長野県南木曽町 妻籠
Tsumago,Nagiso town,Nagano
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山に囲まれた静かな宿場 | |
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Dec.2020 柚原君子
第42「妻籠宿」
概要
明治以降の鉄道の発達によって取り残された地域となった妻籠。高度経済成長の昭和30年代も若者たちが都会に流出。さらに村の過疎化が進みます。
昭和43年、明治百年記念事業のひとつとして長野県は妻籠宿保存事業に着手します。歴史的風土、文学的風土を守る観点から町屋を対象として解体復元・大修理・中首理・小修理などに分類して復原・修景を実施していきます。平行して観光開発として集落の保存の議論を進め、昭和43年に妻籠宿を守る住民憲章ができます。
それは町並みを守るために住民の一人一人が建物・農耕地・屋敷・山林を含めて全てを「売らない・貸さない・こわさない」という三原則が基本。住民たちは『妻籠宿は観光的利用の保存であること』との気持を一致させていきます。昭和51年、全国のいくつかの場所と共に重要伝統的建造物群保存地区に初の指定を受けます。
現在、江戸時代の町並みを守る徹底ぶりの歴史もかれこれ40年以上の年月を経っていますが、住民の思いはぶれることなく継承されて、時代劇のロケにも即刻使える江戸時代の町並みとして今も残されています。
現在の妻籠は自動車の進入が10時から4時までに規制されていて、観光バスの集合場所は表通りからは見えにくい場所に設けてあります。生活道路も町並みの後ろ側に付けられていて、宿内に電線や電信柱はただの1本もありません。生活にかかわる広告類や立て看板・横看板も無く、あるのは江戸時代にあった旅籠の看板や商号のみと徹底しています。
幸いにして国道は街道筋から離れているのでその騒音や車影もありません。
生活をしながら町並みを財産として守る努力には住民の方々の日々の大変な苦労がありそうですが、深い山を背にして昔ながらの細い街道の両側に家々の庇が伸び、昔日の旅人の足音さえ感じられるような佇まいが保たれています。
妻籠は南北6キロ(宿は1㎞)あまりの細長い一帯に宿と人家があり、木曽路が吉蘇路と呼称されていた古代から人々の行き交う往還で、伊那街道と交差する交通の要衝で人口は少ない宿ですが旅籠は31軒と追分として栄えた宿です。
木曽氏の一族である妻籠氏は御厩材木を政府に出す人として室町時代に初登場しています。宿の入口の少し手前北側に妻籠城がかつてはあり、1584(天正12)年の豊臣秀吉と徳川家康の小牧長久手の戦いの一環として地元の土豪たちを巻き込んで戦の場となっています。が、残念ながら今では城址として残るのみです。戦いの後、羽柴秀吉方であった木曽氏は関東に移封されたのですが、地元の土豪たちは追随せずに妻籠に残り、江戸時代には庄屋や本陣、脇本陣などの要職を務めています。
城址までは中山道より20分位の昇り。妻籠宿と反対側の三留宿の両方の展望がみられます。
天保14年の『中山道宿村大概帳』によると、宿内家数は83軒。内訳は本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠31軒、宿内人口418人。
1,新宿駅~南木曾駅~かぶと観音
2020年は初頭からコロナ禍で外出ままならない一年を過ごしましたが、GO TOトラベルも実施された10月になって、熊の出没に恐れながらも、妻籠から大妻籠に宿泊をして馬籠→落合宿へと抜ける一泊二日の中山道撮影となりました。
新宿を8時に出発して塩尻駅乗り換え、中央本線の普通で南木曾下車。駅よりバスにて二つ目の停留所の『かぶと橋』下車して、本日の中山道を歩きはじめます。
かぶと観音に。紅葉がとても見事で見とれました。その所為ではありませんが、袖振りの松で作った大きな木船(水を湛えた船)と腰掛け石の写真を撮り忘れました。残念!
