Monthly Web Magazine Nov. 2018
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絹に関する文化遺産を継続的に調べている。日本が誇る文化の中で、絹は経済的にも特別な存在だった。
なぜ明治新政府が福島を重視したか、日銀の支店第一号が福島にできたかは、現代では意外に思えるが当時は自明の理だった。
詳細は解説文と写真、館長の解説動画などで理解できるので私のつたない解説は省略するが、当時としては最も裕福で文化的にも先進的な地域だった。
将来、このように国の経済をけん引するような産業はどの地方で創生されるのだろうか。一極集中の弊害でコストが肥大した東京ではないような気がする。
発見場所はJR琵琶湖線・栗東駅から2km余離れた栗東市蜂屋の集落にある蜂屋遺跡です。
蜂屋遺跡は、縄文時代から中世の遺跡で、「興福寺官務牒疏」に金勝寺二十五カ寺の一つ、古代寺院「蜂屋寺」存在の伝承が残っています。
金勝寺は金勝山の山頂にある古刹。聖武天皇の勅願で、平城京の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として733(天平5)年創建の古刹。
その後、815(弘仁6)年嵯峨天皇の勅願を受け、興福寺伝灯大法師願安により、大伽藍が建立され、大菩提寺と称した。
8世紀中頃までに近江の25別院を総括し、法相宗興福寺の山岳仏教道場でもありました。(興福寺官務牒疏)
蜂屋集落には717(養老元)年 物部氏が勧請したとされる「宇和宮神社・本殿は国指定重要文化財」もあります。
蜂屋集落の遺跡発掘現場から、南北方向に延びる4本の溝跡と法隆寺やその周辺以外では見られない軒瓦、鴟尾(しび)の一部が出土しました。
軒瓦は飛鳥時代後半(7世紀後半)のもので、法隆寺と関連のある寺院がこの土地で造営された有力な手がかりとなりそうです。
蜂屋集落から出土した軒瓦と法隆寺瓦との比較
法隆寺若草伽藍跡や隣接の中宮寺跡から出土した瓦と同じ型で作られた可能性が高く、法隆寺と関連強い寺院造営があったと推定されます。
出土現場
西に比叡山、東に三上山(近江冨士)を見渡すことができる農地で、傍を新幹線が通っています。絶景の場所であったと想像できます。
河川改修に伴い約6千㎡を調査。溝跡は幅約1m〜約3.5m、深さ約20cm〜40cm。飛鳥時代の築地塀跡とみられます。
蜂屋遺跡がある栗東市北部は、古代において「物部郷」と呼ばれ、587年に仏教の受容をめぐって蘇我氏と争った物部氏の領地でした。
蘇我馬子との争いに敗れて滅ばされた物部氏の領地が蘇我氏側についた厩戸皇子(聖徳太子)の所領となり、皇子建立の法隆寺に献上されたようです。
747(天平19)年の奥付がある『法隆寺伽藍縁起并(ならびに)流記資財帳』によれば、奈良時代にはここに法隆寺の水田や庄倉があったとされています。
今回見つかった遺跡は、この地域と法隆寺との関係性を考古学的にあとづけるとともに、法隆寺との密接な関係が飛鳥時代から続いていたことを示すものといえます。
自宅から自転車で約10分、しかも地下精々50cm深さの所に、飛鳥時代の厩戸皇子(うまやどの 聖徳太子)、蘇我氏、物部氏、仏教伝来などと結びつく遺跡が突然目の前に現れてビックリしております。今後の調査の成果が楽しみです。
今年も全国で遺跡調査が行われ貴重な資料が多く見つかったようで、年度末にかけてそれらの成果発表が行われます。
発掘場所は私有地が多く、河川・道路・宅地開発などの際しか行えないのが実情です。加えて、発掘作業要員の確保が年々難しくなっているようです。厳しい屋外作業であること、賃金の低い事、長期間にわたることなどがその要因のようです。
