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長野県南木曾町  三留野宿

Midono,Nagiso Town,Nagano

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Oct.5,2021 柚原君子


中山道第41 「三留野宿」


概要


長野県木曽郡南木曽町にある三留野宿がいつ頃から機能していたかは詳細が解からないそうですが、1533(天文2)年、17代木曽義在が領内の木曽路の洗馬宿から馬籠宿までの街道を整備している事実があることから、この頃から宿駅があったのでは?との推定はあります。

詳細を不詳としながらも、本陣を勤めた鮎沢家や問屋を勤めた勝野家も、1584(天正12)年に妻籠城に徳川軍が侵攻してきた時には城を守る兵士として名が記載されているそうで、木曽氏が木曽谷を離れたときに帰農して宿を治める立場になったのではないかと思われています。

「三留野」の名称は領主である木曽氏の館があったことから「御殿」が「三留野」に変化したのが定説ですが、その他にも木曽の道を開くために官吏が宿舎をこの地に建てたからそれで御殿とした、またその宿舎跡に木曽家豊が嫡子を住まわせ何代かつづいたので三留野殿が変化したという説もあります。
宿は江戸時代に4度の火災(万治、延宝、元和、宝永年間)にあっていますが特に大火災だったのは明治になってからで、1881(明治14)年に、家屋74軒、土蔵8軒などほとんどの建物を失っています。現在の三留野宿の町並みは明治大火災以降に再建されたものです。
また、鉄道が開通したことで賑わいは南木曽駅周辺に移ってしまったので、あっけないほどの寂しい宿の佇まいになっています。

前宿の野尻からほぼ木曽川沿いに進んでくる中山道は断崖絶壁も多く,難所が続く道。現在でもダムと発電所が複数あり、歩道のせまい国道はダンプの往来激しく、注意して歩かなければなりません。国道を外れて山道を少し登ると,急に宿内に入りますが、山と木曽川に挟まれてほんの小さなひっそりとした宿のたたずまいに驚きます。どこの宿にも大体はある史跡の問屋場も高札場もなく、思わず『何もない!」との独り言ちが出ます。
宿を過ぎて南木曾の駅の少し手前に国の重要文化財に指定されている立派な吊り橋が架かっています。通称「桃之橋」と呼ばれ、水力発電に力をそそいだ大同電力(現関西電力)社長福沢桃介氏が大正時代に架けた木の吊橋。

また中央本線の電車からも見えますが「読書(よみかき)」という不思議な名称のダムと発電所がありますが、これは南木曾町が旧読書村であったところからの名称です。村の合併にありがちな頭文字の寄せ合わせで、与川(よがわ)の[よ] 三留野(みどの)の[み] 柿其(かきぞれ)の[かき] からつけられたとものだそうですが、そのまま与三柿で良かったのに何故、読書になったのかと不思議に思います。
宿内には特に何もありませんが,桃之橋と木曽川の南の寝覚めと呼ばれる白い石が続く河原の景観は見応えがあります。

1,十二兼駅~南寝覚

木曽11宿を計画的に歩いたつもりでしたが、どういうわけか三留野宿だけが残ってしまいました。コロナ禍で二年間出掛けられない間に私の足腰が弱り、歩き通す自信が無いので今日はJR中央本線「十二兼」の駅から歩き始めます。

■歩けなかった区間。野尻宿は「下在郷の一里塚跡」で終了しています。その後に三留野宿に向かって続く「シラナミ坂」、読書ダムの見える「第14中仙道踏切」、立場であった「新茶屋跡」、「天照皇大神宮常夜燈」「熊野神社」などは残念ながら歩けませんでした。■


朝、7時半に新宿駅よりあづさ3号に乗車。塩尻で中央本線に乗り換えて十二兼駅下車。下りてすぐ左側は国道。線路の脇よりくぐれるところがあったので国道に出て信号の脇にある、十二兼の一里塚を写真に収めます。
概要でも記しましたが合併で「読書」という変な名前になった「書」の部分を表す旧柿其です。一里塚は南塚に榎二本、北塚に松が一本だったそうですが、国道か鉄道を通した所為なのでしょうか、現在は元有った場所ではないところに跡碑の石塚が一つ立つのみです。
くぐり抜けたところから駅のホームに戻り,線路をまたぐ階段を昇り、国道とは反対側にある中山道に出ます。無人駅。柿がたわたに実った駅です。
木曽川を右に見て歩きます。駅の前に大きな看板があるのですが、中山道への案内が何もないので木曽川の脇に道があるのでは?と覗いてみましたが、笹藪の奥の崖の様になった下側はきれいな河原の白い大きな石が見えるだけ。

とりあえず、電車が行った方に直進します。10分ほど歩くと「柿其入口」の信号があり国道と合流します。信号に出る前に木曽川に架かる柿其大橋がありますので、そこからみた風景が「南寝覚め」。
上松宿でみた「寝覚の床」に比べると少し狭いですが、それでも石の大きさに遜色はなく、きれいな形です。今はこの大きな橋がありますが、昔は筏で向こう岸にある柿其村に渡っていたので柿其渡(かきぞれど)と呼ばれていたそうです。

信号を右折して、これからしばらく国道と平行して歩きます。左側に石垣が少しある何かの跡があります。石碑には「椎河脇神社、金刀比羅神社」と刻まれています。椎河脇神社は水の神様で氾濫防止の祈願をする神社でもあり、椎ケ脇神社とも書き,他所の地方にもあるようです。