かぶと観音は妻籠に砦(のちの妻籠城)を築いた木曽義仲が戦にでる時に、鬼門の守りとして兜前面あった十二面観音像を外して当地に祀った、と言い伝えがあるそうです。木曽義仲と巴御前は木曽山中一帯にいろいろな伝説がありますが、このかぶと観音にも写真には収められませんでしたが、袖振りの松(木曽義仲が弓を射るのに邪魔になった松を,巴御前が袖を振って枝をなぎ払ったという伝説)が台風によって倒れてしまったので、その材で木船を作ったものもあります。
2,原臣石碑~くぼほら茶屋跡
かぶと観音を後にしてここから2.5キロ先にある妻籠宿へ歩きます。源臣光照院塚大明神と書かれた石碑。木曽家の何かでしょうか。特に説明はありません。ゆるやかに曲がる道を行くと戦沢橋。せん澤とも千沢とも書くそうです。渡ります。左手にある道しるべの石はせん澤と書いてあります。少しですが石畳みがあり先の方に上久保の一里塚が見えています。過ぎてまた少しの石畳み、道は下り坂。良寛の碑とくぼほら茶屋跡を見て通過します。
3、蛇石~しろやま茶屋廃屋~妻籠城址
正面に地域の方のゴミ捨て場があり右に道をとったのですが、次の目標である蛇石がなかなか見えてきません。間違い?で、近所にある住宅のピンポンを押して道を教えて貰いました。ゴミ捨て場で左右を間違えたようで、そこまで戻り左の道を行きます。
蛇石が見えてきました。工事中もあって大きく曲がって見たのですが、どうして蛇なのかと思う石でした。過ぎると微妙に道がYの字に。道案内もありません。しばし思案。え~いとばかりに右側のやや下る方に。正解!前方に、あっ!と声を出すほどきれいな紅葉。まっ赤です。右の『しろやま茶屋』の廃屋も絵になります。そしてこの先を右に取ると妻籠城址です。私の足では30分くらいかかりそうですが、せっかくですので行ってみます。
山道は木くずや落ち葉が乗っていてふわふわ。土塁や堀切、帯曲輪の案内板を見ながら昇って行きます。昔は砦といわれていたそうで、四方八方見渡せます。眼下の町はこれからいく妻籠宿ですが、妻籠宿の動静を100%管理できる場所で戦には絶対必要であった砦の意味がよく分ります。現在の国道が宿の町並みから大きく離れていることも見て取れます。
城址の隣には賽の神土塁が大きくあった事もわかっているそうで、これが妻籠にあった関所ではなかろうかと想像されているそうです。
本日は妻籠の宿を堪能してその先の大妻籠での宿泊を予定していますので、砦の頂上で国取り主になった気持ちでミカンを一つだけおやつに食して砦を降ります。
4、鯉岩~脇本陣
山をゆるやかに下りてきて国道と合流。妻籠まであと700メートル。湾曲の昇り下りを繰り返しながら、最後の曲がりを抜けると細い道、忽然と黒い古い建物のある宿が現れた感じです。御宿大吉の看板。妻籠宿に入って来ました。
山側に大きな鯉岩。説明板に付け足されている写真によると初めは鯉が空を向いている状態であったようで、それはまさしく鯉の形に見えます。それが、明治24年の濃尾大地震によって鯉の頭が崩れ落ちたとのことで、今ではヒキガエルを上から見たような形になっています。
鯉岩の向かい側に熊谷家住宅。江戸時代後期の長屋住宅。
続いて口止め番所跡があります。関所と同じ機能ですが、関所の要件を満たさないものが口止め番所。農民や犯罪者の逃亡防止、旅行者や各藩専売品の流出をとりしまったり、品物に掛ける関税などの徴収業務があり、機能は関所のそれと変わりません。
ひとまたぎできるような小さい川にかかる地蔵橋。この辺りが東の枡形。橋を渡るときれいな石畳みの道はけっこうな勾配のある下りとなり、曲がって行くと左側に立派な高札場があります。七つのお知らせが掲げられています。旅人の気分で見上げます。さらに下って行くと脇本陣。電線も生活上の広告もない街道筋は江戸時代そのもの。奈良井宿もこのような様子でしたが、それに比べたら一軒一軒の間口が広い感じがしますが、実は妻籠宿は間口の大きい建物は下町、脇本陣、本陣のある中町、上町までで、その先の枡形の先の寺町下になると庶民の生活色濃く間口が狭くなっています。
つつっとこという干し柿が見られます。藁に巻かれています。妻籠の秋の風物詩。柿の種類は百目柿(百匁柿)。電線がないとこんなきれいな町並みになるのですね。すっきりとして気持ちがいいです。右手に「奥谷脇本陣跡(林家住宅)(奥谷郷土館)」。平成13年に主屋、文庫蔵、土蔵、侍門が国の重要文化財の指定を受けています。島崎藤村のまだ上げ染めし前髪の、と「初恋」の詩に詠われたおゆふさんの嫁ぎ先でもあります。
