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三重県亀山市 亀山

Kameyama,,Kameyama city,Mie 

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May 11,2016 瀧山幸伸 source movie

                                                                                               

野村一里塚

          


June 2012 中山辰夫

亀山宿 (含む 国登録文化財・白川小学校校舎)

亀山市案内

  

JR関駅の駅前に立つ大鳥居

柱石の高さ6.9m、笠石の長さ10mの大鳥居で、かつては亀山駅から亀山城跡への県道に建てられていたが

道路工事に当たって駅前に移設された。能褒野神社(のぼのじんじゃ)の一の鳥居である。

  

江戸時代には伊勢亀山藩の城下町として、東海道で鈴鹿峠越えを控えた亀山宿の宿場町として栄えた。

明治以降は、関西鉄道(かんせいてつどう)の開通や、旧国鉄の参宮線への分岐点として、機関区も

置かれた鉄道の街として栄えたが、伊勢方面へは伊勢鉄道(旧国鉄伊勢線)経由の短絡ルートが利便

性もあって使われ、かつての隆盛が無くなった。

安藤広重筆 亀山

 

現在、地場産業として、蝋燭で大きなシェアを持つカメヤマローソクが存在する。(本社:大阪市)

又、三重県のハイテク企業誘致策で建設されたシャープ亀山工場では、世界初の液晶パネルからTV

迄の一貫生産が行われ、「AQUOSは世界の亀山モデル」というキャッチコピーで一時期人気を博したが

今はテレビからの脱皮が課題となっている。

亀山宿は、城下町から発展して宿場が制定されたとされ、他宿のような賑わいは無かったとされる。

理由としては、亀山藩では武術や武道を奨励し、宿場の方は見向きがされず、お堅い武士の町だった

とされ、他の理由は、隣の「関宿」が古くから「伊勢道」や「大和道」の追分を有する分岐点として

賑わっていた事による。宿舎の規模については、天保14年(1586)の記録では、宿間は21町あった

が本陣1、脇本陣1で旅籠屋の数は21軒と少なかった。

散策に入る前に、伊勢亀山城と亀山宿について概説する。

伊勢亀山城

寛永9年(1632)に解体の後、正保年間(1644~47)に「多聞櫓」の再建が許され、今も残っている。

  

亀山宿

宿場には特に大きな旅籠もなく、やや堅苦しい宿とされ、参勤交代でも使われなかった。反面、子ども連れ

や女性には安心できる宿場だったかも。

大庄屋であった内田権四郎昌克の編さんした記録本『九々五集』には、亀山城に付けられた亀山領分86カ村

の数をあらわす図があり、そのまま集落を表わした。

  

亀山宿散策

東海道に沿って歩く。路面が黄色く塗られているのでわかり易い。

東海道46番目の宿場町。東の端・露心庵跡から西の端・京口門跡まで、約2.5kmが亀山宿。

亀山は宿場町であることより、 亀山城の城下町としての顔の方が大きい。現在も同じである。

  

46宿の庄屋宿の端にある能褒野神社(のぼの神社)

 

能褒野神社(能褒野御墓)は、日本武尊が命尽きた地の一つとされ祀られている。

この付近は古墳が多く、能褒野神社の前方後円墳は最大のものといわれる。日本武尊の墓と定められている。

神社から約4km先に、西亀山宿の入口である能褒野神社への分岐点に二の鳥居が建っている。

近くにあった露心庵跡は、天正12年(1584)にあった合戦の戦死者供養のため露心法師が建立した庵。

 

亀山宿東端より歩き始める。ここから西が亀山宿である。

東海道の両側に並ぶ民家の軒先には屋号が掛かっている。町おこしの一環。

   

今の西町と東町辺りの民家は殆ど建て直されている。

   

ただ本町の所々に残る旧家と、道なりの感じから街道の雰囲気を味わうことしかない。

    

巡見道(じゅんげんどう)・本町広場

東海道と巡見道との分岐点である。

巡見道は、東海道から分かれ鈴鹿山脈の東麓を縦貫して中山道へ抜けでる道で

江戸時代に各地の政情を査察する巡見使が通ったことからこの名がついた。

   

旧地名の鍋町、東新町を通って江戸口門へ向かう。

    

江戸口門

亀山城下の東の入口である。水堀と土居で囲われた中に門と番所を構え、通行人を監視していた。

    

東海道は東町商店街に入り面影は微塵もない。この筋に脇本陣、本陣があった。

商店街のアーケードの柱に「樋口本陣跡」と書かれた木柱が建っている。

商店街の店舗は白タイルを用いた意匠に統一したが、商店街の活況に結びついていない。

    

東海道からは少しはずれる。

福泉寺

平安時代に創建されたと伝えられる古刹。

山門は寛政7年(1795)の建立で、近世の地方有力寺院の典型的な建築例として市文化財。

    