こうした皆さんの地道な働きが新しい歴史の発見に繋がっていることを肝に銘じておきたいと思います。
参考資料≪滋賀県保護協会現地説明会資料、滋賀県の地名、毎日・日経・京都・朝日の各新聞、など≫
毎年10月の第3日曜日は地元の諸羽神社の秋季例祭です。
諸羽神社は平安中期創建、祭神は天児屋根命、天太玉命ほか6柱、山科北部の3地域の氏神で、秋季例祭には3地域から舁き手が出て神輿巡行が行われます。
祭礼当日の諸羽神社(平成24(2012)年)
舁き手が参道を練りながら上がってきて、宮出しの前に鏡割り、手打ちをします。
近年は舁き手が少ないので、2基ある神輿のうち1基を担ぎます。
2012年では、従来の担ぎ方で、短い舁き棒に舁き手がひしめき合って担いでいます。
神輿は不規則に揺れて、瓔珞などが鳴ります。
途中、JRの下をくぐる時などは腰持ちで進みます。
巡行経路には最大斜度15度を超えるような急坂や国道1号線などがあり、宮出し、宮入の1km弱、各地域で数100mずつ担ぐ以外はトラックに載せて巡行します。
舁き手もトラックに乗りますが、年を取ってくるとトラックに座っている方が疲れたりします。
舁き手がひしめいて担ぐのが従来の担ぎ方でしたが、足を踏まれるのと、あまり格好がよくないので、昨年から、メインの宮出し宮入りは、京都の他の祭礼のように、長い舁き棒(長柄)に鳴り鐶(なりかん)を付けて、前後に揺さぶって担ぐようになりました。
トラックを使う関係で、各地域では長柄は付けられないのですが、担ぐ人数は少なくなりました。
2018年の地域での巡行
人数が少なくなっているのであまり揺さぶれません。
地域の行事も、時代とともに変わっていくことを、地元の祭礼で実感しました。
前後に揺さぶって担ぐ担ぎ方は難しいのですが、鳴り鐶が勢い良く鳴ると達成感のようなものもあってうれしくなります。
(揺さぶっているところの画像はありませんが…)
担ぎ方を決めるのは青年会ですが、新しい担ぎ方をこれからも続けてほしいと思っています。
9月14日から開催された山口ゆめ花博も11月4日に52日間の幕を閉じた。
当初、50万人を見込んでいたものが、終わってみれば136万人を越す来場者があったようだ。周りの道路は連日渋滞が起こっていたらしい。
① ウェルカムゾーン/② 花の谷ゾーン/③ 庭のパビリオンゾーン/④ 森のピクニックゾーン/
⑤ 山の外遊びゾーン/⑥ 海の外遊びゾーン/⑦2050年の森ゾーン/⑧ 海の大草原ゾーン
の八つに分かれていた。
花の谷にはたくさんの花々。
それぞれに名前などの立て札がないため、わからない花も多い。
「ここだけの花」として山口オリジナルの品種が多いらしい。
先ほど名前が決定したものはこちら
海の外遊びゾーンには砂浜が広がる
山口湯田温泉のきつねも干し草で作られていた
山の外遊びゾーンでは日本一高い木のブランコ
日本一長い竹コースター
日本一長いブランコ
蒸しふぐもおいしかった
どんどん歩いて2050年の森のゾーンへ。
杉でできたゴジラがいた。夕日をバックに撮ると、火を吹くゴジラに変身。
とにかく2050年の森のゾーンは広い。
日が落ちると、花の谷ゾーンはライトアップされ、また昼と違う花々を楽しむことができた。
ここには五年前だったか佐渡に行くついでに立ち寄ったと記憶しています。
もちろんその時も御開帳の日ではなく、事前に連絡をして伺いました。
今回は約束の時間に余裕があり、近くの闘牛場にも立ち寄りました。
小千谷市の牛の角突きは重要無形民俗文化財にも指定されている伝統ある行事のようで、月に一度開催されます。
この日は開催日ではなく、静かな闘牛場でした。
岩の画像、牛に見えませんか、中越地震までは今のように二つに割れていなかった由、地震で割れて闘牛の