江戸時代に木曽の山々の木材の使用は厳しい山林統制があり、住民たちは檜が目の前にありながら使用することはできませんでした。明治になってから尾張藩による統制が解かれ、林家は自分の山からふんだんに檜やさわらを曳き住宅を建てました。屋号が『奥谷』で江戸時代は脇本陣を務めていたことから奥谷脇本陣と呼ばれるようになったそうです。
庄屋も務めたことから、貴重な書類がたくさん保存されているそうです。また、妻籠宿が住民たちが足並みをそろえて町並み保存運動に取り組んだときのシンボル的存在となった場所でもあるそうです。明治天皇の御小休所(おこやすみしょ)でもあります。
5本陣
どの家々も生活の雰囲気を残していますので、何だか生き生きとした妻籠宿です。一歩下がって空を見ると宿並の奥の屋根の先には確かに電線の鉄塔が見えます。生活の為の全ては街道筋の後ろ側に徹底していることが解ります。本陣は問屋を兼ねて代々島崎家が勤めています。
案内板がありますのでそのまま掲載します。
『
妻籠宿の本陣は代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から『ぬい』が馬籠の正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり、最後の当主となりました。その後本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代の間取図を元に忠実に復原されたのが現在の建物です。』
案内板
続いて郵便局
やはり案内板がありますのでそのまま掲載します。
『妻籠郵便局は、明治六年三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。当時の取扱所は、本陣にありました。その後、名称も場所も変わりましたが、健在のところに移ったのは、昭和五十四年一月です。この建物は重要伝統的建造物群ほぞんちく町並の景観にあうように出梁造り(だしばりづくり)の形式を用いて造られています。郵便史料館はこの郵便局の中にあり、昭和六十年七月に開館しました。ここは、明治四年新式郵便制度創業時の服装を始め、時代の移り変わりに伴う郵便関係の貴重な資料を展示してあります。自由にご覧ください。妻籠郵便局長
』
6、寺下町並み
西の枡形になり道は右下とそのまま枡形を行くとに分かれます。右下道が昔の中山道。大きな商家や旅籠が続いたこれまでの雰囲気と違い、小さな間口に細い道に庶民たちの住まいという感じです。集落をそのまま残す試みをした妻籠の人々。小さな間口で一目で江戸時代の歴史の町とわかりますが、そこが生活の場として現在も人々が住んでいることが、すごく不思議です。ちなみに妻籠の住人は江戸時代から変わらずに続いてきた人々が多いそうです。
寺下を歩きます。ゆるやかに下りながら家が続きます。しろき屋、曲物の丸太屋、そして屋根に石を載せている江戸時代の典型的な民家である片土間並列二間取り
を復元した下嵯峨屋。お宿とありますが、木賃宿です。
木賃宿とは幕府が正式に許可した旅籠より格下で、作りは質素、旅籠に泊ることのできない庶民や旅人が、雑魚寝で食事も自分で作る事は当たり前であったそうで、作りが安易なことから建て替えられる事が多かった木賃宿にしては、残っていることが珍しいそうです。
下嵯峨屋は3軒長屋のうちの一戸を昭和43年に解体復原したもの。柱に檜が使われていて、当時規制されていた檜が使われていることで、木曽谷の民家としては非常に珍しいことから南木曾の町の有形文化財になっています。時間はまだ15時少し過ぎですが、谷の深さ山の高さの間にある宿は既に日が陰り始める気配です。街道には燃えるような紅葉が見られますが、晩秋の夕日に輝いているという風情です。
道はまた緩やかに左に。こちらにあるのは上嵯峨屋。長屋建築の下嵯峨屋に比べると少し立派な気がします。奥行きもあり、部屋数も多いようです。街道に面して格子戸や板戸(しとみ戸)があり木賃宿でも上質のお客さんが来るような感じです。
7,おしゃごじ様
