない。
■■境内様々—1
■放生池と周辺
■勅使門
江戸期の火災を免れた寛永年間(1624〜1644)の建物とされ、天龍寺では最古の建築物。細部に桃山時代の洋式を伝える。
■法堂
江戸時代の火災で焼失した法堂の代わりに、明治時代に旧座禅堂(選仏場)を移築したもの。江戸時代中期の建物とされる。正面須弥壇には釈迦・文殊・普賢の釈迦三尊像が祀られている。
■■境内様々−2
■方丈前庭
■法堂の奥に大方丈、その西側に小方丈(書院)が連なる。大方丈は1899(明治32)年、小方丈は1924(大正13)年の建築である。
□□角倉家の動き
佐々木厳秀の9代吉田徳春が滋賀・豊郷の吉田から京へ出たのは室町中期、応永(1394〜1428)の頃である。
郷里を出た理由については『ある事があって・・』とあるだけで詳細は不明。又徳春と医業のかかわりや足利将軍家との関わりの契機についてわかる資料は見つからなかった。
豊郷・吉田の現況
□ここで角倉家が足利家−天龍寺とつながってゆく経緯をまとめる。
系譜「日本史年表・地図「吉川弘文堂」より引用
初代吉田徳春(仁庵 1384〜1468)
京では3代将軍義満や4代将軍足利義持(1386〜1428)に医術で仕え法印となった。
隠居後(1428)は嵯峨野角倉に住み、1468年に没した。
徳春が主に仕えた将軍・義持は、3代将軍義満が父であったが、二人の仲は良くはなかったとされる。後を継いだ義持は地味な将軍であったが実は室町幕府は彼の時代が一番安定していた。目立たなかったがそれなりに有能な為政者であったことは安定した時代が証明しているのだが先の義満と後の義教が世の支持を受け、間に挟まれた義持は目立たない扱いを受けてきた。
二代目吉田宗臨(忠兵衛 (1447〜1541)
初代・徳春の子、吉田宗臨は、足利義政(1435〜1490)に医をもって仕え、土倉としての活動や酒屋の商売も始めた(1535年)。
土倉は質屋から発展した金融業である。
宗臨は100歳近くまで生きたが、三代宗忠が早くから高齢の父の代わりに家業を担当していたとされる。
一代目徳春、二代目宗臨とも医術で将軍家に勤めたとあるが、いずれも確証がない。当時の嵯峨の環境は、土蔵、酒屋の群集する地域であって家号を称するに至らなくても徳春の時代から、庶民的金融に携わっていたとの見方も成り立つとされている。
が、二代目までは家業は医術が中心であって、足利家の侍医として勤めたが、世の流れを読み取ってか、土倉業に手を染め始めたが一般的である。
三代目吉田宗忠(与次 1484〜1565)
宗忠は、嵯峨大覚寺境内で土倉(金融業、高利貸し・質屋)と帯座業で富を蓄え商家としての角倉家を確立した。
中世の座は、製造・販売などの独占的権利を持つ同業組合であった。その帯座の座頭頭に60歳(1544(天文13)年)で就任したが、これは大きな力となった。
宗忠は宮廷にも出入りし、猿楽の嗜みもあったようで、京の町衆の典型的な生き方をしていたとされる。
宗忠は長男・与左衛門光治に土倉業を継がせ、次男・宗桂(意庵)には本来の家業である医術に従事させ、土倉と医業を二分した。
以後に於いて、医業は吉田家、土倉業は角倉家の流れとなる。
4代目となる宗桂が第一回目の遣明船(1539)に乗った時、宗忠は45歳、宗桂は28歳であった。二度目は1547年で一回目の8年後であった。
土倉業を継いだ長男・光治は若くして死に、事業は孫の栄可が引継いだ。この栄可が偉材で吉田家の家業を盤石なものにした。
土倉事業は、宗忠=栄可を中心に角倉一族の連帯をさらに血縁の連帯までに固め、栄可は叔父宗忠に代わり、宗家として嵯峨土倉の要となった。
栄可の土倉活動で目立つのは近郊の田畑が角倉の手に集中したことで、斜陽期の寺院の所領を集めたことによる。さらには、政治権力と密着していたこともある。栄可の活動時期は豊臣政権の最後と徳川幕府の時代にわたるが、当時の市政担当者の権力を背景に土倉を営んだ。
この栄可の活動が、栄可の従弟了以とその子素庵の全生涯を、経済的に裏付けるものであった。宗家の財力は分家にとって大きな支柱であった。
宗忠から栄可に引継がれた角倉家の財力、栄可によって増やされた財力はその後、了以の事業を支えることになる。
栄可は田畑を集めるばかりでなく、後に了以と共に、京都本圀寺日禛上人を開山として常寂光寺を建立(1595)することになる。
栄可が采配を揮っていた頃、了以はまだ少年であった。土倉・酒屋を営む角倉本家にはいつも世情に通じた食客がたむろっており、了以も日本各地や海外の情報を聞くのを楽しみにしていた。
十数年年上の栄可は、娘の佐乃の婿にと見定めていた。了以17歳(1571)、御佐乃12歳で結婚し、翌年には素庵が生まれた。
■■境内様々—3
■曹源池
国の特別史蹟名勝
開山夢窓疎石の作庭になる回遊式庭園。池の前庭には洲浜形の汀や島を配し、嵐山や亀山を借景として取り入れている。当時を偲ばせる唯一の遺産である。
■小方丈から多宝殿まで
小方丈から多宝殿までは長い渡り廊下でつながれている。
■多宝殿
もともと後嵯峨天皇と亀山天皇が離宮を造営された場所である。また、後醍醐天皇が幼少の頃にここで勉学に勤しまれたところで現在は後醍醐天皇の聖廟として像が安置されている。昭和9年に再建された。鎌倉時代の様式を取り入れてある。
■■継いで百花苑の散策に入る。
丁寧に手入れされており、名前の通りたくさんの花が植えてある。季節ごとに咲き誇る様子が分かる。訪れた時は小ぶりの「アジサイ」が咲き