守り神に見えるようになったと説明書きにありました。そうです、この辺は中越地震の被害が大きかった地域でした。
木喰仏、皆さんご存知ありませんよね。私も五年前までは全く知りませんでした。
京都・奈良の伝統的な仏教彫刻とも、比較的近い存在と思える円空仏とも違います。
不思議な微笑みをたたえた限りなく優しく見える仏様です。
このお堂は今、20数件の地域住民の手で守られているとの事、説明の来てくださった方はこの地区の総代の方でした。
この小さな観音堂に35体もの木喰仏が200年以上も前から現在まで守られてきたことにまず感動しました。
やさしい仏様に手を合わせてその一つ一つの表情に触れるとこちらまで優しくそしてとても静かな気持ちになれます。
私は二度目の訪問でしたが、その感動は一度目と全く変わりありませんでした。
木喰さんに感謝。
大相撲は今年も貴乃花が色々話題になったが九州場所を迎える季節となった。
相撲にはそれほど心が動かないのだが自宅の近くにも相撲部屋がやってきたりすることもあって九州場所は少しは気になる。尤も福岡に住み始めて少しは驚くことの一つに夕方のNHKニュースで福岡出身の力士全ての取組が場所中は必ず毎日紹介されるということがある。ビデオが流されるのは幕内(今は琴奨菊と松鳳山だ)と十両までだが幕下から序二段までの力士の勝敗結果もすべて毎日紹介される、年6場所毎回だ。
こんな影響もありそれに自宅付近でも相撲取りを見かけるのもあって九州場所が開かれるこの季節は力士に何かと親しみが湧いてくる。奉納土俵入りがあると聞けば見てみようかという気にもなる。
九州場所の始まる8日前になると恒例の奉納土俵入りが住吉神社で行われる。毎年今日ありましたとの報道を見て見に行けばよかったと残念な思いになるのだが今年はしっかりとカレンダーにマークして外さず住吉神社に出向いた。
境内に入ると本殿前にシートが敷かれていて一般の方はこちらと案内される。やや出遅れたのもあって、シートの上はほぼ埋まっている。とにかく隙間を探して座り込む。
定刻の13時30分からは挨拶や県知事をはじめとする来賓紹介が延々とあるなど少々うんざりするが文字通りしびれを切らした頃、まずは参拝のために3横綱が羽織姿で入ってくる。この後身支度を整えてやっとの事で14時30分頃に土俵入りとなる。
露払い太刀持ちを従えて神前に進むのを見ると肉体的存在感が周りを圧する。華やいだ晴れの姿だ。白鳳、鶴竜、稀勢の里と順にゆったりと執り行われる。夫々に型が変わっているのもあるが個性が出ていて面白い。鶴竜には子供たちからの声援が最も多いのにも少し驚く、子供は正直だ、今年は色々あった。
奉納土俵入りを横綱が揃って毎年行うのはここ住吉神社と明治神宮、伊勢神宮位のようだ。
九州場所が終わればもう年の瀬だ。
写真は住吉神社の奉納土俵入り風景、白鳳、鶴竜、稀勢の里の順に土俵入り
所在地:長野県小県郡長和町「和田宿」
中山道「和田宿」の旧旅籠「かわちや」(現「歴史の道資料館」)の土間に置いてあった看板です。江戸時代の宿選びガイドとなる「講」の看板で「一新講」はその一つです。
江戸時代はグーグルサーチもありませんので、安心して泊まれる旅籠か否かの情報を得る手段はほとんどありません。いかがわしい女(飯盛り女)を抱える旅籠経営は禁止されていましたが、それも表向きのことで、飯盛り女を置けば旅籠は繁盛するので旅籠の多くには飯盛り女がいました。
特に商用や神仏代参詣での旅人などは健全な道中を求めましたので、旅籠の内容を見極めるのに旅人も困りましたが、飯盛り女のいない安心安全を提供する旅籠側もそれを証明するために「一新講」のような看板を掲げるようになります。
