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Monthly Web Magazine Oct. 2020


■ 蟇股あちこちー6 中山辰夫

 

鎌倉時代に入ります。この時代は、中国から新形式の様式の建築様式が伝来し、今までの「和様」と新形式を「大仏様」「禅宗様」と称し区分されました。後期には入り混じった「折衷様」がその後の蟇股の進化に大きなインパクトを与えました。

宇治平等院中堂に用いられた板蟇股 (1053年)          
 
板蟇股について、鎌倉以降は遺例も多く、定例化したものや変った形のものがみられ、地方色も出始めました。
板蟇股の厚みは薄くなりますが、三十三間堂本堂に見られるように構造材的な使われ方が多かったようです。

鎌倉前期(1185年~1274年)は、古建築の復興全盛期、新しい時代の始まりと云われます。「和様」では蟇股が、唯一の装飾だったのが以後装飾部材も増えました。板蟇股に加えて本蟇股が併用され、主流になってゆきます。「蟇股」は意匠の中で一番力を注いで制作されるようになりました。

今回も板蟇股の諸例を年代順に並べます。

東福寺
六波羅門 国重文 建立:鎌倉時代前期 楼門 本瓦葺 平家の六波羅探題の遺構を移築したとされています。
 
円柱が冠木を貫き、その上端が妻の板蟇股を挟んでいます。鎌倉時代の絵巻物などによく描かれている門の実例です。
破風も梅鉢懸魚も古く、屋根の巴瓦にも当初のものが残され、大疎棰[おおまばらたるき]の用い方にも特色があり、全体として雄健な力のこもつた調子は、月下門とよき対比をなし、興味深いといわれます。

板蟇股
    
両妻の男梁上にもちいられています。足元の丈は年代の下降に伴って次第に高くなりますが、この板蟇股の丈は格段高いです。

長弓寺
奈良県生駒市上野4445
創建については諸説ありますが、728年、聖武天皇が息子の流れ矢に当たって死んだ真弓長弓の菩提を弔うために行基に命じて建立させたといわれます。
弘安2年(1279年)銘の棟礼が残る本堂は、鎌倉中期の密教本堂の代表的な建物で、生駒市内唯一の国宝に指定された建築物です。
本尊は木造の十一面観音立像、黒漆厨子とともに鎌倉時代の作で国重文です。敷地内に咲くアジサイやハスも有名です。霊山寺が近くにあります。
     

本堂 国宝 建立:1279年(鎌倉時代) 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 檜皮葺
   
平面構成は明通寺とよく似ています。三間×二間の正堂・札堂を密接しておき、周囲に一間通の庇を巡らした形。中央に側柱から内外陣境まで大虹梁を架け渡しているのが新時代の息吹を示すとされます。中備の蟇股で賑やかにする手法は明通寺でも見られます。他にも新しい手法が用いられており、新和様の出発点とされる重要な遺構とされます。屋根の檜皮葺は奈良では珍しいです。森林に囲まれ優美な感じがします。

板蟇股は堂内に二種類みられますが撮影は出来ません。
   
板蟇股は外陣両脇後方二間の入側柱筋に架かる虹梁上に用いられています。 肩の部分の深い切込みがあり、足元は二つの円弧を連続させた花形の繰形とし、渦状の彫り込みを施したものとしては最古の遺例とされます

素晴らしい透かし蟇股が向拝と本堂周囲に見えます。これらについては蟇股の項で紹介します。

霊山寺 (りょうぜんじ)
奈良市中町3879
736年、聖武天皇の勅命で行基が建立、インド霊鷲山に似ていることから霊山寺と命名されたとされる古寺。真言宗大本山。戦乱に巻き込まれずに古い面影を残しています。鎌倉中期に改築された本堂(国宝)には藤原時代の薬師三尊像(重文)など、優れた建築や彫刻を多数所蔵しています。
境内に一歩足を踏み込むと「大瓣才天」の掲額を掲げた朱塗りの鳥居に驚きます。1200坪のバラ園をはじめ、古寺が現代に生きる「諸施設完備」が見られます。
     

本堂 国宝 国宝 建立:鎌倉時代(1283) 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺
 
内外陣とも梁を見せずに天井を一面にはってある(小組格天井)ので、全体に落ち着いた大仏様の空間になっています。
外観の意匠は平安時代に源流をなす保守的な手法が用いられています。内陣には1285年銘の春日厨子があります。
透かし蟇股が内拝の柱間虹梁中央に設けられ、彫刻は薬壺に見えます。蟇股は黄金殿、境内社十六所神社(国重文)にも見られ別項で紹介します。

