JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Feb. 2019

Back number


■ 大平寺跡を歩く  田中康平

福岡市の自宅近くの遺跡を時々巡っている。今回は福岡市南区にある大平寺跡および大平寺古墳群を訪れてみた。一応福岡市は文化財として紹介しているが史跡に指定しているわけでもなくてあまり知られていない。

 

始めに大平寺古墳群から回る。大平寺と名前が付くが直接の関係があるわけではなく地名からつけられているように思える。

住宅街のそばにあって駐車は難しいかと少し離れた運動公園にクルマを停めて歩いて訪れる。北西側が傾斜して溜池(源蔵池)に向かっている雑木林の中に古墳が幾つか見える。ここらあたりでは小高い地点となっている。現地の説明書きでは6世紀末—7世紀初めの頃の古墳とされている。

   

形は解りにくいが円墳だ。一番大きいと思われる古墳は横穴式石室が開口しており内部が見れるようになっていて中に仏像が置いてある。この6号墳以外は形が崩れているようで古墳の石材が城の建築などに用いられたのではないかと推定されている。この古墳だけがきちんと残ったのは信仰の対象として維持されていたからだろう。同じ南区にある穴観音と興宗寺との関係に似ているようだ。こちらの大平寺は廃寺となって名前だけが残ったが。

この雑木林の下の源蔵池付近から製鉄の遺物が発掘されており、辺りは製鉄の拠点だったとも推察されている。池は農業用ではなく製鉄用だったのかもしれない。

そのまま北東へ坂を下りていくと大平寺跡に至る。

太平寺とは廃寺となった古寺で、江戸時代の儒学者・貝原益軒の筑前風土記に、那珂郡屋形原に居たる千葉探題の帰依の寺なりし故むかしは大寺なりしとかや とあるという(福岡市のHPより)。

現在は室町時代の板碑と石仏が祀られている。南側の緩斜面からは6世紀後半から9世紀前半に及ぶ掘立柱建造物群の遺構が発掘されたと市の資料にあり、古くから寺院があったのかもしれない。

   

貝原益軒の言う千葉探題とは、室町時代に置かれていた九州探題の変わり果てた姿ではないかと推測される。九州探題は渋川氏がその任に当たっていたが丁度応仁の乱のころ九州でも豪族の争いが激しくなって肥前では九州今川氏と渋川氏の連合が千葉氏に敗れており以降実質的に千葉氏が九州探題としてふるまったとも考えられる。この地よりやや北の南区花畑小学校には昔この地にあった九州探題のその館を黒田2代藩主の黒田忠之が隠居屋敷として使ったと記した(近年の)石碑が建てられており、大平寺と探題の関係が本当らしく思われる。この他にもこの時代、大友氏と山内氏、島津氏との争いもこの辺りで繰りひろげられており15ー6世紀ころの博多ー大宰府周辺は各豪族のせめぎあいが続いたと感じられる。

このところこんな歴史探索をぽろぽろとやっているがどうやら福岡平野は江戸時代前の中世が面白い、そんな気がしている。南北朝から戦国に至る今となっては解りずらい時代は日本のどこでも混乱に満ちた空気が流れていたのだろう。今の平和が有難い。

 

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中