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三重県松阪市 松坂城跡付近
Matsusaka castle,Matsuzaka city,Mie


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松阪市殿町1384 旧松阪御城番長屋 東棟 重文 近世以前/住宅 江戸末期 文久3(1863) 桁行90.9m、梁間9.4m、一重、切妻造、桟瓦葺、東面角屋12所附属 20041210
松阪市殿町1384 旧松阪御城番長屋 西棟 重文 近世以前/住宅 江戸末期 文久3(1863) 桁行83.6m、梁間9.4m、一重、南面切妻造、北面入母屋造、桟瓦葺、西面角屋10所附属 20041210


Feb.13,2018 中山辰夫

松阪城跡
三重県松阪市殿町1536ほか

天正3年、北畠家を継いだ織田信長の次男信雄は大河内城から田丸に移ったが、同8年、田丸城が焼失したので飯高郡細首(松阪市松ケ崎町)に城を築いて松ケ島城と名付け移り住んだ。天正10年、本能寺の変で信長が打たれた後、信雄は清州城に移った。天正12年、近江国日野城主
蒲生飛騨守氏郷が松ケ崎に12万石の城主として入った。氏郷は天正16年、四五百森(よいほのもり)の丘陵に城を築いた。平山城である。
   

表門跡から入る
    

松阪市立歴史民俗資料館・倉庫
松阪市歴史民俗資料館は城内表門跡を右手にのぼるとすぐに見える建物で、旧飯南郡図書館を活用している。
建物射和軽粉(いざわかるこ 伊勢白粉)や松阪木綿などの、松阪の伝統産業に関する資料が展示されている。
      
資料館の本館と倉庫は、それぞれ松阪市立歴史民俗資料館(旧飯南郡図書館)本館、松阪市立歴史民俗資料館(旧飯南郡図書館)倉庫の名称で国の登録有形文化財に指定されている。
本館は和風の木造建築、2階建て、左右対称になっている。倉庫は漆喰の壁を下見板で覆うことで本館と外観の意匠を合わせている。

城は丘陵上に本丸・二の丸・きたい丸・隠居丸が堅牢な石垣で築かれ、麓に三の丸を置いた縄張りであった。本丸は二段にわかれており、上段には3層の天守と二層の敵見櫓・金の間櫓が建ち並び天守曲輪といえる構造であった。

しばし圧倒されながら高石垣を巡る(「資料館〜本居信長記念館」
築城当時の曲輪と野面積みの高石垣が残されている。100名城に選ばれる所以である。日本有数の高さを誇る高石垣は 高虎の築城技術の高さを示す。
            

本居宣長記念館
    
旧宅の前にある。宣長と彼の関係者に関する資料13000点余りを収蔵し、うち宣長自筆の本居宣長稿本並関係資料附本居宣長自画像476種1949点が国重要文化財、20種31点が県指定の文化財である。
     

本居宣長旧宅 (鈴屋)  国登録文化財

二の丸跡の約200m南にある。もとは市内魚町にあった旧本居信長旧宅が移築された。
     
玄関に向かって右手奥の2階4畳半の小部屋が、宣長の書斎鈴屋である。
1785(天明5)年の鈴屋竣工から宣長53歳までの20年間研究と試作を重ねた場所である。
 

本丸跡より見た旧邸
写真70〜74
    
三の丸裏門〜中御門あたりまで
        
二の丸跡−設置してある東屋が少し見える。
  

途中に本居宣長旧宅の正門がある
      

さらに本丸跡をめざす
 

本丸跡上段
         
城郭の最上部にある。上下2段にわかれ三層の天守であった。敵見櫓・金の間櫓があり、それぞれの間に多聞が廻らされた。

敵見櫓跡周辺
     

金の間櫓
 
松坂開府之碑
松阪開府の祖は蒲生飛騨守氏郷であり天正16(正歴1588)年8月築城と共に城下街の創設を了へ同18年8月17日氏郷が奥州の会津に移った
その後服部采女正一忠を経て古田兵部少輔重勝同大膳太夫重治の二代25年間の在府に城の修補と商工業都市の整備とを遂げ次で元和5年5月徳川大納言頼宣これを領して明治維新に及ぶ
開府以来360餘年今茲に郷土先人の事蹟を回想してその徳澤を追慕し録してこれを後人に傳える。昭和25年6月松阪市長 庄司桂一撰文

