JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Oct. 2020

Back number

 


■■■■■ Topics by Reporters


■ 一向宗と一揆  瀧山幸伸

 

先月、北陸の一向宗ゆかりの地を二箇所訪問した。

一つは富山県南砺市の井波で、一向宗瑞泉寺の寺内町。

 

 

瑞泉寺は越中一向一揆の中核だった。越中一向一揆は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一揆である。

明徳元年(1390年)、本願寺第5世法主綽如が瑞泉寺を創建し、越中の拠点を築いた。嘉吉2年(1442年)第6世法主巧如の次男如乗が加賀本泉寺を創建し加賀にも本願寺が進出していった。文明13年(1481年)、加賀守護富樫政親に弾圧された一揆衆は瑞泉寺に逃げ込む。越中福光城主石黒光義が瑞泉寺を襲撃しようとしたが逆に討たれ、これを契機に瑞泉寺の勢力が拡大する。長享2年(1488年)に富樫政親も加賀一向一揆に討ち取られ、加賀は第8世法主蓮如の3人の息子が実質統治することになった。

その後内紛があったものの、瑞泉寺は長年にわたって強大な勢力を維持し、能登の畠山、越後の長尾、越中の遊佐と敵対した。戦国末期は上杉謙信と激しく係争したが、元亀3年(1572年)加賀・越中一向一揆は大敗壊滅し、瑞泉寺は佐々成政に焼き払われてしまった。これに勝っていれば日本の歴史は大きく変わっていただろう。

 

 

もう一つは石川県白山市の鳥越で、一向一揆の里として知られる。

 

詳しい解説や悲しい物語は各ページなどで調べていただくとして、一向一揆宗が天下を取っていたら、日本の今はどうなっていたのだろう。

ベストシナリオで、宗教の理念に忠実に平和な国になっていたのだろうか。いやワーストシナリオで、権力を持ったがために腐敗した宗教として終わっていたのだろうか。どちらのシナリオも島原の一揆と同様に興味深い。

 

 

 


■ 2015年秋 - 明日香村の彼岸花 野崎順次



今年は彼岸花を見に行く機会がなかった。お彼岸の連休は、倉敷でコロナ禍で行けなかったお墓まいり、帰りに津山の庭園を拝見したので、畦道に咲く彼岸花を車窓からちらりと見たくらいである。そこで、5年前に明日香村で撮影したものをまとめてみた。赤、黄、白と3色あり、自分としては珍しく色彩がビビッド調である。

その前に彼岸花の基礎知識を調べた。

ヒガンバナ(彼岸花、学名 : Lycoris radiata)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。クロンキスト体系ではユリ科。リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。学名のLycoris(リコリス)とはギリシャ神話の女神、海の精:ネレイドの一人、Lycoriasの名前からとられたもの。

異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では忌み嫌われることが多いが、反対に「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。

ヒガンバナの球根の中にはリコリン、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリンというアルカロイド系毒素が含まれている。リコリンの場合、球根一つに15mg含まれ、ネズミだと1500匹の致死量に相当する。ヒガンバナは、動物や虫から球根を守るため有毒成分を持つようになったといわれている。畦道や堤防によく植えられているのは、ネズミやモグラ除けになるからだ。

しかし、これらの毒素の人間に対する致死量は10gである。球根1個に含まれるのは0.015g程度らしいので、人間が死ぬ可能性はほとんどない。また、毒素は水溶性なので、丹念に水にさらして食用に加工することも可能である。まあよっぽどの場合(昔の飢饉)の非常食材だろう。

稲渕棚田の歴史は古く、中世(平安~室町時代)に開墾された。現在、300枚あまりの水田と畑があり、明日香村の美しい歴史的景観の一部として農村の原風景を強く残している。日本の棚田百選にも選ばれ、秋に畔や土手に咲く彼岸花の県下有数の自生地でもあり、この季節には多くの観光客が訪れる。黄色い彼岸花はショウキズイセンと呼ばれ近縁種である。

        

多武峰に向かう細川谷の棚田は規模は小さいが、上に行くほど傾斜がきつく、眺望の変化も面白い。谷奥の上(かむら)地区から細川地区に下る。

              

蓮花寺。鎌倉後期の十三重石塔がある細川地区のお寺。ここで一輪だけ撮った写真が気に入っている。

 

