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長野県軽井沢町 旧中山道碓氷峠 熊野神社

Usui pass,Karuizawa town,Nagano

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July 2016 柚原君子

中山道第18宿「軽井沢宿」

概要

江戸より京に向かう中山道は全部で六つの県(東京、埼玉、群馬、長野、岐阜、滋賀)(武蔵、上野、信濃、美濃、近江)を越えていかなければなりません。上野国と信濃国にまたがるのが碓氷峠で現在でも峠の茶屋前と神社には朱色鮮やかに国境(くにざかい)のラインが引かれています。碓氷峠は中央分水嶺(降雨が日本海側と太平洋側に分かれる)のある標高1180メートルの山で、江戸より初めての険しい道中となります。

峠の名前は古来は宇須比、碓日、臼井、臼居、笛吹などとも呼ばれていますが、霧が出るとなかなか晴れない薄日が転化したものとの説が今では有力となっています。

中山道は江戸と京都を結ぶ69次、530キロの街道ですが、戦国時代以前から道は機能しています。特に碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝で、1561(永禄4)年に長尾景虎が小田原城の北条氏を攻めた際には武田信玄が笛吹峠に出陣しています。1566(永禄9)年には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出。また1590(天正18)年の小田原征伐の際には、豊臣秀吉が前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させています。

戦国時代が終わって江戸時代。幕府が中山道の整備を終えたのは1608(慶長13)年です。1703(元禄16)年には家の数は208軒、1761(宝暦11)年には家数201軒、人口は1450人に達し、飯盛り女の多い大繁盛の軽井沢宿になっています。しかし1783(天明3)年、軽井沢宿の北側にそびえる浅間山が大噴火をおこし、軽井沢宿は降灰で壊滅的な被害を受けます。噴火による火の玉で宿は一軒残らず焼失します。大噴火の1週間前くらいより人々は恐れをなして他村にのがれたそうで、多くの記録によると死者は1名とあります。鳴動は京都までも響き火砕流と山津波も起こっています。

軽井沢宿が最も被害が大きかったそうで、浅間山大噴火のあと飢饉なども長く続き、火山灰の影響で耕地は作物がならず、1843年(天保14)年の中山道宿村大概帳によると、宿内家数は119軒、本陣1,脇本陣4,旅籠21軒、で人口は451人と激減して、参勤交代のなくなった明治初期の頃には原野に近い状態になっています。

近代の軽井沢は、英国聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが1888(明治21)年に別荘を構えたのを機に、多くの外国人や日本の著名人が避暑地として滞在したので、次第に脚光をあびていきます。本陣のあったあたりは現在では旧軽井沢銀座となって賑わい、そのために当時の面影はほとんど残っていません。碓氷峠を越えた人々は登山服のままに軽井沢銀座に紛れ込むことになり、上品に装った観光客でいっぱいの「現代」に一気に引き込まれる感覚も体験できる軽井沢宿です。

行程

登山口→柱状節理→刎石坂石碑群→下り地蔵上り地蔵→覗→馬頭観音→風穴→四軒茶屋跡→堀り切り→南向馬頭観音・北向馬頭観音→一里塚→座頭転がしの坂→栗が原→入り道くぼ→山中茶屋跡(立場跡)→山中坂→子持山標識→陣馬が原→笹沢陣馬施行所跡→仁王門跡→熊野神社→ショー記念堂→つるや旅館→旧軽井沢銀座→本陣→旧軽ロータリー→雲場池

1,カモシカ・柱状節理(標高693m)

中山道を歩いて記録してみようと思い立って日本橋から坂本宿に来るまでに早くも二年の月日が経っています。難所である碓氷峠を越えなければ次の軽井沢宿に行かれません。一人で碓氷峠越えをしたら熊に出会うかもしれない恐怖、5時間以上の山道を登ったり降りたりができるかどうかの不安があり峠越えはなかなか勇気が出ずに、ネットで山道の映像をたどり、机上訓練ばかりしていた冬。しかし連休明けに安政のマラソンが碓氷峠で行われるとのことで人も多かろうと、5月1日と決めました。

