MONTHLY WEB MAGAZINE July 2012

Top page Back number


■■■■■ 『千と千尋の神隠し』と『大鹿村騒動記』 〜秘境の落人文化から生まれた映画二題 瀧山幸伸

以下の薀蓄話に興味の無い方には、宮崎駿の映画のモチーフとなった「霜月祭り」、原田義雄の遺作映画となった「大鹿歌舞伎」の地ということだけお伝えしておく。

だが、その霜月祭りや大鹿歌舞伎を生んだ土地の地理や歴史、人々の生業を知れば、もっともっと映画が楽しめるし、現地を訪問しても数倍楽しいのではなかろうか。

今回のスポットを明確に言えば、伊那谷と平行に走る中央構造線の狭隘な谷間に沿って隠れ里のようにひっそりと佇む、現在の大鹿村旧上村(現飯田市)。

「秋葉山詣で」と「善光寺詣で」に関わる巡礼路だが、この地の特徴はそれだけではない。

話は神話の時代に遡る。

大鹿村は元々は諏訪大社の支配下にあったようだ。諏訪大社は建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀るが、そもそもこの神様のルーツが良くわからない。他所からやって来た神様で、出雲の大国主命の子となっているが、読みからして、朝鮮半島と縁が深い福岡の宗像(むなかた)に通じるが、関係があるのか無いのか。

彼らは日本海側の糸魚川から内陸に進んで行ったと考えられる。貴重な貿易品である糸魚川のヒスイを手に入れ、環日本海沿岸国との交易で潤ったのだろう。その後、諏訪の和田峠に産出する戦略物資の黒曜石を手に入れたのではなかろうか。

農耕の神様でもあるから、農耕伝来後は稲作の重要資源である水源、すなわち川の源流を支配するという発想も戦略的に重要だ。そう考えると諏訪に社を設けたのは必然だ。

塩も重要な交易物資だ。彼らは糸魚川から塩尻へ牛で塩を運び、「塩の道」を拓いた。太平洋側からの塩の道は多くのルートがあるが、その一つは相良から天竜川の船経由で伊那谷を経て同じく塩尻、諏訪へと運ぶものだ。大鹿村の鹿塩温泉は強食塩泉であり、塩を精製していたので、大鹿村は戦略的に重要な拠点だったのだろう。建御名方神が天竜川を遡上して諏訪に落ち着いたという説にも頷ける。

南北朝時代、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が大鹿村の豪族、香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった。香坂高宗以前の鎌倉時代に、既に福徳寺のような優美な重要文化財寺院がこの地にあったことは驚きだ。

その南朝の落人文化が大鹿歌舞伎に影響を与えていると言われている。その後昭和30年代まで、豊かな森林資源を持つ土地であったことが文化の伝承に貢献した。

大鹿歌舞伎の詳しい話は、松下家のご当主に伺うと良いだろう。松下家は元大庄屋で、映画にも出演する名士だ。松下家のルーツも戦国時代にこの地に辿り着いた松浦水軍系の落人だという。現在の家は築後約200年で国の重要文化財に指定されている。本棟造りの見事な建物で、台所と厩に大きく飛ばした梁は全国稀に見る長さを誇り、一見の価値がある。

福徳寺 松下家住宅

 

一方の上村は、遠州と信州の国境で、遠山郷と呼ばれる。

民俗学の宮本常一の著作では、「無住の地」として無法者が跋扈する土地であるかのような印象を強く抱かせる。確かに、権力者の支配境界線が不明確なこの地は、無法者や落ち武者が隠れるには都合の良い地理だった。

霜月祭りが開催される上町正八幡宮に隣接する「まつり伝承館天伯」を訪問したい。霜月祭りも落人文化の影響を色濃く反映している。全国の神々が集まり、湯立て神事と神楽で新年度の豊作を祈願する。これが宮崎映画の湯屋のモチーフになり、神々のお面をヒントにカオナシのモチーフを得たのだろう。

そして、日本のチロルと呼ばれる下栗集落には万難を排して訪問してほしい。なぜこのような土地に集落ができたのか。人々は森林とともにどのような暮らしをして来たのか、まつり伝承館で予習できる。

予習ができていれば、展望台から俯瞰する下栗の里がTVコマーシャルで見る映像と似通っていても、はるかに大きな感動が得られるに違いない。

まつり伝承館天伯の霜月祭り面 下栗集落

 

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中