妻籠宿もはずれにきて紅葉を見上げながら歩きます。家々の庇が道幅の細さに被さってきますので江戸時代の風情を楽しめます。左側に尾又のおしゃごじ様。お酒が備えてあります。
案内板には要約すると「御左口(ミサグチ)神を祀る。古代から土俗信仰の神様で土地精霊神"土地丈量神様「酒神」"等の諸説がある謎の神様といわれている。 尾又区」とあります。ミサグチはいろいろな言い方が地方によってあるようですが、民間信仰による精霊でいわば土着神。部落の境に位置して邪悪なものの進入を防ぐ神様です。また遠くからやってきてくれる神様もここをお通りになって村に入って村を守ってくれます。広い意味では塞の神、道祖神などと同義語とされる、おしゃごじ様です。精霊に供えるのでしょうかお酒が奉納してあります。
妻籠宿は先に見える国道に出るところで終わりますが、昔何かのコンテストで日本人ながら優秀だった作品として石で組んだ灯りを雑誌で見たような気がしますが、思い出せず。民家の軒下に飾ってありました。出てきた奥様によると縁戚の方とか。それから少し先に藁で編んだ大きな馬がいました。お店は閉まっているようです。
見えている国道を越えていくと大妻籠への入口です。
国道に付いて歩いて行くと大妻籠に出るそうですが、直進する山道は夕暮れが近いこともあって薄暗く、どうしようかと迷っていたら、土地の方が私たちを追い抜いていこうとしたのでお訪ねしたところ、熊も出ないし途中に民家もあるから、せっかく中山道を歩くのなら、こちらの道が絶対いいですよ。大妻籠までなら30分くらいとのこと、とおっしゃってくださったので国道ではなく山道をいくことに。
8、石柱道標、大妻籠
国道から大妻籠に向かう細い道に入ります。大妻籠の案内はなく馬籠宿への案内のみ。それでももしかしたら熊!ということもありますので、細い道を笛を吹きながら進みます。道を昇って行きますが、山に分け入るというよりは里山に向かうという感じです
時間は16時。国道から8分くらい歩くと『石柱道標』が民家の植木越しに上の方が見える形であります。明治中頃に国道が開通する前はここが中山道と飯田街道(大平街道)・伊那街道への追分地点で『橋場追分』とよばれていたところです。
資料によると道標正面には「中仙道 西京五十四里半 東京七十八里半」、右側面に「飯田道 元善光寺旧跡江八里半 長姫石橋中央江八里」、と書いてありさらに左側面にはこの道標を建立した人の名前が刻まれているそうです。
先に見える橋は大妻橋。超えて道は昇り。石畳み道を昇って民家の横を過ぎていきます。昇ったり降りたりを繰り返しながら、最後の急坂を転げるように下りたところに「大妻籠」の看板。
男垂川の橋を渡って間の宿だった大妻籠集落へ入ります。ここはこれから馬籠峠に向かう最後の集落で妻籠同様に国重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。川と街道に面して右側に出梁造り・本卯建を上げた近江屋・まるや・つたむら屋の民宿が並んでいます。集落は江戸時代からあるとのことですし、間の宿とはどこにも書いてありませんが、小数の家々ですが街道筋らしい雰囲気がいいです。ただし立て場や茶屋などの跡はありません。大妻籠は妻籠より大きいわけではなく、妻籠の奥の「奥」が「大」に変化して大妻籠になったとのこと。
9,民宿「つたむらや」さん
『諸人御宿 大妻籠 つたむらや』と書かれた軒下看板と杉玉と注連縄に迎えられて、昔ながらの小さな戸を開けてくぐって入ります。右手に赤々と燃えるストーブと、黒光りする壁と囲炉裏の部屋。しばらく座って休み、宿泊者は私たちのみなので靴は脱ぎっぱなしでもいいですよ,と言われて,すぐ左の部屋に。秋篠宮様が独身のころに紀子様たちとサークルの旅で宿泊された宿のようで、学生時代の秋篠宮様紀子さんのお写真が貼ってありました。そういえば、上松宿のお蕎麦やさんにも秋篠宮様の学生時代に訪れたというニュースの写真が貼ってあったので,同じ頃にいらしたのでしょうね。歴史サークルだったような記事でした。
お部屋はテレビもなくていい感じ。部屋は街道に面していて雨戸の閉め方を教えて貰う。GO TOキャンペーンが適用されるとのこと。サイン一つで宿泊料金が一人3000円近くも安くなり、おまけにこれから向かう馬籠でのお買い物券までついています。すごい!