「講」とうたわれたシステムの始まりは、唐弓の弦を商っていた松屋甚四郎の手代源助が、諸国を行商する中で誰もが安心して泊まれる旅籠の組合をつくることを思い立ち、1804(文化元年)年、旅宿組合「浪花組」(のちの浪花講)を結成します。講元は松屋甚四郎。街道筋にはそれぞれ世話人を置いています。「浪花講」は加盟宿には目印の看板をかけさせるとともに、旅人には所定の鑑札を渡し、宿泊の際には提示するようにしたうえに、『浪花講定宿帳』を発行し、各宿駅ごとに講加盟の旅籠や休所の名を掲載するとともに、道中記としても役立つ道案内を兼ねた情報を掲載するなどして「講」のシステムは発達していきます。
当初は商用や神社参拝での利用が多かった「講」ですが、江戸の文化が成熟するに従って物見遊山も多くなり好評であった講のシステムはより発達をして、京・江戸を世話方とする「三都講」、江戸で「東講」、お伊勢参りの「伊勢講」、大山詣の「大山講」、「堺泰平講」、「嘉永講」などが次々と創られています。しかし、各街道が鉄道の普及に従って利用者が減少すると共に講の機能も衰えていきます。
当該看板の「一新講」は1873(明治6)年に静岡で結成された旅行目的の講です。奈良の有名な旅籠「小刀屋善助」が出している「御定宿 こがたなや善助」という名称の色刷りの旅の広告(明治15年作)の中にも、右側の旅籠の格子窓に「永代講」とともに「一新講」看板が掲げられています。絵図に見入りながら、もし私が江戸時代に生まれていたら、どんな旅をしたのだろうか、はたして旅する身分だったのだろうか、看板を置く旅籠の下働きだったのだろうか、としばらく空想に走りました。
(参考資料:大阪府立中之島図書館HP、「日本旅館の歴史/山口祐 司」、「時代劇用語指南/講の宿・山本博文 」、天理大学付属天理参考館)
どうしても行かなければならぬ海外出張で、老骨に鞭打って、10月21日(日)に日本を出て、ドイツと英国に行き、30日(火)に戻ってきた。その間に時差を4回経験した。その話である。
21日午前5時半に息子の車で尼崎の家を出て伊丹空港に行く。7時45分発の全日空で成田に行き、11時発でデュッセルドルフに向かった。異常な早起きのためトイレに行くタイミングが狂い軽い便秘に苦しんだ。実は便秘などほとんど経験がないので、出ないと、知人の死因となった大腸がんではないかとか妄想に苦しみ、機内で何度もトイレで落胆し、浣腸のドイツ語や英語は何かしらと悩みながら、幸い、ドイツのホテルでドッサリ出てくれた。
ドイツとの時差は7時間である。日本時間の午前11時に出て、同日ドイツ時間の午後4時にデュッセルドルフに着いた。飛行時間は5時間+時差7時間=12時間である。実に長い。便秘問題もあったので、嫌な出足であった。
24日(水)に英国ロンドンに移動する。ドイツとの時差は1時間で、日本とは8時間である。1時間の時差というのはじんわりこたえるようだ。いつも朝7時に起きているのに、今日から6時に起きなさいというようなもんだ。
ロンドンで仕事を終えたのが、26日(金)で、その週末はリバプール観光に行った。
英国人の取引先から28日(日)にはサマータイムが終わるので、時計を1時間戻しなさいと言われた。そのままにしておくと、リバプールからロンドンに帰る特急列車に乗り遅れるおそれがある。
以前に同時期ドイツのホテルでサマータイムの終了を経験したが、夜中にドアの下から変更通知のメモが入っていた。しかし、今回のリバプールのホテルでは何もない。
このリバプールのホテルであるが、主要駅から徒歩10分で便利だし、決して貧相なホテルでもないのだが、エレベータがない。私の部屋は211号室で日本流にいえば3階にある。そこに行くのに、レセプションのあるグランドフロア(日本流では1階)からいったん地階に降りて、それから、3階まで階段を登るのである。何でやねん。幸い、大きなトランクはロンドンのホテルに預けているので、荷物はリュックサックだけだった。