横川駅より出発です。タクシーで登坂口まで。1週間後に「安政の遠足」(あんせいのとおあし)と呼ばれる碓氷峠マラソンが行われますのでその旗が立っている細い登坂道をストックを右手に出発です。通常は一人歩き中山道ですが、本日は山ガールの応援部隊が2名同行してくださっています。(実は娘のお婿さんのお母さんとそのご友人。山歩き歴が古く私の急ごしらえの山装備とは違って本格的です。熊よけの鈴もとても立派で良い音がします。年齢は三人合わせて210歳です)。

さて出発、いきなりの急な登りです。20分ばかり無口にひたすら登ります。前方にカモシカ出現!若いのかおじさんなのか解らない風情のカモシカですが、顔はなんとなくおじさん顔でじぃーと見ている様が、餌付けを経験しているような、人を恐れずしかも笑っているような感じ。対峙していたのは2分くらいでしょうか。山の中に消えていきました。カモシカに見とれたせいではありませんが、横川にある碓氷関所の出先機関としてとして、関所破りの監視をしていた堂峰番所跡の礎石があるそうですが見落としました。20分ぐらい続くいきなりの上り坂は片側は断崖絶壁とまでいわないけれど、想像以上の谷がある様子です。慎重に歩きます。

前方に尖った岩山。福井県東尋坊でおなじみの柱状節理です。柱状節理はマグマが冷却して固まる時に岩体が柱状になるものです。触ってみると指が切れるくらいの鋭さです。地面に落ちた柱状節理も多いです。

刎石坂(はねいし坂)(標高697m)。でこれまでも急な登りですが、これからもう少し登りが続きます。碓氷峠一番の難所といわれているところです。石塔群が見えますが坂本宿の京都方面寄りの木戸口にある芭蕉の句が刻まれた石は、元はここにあったもの。刎石の命名はこの辺りに多くある柱状節理の石から。馬頭観音の石塔の周囲も尖った(刎ねた)石がごろごろしています。

                          

2,覗(標高730m)・風穴(標高742m)

柱状節理よりしばらくは登りが続きます。急ではありませんが息があがります。無口に行きます。登り地蔵、下り地蔵が平らな石に線刻されているという案内板が立っています。二体あるとのことですがが、どこかに消えられたのか、さがしても見当たりません。

覗(のぞき)の場所に来ました。碓氷峠行きで期待していた場所です。木の間から坂本宿が一本道にきれいに見えます。絶景です。「碓氷峠で坂本見れば女郎が化粧して客を待つ」という歌もあるそうです。絶景を見ながらしばし息を整えます。小林一茶はここで「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んでいます。なるほどね。夕方にここということは江戸に向かう途中だったのでしょうか。ここから坂本宿までは小一時間。そういえば、坂本宿には小林一茶の常宿があり、土地の人も集まって句会が盛んで、飯盛り女まで句を詠んだとありましたね。

覗を過ぎると道は下り。少しほっとします。刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数カ所あるという風穴。二つの穴がありますが周囲の岩ごけは濡れていないので、今は出ていないのでしょうね。

            

3,碓氷坂の関所跡

風穴を過ぎて一人が通れるくらいの細い川のよう道を上ります。弘法大師が示したところを掘ったらお水が出たという井戸があります(標高765m)。看板は倒れて井戸にはトタンが無造作にかぶせられています。少し前は水が出ていて、お飲みくださいの案内もあったようですが、今は荒れています。その先、また急な登りですが、終えると起伏もないなだらかな場所に出ます。出たところに刎石茶屋跡(刎石立場跡)(標高785m)があります。

もちろん看板だけ。小池小左衛門茶屋本陣、大和屋小右衛門などの四軒の茶屋があって砂糖餅が名物だったそうです。垣をめぐらし庭を構え、門を入れば上段の間に案内された茶屋本陣であったそうです。お墓も残っているそうですが登山道からは見えず、踏み込むには何があるか解らず奥の方に行きませんでした。石垣は現在も残っています。茶屋本陣が4軒もあった賑わいがにわかには想像できない静かな山の中です。

すっくり伸びた杉並木の細い道を歩きます。昔は広い道であったかもしれませんが、今だったら参勤交代のお殿様の駕籠がはみ出てしまうくらいの細い山道です。前方左手に碓氷坂の関所跡があります(標高789m)(ちなみに昔は峠の事を『坂』と言っていたそうです)。