橘寺の白い花の彼岸花。赤い彼岸花とは別に白花曼珠沙華(シロバナマンジュシャゲ)と呼ばれ、赤色の彼岸花と黄色のショウキズイセンの自然交雑種といわれている。

    

飛鳥寺横の田んぼにて。

 

高松塚周辺

   

 


■ スガー 酒井英樹


先日、出先での仕事の合間に「スガー」を訪ねてみた。
 ちなみに、○○第99代内閣総理大臣や◇◇第50代内閣官房長官でないので・・念のため・・。

沖縄県本島北部の本部町。
 東シナ海の海岸沿いを走る一般国道449号の道路脇にスガーはあった。
 片道2車線の信号がほとんどない直線が続く法定速度(最高速度の制限標識のない)の一般国道・・で標識がなければ見過ごしてしまう。

 スガーとは幹川流路延長(いわゆる川の長さ)がわずか0.3㎞、最大川幅数メートという・・一見すると取るに足りない小川のこと。
 しかし、昭和47年(1972)5月15日、沖縄が日本に復帰したその日に文部省(現文部科学省)で天然記念物に指定された唯一無二(少なくとも当時は・・)の河川。

 指定名称は「天然記念物塩川」。文字通り塩水の流れる川で、塩川を現地ではスガーと呼ばれている。
 


 塩分を含んだ水の流れる川は全国にあまた存在する。国が管理する一級河川の本川の場合、河口から十数キロの地点まで塩水が遡る。上流から流れてきた淡水と混ざり汽水として流れる。塩分濃度は河口から数㎞地点で30‰(1リットル中30g塩が存在、因みに外洋の海水は平均35‰)に達する。
 また、島根県の宍道湖など汽水湖も存在する。法律上ほとんどの湖は河川の一部と見なされています。(宍道湖は揖斐川水系揖斐川本川宍道湖が正式名称)
 つまり、塩分を含んだ水が流れる川は全国あまた存在する。
    


 では、塩川がなぜ特別なのかというと、源流から河口まで一貫して流水が塩水であること。
 源流の石灰岩の割れ目からの湧き水自体が塩水であり、他の川と違って海水が河川を遡って出来る塩水の川ではないこと。
 このような河川は、近年発見された米領プエルトリコにある某川だけ・・。地球上で現時点で2つしか発見されていない。

 <源流>

   


 試しに源流の湧き水を口に含んだ。海水のように咽せることはなく、ほんのわずかに塩味を感じる程度・・感覚的には多く見積もっても数‰程度に思える。
 前日の大雨が影響したのだろう・・。降水量によって3~15‰の間で塩分濃度が変化するとの調査結果があった。
 また、潮位によって湧き水量が変動することも判っており、塩水が湧く原因は浸透した海水と地下水が混じりサイフォンの原理で湧くという説が有力だが、原因は判明していない。
       

 干潮のためか水位が低いこともあり・・以前に訪れた時に比べ赤土の堆積が顕著に思える。
 日本の重要湿地500に選定されていて、塩川の固有種の藻「シオカワモッカ」が生息するのだが、ほとんど見当たらない。
 川の環境が変わってきている。
 日当たりが良くなった。
 その主な原因が横を走る一般国道449号の拡張だと地元の人に聞かされた。

 河川行政・道路行政の双方を担う者の端くれとして胃が痛むのを感じつつ、いつまでもこのまま変わらない川であってほしいと切に願うしかできなかった。


 
 


■ 福井で息抜き 大野木康夫



先日、久しぶりに夫婦で日帰り旅行を楽しみました。
目的地は福井の一乗谷、人が少ない方がいいと思ったので水曜日に休みを取って行きました。
一乗谷は南北2kmほどの細長い谷に遺跡が点在していますが、ハイキングを兼ねて徒歩で回りました。