板蟇股は妻梁上の両脇に設けられています。
  
肩の丸味は僅かに盛り上がった形で、足元は肩幅を狭くして軽快に広げ、先端は緩やかに反り上げて安定感があります。

新薬師寺
南門 国重文 建立:鎌倉時代前期 四脚門 切妻造 本瓦葺
 

板蟇股
   
当初は二脚の棟門だったようです。本柱上に大斗を置き、控柱上に大斗肘木を組んで虹梁を受け、正背面中備として板蟇股・間斗を置いて桁を受けています。
組物上に虹梁を載せて軒桁を架橋し、虹梁上に板蟇股・斗・肘木を組んで化粧棟木を受けています。
板蟇股は先端を大きく反り上げ、安定感のある力強い形に造られています。
資料 (修理工事報告書より)
    

ここから鎌倉時代後期(1275年~1332年)です。
この年代は地方に大寺院が勃起しました。中央では伝統が重んじられ、地方では新しい試みが行われました。
縦行鋸が中国より伝来しました(14世紀末~15世紀前半)

不退寺
奈良市法蓮町
奈良市街北部に位置し、南方を関西本線が斜めによぎります。平城天皇が譲位後に住んだ萱御所の跡地に、847年あり在原業平が開基したと伝わります。
自らの聖観音像刻み「不退転法輪寺」と号し、阿保親王の菩提を弔います。境内には四季折々の花が咲き乱れ、晩秋には紅葉、ナンテンが美しい。
    

南門(南大門) 国重文 建立:1317年 四脚門 切妻造 本瓦葺 板蟇股が見られます。
  

板蟇股は正背面の中備に用いられており、中央部は量感のある繰形ですが足元は抑揚に乏しい扁平な感じの繰形で、先端の尖った巴状の彫り込みがあります。
板蟇股や蟇股にこのような形の彫り込みがあるものとしては最古のものです。
  

両妻の虹梁うえにある板蟇股と笈形
      
 肩の曲線が角張った形で、足元は先端を軽快に反り上げ、安定感のある形で、 円形または銀杏状の彫り込みが施されていますが、この板蟇股は歪んだ銀杏状の彫り込みがしてあります。銀杏の彫り込みは、1308年建立の苗村神社西本殿の蟇股に施されたのが最古の遺例とされます。

本堂には蟇股が使われています。別項で紹介します。

石手寺
愛媛県松山市石手町二丁目
寺伝によれば、728年に伊予国の太守、越智玉純が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀りました。その後聖武天皇の勅願所となり、729年に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したと伝わります。領主・河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院でした。1566年に長宗我部元親の兵火をうけ建築物の大半を失いましたが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れました。鎌倉末期から室町初期にかけての建築、6棟が国重文に指定されています。
     

板蟇股・本蟇股が古建築に使われています。

仁王門 国宝 建立:1318年 三間一戸楼門 入母屋造 本瓦葺
  
河野通継の建立。定法を守り、和様を保持している。各部の均衡がよく、その姿が美しい。一階にある蟇股が美しい。多くある楼門の中で優れたもとされます。

仁王門に見る板蟇股 一階内部見上げ 引用は「財団法人文化財建造物保存技術協会編集 蟇股 ・寺社建築の観賞基礎知識より)
   
板蟇股は一階の繋虹梁上に用いられています。繋虹梁を架け、板蟇股をおいて組入天井を張っています。構造材としての使い方です。

仁王門の正面には透かし蟇股が並んでいる。昭和の修理時に補足された内部彫刻も含みます。
  

透かし蟇股
        
左右対称の透かし蟇股 輪郭の方が篤く手足が細く延び、意匠が素晴らしく、牡丹唐草やハス唐草が彫刻されています。
大正6年の修復時に彫り替えされましたが忠実に準えたとされます。

板蟇股は本堂でも見られます。
本堂 国重文 建築:鎌倉後期 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 本瓦葺
  
板蟇股は外陣の上に用いられています。他に類を見ない特異な形に造られているといわれます。
 

本堂に用いられている板蟇股 撮影てきません
   
板蟇股は仁王門のものより横長で繰様が少し複雑です。

石手寺では、国重文の三重塔、鐘楼、護摩堂及び他の堂宇に文様の異なった蟇股が見られます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)
奈良県天理市布留町

神宮は、「延喜式」に石上坐布留御魂神社という名で記載されており、布留御魂剣一座を祀ります。当社の起源について、作られた剣一千口が石上神社に収められ、物部氏がそれを管理した記録が残ります。当社には皇室から代々刀剣を神宝として奉納されています。朝廷の武器収蔵庫としての特殊な役割を担っていたとされます。
古来、江戸時代までは本殿を持たず、背後に聳える布留山が御神体です。拝殿後方に禁足地があります。ニワロリは「神鶏」とされ神の使です。
     

楼門 国重文 建立:1318年 桁行二間二尺 梁間一間五尺 重層 入母屋造 檜皮葺 上層:和様三手先 下層:二手先
       
板蟇股は上部に斗を載せて通肘木を受けています。斗供間の蟇股と柱頭の天竺様の鼻の繰形に優れたものがあるといわれます。
柱は円柱で、全体の恰好も美しく、翼廊部にも板蟇股がみられる。