説明版には『昌泰2年(899)に碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる』、とあります。899年と言えば中山道が整備された江戸時代やその前の戦国時代のさらに前のことになります。「と思われる」という不確かな書き方ではありますが、『貞信公記』文献によりますと、承平8年(938)に平将門が京へ向かう従兄の平貞盛を追って碓氷坂の関を越えたという件があるそうですので、事実ではあるのでしょうね。

中山道標識があります。坂本宿まで2.5キロ、つまり2キロ位は歩いてきたこと。熊野神社まで6.5キロ、つまり峠越え終了まであと6.5キロあるという標識です。関所跡には休憩所となる東屋があります。しばし休憩します。東屋の反対側には810メートル刎石山があります。峠まであと400mです。がんばろう。

           

4,刎石の一里塚

東屋で休憩の後に歩きます。これまで登ってきた道とは違って平らな尾根道が続きます。森林浴をしながら歩いている気分です。見渡しても平らな部分が広く続いています。刎石茶屋が4軒あってこの辺りにも茶屋のあった痕跡が土塁、道、段丘として残っているようです。山道を歩いていますが両脇がなだらかにこんもりと盛り上がっていて、道ではないような気が何度かします。もしかしたら土塁の元、掘割りの中を歩いているのかもしれません。

木蓮のような紅の花が新緑の中に鮮やかに咲いています。吹く風もさわやかしばし立ち止まります。その先は急に道が細くなって両脇は崖になって、まるで道の両側を切って落としたような、つまり『堀り切り』というところ。

説明版によると『1590(天正18)年に豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を、松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、敵の進軍を防ぐために道の尾根を掘り切ったところ』とあります。豊臣秀吉の小田原攻め、とありますが実際に豊臣秀吉がここに来たわけではなく、豊臣秀吉軍の武将である上杉景勝、前田利家、真田昌幸たちが戦った場所で松井田城主大道寺政繁が破れています。険しく掘り切られた道を馬に乗っていく草刈正雄演ずる真田昌幸の姿が重なってしまいます。一言で峠道と言いますが、旅人や参勤交代の列がひととき休んだ茶屋が軒を連ねた場所でもあり、もう少し先に行くと見えてきますが、明治の頃には学校もあった驚きの峠です。古来からの道はいろいろな事を知っているようです。

道はしばらく細いまま続きます。峠越えは白い花、緑の葉、枯れ草、土色、空の青などが繰り返し続いていく道ですが、この辺りだけなぜか赤い色の花が見え隠れして気持ちが華やぎます。進行方向右側に1791(寛政3)年建立の南向き馬頭観音(標高801m)、その先左側に1818(文化15)年建立の北向き馬頭観音が立っています。「文化15年4月吉日 信州善光寺施主 内山庄左衛門 上田庄助 坂本世話人 三沢屋清助」と刻まれているお地蔵様。

この辺りは山賊が出たそうです。身ぐるみはがれたり殺されたりした人もいたのでしょうか。荷物を背負った馬も多く山越えしたので、倒れた馬もあったでしょうね。お地蔵様にそっと手を合わせました。

刎石の一里塚の札が立っています(標高814m)。『座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。その途中に小山を切り開き『一里塚』がつくられている。』とあります。旧道などどこどこ?と探してみたい気持ちでしたが、今日は余計な事をして足をくじいてはいけませんので、なるべく道から外れないように歩くことにします。

                         

5,山中茶屋跡

座頭ころがし(標高862m)にでました。説明版には「急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。赤土となり湿っているのですべりやすい所である」と書かれています。かつて座頭が急な坂道を転げ落ちて落命したところから危険な山坂をこう呼ぶようです。安政の遠足の案内もあります。古(いにしえ)と今を行ったり来たりしながら、木材チップのようなふわふわとした道や木で段を作ってある場所や、また尖った石をよけたりしながら、足下を注意して座頭転がしならぬように慎重かつ先へ急ぎます。

道脇にエンレイ草が咲いていました。茎から直接出ているとても大きな葉に驚きます。可憐な花ですが、胃腸薬や催吐剤などの薬草である一方、サポニンなどの有毒成分を含む有毒植物です。黒く熟した果実は食用となるそうでこの辺りで多く見かけます。旅の途中の胃腸薬にも利用されたのでしょうか。