上の城戸
  


米津
  


諏訪館跡
  


物見台
  


中の御殿址
   


朝倉館跡
   


湯殿跡
  

南陽寺跡
  


瓜割清水
 

朝倉景鏡館跡
 


下の城戸
  


瓢町地区
 


平面復原地区
  
雲正寺地区
  


復原町並
   

2時間半ほど歩き回りましたが、遺跡を見て回っているのであまり疲れませんでした。

ついでに付近の観光名所を回りました。

永平寺

修学旅行生の姿も見られました。
新しく買った広角レンズでの撮影を楽しみました。
    

坪川家住宅

内部撮影もできるようになっていました。
  


平泉寺白山神社

以前立ち寄った時に家内が苔の見事さに感動したので寄りました。
苔は期待どおりでしたが、発掘された石畳などは熊が出没したため立ち入り禁止となっていました。
     


平日ということもあり、観光客はあまり多くなかったですが、休日はもう少し人出が多くなるかと思います。
秋の観光シーズンを迎えたとき、全国的に人出がどうなるのか、いろいろな意味で気になるところです。

 

 


■ 蟇股あちこちー6 中山辰夫

 

鎌倉時代に入ります。この時代は、中国から新形式の様式の建築様式が伝来し、今までの「和様」と新形式を「大仏様」「禅宗様」と称し区分されました。後期には入り混じった「折衷様」がその後の蟇股の進化に大きなインパクトを与えました。

宇治平等院中堂に用いられた板蟇股 (1053年)          
 
板蟇股について、鎌倉以降は遺例も多く、定例化したものや変った形のものがみられ、地方色も出始めました。
板蟇股の厚みは薄くなりますが、三十三間堂本堂に見られるように構造材的な使われ方が多かったようです。

鎌倉前期(1185年~1274年)は、古建築の復興全盛期、新しい時代の始まりと云われます。「和様」では蟇股が、唯一の装飾だったのが以後装飾部材も増えました。板蟇股に加えて本蟇股が併用され、主流になってゆきます。「蟇股」は意匠の中で一番力を注いで制作されるようになりました。

今回も板蟇股の諸例を年代順に並べます。

東福寺
六波羅門 国重文 建立:鎌倉時代前期 楼門 本瓦葺 平家の六波羅探題の遺構を移築したとされています。
 
円柱が冠木を貫き、その上端が妻の板蟇股を挟んでいます。鎌倉時代の絵巻物などによく描かれている門の実例です。
破風も梅鉢懸魚も古く、屋根の巴瓦にも当初のものが残され、大疎棰[おおまばらたるき]の用い方にも特色があり、全体として雄健な力のこもつた調子は、月下門とよき対比をなし、興味深いといわれます。

板蟇股
    
両妻の男梁上にもちいられています。足元の丈は年代の下降に伴って次第に高くなりますが、この板蟇股の丈は格段高いです。

長弓寺
奈良県生駒市上野4445
創建については諸説ありますが、728年、聖武天皇が息子の流れ矢に当たって死んだ真弓長弓の菩提を弔うために行基に命じて建立させたといわれます。
弘安2年(1279年)銘の棟礼が残る本堂は、鎌倉中期の密教本堂の代表的な建物で、生駒市内唯一の国宝に指定された建築物です。
本尊は木造の十一面観音立像、黒漆厨子とともに鎌倉時代の作で国重文です。敷地内に咲くアジサイやハスも有名です。霊山寺が近くにあります。
     

本堂 国宝 建立:1279年(鎌倉時代) 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 檜皮葺
   
平面構成は明通寺とよく似ています。三間×二間の正堂・札堂を密接しておき、周囲に一間通の庇を巡らした形。中央に側柱から内外陣境まで大虹梁を架け渡しているのが新時代の息吹を示すとされます。中備の蟇股で賑やかにする手法は明通寺でも見られます。他にも新しい手法が用いられており、新和様の出発点とされる重要な遺構とされます。屋根の檜皮葺は奈良では珍しいです。森林に囲まれ優美な感じがします。

板蟇股は堂内に二種類みられますが撮影は出来ません。
   
板蟇股は外陣両脇後方二間の入側柱筋に架かる虹梁上に用いられています。 肩の部分の深い切込みがあり、足元は二つの円弧を連続させた花形の繰形とし、渦状の彫り込みを施したものとしては最古の遺例とされます