トイレとお風呂を案内してもらう。途中の廊下に頭を打つくらい下がっている壁のようなものがあって、実はこれは卯建の中側。火事を食い止めるのは家の中にもあったということでしょうか。卯建の中側を初めて見ました。
お風呂は檜。さすがに木曽の山の中。民宿内の廊下は曲がりくねっていて、お部屋に帰れるのかしらん、というくらい遠かったけれど、広い民宿でビックリです。
お食事は囲炉裏部屋のお隣で。天ぷらなどは冷めていてちょっと残念だったけど、どぶろく(届け出名は男滝)も付いて豪華にお刺身や焼き魚も。大満足!!
実は、つたむらやさんは信州産のブランド魚、『信州大王イワナ』を育てるために養魚場を持っていらっしゃる養殖魚農家。家の裏に池があり,翌日のぞかせて貰いましたが,とても大きなイワナが悠々と泳いでいました。お刺身はマグロのトロかと思われる味。すごく美味しいです。雌ですが卵を持たずに大きくなる魚で、バイオテクノロジー技術が生み出した魚です。稚魚は長野県水産試験場で育てられますが,その後はベテランの魚飼いの方が二年飼育して1キログラム、全長45センチのイワナに成長させて出荷されるそうです。川魚のイメージからほど遠い脂ののった魚。絶品でした。
宿の女将さんは私たちと同年配のこともあって昭和の話しに花が咲きました。大妻籠のご婦人たちが力を入れて作っていらっしゃるという,袖無しのねんねこを着ていらっしゃいました。背中が温かそうでした。夜は外にでて久しぶりに星空を堪能しました。オリオンの横を流れ星がかすめて行くのを三回くらい見ることができました。
翌日、快晴。昨日夕方に大妻籠に着いたので朝日の当たる近辺を撮って歩きます。イワナのたくさん泳いでいる養魚場の池。畑に使うのでしょうか鴨のいる池。民宿縁側に飾られた細工物やお花。穏やかで静かな大妻籠宿です。
昨日の歩きで足が大部痛んだので、本日は馬籠峠まで歩く2時間の距離をバスに変更したので、大妻籠から馬籠行きのバスの発車が10時。少し朝の余裕がありますので、藤原家住宅にもゆっくり行かれます。最も、それでなくとも今日は馬籠宿を撮影したのに落合宿の医王寺まで行く予定なので,体力消耗を防ぐ意味もあります。さて、藤原家住宅に。きつい坂。途中に茗荷がたくさん。15分ほど登ると所在を示す板が畑の手前に。曲がると本家の隣に納屋のようなものがあり、そこが県指定文化財の藤原家住宅。建築年代は棟札が無く不詳ですが、工法や間取りから想像すると、1650年代のもので長野県下では最も古い民家だそうです。今で言えば納屋の様な感じですが,屋根の勾配が低く石で押さえてあるところなど
が今流の納屋とは違い歴史の重みが感じられます。中には農機具やおひな様、その他、昔のお茶碗など雑多に置かれています。囲炉裏が切ってあり竈も見える位置に。天井板はなく屋根の組み方がそのまま。とても寒い地方だと思いますが、囲炉裏の火で家の中は温かかった様な気がします。作りがしっかりしているのは昭和60年に2年掛けて解体復原された物だからです。
街道に戻り下り谷の一里塚の碑。西塚のみ。江戸時代は川の氾濫も多く,中山道を付け替えられることもあったので、この辺りでは?という看板が出ています。
こうしんづかという民宿の二階窓には籠がつり下げられています。馬籠峠を籠で行く人の物でしょうか。
過ぎて、どうがめ澤道標。「下り谷を経て馬籠峠へ」と刻まれています。石畳みを昇って行くと馬籠峠を経て馬籠宿まで5.4キロ。私の足では4時間くらいかかりそうです。歩いてみたかったけど,夕刻には中津川の駅から新宿に帰るという日程の中では、歩いて峠に、というのは無理なので、今日はバスで馬籠峠まで行きます。
ここで妻籠宿、間宿である大妻籠を終わります。
Apr.27,2016 中山辰夫
