長崎県長崎市 原爆関連
Nagasaki atomic bomb related contents
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長崎原爆資料館
所在地:長崎県長崎市平野町7-8
「1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され11時2分に炸裂し、多くの命が失われました。1950年に長崎市原爆資料保存委員会が発表した、1945年末での推計によれば、死者73,884人、重軽傷者74,909人におよび、家屋の全焼11,574戸、全壊1,326戸と言われています。
原爆資料館は、原子爆弾が人類に及ぼした想像を絶する被害の状況を後世に伝えるとともに、長崎市民の平和への願いを広く国の内外に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するための施設として設置されました。
初期の原爆資料の展示は、1949年に現在の平和公園原爆落下中心地碑付近に建てられた六角形の平屋造りの建物で行われていました。その後、1955年には、「国際文化都市建設法」に基づく都市計画の一環として建てられた「長崎国際文化会館」に原爆資料室を設け、より多くの人々に被爆の実相を伝えられるようになりました。その後、長崎市の原爆被爆50周年記念事業のひとつとして、1996年4月に現在の「長崎原爆資料館」に建替えられました。
常設展示室には、「11時2分を指して止まった柱時計」などの資料や被爆の惨状を示す写真などが展示され、あわせて原爆が投下されるに至った経過や世界の核兵器開発の歴史、そして人々の平和への願いなどについても紹介されています。また、年数回の企画展も開催されています。」
(長崎県歴史文化ポータルサイト公式HP)
爆心地(平和公園)
所在地:長崎県長崎市松山町9
原爆資料館を出ると目の前に広がっているのが緑多い公園。「平和公園」。爆心地です。中央に御影石の塔が立ち、訪れる人が手を合わせています。爆心地に塔が建てられたのは昭和20年。原子爆弾災害調査団が標柱(アスベスト柱)を建立。昭和21年、中心地点を示す矢印の表示。昭和23年 矢印の表示をとり、2〜3m盛土して木製の標柱へ建替。昭和31年3月、木製の標柱より蛇紋岩の三角柱(高さ6m、幅1m、0.5mの三角柱)に。昭和42年末に風化で蛇紋岩が剥げ落ちたため、三角柱の表面の張り石を黒御影石へ張替えられています。
1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、碑の上空約500メートルで原子爆弾が炸裂。瞬間の爆発点の温度は摂氏数百万度、爆発からの1万分の1秒後には約30万度の火球を形成したと推定されているそうです。その火球は爆発1秒後には最大となり、半径約240mまで膨張し、爆発直後の爆心地の地表の温度は約3,000〜4,000度に達したと推定。一瞬の光と共に建物は焼き尽くされ、死者は約7万4,000人、負傷者約7万5,000人。塔の傍には原爆で亡くなられた方々の名前を納めた原爆殉難者名奉安があります。
爆心地の御影石の塔が立つ右には浦上天主堂の壁が移設されています。強い爆風により石柱のずれが見て取れます。
爆心地を示す御影石の塔に相対して被爆50周年の記念の像、「お母さんと子どもの像」があります。台座も含めてかなりの大きさです。
長崎新聞に経緯が掲載されていましたので抜粋します。
「長崎市は1997年7月16日、同市松山町の爆心地公園に被爆50周年記念事業碑(母子像)を設置した。市民団体の反対で、設置場所は原爆落下中心地点から同公園内の国道側一角に変更されたが、この日、爆心地での設置に異議を唱える被爆者らが作業を見守りながら抗議行動を展開した。高さ約5メートルの母子像は、大型トレーラーで公園に搬入後、クレーンによる設置作業が行われ約1時間で台座(高さ約4メートル)に据え付けられた。作業には制作者の富永直樹氏(84)が立ち会った。
母子像は、金ぱくを下地にしたブロンズ色仕上げ。富永氏の解説によると「母の胸に眠る傷心の子供の姿」によって21世紀に羽ばたく日本の未来、平和への決意を表現している。同市は当初、母子像を中心碑(三角柱)に代えて中心地点に設置予定だった。だが、約10カ月にわたる市民団体の反対運動で市政は混乱。市は今年2月、設置場所を同地点から約70メートル南西の国道側一角に変更し整備事業を進めていた。公園は既に三角柱を中心とした円形広場などが完成しており、市は来月1日から一般に開放する。(平成9年7月17付長崎新聞より)」
ふるさとの町焼かれ身寄りの骨埋めし焼け土に、という歌を私は若い頃に口ずさんでいます。お恥ずかしい話ですが、長い間、広島の原爆の歌だと思っていました。長崎に落とされた原爆の歌でもなく、第五福竜丸がアメリカの水爆実験によって被爆して、久保山無線長が亡くなられて作られた歌だそうですね。