素晴らしい透かし蟇股が向拝と本堂周囲に見えます。これらについては蟇股の項で紹介します。

霊山寺 (りょうぜんじ)
奈良市中町3879
736年、聖武天皇の勅命で行基が建立、インド霊鷲山に似ていることから霊山寺と命名されたとされる古寺。真言宗大本山。戦乱に巻き込まれずに古い面影を残しています。鎌倉中期に改築された本堂(国宝)には藤原時代の薬師三尊像(重文)など、優れた建築や彫刻を多数所蔵しています。
境内に一歩足を踏み込むと「大瓣才天」の掲額を掲げた朱塗りの鳥居に驚きます。1200坪のバラ園をはじめ、古寺が現代に生きる「諸施設完備」が見られます。
     

本堂 国宝 国宝 建立:鎌倉時代(1283) 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺
 
内外陣とも梁を見せずに天井を一面にはってある(小組格天井)ので、全体に落ち着いた大仏様の空間になっています。
外観の意匠は平安時代に源流をなす保守的な手法が用いられています。内陣には1285年銘の春日厨子があります。
透かし蟇股が内拝の柱間虹梁中央に設けられ、彫刻は薬壺に見えます。蟇股は黄金殿、境内社十六所神社(国重文)にも見られ別項で紹介します。

板蟇股は妻梁上の両脇に設けられています。
  
肩の丸味は僅かに盛り上がった形で、足元は肩幅を狭くして軽快に広げ、先端は緩やかに反り上げて安定感があります。

新薬師寺
南門 国重文 建立:鎌倉時代前期 四脚門 切妻造 本瓦葺
 

板蟇股
   
当初は二脚の棟門だったようです。本柱上に大斗を置き、控柱上に大斗肘木を組んで虹梁を受け、正背面中備として板蟇股・間斗を置いて桁を受けています。
組物上に虹梁を載せて軒桁を架橋し、虹梁上に板蟇股・斗・肘木を組んで化粧棟木を受けています。
板蟇股は先端を大きく反り上げ、安定感のある力強い形に造られています。
資料 (修理工事報告書より)
    

ここから鎌倉時代後期(1275年~1332年)です。
この年代は地方に大寺院が勃起しました。中央では伝統が重んじられ、地方では新しい試みが行われました。
縦行鋸が中国より伝来しました(14世紀末~15世紀前半)

不退寺
奈良市法蓮町
奈良市街北部に位置し、南方を関西本線が斜めによぎります。平城天皇が譲位後に住んだ萱御所の跡地に、847年あり在原業平が開基したと伝わります。
自らの聖観音像刻み「不退転法輪寺」と号し、阿保親王の菩提を弔います。境内には四季折々の花が咲き乱れ、晩秋には紅葉、ナンテンが美しい。
    

南門(南大門) 国重文 建立:1317年 四脚門 切妻造 本瓦葺 板蟇股が見られます。
  

板蟇股は正背面の中備に用いられており、中央部は量感のある繰形ですが足元は抑揚に乏しい扁平な感じの繰形で、先端の尖った巴状の彫り込みがあります。
板蟇股や蟇股にこのような形の彫り込みがあるものとしては最古のものです。
  

両妻の虹梁うえにある板蟇股と笈形
      
 肩の曲線が角張った形で、足元は先端を軽快に反り上げ、安定感のある形で、 円形または銀杏状の彫り込みが施されていますが、この板蟇股は歪んだ銀杏状の彫り込みがしてあります。銀杏の彫り込みは、1308年建立の苗村神社西本殿の蟇股に施されたのが最古の遺例とされます。

本堂には蟇股が使われています。別項で紹介します。

石手寺
愛媛県松山市石手町二丁目
寺伝によれば、728年に伊予国の太守、越智玉純が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀りました。その後聖武天皇の勅願所となり、729年に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したと伝わります。領主・河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院でした。1566年に長宗我部元親の兵火をうけ建築物の大半を失いましたが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れました。鎌倉末期から室町初期にかけての建築、6棟が国重文に指定されています。
     

板蟇股・本蟇股が古建築に使われています。

仁王門 国宝 建立:1318年 三間一戸楼門 入母屋造 本瓦葺
  
河野通継の建立。定法を守り、和様を保持している。各部の均衡がよく、その姿が美しい。一階にある蟇股が美しい。多くある楼門の中で優れたもとされます。

仁王門に見る板蟇股 一階内部見上げ 引用は「財団法人文化財建造物保存技術協会編集 蟇股 ・寺社建築の観賞基礎知識より)
   
