JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Nov. 2020


■ 蟇股あちこちー7 中山辰夫

国宝・国重要文化財を中心に訪れた際に撮りました画像を並べています。対象とする物件はまだ僅かです。さらに、訪れた所での見落としも多いかと思いますが、ボチボチと進めます。一人での出歩きが日々狭まってくるのが残念です。
来月からは本蟇股に入ります。内容がガラーと変わります。併行して板蟇股も登場します。

先月で鎌倉時代を終りとしましたが、少し戻って、鎌倉時代後期~江戸時代までの板蟇股を年代順に並べます。(若干入り繰りがあります)

八幡神社本殿・拝殿 
兵庫県小野市浄谷町2094
    
小野市の浄土寺境内に鎮座しており、 いずれも国重文です。板蟇股は拝殿で見られます。本殿では透かし蟇股が見られます。

拝殿 国重文 建立:1333~92年 桁行七間 梁間三間 一重 寄棟造 本瓦葺 割拝殿形式
       
本殿の蟇股
   

室生寺
奈良県室生区室生73

「女人高野」と呼ばれ、神秘的な如意宝珠の信仰と石楠花で知られる古刹。一説には役小角(役行者)が一宇の堂を建て、弘法大師が再興したとも伝わります。鎧坂と呼ばれる自然石積みの石段を上った所に古代中世の伽藍が展開されており、5月には石楠木花が華やかです。
境内には平安時代初期の金堂、屋外に建つ日本最小の五重塔、鎌倉時代に興福寺から移築した弥勒堂、本堂、御影堂が点在します。
      
板蟇股は金堂、薬師堂、灌頂堂(内部)、他に見られます。

御影堂 国重文 建立:室町時代初期 桁行三間 梁間三間 一重 宝形造 厚板葺 各地にある大師堂の中でも最古の堂の一つです。
およそ300の石段道を上った奥の院にあります。
  
建立以来幾度かの改変・修理を経て1975年からの修理で当初の姿に復元されました。四方に板扉を設け、周囲を縁が廻っています。
建立年代は、柱頭の大斗肘木、板蟇股、頭貫鼻の殿様式から鎌倉時代末唐南北朝時代頃までとされます。

板蟇股
 

灌頂堂(本堂) 国宝 建立:1306年、桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺
 
組物が尾垂木を用いた二手先、中備は間斗束で和様を示しますが、頭貫の木鼻や 桟唐戸には大仏様が混じります。
 蟇股は内陣の中央にある厨子に見られます。厨子には如意輪観音像を安置します。
  

金堂 国宝 建立:平安前期 桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、正面一間通りすがる破風付葺きおろし、こけら葺
 
根本堂・薬師堂と呼ばれ、江戸時代に真言宗になって金堂と称される様になりました。四周に庇を廻し、その前に懸造の礼堂が付きます。

板蟇股が礼堂の東西に見られます 薬壺の線彫が施してあります。当初薬師堂と称されていたことの名残りでしょうか。
  
薬壺の板蟇股は内陣の天井面にも見られます(特別公開時のみ) 「撮影:民宿むろうさん」
 

蟇股は修円僧都廟に蟇股が見られます。室生寺は興福寺僧・賢ぎょうが創建、その弟子の修円が寺観を整備したと伝わります。
  

鶴林寺
兵庫県加古川市加古川町北在家424
     
伝承では、創建:589年 開基:聖徳太子が物部氏に迫害されていた高麗僧・恵便のために建立させたと伝わっています。
1112年に鳥羽僧正の勅願所に定められて「鶴林寺」と改めました。鎌倉・室町時代は、太子信仰の高まりもあって、寺坊だけで三十数ケ所を有する規模でした。
戦国時代は戦火から逃れましたが江戸時代に衰微、明治の神仏分離で塔頭は3カ所となりました。現在、主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有しています。

建ち並ぶ堂塔に板蟇股や蟇股を多く見ることが出来ます。ここでは板蟇股だけを並べます。

本堂 国宝 再建:1397年 桁行七間 梁間六間 一重 入母屋造 本瓦葺 屋根は宝形造 桧皮葺 
    
堂内の宮殿の棟札銘から建築年が分かりました。和様に禅宗様や大仏様が用いられた折衷様の傑作です。扉は桟唐戸 組物は肘木を前方に二段持ち出した「二手先」とし、組物間に置く中備は板蟇股と双斗を組み合せています。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(ともに国重文)を安置しています。