28日(日)になる真夜中にサマータイムが終わり、午前2時が午前1時になり、日本との時差は9時間になる。その朝、テレビをBBC One に合わせていたのだが、時間表示がないし、サマータイムの終了が話題になることもない。日本ならずっと画面表示が出そうな大ごとである。時計を1時間前に合わせて、その時間通りに帰りの特急列車に乗った。
ロンドンに戻り、ホテルの近くのイタリア料理屋でアラビアータ・ペンネを食べた。実に辛かった。それはともかく、時計を見ると1時間進んでいた。店員に「サマータイムのままやんか。」というと、「変えるの忘れてた。」とおおらかである。
翌日は29日(月)で最終日である。久しぶりにTATE BRITAIN美術館を鑑賞して、午後にカブで空港に行った。運転手はエチオピア出身でマラソンのアベベの話をした。午後7時発の全日空機で羽田に30日午後4時頃に着いた。時差は9時間であるから飛行時間は12時間。疲れ切っていたので、ほとんど寝ていた。さらに国内便で伊丹空港に飛び、自宅には午後8時半頃に戻った。
10月22日紅葉真っ盛りの鳥海山に行く。
紅葉真っ盛りでどこを撮影しても美しく感じる。
写真家の間では知る人ぞ知る鶴間池に向かう。
アクセス方法など情報が少なく、すったもんだの末の現地入りである。
鳥海山湯の台登山口に向かう道路脇の少ない駐車スペースから望むことができる。
「覗き」と言われる場所で眼下に紅葉したブナの隙間に池がひっそりとある。
ここから絶壁を200メートルほど下るらしい。
軽装のオジサマオバサマ方の団体が下りる準備をしていた。
ちょろいおばちゃんでも下りられるかどうか尋ねると、大丈夫とは言われなかったが、行く価値はあると言われた。
団体を恐れた連れ合いはサッサと先へ行ってしまう。
しょうがない、絶壁を下りる事にする。
途中もう一箇所覗けるところがあり、まさに絶景だ。覚悟を決める。
ひたすら崖を転がるように降り、梯子が4回、途中ロープや鎖場があり下りるも帰るも考えられない程がむしゃらに下りた。
予定40分の行程を20分強で下りたせいか、相当苦しく滑落するのではと恐ろしかった。
下りると想像以上の美しさで、ひたすら撮影するが、誰が撮ってもおなじ様な気がしてくる。
おばちゃんカメラの限界なのだろう。
後で来た団体が白籏史郎率いるツアーと知る。
バスに書いてあったがピンとこず、馴れ馴れしく声を掛けてしまった自分が恥ずかしい。
先発隊がコーヒーなど優雅に沸かし、高級そうな弁当を配給していたので納得である。白籏史郎の講義を受け、至りつくせりの指導は羨ましい限りだ。今回は集団に紛れて耳ダンボにすれば良かったかと後から思う。
帰りは行きより恐怖感はなくひたすらよじ登って任務完了である。
カメラの撮影も良いものを撮ろうと思うと、だんだんエスカレートして多少の無理は押してしまうのが情けない。
おばちゃんカメラのポリシー’楽して良いものを’労少なくて益多しを貫きたいものだ。
しかし今回は天気と紅葉ど真ん中に恵まれ稀に見る絶景に遭遇し写真の出来栄えはともかく、運が良かった。
今月のにゃんこ
猊鼻渓のキリン模様
カメラを向けると、この人は味方か敵か何度も振り返り見定めるキリン模様のにゃんこ。容姿はいまいちだが、他人とは思えない!
Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
yuki at JAPAN GEOGRAPHIC (Replace at to @)
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