板蟇股は一階の繋虹梁上に用いられています。繋虹梁を架け、板蟇股をおいて組入天井を張っています。構造材としての使い方です。

仁王門の正面には透かし蟇股が並んでいる。昭和の修理時に補足された内部彫刻も含みます。
  

透かし蟇股
        
左右対称の透かし蟇股 輪郭の方が篤く手足が細く延び、意匠が素晴らしく、牡丹唐草やハス唐草が彫刻されています。
大正6年の修復時に彫り替えされましたが忠実に準えたとされます。

板蟇股は本堂でも見られます。
本堂 国重文 建築:鎌倉後期 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 本瓦葺
  
板蟇股は外陣の上に用いられています。他に類を見ない特異な形に造られているといわれます。
 

本堂に用いられている板蟇股 撮影てきません
   
板蟇股は仁王門のものより横長で繰様が少し複雑です。

石手寺では、国重文の三重塔、鐘楼、護摩堂及び他の堂宇に文様の異なった蟇股が見られます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)
奈良県天理市布留町

神宮は、「延喜式」に石上坐布留御魂神社という名で記載されており、布留御魂剣一座を祀ります。当社の起源について、作られた剣一千口が石上神社に収められ、物部氏がそれを管理した記録が残ります。当社には皇室から代々刀剣を神宝として奉納されています。朝廷の武器収蔵庫としての特殊な役割を担っていたとされます。
古来、江戸時代までは本殿を持たず、背後に聳える布留山が御神体です。拝殿後方に禁足地があります。ニワロリは「神鶏」とされ神の使です。
     

楼門 国重文 建立:1318年 桁行二間二尺 梁間一間五尺 重層 入母屋造 檜皮葺 上層:和様三手先 下層:二手先
       
板蟇股は上部に斗を載せて通肘木を受けています。斗供間の蟇股と柱頭の天竺様の鼻の繰形に優れたものがあるといわれます。
柱は円柱で、全体の恰好も美しく、翼廊部にも板蟇股がみられる。

元興院極楽坊
東門 国重文 建立:1411年 四脚門 切妻造 本瓦葺
 
この門は、かつて存在した東大寺塔頭「西南院」の山門であったものを、室町時代の応永年間に元興寺極楽坊の正門として移築したという歴史を持っています。門自体は鎌倉時代らしい雰囲気の漂う重厚な建築となっています。

板蟇股は両妻の虹梁上に用いられています。
   
肩幅が広く中央部は短形に近い形となっている 足元は軽快に反り上がり力強い感じです。

明王院
広島県福山市草戸町
    
807年弘法大師の開基と伝わります。福山市の南郊外、芦田川西岸の愛宕山の東斜面に建ち、芦田川沿いの平坦地からい石段を登ると山門があり、そこを入ると広い境内に美しい堂塔の景観が目に入ります。近世初頭以前は「常福寺」という寺号でした。
境内には1321年建立本堂と1348年建立の五重塔が建ちます。1620の大洪水で被害を受けた山門・鐘楼・書院・庫裏・護摩堂は、江戸時代前期の復興で、福山藩主代水野勝成の援助で行われました。
本堂は全体に和様、細部には唐様を用いた折衷様式で、この様式としては現存する最古の建物です。五重塔は、全国の国宝塔の中でも5番目の古さを持つ美しい塔で、本堂と共に国宝に指定されています。

本堂 国宝 建立:1321年 桁行五間 梁間五間 入母屋造 向拝付 尾道の浄土寺本堂と似ています。
    
内陣蟇股の墨書から鎌倉時代の元応3年(1321年)の建立と判明しました。大仏様、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされています。
柱・貫・台輪・桟唐戸の桟など、縦横の細い部材が白い壁面から浮き出て目立ちます。屋根の反りが強く、復元された彩色で禅宗様の影響の強い建物と分かります。

板蟇股は本堂内部に見られます

本堂内部
  
扉で囲われた手前の礼堂(外陣部分)と板壁の身で囲われた後方の内陣部分とに分かれます。

礼堂

  

曲線状に下りあがった天井。見えにくいが板蟇股を介して二重虹梁になっています。

内陣
     
二本の大虹梁を設け、中ほどに蟇股を置き、鏡天井を張っています。周囲の中備は板蟇股と花肘木付双斗二段の積み重ねで華やかです。
板蟇股はやや異形で、肩に角が生えてその部分に渦が、斗尻部分にハート状の彫刻が彫られています。