長崎に原爆が投下された時間に、この平和公園でこの曲が流れるそうです。修学旅行では夜に騒いで昼間のバスは眠るのが定番!ご多分に漏れず、私もそのような形でしか長崎を訪れませんでした。この年になって改めて来ることができた長崎。来てよかったと思いました。平和公園の緑多い中で犠牲になられた方々のご冥福を祈りました。
「平和祈念像」
所在地:長崎市松山町9
平和公園内の爆心地の北側に位置する「平和祈念像」です。
青銅製で高さ9.7メートル、重さ30トン。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏。1955(昭和30)年完成。神の愛と仏の慈悲を象徴として、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という気持ちが込められ、折り曲げられた足は瞑想の静を、立てられた足は救済、即ち動をあらわしている、と台座の裏に刻まれています。長崎市民が世界恒久平和の実現を祈念して多くの人々の浄財で建立された祈念像です。
修学旅行で訪れた時はもっと白っぽい印象でしたが、今回は青に近い色。それもそのはずで、色の塗り直しが行われた直後だったようです。空の青さと競うような鮮やかな色でした。
平和の象徴の鳩も空を指さす手に、水平に伸ばされた手に多くとまっていました。平和の世が続くのを祈りました。
「平和の泉」
平和祈念像の前方にあります。原爆のために体内まで焼けただれた被爆者は、水を水を!とうめき叫びながら亡くなられて行きました。傷ましい霊に水を捧げて冥福を祈るために、1969(昭和44)年につくられています。噴水の水の形は平和の象徴の鳩を表しているそうです。噴水の正面からはちょうど真ん中に祈念像がおさまるようになっています。噴水の正面には被爆した少女の手記「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」が刻まれています。
「長崎の鐘」
長崎の被爆地近辺には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた女学生をはじめ、多くの人々が働き、そのほとんどの人々が犠牲となっています。長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年にここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられています。
如己堂(にょこどう)
所在地:長崎県長崎市上野町22-6
長崎に原爆が投下されてから74年。多くの市民が犠牲になり、鎮魂と平和への祈りに未だに長崎を多くの人が訪れます。爆心地の平和公園と浦上天主堂を結ぶ道の途中に如己堂はあります。永井隆博士の病室兼書斎の2畳1間の小さな木造の住居です。
永井隆博士は1908(明治41)年、島根県松江市に生まれ長崎医科大卒業後放射線医学の治療と研究に従事しますが、戦時中のX線診断のフィルム不足で透視による診断を続けたため、1945(昭和20)年、被曝による白血病と診断されます。余命3年と告知された年に原爆投下で被爆。自身が重傷のケガの身でありながら救援活動に当たるも、翌年には倒れて病床に。以後に執筆活動。原爆投下で生き残った貧しい浦上の人々が、焼け残った材木を集めてきて、永井博士のために作った小さな家が「如己堂」です。
“己の如く隣人を愛せよ”という意味が込められています。婦人は原爆投下で即死。骨のみが残った状態で焼け残ったロザリアで夫人と確認されたほどです。
白血病に伏した博士は2人の子ども達と共にこの如己堂で暮らしました。北側の壁に香台、本棚を取り付け、その下に寝台。寝たきりで執筆。
永井隆博士が記した著書のテーマは原爆、人間、愛、平和……いずれも博士自らの体験をもって後世に伝えておきたいと願ったメッセージ性に富んだ作品ばかりで、なかでも『長崎の鐘』『この子を残して』は名高い作品です。
『♪なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る♪』−サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、藤山愛一郎が歌った歌謡曲『長崎の鐘』は、終戦直後の1949年に大ヒットしていますので、年配の方は口ずさんだ記憶があると思います。
実質4年半で17冊の著書を残された博士の終の棲家。今の日本の平和にどれほど多くの方々の失われた命が礎となっているのか、と頭が下がります。恒久平和を願わずにはいられない長崎の地です。
長崎平和公園
Nagasaki peace park
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