Monthly Web Magazine Jan. 2017
■ 遺跡をめぐりつつ初詣 中山辰夫
快晴に恵まれました元旦、初詣は地元の「小槻大社(小杖社 おづえのやしろ)とも称する」にしました。
朝7時前の境内には人影が見られません。帰り頃にやっと一人にお会いしました。たった一人深閑とした雰囲気の中で敬虔な?お参りが出来ました。
少し奥まった下戸山集落、地元の方々が中心のお参りなので出足が遅いかと思いました。
この小槻大社は小槻氏の祖師を祀る社でこの地域の核となってきた神社です。大野木さんの細密な画像にある通り本殿は重要文化財指定です。
中世、土豪の青地氏が当社を崇敬し、1281(弘安4)年記のある宮殿を奉納。四脚門・現在の本殿をも再建しています。
この地域は南部の山地から流れ出る金勝川と草津川に挟まれた丘陵地の先端部に当たり、かつては琵琶湖や湖畔に広がる平野部を一望できた小高い場所で要衝の地でした。JR草津駅から大社までは約2㎞の距離ですが、この区間には、古代から中世〜江戸までの歴史につながる遺跡が多く残っています。
遺跡が集中するのは、草津駅から約1kmの旧東海道を過ぎたあたりからです。順番に並べて行きます。
旧東海道 草津宿を石部宿に向かって出発し、目川を過ぎた間もなくの所(岡)です。
地山古墳
未調査 5世紀後半 直径58mの円墳 周濠がある 近くに2〜5号墳が並ぶ
岡村城跡
足利尊氏に属した宇野氏の居城 東海道の監視役 その子孫は代々小槻大社の榊本衆を務め、今も小槻大社の神職を担っておられます。
岡遺跡
近江国栗太郡衙 8世紀前半から9世紀末頃まで 役人に起用されるのは地元の豪族家から選ばれ、一族に世襲された。小槻氏も担った。
若宮神社
小槻大社の御旅所 滋賀県選択無形民俗文化財指定の「小杖祭りの祭礼−小槻さん踊り」が舞われる 岡遺跡に隣接している。
佐々木高綱塚跡
岡遺跡に隣接する工場敷地内にある 近江国を400年間守護として牛耳った佐々木一族の22代目 佐々木時代は六角が信長に討たれて終焉となった。
下戸山古墳
小槻大社の鳥居傍の墓地に接してある 未調査 全長約60mの帆立貝式前方後円墳 6世紀頃築造 首長墓
小槻大社古墳群
未調査 古墳時代後期 横穴式石室を持つ群集墳。大社を祀る小槻一族の墳墓。
これら遺跡は一見バラバラに見えますが、説明文を呼んでいると記憶がよみがえり、つながりも分かって思いが新たにでき楽しい時間でした。
夜明け
7時30分過ぎに日の出が始まり、8時過ぎには空が明るくなりました。
さらに足を延ばすと、小槻神社が、小槻大社から約1.5㎞離れた草津の志津・青地にあります。
この両社に共通するのは、いずれも祭神は於知別命。於知別命は栗太郡一帯に勢力を持っていた古代豪族小槻山君の祖神とされています。
小槻山君は栗太郡の郡司もしくはそれに準ずる地位にあった有力豪族で、後に本拠を京都に構え、中央官人の道を歩み、明治維新に至るまで宮廷官僚として活躍しました。
小槻神社
960(天徳4)年、志津池の辺に遷座したことで「池宮」とも称されます。中世は土豪青地氏の崇敬が篤く、神輿の奉納や社殿の再建、寄進を行いました。
小槻大社・神社共に青地氏の崇敬の篤さがわかります。青地氏はその出身から小槻大社・神社とは関りが深く、祭祀権を独占していたようです。
部田古墳群
小槻神社境内周辺にも古墳が7基ありましたが青地城築城時に壊され、さらに石室の石材が1881(明治14)年の本殿造営の際に石垣に転用されています。
志津にあった青地城は、鎌倉から室町時代にかけてこの草津・栗太地域を治めた青地氏12代の居城。現在跡地は志津小学校となっています。
青地氏の祖先は小槻氏から出ているとされ、近江守護佐々木氏の支流馬淵基綱が青地氏の養子となって後を継ぎ、その子河内守忠綱が初めて青地城主となり、子・冬綱は近江源氏七騎の一とされました。
その後も、青地氏は佐々木六角氏の重臣として湖南地方に大きな勢力を有していました。1568(永禄11)年の信長の侵攻に際し、信長方に下りましたが、その後は数奇の運命を辿り、最終的には加賀前田家に身を寄せ、子孫代々加賀藩士として明治維新を迎えました。
志津には今も青地氏の末裔と思われる人たちが在住されています。
大社・神社から約4km離れた、祭神の異なる大宝神社(JR栗東駅に近い)にも青地氏は寄進しています。小槻一党がこの神社の神主を世襲していました。
栗東周辺には80数箇所の古墳の存在が確認されていますが未調査で、その解明に期待すると共に、身近に歴史を感じる証が多くあることを喜んでおります。