本堂向拝正面の透かし蟇股
  

浄土寺
広島県尾道市東久保町

616年聖徳太子が開いたとも伝えられます。鎌倉後期に中興され、大寺としての地位をかため、江戸時代に、藩主水野氏の篤い保護で寺観を整えました。愛宕山の中腹にあって、近世以前の寺院景観を維持しており、境内には本堂・阿弥陀堂・多宝塔が海を向いて一列に並んでいます。
       

蟇股は山門、本堂、多宝塔に見られます。

山門 建立:南北朝時代 四脚門 切妻造 本瓦葺 両袖潜付
  
板蟇股には足利氏の家紋(引両 ふたつびきりょう)が彫られています。
足利尊氏・直義が戦死者の慰霊と室町幕府の政権強化のために全国に建てた利生塔、備後ではこの浄土寺の五重塔(1347年建立 17世紀焼失)を当てましたこともあり結びつきが深かったようです。

本堂 国宝 再建:1327年 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 向拝
  
朱・緑・白色の美しい、こじんまりした建物。四周に縁がめぐり、正面に階段、それを覆う向拝が付きます。堂内は、正面の二間分が礼堂(外陣)、その奥が内陣、その両脇は脇陣です。内陣には春日厨子が置かれています。建物の側面から見ると装飾と立体的な彫刻がよく見えます。向拝のど真ん中にある蟇股が目を惹きます。

板蟇股は礼堂内部に見えます。
      

礼堂中央に二本の大虹梁を架け、その中央に複雑な曲線を繰り返した形状の蟇股がおいてあります。

架橋は鎌倉時代密教仏堂の特有のもので、板蟇股・斗栱を置いてます。虹梁は大仏様の太いものを用いています。他の地域との関連も見出せます。

  

その他の堂宇に多くの蟇股が見られます。特に多宝塔(国宝・1329年再建)は和様の伝統に忠実に建てられており、下層の中備に華麗な彫刻をした蟇股がズラリと並んでいます。「詳細は(蟇股編)に記載します。

 


板蟇股は今月で終わる予定でしたが、飛び込みの野暮用が入り間に合いませんでした。来月1300年の終わりから1500年以降をまとめて終わりとします。

台風14号が近づく過日、高野山へ行きました。雨で撮影は出来ませんでした。
奥の院まで2㎞の参道を歩きました。御廟橋から先は聖域となります。カメラの撮影は禁止です。橋の前で、ともかくシャッターを切りました。
   
レンズ越しに蟇股が見えて元気が出ました。

 

 


■  福岡の小山、鴻巣山を散策  田中康平


コロナは自粛生活が遍く染み渡ったせいか勢いは収まりつつあるようだが、依然として遠出しない生活が続いている。近所を散歩の毎日だが、それなりに面白いところもあり結構飽きない。
直ぐ近くに鴻巣山という標高100m位の小山がありここを散歩すると山歩きの雰囲気があって、それに歴史を感じたりしてちょっといい。
住宅地に寸断されつつ鴻巣山の尾根は東に延びて高宮八幡宮がその東端にあたる。西暦660年頃百済が滅びこれを救援するために斉明天皇が那の津(博多と比定される)の磐瀬行宮(いわせのかりみや)にとどまったと日本書紀にあり、社伝ではその時同行していた中大兄皇子によって近くに作られたのがこの高宮八幡宮とされている。相当に古い神社だ。
高宮八幡宮から鴻巣山の尾根を西へ辿ると高宮浄水場がある。1960年に建設された市内最大の浄水場だが建設後60年を経過し、老朽化したこともあって4年後に廃止されるらしい。
続いて尾根の南麓には穴観音(6世紀の古墳)がある。その北側の山地には百塚と呼ばれる場所があっていわば古い時代の墓地だったようだが、福岡城築城の際に多くが壊され石が城に使われたという。現在では石室に観音像が刻まれている穴観音のみが残っている。
北側斜面には現在も福岡市営の霊園である平尾霊園が設けられていて、墓場にちょうどいいという思いが伝わっているようだ。
遊歩道は浄水場のそばから始まる。ここには展望塔も建てられていて、登ると見晴らしがよく福岡空港へ発着する航空機が良く見える。時には飛行機写真撮影の人がいたりもする。
遊歩道は霊園の上端を抜けてマテバシイの林に入る。マテバシイはあくが少なく食用に適するようで食用を目的として植えられたのではないかという話も残っている。散策路には近年作られたとみられる地蔵もある。
頂上部のテレビ塔を経て西側の展望塔に至る。登るとクスノキ林の上に出てここも眺めがいい。野鳥は多いともいえないがフクロウが出没することもあり、また日暮れにはカラスが集まって塒としている。渡りの時期には思わぬ鳥がここを利用しているようで最近ではエゾビタキを目撃した。サンコウチョウが出ることもあるらしい。
このあと遊歩道は山道のような小道を下って中学校の裏の道に降りてくる。