左側の山際に中央本線の陸橋が見えてきます。その下を流れるのは「与川」。上流にはいくつかの村があり「読書村」の読の字に当た与川村もそこにあります。与川は木曽川に流れこんでいますが、この辺り、中山道時代は土の橋も多く木曽の桟(かけはし)のような崖状の所も多く、旅人は大変だったようです。与川が合流する橋は今は国道上で羅天橋という鉄の立派な橋です。羅天の桟があった場所。馬にも乗れないような危うい道で、木曽の桟よりも危うかった場所。1648(慶安元)年に開通していますが土石流や木曽川の出水により通行止になることもあり、その迂回路として与川道があったそうです。
鉄道の高架をくぐって少し行くこと「与川の山抜石地蔵」があります。1844 年(天保 15 年)5 月、大きな土石流(蛇抜け)があり、尾張藩の材木伐採に当たっていた作業員(杣日傭そまひよう)の宿舎である鈑場が全壊して99名が犠牲となる大惨事がおきています。その菩提を弔うための石地蔵様です。
                                                          

2金知屋集落~与川道追分

街道に戻り車の多い国道を再び進みます。左に金知屋のバス停。民家の前にほんの少しの旧道が残っていますが、牛方の集落で一里塚もあったそうですが今では場所も不明です。五分ほど歩いて国道を横切って左の山に登っていくゆるい坂道がありますので入ります。県道264号線で三昧坂です。登っていくと右側に美しい木曽川と寝覚の床の様な大きな白い石が河原に続くのが見えます。
草に埋もれそうな馬頭観音様を左手にJRのガードをくぐると、山の涼しい風が吹いてホッとします。

民家が見え始めていよいよ三留野の入口。左にある神社の所から下りてきた道が与川道(与川道は木曽川が洪水などで通れないときに迂回する山道。結構長い迂回道で野尻駅から南木曾駅間にあたります)合流地点。与川道追分。
                           


3本陣、脇本陣

概要にも記しましたが、何もなくあっけなく過ぎてしまう宿です。火災に幾度も合う宿が多いのですが三留野も例外でなく度々の火災で宿の長さも短くなるばかり。難所の多いところでしたので旅籠も多かったそうですが、当時から「宿悪しく、わびしき所」と言われていたようです。

ちなみに中山道では広重の描く絵の現場が、現在でもはっきり解っている宿が多いのですが、ここ三留野宿は叙情的に描くにとどまり確定にいたる場所がありません。それほどに昔より何もなかったということなのでしょうね。また、明治以降鉄道と国道は南木曽駅を中心としたので繁栄もそちらに移り、宿としての保存の価値も余り見いだせなかったのかも知れません。

与川道の追分にはただコスモスが咲いているだけ。家々はカーテンが引かれたままで人の気配ももありません。ひっそり。
「たなかや」「かぎや」の屋号表札が真新しい。「ささきや」さんの表札の横に漢字の「佐々木」。なにか昔に返った方で少しホッとします。どの家も比較的間口は広いので旅籠であったのでしょうか。そんな家々が数軒続いた左側に「宮川脇本陣跡」。宮川家は江戸時代から庄屋さん。この辺りが三留野宿の中心。現在の建物は明治以降のものだそうで、脇本陣としての面影は全くありません。向かい側に広場「二本木家跡」と木札がたっています。その少し横の空き地が本陣跡。皇女和宮様が京都を発って13日目に宿泊した場所。明治天皇も宿泊処とされましたが宿泊された翌年の大火で焼失しています。残されているのは枝垂梅のみ。井戸は復元。
本陣と脇本陣の説明書きが二本あるのみの三留野宿は秋葉常夜灯の辺りでもう終了です。
                                        

4、等覚寺

常夜灯のある坂道を登っていくと等覚寺。立派な仁王門をくぐると左手に弁財天十五童子像・天神像・韋駄天像:南木曽町指定有形文化財)の三体が安置されている円空堂があります。
円空は江戸初期にこの美濃の国に生まれた行脚僧。一生に12万体の仏像を作ることを祈願し、等覚寺の「財天祠棟札」に「弁財天十五童子像」が1686(貞享三)年八月に造られたことが記されているので、円空はこの頃南木曾に滞在して仏像造りに励んでいたことがわかります。
等覚寺より再び街道に戻ります。緩やかに曲がる道を先に進むと梨沢橋。渡るとやや左正面に石段が数段。そこを登って民家の前を過ぎていくのが中山道。他所のお宅の前と裏ですが、中山道の案内木札も小さくあります。道なりに集落を進み降りて行くと国道に。左に折れて国道から分かれるYの字を左に取っていくともうすぐそこが南木曾駅です。
三留野宿はこのあと南木曽駅の裏側の山道、蛇抜橋を過ぎて銘酒「諸橋」を醸造した「遠山家跡」へと続きますが、私は今日は中山道には余り関係ないですが、大正時代に架橋された「桃介橋」を撮影してから南木曾駅より東京に戻ります。
                                      

5、桃介橋

              

次は妻籠宿です。

 


June 2005 瀧山幸伸 source movie

Map三留野北

Map三留野

Map三留野から妻籠

中山道 野尻から三留野 ドライブ

Nakasendo Nojiri to Midono drive

 

【街並】

この宿場には街並保存や復元の兆候があまり見られない。過去の遺産を再評価してほしい。美しく湾曲しスロープのある街道は歩いて気持ち良い。高台に沿っているので木曽川や対岸の展望も良い。駅に近く交通便も良いので、復元すれば素敵な宿場町として復活するだろう。

木曽川沿いの難所、羅天を山越えで迂回する与川道への分かれ

   

本陣跡付近

   

    

三留野のまとめ アセスメント 合計 2点

周辺の自然と景観 +1

産業遺産(町の記憶)の復元 +1

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