天守跡―本丸跡下段
   

御城番屋敷 国重要文化財

裏門跡を出た先に石畳の両側に武家屋敷が並ぶ。石畳の両側に、美しく整えられた槇垣を巡らした御城番屋敷は、松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武士の組屋敷。屋敷には、今も子孫の方が住まわれ、維持管理をされている。
     

築後155年、現存する江戸時代の武家屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物で、平成16年、国の重要文化財に指定された。
        

米倉土蔵
  
この土蔵は松坂城の隠居丸に建っていたものを移築したもの。旧松坂城関連の建物で唯一現存している建物。
明治初期に御城番屋敷の20家で、互助組織の苗秀社を創立した。この苗秀社が明治初期に払い下げを受けたとされる。

御城番武士の祖先は、徳川家康の先鋒隊として活躍した横須賀党で、家康の子頼宣の家臣として紀州藩の田辺に遣わされ、藩主直属の家臣として、「田辺与力」と呼ばれていた。その後、安藤家家臣となるよう通達を受けたが、直臣であることに誇りを持っていた彼らはこれを不満に思い、藩士の身分を捨て放浪の身となる。紀州藩への復帰を嘆願し続け、6年後の1863年に松坂城御城番として帰藩がかない、彼らとその家族の住居として建てられた。
約1haの屋敷地に主屋2棟と前庭、畑地、土蔵、南龍神社があり、主屋は東棟に10戸、西棟に9戸が残っている。
松阪市はこのうち1戸を借り受け復元整備して平成2年より一般公開している。

南龍神社
苗秀社を創設した人達の同族意識を持続し、団結力、精神力を高めるシンボルとして存在している。 紀州藩初代藩主の徳川頼宣を祀る。
 

松坂神社の鳥居
   

参考資料≪パンフレット、日本城郭大系、三重県の歴史散歩、松阪市HP,ウイキペデイア、ほか≫

                                                                                                          


February 28,2016 大野木康夫

御城番長屋
Gojoban nagaya

所在地 三重県松阪市殿町1384

来迎寺から松阪城址に向かう

  

御城番長屋(重要文化財)

文久3(1863)年の建築
東棟 桁行90.9m、梁間9.4m、一重、切妻造、桟瓦葺、東面角屋12所附属
西棟 桁行83.6m、梁間9.4m、一重、南面切妻造、北面入母屋造、桟瓦葺、西面角屋10所附属

旧松坂御城番長屋は,松坂城南東の三の丸に位置する。
文久3年(1863),松坂城警護のため,新たに松坂御城番職が設けられ,城内三の丸に御城番武士20家の居宅として建てられた。
東と西の2棟からなり,小路を挟んで南北に相対して建つ。
東棟は桁行90.9m,西棟は桁行83.6mで,ともに平屋建,桟瓦葺,背面に角屋を附属する。
各棟とも1戸あたり間口5間を基準として,東棟10戸,西棟9戸が残る。
旧松坂御城番長屋は,建築年代や由緒が明確で,近世武士の長屋建築として,全体規模,各戸の規模ともに最大級で,高い価値がある。
他に類を見ない小路を挟んで2棟からなる構成も貴重である。
外周を槙の生垣で囲われた宅地も,建物と一体となってよく維持されている。
(国指定文化財等データベースより)

                                 

松阪城址から

                       

付近から

                    


July 2011 瀧山幸伸 HD video

  

A camera

                       


御城番屋敷
                                                                   


B camera

                   

                                                  

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