とても開けた場所に出ました。栗が原です(標高897m)。看板には『明治天皇後巡幸道路と中山道の分かれる場所で、明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが、交番のはじまりである』とあります。まさかこんな山の中にあるものが交番の始まりとはびっくりです。そのほかにも折れた案内板、さびた案内板などがありますが読めません。ここは分かれ道とあります。確かに左に折れていく道はあり、明治11年に明治天皇の北陸東海御巡幸の際、新たに拓かれた道で、めがね橋の方に続いていると手元の地図には載っています。明治天皇後巡幸道路とはいえ、当日は雨だったようで輿は危険で担がれず、明治天皇は歩かれたとの記録が残っているそうです。

尾根道が続きます。尾根ですから木立が途切れると右にも左にも周辺の山の頂が見られます。足下見たり山並み見たり、まだまだ五月の幼い葉をつける木々を見上げたりゆっくりと歩きます。やがて杉並木。時間は正午。真上から降りてくる太陽が木漏れ日となって美しいです。

入道くぼ馬頭観音(標高964m)が右手にあります。この先にある山中茶屋の入り口に当たるところです。蓮の台座に乗られた線刻の観音様です。『これより先はまごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる』、と立て札にあります。その先左側には苔むしてはいますが比較的新しい石垣と階段があります。何の跡でしょうか。だらだらと続く赤土のゆるい下り坂を行くと山中茶屋跡があります。説明板には「山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年中(1648年〜)に峠町の人が川水をくみ上げるところの茶屋を開いた。寛文2年(1662年)には、13軒の立場茶屋ができ、寺もあって丸屋六右衛門の茶屋本陣には上段の間が2か所あった。明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。」とあります。

もう一つ折れて逆さになった説明板があります『江戸時代中期頃、ここに茶屋13軒あり、力餅、わらび餅などを名物にしていた。またここには、寺や学校があり、明治11年(1878)の明治天皇北陸御巡幸の時、児童が25名いたので25円の奨学金の下附があった。供奉官から10円の寄付があった』と書いてあります。明治11年にここに学校があったのも驚きですが、この頃の大卒の初任給が8円くらいだそうですから下附がかなりの額であったのも驚きです。

                                         

6,陣馬が原追分(標高1052m)

「あと3k」の標識がありますが、これは安政遠足マラソンのゴールのための標識のようです。先が崖なので落ちたら危ないところには杭とロープで防止してありますし、山肌はコンクリートで固めてあるところもあり、道はなんとなく広い感じになってきています。長く続く上り坂が先に見えます。ストックを握り直します。山中茶屋から子持山の山麓を陣場が原に向かって上がる急坂の山中坂です。この坂は別名「飯喰い坂」。坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った、という坂です。碓氷峠は県境のあたりで標高1200m。この辺り標高984m。もう少しです。

三陸開発株式会社の看板とともに放置バスがあります。軽井沢方面からは車の通れる幅の道があるようで、この先にはちらほらと現代の遺品放置が見られるようになります。陣馬が原追分に出ました。子持山の山頂近くということになります。標識には『太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている』と記されています。碓氷峠の道が古くからあったという歴史の証明です。標識の前半部分の新田義貞が足利尊氏と戦った合戦は正平7年(1352)のことです。豊臣秀吉方が小田原征伐の際に碓氷峠に進軍してきた時よりさらに300年前の事です。

もう一つの標識には子持山を詠んだ万葉集の歌が紹介されています。『子持山 若かへるての もみつまで  寝もと吾は思う 汝(な)はあどか思ふ(万葉集巻14東歌中 読人不知)』。ついでに意味も書いてあればいいのにと思いつつ通過します(帰宅後に調べた限りでは、子持山を、子を持とうにかけた求婚の歌のようです)。山も道も谷も悠久の歴史の中にあります。

追分の二手に分かれていく道の右側は和宮道です。1861(文久元年)、皇女・和宮が徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸へ約3万人一行となって中山道を下るに際に険しく荒れていた道をさけるために別途に開かれて整備されたものです。追分に、ちょうどいた人に道の様子を訊きましたら、平坦で広い道が和宮道とのことでした。安政の遠足マラソンは和宮道を行くそうですが、味があるのはやはり旧中山道で左側とのこと。下り坂になっている旧中山道を行きます。

                    

