Monthly Web Magazine July. 2015
鴨川の源流として、雲ケ畑と貴船があげられます。今回は雲ケ畑—特に志明院(しみょういん)についての報告です。
「雲ケ畑」は遠い所と承知していましたが、意外や京都市内から30分ほど車で走ると「雲ケ畑岩屋橋」に着けます。
集落の人口凡そ180名、古代から林業中心の山村集落で、平安京造都以前より、出雲氏、小野氏、鴨氏などが村を拓き、惟高親王を供奉する高橋氏、秦氏がこの村に定住したのが村の生い立ちとされています。
山手には、「水源かん養保安林」に指定された立派な杉が林立し、賀茂川の治水に貢献しています。
雲ケ畑は、近世まで朝廷との結びつきが強く、平安京造営にはこの地の木材が用いられたほか、上皇の所領地として、朝廷に木材や鮎などを始めとし、端午の節句には菖蒲を献上する供御人の活動地でもあったようです。
雲ケ畑は賀茂川の水源地であることから、この地が汚染されると、下流の京都御所、ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。そこで、住民はこの水をけがさない生活をしてきました。昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)も他の集落で行っていたようです。
川に沿って家が建ち並ぶ集落を過ぎ、雲ケ畑岩屋橋に到着です。ハイカーとは別に、サイクリングの「ロードトレーニング」をする人が多く度々出会いました。
さて流れは、標高約860mの浅敷ケ岳南部の薬師峠と岩屋山を源流とする雲ケ畑川と浅敷ケ岳東部の谷を源流とする祖父谷川が岩屋橋で合流して雲ケ畑岩屋川となり、次に中津川と出合橋で合流して「賀茂川」となります。さらに下って、貴船からの鞍馬川と山幸橋で合流し、高野川と出町柳で合流して「鴨川」となります。
山間地域であるため、場所により高低差が顕著に見られ、標高は出合橋付近248m、岩屋橋付近306mであり、岩屋山志明院に至っては450mを超えます。
岩屋橋から志明院を目指して歩きます。
惟喬神社
歩き出してすぐ右手にあります。ここは平安時代前期に、皇位継承から遠ざけられた惟喬親王が、隠棲して出家した場所としても知られ、雲ケ畑の村人に慕われていた親王にまつわる話が今も数多く残っているようです。新王については木地師に絡んで、滋賀をはじめ全国的に伝説が残っています。
ここから一本道となります。現在の志明院住職の田中眞澄さんが「3.5㎞離れた村の小学校までの通学はとてつもなく辛かった。鬱蒼とした森から不気味な音が聞こえ、恐る恐る前後左右を気にしながら必死に歩いた。家の明かりがかすかに見えると嬉しくなって全身から力が抜けた」と述懐されている通りの雰囲気です。
住職の話に、「冬は更に厳しく、雪の上の様々な方向に歩く動物の足跡に気持が和らいだが、森には何かがいる、何か怖いものがいるとの思いを感じていた」とあるります。
志明院に到着です。
650年(白雉元年)役の行者が開山、829(天長6)年弘法大師が淳和天皇御叡願により創建されたといわれる。日本最古不動明王顕現の神秘霊峰といわれる。歌舞伎十八番(鳴神)の聖地としても有名とのこと。
現在の住職さん一家・家族5名でここに移って来られたのは1946(昭和26)年、現住職が6歳の時で69年前のこと。当時のお寺は無住。
寺から小学校までの通学の厳しさは既に紹介済みです。当時の境内は深閑としており、自然の響き合いだけ。寺には時折修行者が来て、宿坊を利用して夜間の行も行っていたようです。宿坊は現在止めておられるが、深閑さは今も同じとのこと。
庫裏の前でカメラを含めた手荷物を預けます。境内での撮影は禁止です。
境内図
山門
室町時代に再建。金剛力士は右運慶、左堪慶の作と言われ、現在本堂に安置されています。
鐘楼〜本堂(突き当たり)−パンフレットより引用
梵鐘は藤原国久の作。本堂の本尊・不動明王は弘法大師の開眼。
飛竜の滝−パンフレットより引用
鳴神上人の行場。冷たい水が勢いよく落下、その水圧の大きい事。ペットボトルが弾き飛ばされます。毎朝水を汲みとりに来る人がいるとか。
護摩の岩屋
役の行者、弘法大師諸大徳行法の跡、鳴神上人が護摩行のため籠った所。
自然石を積んで出きた幅の狭い、屈曲した参道を、山へ山へと登って行きます。入山禁止の立札が沢山立ち並び、奥に厳しい行場が続きます。
楼門より奥の地は、岩洞から湧く清水、岩肌を流れ落ちる滝、巨石の護摩洞窟、神が降りる岩窟、岩屋の舞台などがあり、一種独特の異様な雰囲気を感じます。
最奥の根本中院を取囲む大岩の岩肌から落ちる一滴々が鴨川の源流と、思わず手に取って見入りました。
現住職が小学生であった頃、よく訪れたのが司馬遼太郎。
≪参考≫ 司馬遼太郎 「街道をゆく「洛北諸道ほか」より引用
『雲ケ畑というのは洛北三里の山中にあり。一村は古来山仕事で生活している。志明院はかつては平安京の鎮護所の一つで、寺は勅願寺であった。
明治後すたれ、廃寺同然になっていたのを、戦後Tさんが東京の寺から移住してきて特命住職になったのである。
志明院は明治以前は寺格が高く、庶民の賽を拒絶していたために今でも一般との縁が薄い。全山が境内で、峰やがけや谷に行場が多く、山伏だけがこの寺を訪ねるという時代が長かった。要するに山伏の聖地のひとつだが、その山伏でも、Tさんによれば、「よほど行力のある人でなければこの山はこわくて近づけない」ということだそうで、要するにえたいが知れぬ魑魅魍魎(ちみもうりょう)が棲息している、ということなのである。』
司馬遼太郎がこの寺へ足を運んでいた頃は、この寺にはいろんな怪奇現象があったと体験話を結び随筆として書き、発表もされています。
アニメ「もののけ姫」の誕生にも司馬遼太郎の体験話がきっかけになっているとか。
カメラに納めたいスポットの連続です。足元の岩場に足を取られないよう集中して、撮影どころでなかったです。
市内から車で30分ほどの距離の所に、このような世界があることに大変な驚きと感激を味わいました。
参考資料≪街道をゆく 4、遼、他≫