外部から見える板蟇股
   
外陣の大虹梁と板蟇股
   
渦文が1個省略されたものや一個多いものがあります
   

鶴林寺の仁王門(1624年に再建)や親薬師堂は江戸時代の所で紹介します。

法界寺
京都市伏見区日野西大道町19

京都市伏見区日野に所在します。日野は『方丈記』の著者・鴨長明が住んだ地、親鸞の生誕地です。
この地は、藤原北家の一族・日野家の領地でした。日野家は儒学や歌道をよくした家柄で、1051年に日野資業が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされています。日野家の氏寺で、日野薬師あるいは乳薬師の別名で知られます。阿弥陀堂と薬師堂が残っています。
        
親鸞は、1173年日野有範の子として法界寺で生まれたとされ、生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院が近くにあります。

薬師堂(本堂)国重文 建立:1456年 寄棟造 本瓦葺 1904年奈良県斑鳩町竜田にあった伝燈寺の本堂を移築したもの。
 

板蟇股
   
組物は出三斗、木鼻や藁座に禅宗様式の影響が見てとれます。中備は両側面の板扉上にのみ板蟇股を配し、それ以外は全て間斗束です。
両側面前端間の中備として用いられている板蟇股葉、上部に斗、実肘木を載せて軒桁を受けており、蓑束と板蟇股を合せた形に作られています。
蟇股の繰形や間斗束の斗絵様からは、南北朝以降の手法が確認出来るとされます。

法隆寺東院南門 国重文 再建:1459年 三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺 
 
東院南門は東院伽藍の南大門に当たります。この門は「不明門」といわれ、現在は閉ざされたままです。中門が礼堂に改造され、門としての機能を失った以後のことで、いつから閉ざされたかは明らかでないようです。(写真は大野木義夫氏撮影)

板蟇股は二重虹梁蟇股式の架橋部に用いており、斗載面の脇には先端の尖った巴状の彫り込みを施し、足元先端の斜めの木口には膨らみを持たせています。
   

八坂神社 
京都市東山区祇園町北側

八坂神社は疫病消除の神、御霊信仰の神として全国各地に勧請された祇園社「八坂神社」の総本社。
創祀時期は諸説あるようで、天智天皇五年(656)とも、876年に南都の僧円如が創建したともいわれます。創建当時から神仏習合の色彩が強く、初期には興福寺、10世紀後半からは延暦寺の支配下にありました。現在の本堂は1654(承応3)年に再興されたものです。10月国宝に指定されました。
      
蟇股は西楼門、本殿、に見られます。

西楼門 国重文 建立:1497 三間一戸楼門 切妻造 本瓦葺 四条通りに向かって石段の上に建ちます。正門は南にある楼門です。
写真0073
上下層の均整翼、古風を示す安定感と屋根の流れや軒の反りに動的な平安朝ともいうべき形態を示しているといわれます。
楼門には珍しい切妻造で三棟造の古式を伝えます。軒の反りが美しく、優美で安定感があります。南北の両妻は二重虹梁蟇股式の構造様式です。その壁面から屋根が外方に突出した度合いが大きい点が奈良平安の古様式です。この門を中心にして翼廊が左右に延び、更に前に折れている形は、平等院鳳凰堂や平泉の中尊寺に見られる様式と一致しています。

板蟇股
      
両妻にある板蟇股の改修前までの表情-おどけた顔-泪を流すもの・横目を使うもの・怒りを表わすもの・嫉妬深げなもの・など-が豊かに表現されていると評判でしたが、改修後は今の処そうした表情は感じられません。

最近国宝に指定された本殿は、1654年に再建されたもので、その正面・向拝にある蟇股には、白虎・龍・獅子が彫刻されています。
  
国宝指定は、本殿の両側面と背面に庇があるのが構造的な特徴。建物としての価値に加え、祇園祭を担う市井の人々よって維持されてきた深い文化的な意義も評価されたともいわれます。