江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道と呼ばれていた。中山道六十九次の内江戸から数えて四十二番となる妻籠宿は、中山道と伊奈街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいを見せていた。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
下町〜中町〜上町と歩き、町並み保存の原点—寺下の町並みを目指して散策する。
第一駐車場周辺
妻恋宿通りへと蕎麦や—吉村屋(南木曽町吾妻860−1)
案内図 (引用)
やまぎり〜お六櫛専門店−いさばやから脇本陣奥谷まで
脇本陣奥谷(おくや)−林家住宅 国重要文化財
1877(明治10)年の建築、それまで御禁制だった木曽ヒノキを豊富に道板重厚な構造。に 建替え。代々脇本陣を務めた林家住宅を南木曽町が借り受けて公開。島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」さんの嫁ぎ先
南木曽町博物館 歴史博物館
1995「平成7」年開館、脇本陣の裏庭にある
脇本陣〜妻籠宿ふれあい館〜本陣〜JA妻籠〜妻籠郵便局(資料館)〜高麗屋〜新岩井屋
本陣1、脇本陣1、旅籠31軒であったが町全体としては総家数83軒と少なく、木曽11宿では一番小さい宿場であった。
本陣は島崎家が代々引き継いでおり、藤村の生母の生家
観光案内所付近
光徳寺周辺
1500(明応9)年開山 石垣を築き、白壁を巡らせた気品ある寺
桝形の跡
寺下の街並み 松代屋〜下嵯峨屋〜丁子屋などが並ぶ
日本で最初に保存事業が行われた地区
石仏「寒山拾得」像
国内唯一とされる。双体像は類例がない
延命地蔵
1813(文化10)年、光徳寺の住職が地蔵尊像の浮かび上がっている岩を蘭川(アララギ)から運んできて安置したといわれる。
蘭川(アララギ)と尾又橋
立札には 「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」 と書かれ、江戸時代の雰囲気が漂う。 橋を渡ると 「尾又橋バス停」
時間ギレでここまで。
June 15, 2014 瀧山幸伸
A camera
B camera
September 29,2013 大野木康夫 source movie
所在地 長野県木曽郡南木曽町吾妻
町営第2駐車場から旧街道へのアプローチ
重伝建地区の中心である桝形から少し西に行った場所に出ます。
脇本陣(国重要文化財)
中山道 三留野から妻籠 ドライブ
Nakasendo Midono to Tsumago drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 妻籠宿内 ドライブ
Nakasendo Tsumago town drive
June 2005 source movie
妻籠宿
Tsumago post town
休日の早朝(おすすめ)
June 2005 source movie MP3
休日の夕刻
July 2004 HD(1280x720)
休日の昼
Sep.2003 source movie
休日の早朝
Aug.2003 source movie
脇本陣、林家住宅(国重文)
伝統的な宿屋 看板にも景観への配慮が見られる
熊谷家住宅
妻籠では宿場周辺の山まで含め伝統的構造物群保存地区に指定されている。周囲を山に囲まれた街並ではその山まで含め景観を修復保全する必要がある。黒川温泉での景観修復の取り組みも同じ発想だ。
宿場は東側上流から寺下、上町、中町、下町と呼ばれている。
【寺下の街並】
二階の手すり、軒先の暖簾が連続し、そのシーケンスが街並を形成して美しい。寺と神社の石段も街並みの俯瞰に適しており、明るく開放的で美しい。
【時間による比較】
馬籠と同様である。藍染の暖簾が焦茶の家に調和して美しい。電柱がないことは評価できるが、アスファルト舗装は再考の余地がある。