頂上部にあるテレビ塔はアナログテレビの放送に使われていたがデジタルテレビ時代になりこれを機に殆どの局が福岡タワーへ移動して今はFM1局だけが残っているという。便利なところにある小山なので古くから現代に至るまで色々と利用されてきたが移り変わりが激しいようだ。
古代には博多湾の入江は今よりずっと深く南に延びていたとされておりここらは海にも近かったようだ。恐らく丹念に探せば縄文時代の痕跡が現れるとも思われるがこれまではそのような発見はない。また戦国時代の築城にも便利そうな位置にあるがその記録や痕跡も見出されてはいない。何故なのか、まだまだ鴻巣山には謎がありそうな気がしている。

写真は順に 

1.鴻巣山の位置・地形図 2.地図 3.高宮八幡宮 4.高宮浄水場 5.穴観音内部 6.平尾霊園 7.展望塔からの眺め 8.マテバシイの林を縫う散策路 9.散策路の地蔵 10.エゾビタキ 11.麓から見たテレビ塔

           

 

 


■久しぶりに県外へ撮影に出ました  川村由幸


新型コロナウイルス感染拡大で緊急事態宣言が出た4/7以降、仕事以外では県外への移動は自粛していました。3/11に茨城県古河市の古河公方公園に撮影に出かけたのが最後でした。
Go To キャンペーンでwithコロナが浸透しつつあるように思え、そろそろ気持ちの切り替えが必要かなと考え始めています。
そんな思いから、隣県茨城に撮影にでました。でかけたのは、時代劇の撮影でもなじみのある常総市の「坂野家住宅」です。
   
上の画像の薬医門と母屋が重要文化財に指定されています。
おぼろげな記憶ですが、前回の訪問時より門も母屋も茅葺屋根の痛みが進行しているようで、そろそろ修繕の時期に差し掛かっているようです。
   
平日の10時ごろに訪問したのですが、見学者は私一人のみ。見学・撮影が終了しても他の見学者は来場しませんでした。
Go Toで観光地は賑わっても、地味な文化財には目が向かないのでしょうか。確かに文化財は経済回復に貢献しづらいだけでなく逆に維持管理で金食い虫となり、足を引っ張る存在なのかもしれません。
(もちろん、観光の目玉となり経済効果の大きい文化財も多く存在していることは承知しております。)
痛んできた茅葺屋根も簡単には修繕してもらえないのかなと少し哀しい気持ちになりました。
   
入口には手の消毒液も用意されており、他に見学者もいないため、三密もなし安心して撮影ができた久しぶりの県外取材でした。
今のところGo Toが原因の感染拡大も認められておらず、このままの感染状況が続けば、他県・他地域への移動に
障害はなくなりそうです。注意しつつ、ソロっと元の生活に戻して行きましょう。

 


■ 看板考 No.92 「お多福産業株式会社」 柚原君子

 

 


所在地:埼玉県鴻巣市吹上宿内にて

崩れた家の脇にあった錆びた看板なので、相当古いかとドキドキしましたが、それほど古くもなく今から60年前の昭和49年創業、徳島県に本社を置く会社でした。
「お多福産業株式会社」は医療用具の認可を受けている靴やサンダルの会社で、現在は通販にも多くの品物がでていて商売が盛んに行われています。

看板の錆び具合は魅力的ですが取り立てて深く追求する事柄もないので、商標になっている「お多福」さんについて少し掘り下げてみたいと思います。

「お多福」さんは、目が小さく細く、鼻が低く、頬がふっくらとして下ぶくれ……現代的には決して美人の類に入らない女性像ですが、福々しく、人に幸せをもたらすような好意的な意味合いで使われるお多福さんです。