法因寺

真宗大谷派。

詳細不明。大木は、推定樹齢300年の巨樹で、実に見られる竪筋が左巻きとなる珍しいカヤの木。

    

東海道に戻る。大手門跡

東海道の樋口本陣跡のすぐ先の交差点。この交差点付近が亀山城大手門跡。明治6年(1873)取壊

東海道に直面する亀山城の正門で、簡略化された枡形門形式。三間×十間の渡櫓を構えた。

    

交差点で、東海道は左折して続くが、亀山城跡を目指して直進する。

   

この一帯は二の丸区域内、亀山西小学校の一直線に延びる白亜の塀が雰囲気を蘇らせる。

  

亀山城址

   

多聞櫓

三重県指定文化財(史跡)

本丸東南隅の天守台と称される石垣と、この上に建てられた多聞櫓を総括して指定されている。

築造は寛永10年(1633)迄とされる。あいにく修理工事中であった。

東西八間(15.8m)南北六間(10.9m)の入母屋造、L字形の平屋である。

天守台と称する石垣は、外側高13.5m、内側高3.5mで、石垣を多用しない亀山城内では最大の規模。

自然石を用いた野面積である。

    

心形刀流武芸形(しんげいとうりゅうぶげいかた)道場

三重県無形文化財

神社境内にある。伊庭是水軒(いばぜすいけん)が創始した剣術の流派で、江戸四大道場の一つとされる。

その奥義を学んだ山崎雪柳軒が亀山に道場を設立し、亀山藩の流儀となった。

現在は赤心会によって亀山にだけ継承されている。

   

亀山神社

詳細不明。境内にある宝篋印塔基礎部

    

城址まわり

三重櫓址、二之丸帯曲輪、埋門址などがある。

   

公園横の機関車展示(直ぐ近くに亀山幼稚園がある)

    

大手門跡の交差点に戻り、東海道を横町・万(よろず町)へと進む。

昔ながらの細い曲がりくねった道で、城下町の雰囲気を感じる。

    

遍照寺

街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。

本堂は旧亀山城二の丸御殿玄関を移築したもので、近世殿舎建築の希少な遺構。

本尊の木阿弥陀如来立像は県下を代表する鎌倉彫刻として県文化財に指定されている。

また、本尊の両脇侍として安置されている木造観音菩薩坐像、木造勢至菩薩立像も鎌倉時代の貴重な作品

として県文化財に指定されている。

さらに、遍照寺墓地には江戸時代の芸術家大月関平の墓(市指定史跡)がある。

      

遍照寺からは緩い下り気味になっており「西町」に入るが、この辺りは古い家が連なっている。

お寺は誓昌院である。

        

池の側(かわ)(外堀)

池の傍に建つ古家(池側と道路側)

    

左が亀山駅、右が多聞櫓の交差点

  

そこを横切って少し高台になった所にある「西町問屋場跡」を目指す。

    

問屋場は交代で人馬継立を行っていたとある。この付近は、西町の中心としてかなり賑わっていたと思われる。

地元の植物学者「飯沼惣斎宅」の碑がたつ。城址にも立っていた。

    

旧道奥には青木門跡が立つ。このあたりは西乃丸であった区域である。

    

加藤家長屋門及び土蔵

江戸後期の亀山城主石川家組頭(家老)加藤家屋敷の一部である。

    

石川家が延享元年(1744)備中松山から移封された際に加藤家に与えられた屋敷地が現在の場所で

その広さは約850坪(約2800㎡)に及んだ。

    

その屋敷地の大半と、長屋門・土蔵・主屋の一部などが良好な状態で残されている。

江戸時代武家建築の状況を示す貴重な遺構として、市文化財に指定されている。

  

東海道に戻って、前進する。

旧舘家住宅

亀山宿の町家の代表的な例である。詳細は別記

    

善導寺

舘家の横の道を下る。元は亀山城本丸付近にあった。

岡本宗憲が築城するにあたり現在地に移転した。境内には本丸から出土した石造品が安置されている。

   

東海道の西新町に残る町家を見ながら行く。京口門を過ぎた所に梅巌寺がある。

    

梅巌寺

亀山藩主石川家菩提寺

石川家菩提寺として、梅巌寺、本宗寺、本久寺がある。

これらの寺は亀山にあった寺ではなく、石川家の転封に伴い移転や創設された。

石川家歴代藩主の墓は大部分が江戸の大久寺にあり、亀山にはない。

   

京口門

京口門は梅巌寺のすぐ近くにあった。亀山城下の西の入口である。

門と番所を構え、その壮麗な姿から「亀山にすぎたるもの二つあり。伊勢屋ソテツに京口門」と謡われた。

歌川広重などの浮世絵では大半がこの京口門が描かれている。

当時の京口門は大変贅沢な作り方と伝わっている。

  