早朝の街並
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日中の街並
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【枡形付近】
車道とは別に街道時代の石畳が復元整備されており、短い距離だが遊歩道となっている。微妙な湾曲と坂に沿った低層の家並に白萩のコントラストが美しい。
【上町、中町、下町の街並】
中町の本陣付近は幅が広く緑も多くゆったりとしている。道路の素材が土を使った当時の姿に復元されればなお良い。大内宿は当時の土道に復元してはるかに良くなった。
【水の演出】
・山から湧き出る清水が丸木のフネに注がれる。馬に飲ませていたのであろうか。寺の手水も清く冷たい。
・道路脇の水路は生活用水だ。ちょっとした洗い物、撒き水などに毎日利用されている。
・小さな谷川が街道を横切る。このような比較的見えにくい所も美しく保ってほしい。水道管などがむき出しで、扱いがぞんざいだ。
・水琴窟が凛とした空間を演出し涼しさを呼ぶ。水が溢れて流れ落ち、磁器を叩く。自然の揺らぎを伴った音楽は芸術の領域だ。
・水車が坂の中腹の水路にかかる。その動きと音が静的な街並景観に躍動感を与えている。
音景
Water sound
June 2005 HD(1280x720)
【公共公益施設】
街並に合わせた郵便局舎とポストは良くデザインされているが、さらに欲を言えば、軒下看板のデザインを見直すべきであろう。飛脚の看板では運送会社と同じになるが。当時の街道には郵便局は無かった。地元の人はこの場所を既に知っているし、観光客は案内図や案内板を見れば場所がわかる。緊急性も無く、軒下看板での宣伝は必要なく、玄関の看板で十分であろう。町に必要な公共施設だから特例だという考えをやめ、本来の宿場の街並形成に貢献すべきである。
景観を破壊する公共施設は多い。特に電話会社の局舎と通信塔は醜いランドマークとなるのでつらい。高山の保存地区に「なぜかここに」ある電話局はその典型でろう。文化庁と総務省の縦割り行政の弊害であろうか。光ファイバー化の時代にあわせ、早急な移設が望まれる。実のところ移設は一般人が思うほど難しくはない。それまでの間は外壁を目立たない色に塗るなどの応急措置が必要だ。
【建物配置】
脇本陣と、隣接する宿泊施設。下り坂を巧みに利用した庭園修景と、その先に俯瞰する建物が美しい。建物を仰角で(見上げて)近景として見るよりは、このように俯角で(見下ろして)中景として見るほうが威圧感が無く美しく感じられる。
【飲食施設と街並】
茶店を例に取り上げてみたい。都会のモダンな街並を演出するのはハイセンスなカフェとそこを利用するおしゃれな人々だが、伝統的な街並には伝統的な茶店や和菓子店と、そこに出入りする客の和服姿が美しい。良い町には良い和菓子がある。和菓子店ではお茶とともにその場でお菓子をいただける場合も多い。
ここの蕎麦屋の店先には大型ソフトクリーム模型がある。もちろん江戸時代には無かったであろう。牛乳を使った「酪」はあったであろうが、妻籠ではなく、都のものだろう。要するに、古い街並には似合わない。
ほんのちょっとした備品や看板が街並を変えることがある。各店舗はもちろん、街並の構成者全員が「街並は映画セットだ」「街並は無料テーマパークだ」と思えば、観光経済の本質も理解できるだろうし、街全体の魅力を高める意義も共有できるだろう。あるべき姿を追求するためのご意見番制度が必要かもしれない。アメリカ東海岸のミスティックシーポートは、こことほぼ同じ時代の港町の姿を忠実に動態保存している。入村料は必要だが。京都の太秦村、房総の村などの有料テーマパークに比べ、入場無料でスケールが大きい木曽11宿は非常に大きな魅力がある。人間は不思議なもので、わずか数百円の入場料が心理的には非常に抵抗がある。