元興院極楽坊
東門 国重文 建立:1411年 四脚門 切妻造 本瓦葺
 
この門は、かつて存在した東大寺塔頭「西南院」の山門であったものを、室町時代の応永年間に元興寺極楽坊の正門として移築したという歴史を持っています。門自体は鎌倉時代らしい雰囲気の漂う重厚な建築となっています。

板蟇股は両妻の虹梁上に用いられています。
   
肩幅が広く中央部は短形に近い形となっている 足元は軽快に反り上がり力強い感じです。

明王院
広島県福山市草戸町
    
807年弘法大師の開基と伝わります。福山市の南郊外、芦田川西岸の愛宕山の東斜面に建ち、芦田川沿いの平坦地からい石段を登ると山門があり、そこを入ると広い境内に美しい堂塔の景観が目に入ります。近世初頭以前は「常福寺」という寺号でした。
境内には1321年建立本堂と1348年建立の五重塔が建ちます。1620の大洪水で被害を受けた山門・鐘楼・書院・庫裏・護摩堂は、江戸時代前期の復興で、福山藩主代水野勝成の援助で行われました。
本堂は全体に和様、細部には唐様を用いた折衷様式で、この様式としては現存する最古の建物です。五重塔は、全国の国宝塔の中でも5番目の古さを持つ美しい塔で、本堂と共に国宝に指定されています。

本堂 国宝 建立:1321年 桁行五間 梁間五間 入母屋造 向拝付 尾道の浄土寺本堂と似ています。
    
内陣蟇股の墨書から鎌倉時代の元応3年(1321年)の建立と判明しました。大仏様、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされています。
柱・貫・台輪・桟唐戸の桟など、縦横の細い部材が白い壁面から浮き出て目立ちます。屋根の反りが強く、復元された彩色で禅宗様の影響の強い建物と分かります。

板蟇股は本堂内部に見られます

本堂内部
  
扉で囲われた手前の礼堂(外陣部分)と板壁の身で囲われた後方の内陣部分とに分かれます。

礼堂

  

曲線状に下りあがった天井。見えにくいが板蟇股を介して二重虹梁になっています。

内陣
     
二本の大虹梁を設け、中ほどに蟇股を置き、鏡天井を張っています。周囲の中備は板蟇股と花肘木付双斗二段の積み重ねで華やかです。
板蟇股はやや異形で、肩に角が生えてその部分に渦が、斗尻部分にハート状の彫刻が彫られています。

本堂向拝正面の透かし蟇股
  

浄土寺
広島県尾道市東久保町

616年聖徳太子が開いたとも伝えられます。鎌倉後期に中興され、大寺としての地位をかため、江戸時代に、藩主水野氏の篤い保護で寺観を整えました。愛宕山の中腹にあって、近世以前の寺院景観を維持しており、境内には本堂・阿弥陀堂・多宝塔が海を向いて一列に並んでいます。
       

蟇股は山門、本堂、多宝塔に見られます。

山門 建立:南北朝時代 四脚門 切妻造 本瓦葺 両袖潜付
  
板蟇股には足利氏の家紋(引両 ふたつびきりょう)が彫られています。
足利尊氏・直義が戦死者の慰霊と室町幕府の政権強化のために全国に建てた利生塔、備後ではこの浄土寺の五重塔(1347年建立 17世紀焼失)を当てましたこともあり結びつきが深かったようです。

本堂 国宝 再建:1327年 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 向拝
  
朱・緑・白色の美しい、こじんまりした建物。四周に縁がめぐり、正面に階段、それを覆う向拝が付きます。堂内は、正面の二間分が礼堂(外陣)、その奥が内陣、その両脇は脇陣です。内陣には春日厨子が置かれています。建物の側面から見ると装飾と立体的な彫刻がよく見えます。向拝のど真ん中にある蟇股が目を惹きます。

板蟇股は礼堂内部に見えます。
      

礼堂中央に二本の大虹梁を架け、その中央に複雑な曲線を繰り返した形状の蟇股がおいてあります。

架橋は鎌倉時代密教仏堂の特有のもので、板蟇股・斗栱を置いてます。虹梁は大仏様の太いものを用いています。他の地域との関連も見出せます。

  

その他の堂宇に多くの蟇股が見られます。特に多宝塔(国宝・1329年再建)は和様の伝統に忠実に建てられており、下層の中備に華麗な彫刻をした蟇股がズラリと並んでいます。「詳細は(蟇股編)に記載します。

 


板蟇股は今月で終わる予定でしたが、飛び込みの野暮用が入り間に合いませんでした。来月1300年の終わりから1500年以降をまとめて終わりとします。

台風14号が近づく過日、高野山へ行きました。雨で撮影は出来ませんでした。
奥の院まで2㎞の参道を歩きました。御廟橋から先は聖域となります。カメラの撮影は禁止です。橋の前で、ともかくシャッターを切りました。
   
レンズ越しに蟇股が見えて元気が出ました。

 

 


 

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