始めていた。木々やコケの薄緑が鮮やかだった。
■精進料理 篩 月(しげつ)
大方丈の前庭で見つけたコケ
■■■■≪参考≫
■■貿易で莫大な財宝を手に入れた先例として、平清盛による日宋貿易がある。
天龍寺の創建の際に足利幕府公認の勘合船—いわゆる−天龍寺船を出して元国、次いで明との交易を行い建設費用に充てた。
1342(暦応4)年、足利直義は夢窓国師の請を受け、造天龍寺船の派遣を許可した。夢窓国師はこの貿易の請負人に博多商人の「至本」を推挙した。
至本「国籍不明」は貿易の成否に関わらず、帰国時に五千貫「現在の約5億円」を幕府に納めることを約し渡航した。
渡航船は、海賊船とみなされ警戒を受けるも上陸し交易に成功し、天龍寺船は莫大な利益をあげたとされる。この時禅僧も渡航した。
■■明との交易
3代将軍足利義満は明との交易を積極的に展開した。1401(応永8)年から1549(天文8)年まで、19回の交易が行われた。
4代将軍義持の1411(応永18)には一時中断するも6代将軍義教の1432(永享4)年に復活した。
応仁の乱(1477)後は、大内氏や細川氏と堺・博多の有力商人が勘合貿易を経営するようになった。大内氏が遣明船管掌を独占(1516)した事もあった。
1551(天文10)年、大内氏の滅亡で勘合貿易が中止となり、公貿易再開の見込みが断たれ、東南アジアでは後期倭寇による密貿易が中心となった。
16世紀以降、勘合貿易が行われるようになると倭寇は沈静化する。16世紀末、倭寇を禁圧する必要から朱印船による貿易が開始された。
■■権勢を誇り、街の要であった天龍寺は度重なる戦乱と火災により衰退していった。幕末には、蛤御門の変により焼け野原になった。
再建は明治に入ってからである。
火災については、1356(延文元)年、1367(貞治6)年、1373(応安6)年、1380(康暦2)年、1445(文安2)年、1446(応仁2)年
1815(文化12)年、1864(元治元)年の8回が大火災である。
中でも、文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、1585(天正13)年に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の
朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び
伽藍は焼失した。
■■以後は歴代の住持の尽力もあって、順次旧に復し、1876(明治9)年には臨済宗天龍寺派大本山となった。
その後も天龍寺は復興を続け、1899(明治32)年には法堂、大方丈、庫裏が完成、1924(大正13)年には小方丈(書院)が再建された。
1934(昭和9)年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。
1941(昭和10)年に元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。
綿々と長くなったが、角倉家と天龍寺との密接な関係の一部をまとめたものである。
室町時代、幕府の外交は五山の僧が担っていたが、貿易や財務は僧侶にとって不向きであった。これがため、収納の任に当たったは洛中洛外の土倉
酒屋の有力者であった。
特に、天龍寺の財を管理し、幕府政所代の下で納税方一衆を勤めたのが吉田=角倉家であった。吉田家は代々にわたり有力土倉として拡大の一途
を辿ることになる。絶えず天龍寺と共に歩んだ角倉家の基礎は代々にわたり固められていった。
参考資料≪角倉素庵・高瀬の舟・近江源氏・街道をゆく・常在戦場・角倉了以の世界・富士川舟運遺聞・ウイキペデイア・他≫
Nov.2012 大野木康夫 source movie
11月21日撮影
Feb.2011 大野木康夫
撮影 Nov.2010
天龍寺の伽藍は禁門の変の時に長州軍の本営であったことから薩摩軍に焼かれてしまい、明治に再建されたものですが、年間を通じて多くの人で賑わっています。
法堂
庫裏
方丈
庭園
その他境内
Nov. 2007瀧山幸伸 source movie
嵐山を借景とした古刹。後醍醐天皇の霊を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺に改めた。
特別名勝に指定されている曹源池庭園は夢窓国師の作庭で、池泉回遊式庭園が美しい。
枯山水の石組みは龍門の滝と呼ばれ、中国の故事に因んでいる。登竜門はこの故事に由来する。
石橋手前の石組は三尊仏(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)を表現している。
東京六本木、ミッドタウンの設計士デビッドチャイルズは、この庭園様式と三尊仏にヒントを得た。
雲龍図越に見る庭園は幻想的。
Feb.2005 瀧山幸伸 HD(1280x720)
{
特別公開 弘源寺
Kougenji
天龍寺の塔頭(たっちゅう)。
枯山水庭園「虎嘯の庭」。
竹内栖鳳とその一門(上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉ほか)など文化勲章受章画家の日本画等を公開している。
窓毎に景色が異なる。 絵柄の違う腰窓越に中庭を見る。優雅なひと時。
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