他方、よく似た顔に「おかめ」さんがあります。こちらはどちらかというと容姿の点で女性蔑視に使われることも多いようですが、夫を支えてなおかつ夫の職の名誉を守るために自害までした女性で、京都の千本釈迦堂 大報恩寺(せんぼんしゃかどう だいほうおんじ)に祀られています。

時代に先に登場するのは「おかめ」さんです。
鎌倉時代のこと。京都の名大工である長井飛騨守高次に千本釈迦堂の建設が依頼されます。彼は支柱四本のうちの1本を間違えて短く切ってしまうという失敗をします。他に大きな木で代わりになるものは無く、塞ぐ夫に妻の阿亀は、その短くなった柱を利用しながら枡組という技法を提案します。夫は阿亀の助言で窮地を抜けて千本釈迦堂は完成します。
しかし、阿亀は夫の大事な仕事に妻が出しゃばったことが後に知れたら、夫の名誉が傷つくと棟上式前日に自害をしてしまいます。
夫のために尽くしたのに自害をしてしまうとは、今の時代では想像できないお話ですが、当時の男社会の有り様をみれば想像できないこともありません。

棟梁である夫の高次は、本堂の上棟式に妻の冥福と工事の無事を祈って、また永久にこの本堂が守られる事を願い、亡き阿亀に因んだお面を扇御幣(おうぎごへい)に付けて飾ったそうです。その後の幾たびかの大火でも大報恩寺は焼けなかったことから、頑丈な建物、繁栄という意味で現在でも上棟式でおかめ御幣が飾られるところもあるそうです。

「お多福」さんが登場するのは江戸時代になってからです。
矢張り舞台は京都ですが、貧しい家に育っていたお福は偶然にすれ違った呉服屋を営んでいた裕福な福助(頭の大きな小男)に声を掛けられます。いわゆるナンパされてお福は裕福に暮らす身分になります。多くの福を拾ったということで「お多福」と呼ばれ、それにあやかって文化年間には福助とお多福の面を付けた門付けが家々をまわるようになり、やがて人形としても売られたり、商売繁盛として店舗の窓口に福助・お多福のセットで置かれたりするようになります。

阿亀もお多福も下ぶくれの目の細い頬の出ている顔が共通していたことから、時代を経て混同されることになります。現在でも巷で発売されている「おかめ納豆」や「おたふくソース」などはどちらも同じような顔です。

おかめやおたふくがどうして、ある意味女性蔑視の言葉になったかの経緯はよくわかりませんが、ちょっと私なりの想像を。
人は尖った顔よりも丸顔を好むと思います。丸い物を気に入るのは、ほ乳類がおっぱいを探して生き延びるための、脳に刻まれた太古からの記憶によるもので、現在でもアンパンマンが幼児に根強い人気があるのは、おっぱいの形をしているからといわれています。

平安時代、ふくよかで髪が長く艶々している女性は持てたと源氏物語に出てきますが、たくさん食べることができてお太りになり、髪も手入れ良く長く留め置ける(切って売って生活の足しにする必要もなく)その暮らし向きに、平安男性陣が羨望を覚えたと考えることもできます。
そして多少、顔のパーツがバラバラでも、とりあえず、丸形ふくよかで安心ができるし、良い生活もできそう……だからおブスでもがまんをしよう、と。

時は移り、栄養が行き届いている豊かな長い黒髪や肥満をよしとする価値観は廃れて行き、頬はすっきり、鼻高く、目はパッチリの西洋文化に親しむようになった日本人は、そのまるで正反対であるオカメ顔を女性蔑視に向けていったような気がします。

ちなみに私はオカメ寄りです(笑)。昔に生まれていれば私もお福になれたやもしれずと思いつつ、今月の看板考を締めます。<(_ _)>

 

 


■ おばちゃんカメラマンが行く  JG事務局


★今月のニャンコ 

僕がモデルです。酒屋の三吉。

富山県南砺市井波

   



■■■■■■■■■■■■■■■■■

Japan Geographic Web Magazine

https://japan-geographic.tv/

Editor Yukinobu Takiyama

info at japan-geographic.tv (atを@に入れ替えてください)

■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中