7, 人馬施行所跡

イチリンソウに似た花がツル状に咲いています。カメラを花の下に潜り込ませて撮ります。行く手には倒木が頭上や足下に倒れています。乗り越えたりくぐったりしながらゆるく登りになっている道を進みます。化粧水跡(標高1068m)に出ました。標識の文字にふりがなはありませんが、化粧は「けしょう」ではなく「けわい」と読みます。旅人が自分を水に映して身だしなみを整えた場所です。化粧坂などの全国に多く残っています。鎌倉の切り通しにも化粧坂(けわいさか)がありますね。

人馬施行所跡(標高1068m)です。標識には『笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行二十間を借りて往来の人馬が喉を潤すための休む家を作った』とあります。河内国の八尾村出身の江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が千両を幕府に寄付して運用益の利息百両を使って、この碓氷峠と和田峠に施行所を設けて11月から3月の寒い冬期の間に峠越えをする人々に、粥とたき火を施し、牛馬にかぎっては通年にわたって桶一杯の煮麦を施したそうです。ちなみに和田峠にある人馬施行所は立派なものが残っていて国の史蹟になっています。千両と言ったら今の一億くらいでしょうか……豪商になったらお金を有意義に使う……こういう人が現在はあまりいなくなった気がします。

橋のない小さな川を石を踏んで越えます。上流には大岩が見えます。木の根っこをまたいで行きます。こんな道ですが、地図で見るとこの山道の深く深く下を長野新幹線が通っているはずです。細い道の登りが続きます。峠までに最後の坂。長坂の標識に出ました。標高は1173m。『中山道をしのぶ古い道である』という簡単な説明がありました。

                

8,熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)(標高1200m)

樹木が少なくなり空がいよいよ広くなり峠が近くなる気配です。松井田坂本宿の道標があります。山火事用心の無粋な赤い旗の下に霧積温泉を示す道標がありますが、ここが陣馬が原追分で分かれていった和宮道と合流するところです。ちなみに霧積温泉は森村誠一氏の推理小説『人間の証明』の舞台となったところです。

幾つかの石造物が立ち並んでいます。仁王門跡標高1180mです。案内版には『もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の廃仏毀釈によって廃棄された。仁王様は熊野神社に保存されている』とあります。

神宮寺とは神仏習合思想に基づき神社を管理する別当寺のこと。日本古来の神々と外から入ってきた種々の仏教が神仏混交となって祀られたものですが、明治維新の廃仏毀釈によって廃棄されたのでしょうね。仁王様は熊野神社に移動されたようです。

碓氷峠は単なる山道と思っていましたが、古来は戦場であったり、江戸時代には茶屋があって賑わったり、神宮寺があり、仁王門があり、明治の頃には小学校も設立されていて、こんなにも多くの歴史を刻んでいた碓氷峠であったのかと驚きます。いくつかの石造物の中に1857(安政4)年建立の思婦石(おもふいし)があります。群馬郡室田の国学者、関橋守(1804−1883、江戸後期-明治時代の歌人・上野(こうずけ)群馬郡室田宿の材木商・名主)の直筆の歌碑です。『ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら』。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定で三浦半島から房総半島に渡るとき、海の荒れを鎮めるために身を投じた妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)偲んで、この碓氷峠から「吾嬬(あがつま)はや」と嘆いた古事を歌ったものです。当地の吾妻郡や嬬恋村などにその地名が残ると言われていますが、この古事由来の地名は秦野の吾妻山にも足柄峠にも残っているそうです。全国を歩いた日本武尊、妻を亡くしたお嘆きが長かったのでしょうかしらね。

下の方に降りていく道があり碓氷峠水源地・碓氷川の中央分水嶺の標識があります。群馬県側に降った雨は高崎で烏川と合流、その先埼玉に入って利根川に合流して太平洋へ抜けます。対して長野県軽井沢側 へ降った雨は湯川 、千曲川、信濃川へと流れ新潟から日本海へ抜けていきます。水源地まで降りて行きたかったけれど、もうこれ以上の上り下り無理であきらめます。分水嶺ですから本当に山の頂で、少し先に桜の淡い色が見えたと思ったら空がさらに広く開けてすぐに峠の茶屋に出ました。観光客も急に多くなりました。

峠の茶屋前には「史蹟 赤門屋敷跡」。加賀藩前田家の休憩所となる屋敷があった跡です。案内版の内容です。『江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為「中山道」が碓氷峠「熊野神社」前を通り、此の赤門屋敷跡には「加賀藩前田家」の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿「追分・沓掛・軽井沢」を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(1861)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。明治11年(1878)明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町「峠部落」も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。此の屋敷は熊野神社代々の社家「峠開発の祖」曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門「御守殿門」及び格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている』、とあります。