【植栽による修景】
西洋伝来の花でも、このように蔓生で和風を演出するものはある。少々派手ではあるが。暖簾の藍、木、蔓の緑、花の赤のコントラストが美しい。紫の鉄扇であればなお美しいが。鉄扇や朝顔も伝来品種であるが、やはり和風にぴったりだ。
【生け花】 家々の軒には投げ入れの花篭がしつらえてある。モノトーンな格子戸にアクセントを与え大変美しい。
【朝顔とヘチマ】
伝統的な花は伝統的な建築に良く似合う。両方とも、修景だけでなく夏の日除けの目的もある。朝顔は漢方薬として、ヘチマは化粧水やタワシとしての実用性もあったが、今となっては和風の修景演出が主な目的であろう。
【動物と植物】
ネコが店先で昼寝中。このようなゆったりした情景が訪れる人の心の癒しとなる。
カラタチの木が多く植えられ、それぞれの枝にアゲハの幼虫が宿る。チョウが舞う街はすばらしい。カラタチは、その鋭いトゲを活かして生け垣として不法者や野生動物の侵入を防ぐために大いに利用されたが、最近は見られなくなった。
観光目的でホタルの生態を無視して導入飼育する地域があるし、大都会の真ん中で興行風にホタルを放してかわいそうなことをする人もいる。潜在植生を無視した植物の育成普及を行っている観光地もある。植生や動物の生態を無視した町おこしは慎むべきだ。今後は地域生態系への配慮がますます重要視されるようになろう。
【小物による修景】
かぼちゃと五右衛門風呂釜。ストリートの演出例だ。かぼちゃの演出は理解できるが、釜は人によっては美しいし、あるいは粗大ごみと認識するもしれない。江戸の当時このように釜を軒先に放置していただろうか、かまどの神様はどう思うであろうか、などと考えさせられる。
【消火設備】
木製の覆いを利用する配慮が嬉しい。必要な公共設備であるが、このような小さなことまでこだわらないと美しい街並は生まれない。詳しくは参考文献を示したので参照してほしい。
【宿場施設の演出】
通常の解説があるのみである。動態保存や再現芝居は難しいだろうが、せっかくの施設なので何らかの工夫がほしい。
【生活と産業】
下町の公開家屋。 内部は奥行きが無くすぐ裏庭で至極質素である。
【寺下の公開家屋 】
屋根はこけら葺き。この宿場本来の建築様式である。妻籠の街並の屋根が本来の姿に戻るとさらに美しいだろう。例えば合掌造りの里や大内宿などの茅葺屋根は見事である。
縁側で古老がこより絵馬を作っている。1日2個しか作れないので、収入のためと言うよりボケ防止のためにやっているとのことだ。古老の話が楽しい。
【木のボールペン実演製作中】
このような実用工芸品はお土産としても喜ばれるだろう。同じ工芸品ではあるが伝統的な工芸品のこけしは、鳴子遠刈田での実演工房がどんどん閉鎖されて、温泉町散策が寂しくなってしまった。
【木をくりぬいた火鉢】 火鉢や行灯は和風を演出する良いインテリアだ。
妻籠のまとめ アセスメント 合計 17点
周辺の自然と景観 +2
電柱なし +2
宿場町の街並と建築物 +3
看板のデザイン +1
公共設備(消火栓)などのストリートファニチャ +1
植栽、花 +2
水路、水車 +2
工芸品の実演販売+2
中山道フィーチャリング+2
中山道 妻籠から大妻籠 ドライブ
NakasendoTsumago to Otsumago drive
June 2005 source movie
大妻籠
Otsumago
June 2005 source movie
藤原家住宅(長野県宝)
大妻籠の宿屋 素朴な宿だが、静かな立地に心安らぐ
中山道 大妻籠から馬籠峠
Nakasendo Otsumago to Magome pass
June 2005 source movie
妻籠峠の碑
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