竜正寺 
千葉県成田市滑川1196
   
838年滑河城主の小田将治が発願、慈覚大師円仁が開山。県指定文化財の観音堂は徳川綱吉の寄進です。

板蟇股 
仁王門 国重文 再建:1501~04年 八脚門 寄棟
  
挙花付の三斗二虹梁を載せて板蟇股を載せています。和様を基調に禅宗様を加えた建築です。 

法隆寺北室院表門 国重文 建立:室町後期 国重文 建立:室町後期 一間一戸 平唐門 桧皮葺 (瀧山幸伸氏撮影分含みます)
 
伝法堂の裏にある北室院の表門。前面に切石積基壇、石段三級を造り、左右は築地塀につながります。円柱の本柱上に女梁・男梁を、柱間中央に男は白を載せ、その上に板蟇股を据えています。表門の造立年代について全く文献がないですが、蟇股の形、面の大きさなどから、1436年頃とされます。
現在の表門は1602年の棟上げとなっています。

板蟇股
     
この門の構造は唐門として普通の形ですが、輪垂木や蟇股の形が美しく、現存する最古の平唐門で、最も優れたものとされます。

救王護国寺(東寺)9
東大門(不開門) 国重文 改修:1605年 三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺

現在の建物は1198年に文覚上人の大勧進で再建されたもの。1336年、東寺にいた足利尊氏を新田義貞が攻め、危機に瀕した尊氏がこの門を閉ざして難を逃れた故事から不開門と呼ばれるとか。1596年地震で損壊し、豊臣秀頼が1605年に大改修しました。
 

板蟇股
      
両妻の二重虹梁蟇股形式の架橋部に用いられています。

鶴林寺新薬師堂 建立:1678年頃
   
大坂の医師・茶人であった津田三碩が大願主となって堂宇、仏像を寄進。本堂の薬師如来が60年毎の開帳のため、毎日拝める薬師如来を奉納。

板蟇股が堂内外に多く用いられています。本来の構造材的な使われ方です。
     
堂内には巨大な薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将の15体が祀られています。その中の摩虎羅大将の像は、片目をつぶった、憎めない表情をしており、ウインクされてるようにも見えることで有名とか。

御香宮神社 
京都市伏見区御香宮門前町
創建年は不詳。初めは御諸神社と称しました。豊臣秀吉の伏見城築城の際に、鬼門除けの神として勧請「ふしみ守護神」とされました。
平安時代862年、境内から香りのよい水が湧き出る奇譚により、清和天皇から御香宮の名を賜りました。この名水は伏見七名水の一つで、1985年、名水百選に選ばれました。現在も生活水としても使われています。
  

大ぶりな表門、徳川頼宣から寄進された割拝殿、1605年に徳川家康が造営した本殿、小堀遠州ゆかりの石庭が続きます。
      
割拝殿も徳川頼房の寄進で、三つ葉葵・菊・五三桐の紋が輝く見事な彫刻で極彩色、本殿は徳川家康寄進で豪華絢爛、桃山文化を代表する建築物で国重文です。幕末の「鳥羽伏見の戦い」では官軍(薩摩)の本所でしたが戦火を免れ現在に至っています。

板蟇股は表門にみられます。
表門 国宝 元伏見城の大手門 三間一戸 切妻造 単層門 本瓦葺 1622年に水戸の徳川頼房が寄進して移築したもの。
  
大手筋通りに面して立ち、幅約9m、高さ8m弱の大振りな薬医門です。

妻飾りに板蟇股が用いられています。
    
この板蟇股には、板の面に円く穴をあけ中に彫刻を施す桃山時代に生まれた方法が取られています。その後あまり発達しなかったが、時代蜀を残す貴重なものとされています。

表門の正面に大ぶりな「二十孝」を彫った蟇股が並びます。
    

割拝殿(京都府指定文化財)の正面と周囲三面に豪華な蟇股が見られます。
    

本殿(国重文)には極彩色の蟇股が、堂宇の周囲を取り巻いています。
      

板蟇股の変遷
  

ここで板蟇股は終わりとします。これまで長々と並べてきましたが、板蟇股は時代とともに変遷を繰り返してきました。
板蟇股の形の変遷は、次の透かし蟇股の内部彫刻がないものとして輪郭を辿ってゆくと、それによっても板蟇股の変遷も分かるようです。
透かし蟇股の所でも記載します。

 

 


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