加賀藩前田家の赤門といえば本郷の東大の通称赤門の御守殿門(ごしゅでんもん)があります。日本橋を出発して板橋宿に至る中山道の途中にありますが、それは重要文化財として残っています。江戸時代当時は、将軍家からお嫁さんをもらう場合、門を新しく作り赤く塗らなければならない決まりがありました(東大の赤門は将軍の息女溶姫が前田家に輿入れした際に新しく建てられて赤門)。朽ち果ててしまったとは本当に惜しいです。

赤門の跡の先には碓氷峠をこれから越える人は旅の安全を、また越えてきた人は無事のお礼をと賑わった熊野皇大神社。長野県北佐久郡軽井沢町峠町1という地名になります。鳥居の先にかなりの階段数。……もう上には登りたくない気分ですが、最後の頑張りで行きます。鳥居の前には安政の遠足の決勝点の標識があります。大きすぎて風景にミスマッチです。国境が赤い字で示してあります。石段の途中に狛犬。蛙のような風貌で素朴で優しそうです。長野県では一番古い狛犬で室町時代の作。石段を登り詰めたところにこの石段を奉納した記念碑として奉納された石の風車があります。『 明暦三(1657)年に軽井沢の問屋佐藤市右衛門と代官佐藤平八郎が二世安楽祈願のため神社正面の石段を寄進しましたが、その記念に次の代の市右衛門が家紋の源氏車を刻んで奉納したものです。秋から冬にかけての強風を思い、旅人が石の風車として親しみました。「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」』と書いてあります。

随神門をくぐります。越えてきた碓氷峠には仁王門跡があり仁王像は熊野神社に納められているとありましたが、この中にいらっしゃる気配はありません。門は片側修復中で緑のシートがかけられています。随神門をくぐると左右に拝殿(神楽殿)。正面には三つの宮。中央の本宮は長野県と群馬県の両県にまたがって鎮座。境界線がここにも引かれています。左側が長野県の那智宮、右側が群馬県の新宮。お賽銭箱も二つ。宮司さんも二人。熊野皇大神社は水沢家、熊野神社は曽根原家が代々の宮司さんです。熊野神社は長倉神社熊野宮、長倉山熊野大権現などと称しましたが、社地が信濃・上野の境界となり上野国も入ったため熊野宮と名称が短くなり、また1868(慶応4)年に現在の熊野皇太神社に改称された後に、第二次世界大戦後、現在の熊野神社という名称になった、とあります。

神社の縁起によると、景行天皇40年(110)、東国平定に赴いた日本武尊(やまとたける)が碓氷坂で道に迷っていたところ、熊野の神の使いである「八咫烏(やたがらす)」が現れて道案内をしてくれたとのこと。熊野の神のご加護を感謝して日本武尊が熊野の神を勧請したとあります。都会ではとかく嫌われもののカラスですが、この言い伝えのカラスは三本足の大カラスだったそうです。

長野県側に樹齢800年のご神木。その元に日本武尊が妻を失って嘆いた吾妻郡の呼称の元になった碑が建っています。県指定重要文化財の古鐘などもあります。参拝のあとは向かい側にある峠の茶屋で休憩。登山口から9キロ弱、標高差680m、所要時間4時間の碓氷峠を越えた足腰を休めながら満開の桜をしばし楽しみます。これから先は、遊歩道になっているつづら折りの道6キロ、200mの標高差をショーハウス、つるや旅館に向かって1時間ばかりを降りていく予定です。

                                                                                    

9,ショーハウスつるや旅館

10,軽井沢宿本陣雲場池


Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie

                                                                                                             


Map1 軽井沢、旧碓氷峠

Map2 軽井沢駅から軽井沢

 

June 2005 撮影:瀧山幸伸 HD(1280x720)

June 2005 撮影:瀧山幸伸 HD(1280x720)

       

中山道 碓氷峠熊野神社から軽井沢 ドライブ

Usui pass - Karuizawa drive

June 2005 撮影:瀧山幸伸 HD quality(1280x720)

中山道 軽井沢宿(軽井沢銀座) ドライブ

Karuizawa town drive

June 2005 撮影:瀧山幸伸 source movie

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