京口門を出ると、亀山も宿外れになってしまうが、小さな「京口坂橋」を渡った右手にある「照光寺」には

亀山の仇討ちで有名な「石井兄弟」によって討ち取られた「赤堀源五右衛門」の墓がある。

≪参考≫

亀山の町家構成

亀山城は歴代の領主によって改修増築が加わり、石川総慶が入ったときには、城内には本丸・二の丸・三の丸、

城主の居館である向屋敷などがあった。

侍屋敷は西の丸・東の丸・江ヶ室・市ヶ坂・東台・渋倉前・南崎など、家格に応じて城郭を中心に同心円状に

配置され、家老・年寄など重臣の屋敷は東三之丸・南三之丸に置かれていた。

城下の町人町は東町・西町で構成され、それぞれに亀山宿の問屋が置かれ、助人馬や伝馬などの継送り問屋業務を

交代で行っていた。

東町には樋口本陣、椿屋脇本陣があり、街道筋に並んだ本陣(樋口太郎兵衛)・脇本陣(椿屋)をはじめ旅籠・遊女屋

米問屋・魚屋・酒屋・質屋などがあったとされる。

今、西町・東町等の旧東海道筋は商店街になってしまい、古い町並は殆ど残っておらないが、それに続く本町三丁目

本町四丁目には僅かだが古い町並や古い伝統様式の民家が点在する。

城下町時代の町人町の中心地の東町は旧東海道筋が拡張されて、県道になり古い町並は全く残っていない。

亀山宿の町家建築

亀山宿の街道筋には古い町家が少し点在して残っている。

その前面意匠は、1階が出格子戸・格子戸を並べ、建てられた当時の「すり上げ戸」が残っているのもある。

2階は化粧貫を見せた黒漆喰壁や格子戸・戸袋が並ぶ。

軒は1階庇、2階軒ともに、梁を建物から突き出して桁を受ける「出桁造り」と呼ばれる形式である。

亀山宿の町家の代表的な例が旧舘家住宅「枡屋」。枡屋は幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店である。

現在の主屋は明治6年(1873)に建てられた。亀山宿を代表する商家建築として市文化財指定を受けている。

正面立面図(現状)・1階平面図・梁行断面図

   

屋敷は、東海道及び東側の善導寺参道の2面で通りに面している。

屋敷内には、主屋のほか、土蔵2棟、茶室2棟を含めた附属屋を合わせて8棟ある。

主屋は、間口6間半、奥行8間半、木造二階建桟瓦葺、大工は「川合治三郎」「澤田橋太郎」と棟札にある。

間取は、東側に通り土間を設け、6室を2列に並べる「通り土間二列型」

      

通りに面した主屋前面一杯に取られた2階は、仏壇と並ぶ階段からあがる。

    

前面意匠は、1階が正面左手に玄関を取って引き違い戸を入れ、中央部に擦り上げ戸。

    

上手となる座敷面は出格子戸である。

玄関部については、擦り上げ大戸の痕跡が残っている。格子戸の内・外

   

浴室

レンガ積の湯沸し釜が造ってあり、浴室にはタイルが用いてある。

    

茶室

2棟ある。明治20年(1887)に登記されており、主屋の建築からは遅れる。

        

庭園の整備も茶室の建築とほぼ同じ頃とされる。

    

旧舘家住宅は、亀山城下町、東海道亀山宿の街道に面し、亀山の歴史的景観の核である。

主屋内部の居室の充実、屋敷内の庭園のバランス、文化性の高さがうかがわれ、当町で、最古で

かつ質の高い町家とされ、近代における町家の規範と位置付けされる。

亀山城復元図

    

多聞櫓

   

亀山城関係

   

白川小学校校舎

亀山市白木町2739

構造:木造平屋建 切妻造 桟瓦葺 2棟 昭和29年(1954)建築

    

北棟

 

南棟の北に中庭を挟み平行に建ち、中央及び東西端の渡廊下で繋がる。

桁行58m梁間9.2mの木造平屋建、切妻造桟瓦葺で両端に庇を設ける。

外壁は上部を白漆喰塗とする下見板張。

北側の校庭に面して廊下が通り、南に教室を並べる。地域に親しまれる学校建築。

南棟

 

集落北側山中に校地を占める。

桁行58m梁間9.2m、木造平屋建、東西棟の切妻造桟瓦葺で、両端に庇を付ける。

上部白漆喰塗の下見板張。片廊下式で、東半に職員室など、西半に教室を配する。

正面中央に千鳥破風と玄関ポーチを付け、学校らしい正面性を示す。

参考資料≪亀山市教育委員会発行資料、他≫

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