JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Nov. 2020

Back number

 


■■■■■ Topics by Reporters


■ 天気で変わる中尊寺の紅葉の情景 瀧山幸伸

全国各地の紅葉をリスト化しているが、北国の紅葉は美しい。山全体が落葉樹なので錦秋の紅葉が見られる。

一方、寺社境内の紅葉名所はそれほど多くなく、北海道ではあまり記憶にない。青森県では黒石市の中野、岩手県では平泉町の毛越寺達谷窟中尊寺、宮城県では松島町の瑞巌寺円通院、山形県では山形市の山寺(立石寺)、福島県ではいわき市の白水阿弥陀堂、猪苗代町の土津神社、柳津町の虚空蔵堂、会津坂下町の立木観音、会津若松市の八葉寺延命寺などが挙げられる。

中尊寺には昨年と今年、ほぼ同じ時期の11月上旬に訪問した。昨年はどんよりとした曇り空で、今にも雨が降ってきそうな天気だった。実際、弁天堂裏の池では撮影中に激しい雨に襲われたが、雨の音で大勢の観光客の騒音が消され、感動的な情景を記録することができた。紅葉は曇りのほうがやわらかい光景となる。

   

今年は、天気予報では終日の雨だったが、現地に行ってみると風が強いながらも快晴だった。日本海側の雨雲の一部が山を越えて降りてくるせいで、上空は不安定で、時々天気雨が降ってくるが、基本的に晴れが続いた。晴れの日の紅葉は逆光で撮影すると美しい。最近の動画カメラはダイナミックレンジが広く、黒つぶれや白飛びが少ないので、逆光撮影にはうってつけだ。今年はコロナの影響で観光客が極端に少なく、騒音の心配はなかった。

   

いずれも8Kの動画に編集しているが、曇りの情景も晴れの情景も美しく、甲乙つけがたい。やはりその理由は中尊寺境内という文化財の宝庫が主役となっているからだ。全く同じ紅葉木でも背景が境内ではなくテーマパークや都会の光景だったら感動はほぼ皆無だろう。

 


■ 霧の都 大野木康夫

京都府の亀岡盆地は、盆地の中央に保津川が流れており、秋から春にかけて「丹波霧」と呼ばれる濃い霧に覆われる日が多くなります。
私の家内は京都の下京の生まれですが、大学を出てしばらくの間、亀岡市内の高校に勤めていたことがあり、秋にはしばしばこの霧に逢って驚いたそうです。当時の山陰線(ディーゼル機関車が引っ張る客車)に乗って保津峡あたりから霧で真っ白になり、駅から高校に行く時に保津川を渡る時には前が見えなくなるような霧になっていることも多かったそうですが、生徒は慣れていて、無反応だったようです。
ロンドンが「霧の都」(実際は大気汚染によるスモッグだったという人もいますが…)と呼ばれていたのにあやかり、最近では亀岡市も「霧の都」を自称するようになりました。
近年、盆地の南に位置する竜ヶ尾山の亀岡カントリークラブ付近に「かめおか霧のテラス」を整備し、霧を上から見ることができるようにしています。
撮影に行った日は京都市内でも霧が出ているほどの日で、盆地の東側を流れる保津川付近で発生した霧が徐々に西の方に広がっていく様子を見ることができました。
      


山を下りて、盆地で霧がどう見えるのかを見てみたかったので、市内の神社を回りました。

鍬山神社

霧のテラスがある山の東麓に位置しています。
霧にかすむ中、紅葉が最盛期を迎えていました。
   


保津八幡宮

保津川付近は濃い霧に覆われており、保津大橋やサンガスタジアムも霧にかすんでいました。
八幡宮は保津川の左岸に位置しており、霧は薄く立ち込めている程度でした。
     


愛宕神社

東の山裾に位置しており、川霧はありませんでしたが、山肌に沿って霧が立ち込めていました。
   


出雲大神宮

盆地の北に位置しているのと、時間が遅くなっていたこともあり、霧は晴れており、山にうっすら残っている程度でした。
   

梅田神社

さらに北に位置しており、霧の影響はありませんでした。
  


霧の季節、亀岡では晴れた日の午前中は霧に覆われることが多いので、洗濯物を干すのが大変だそうです。

 

 


■ 津山城西地区のレトロ建築めぐり 野崎順次


安国寺の庭園を鑑賞してから、JR津山駅に戻る途中、城の西側で登録有形文化財のレトロ建築をたどってみた。そうして理解できたのは、津山は近代の名建築がよく残っていて、格調の高い文化都市だということ。同様の印象は弘前でも感じた。

津山はお医者さんの多い町だと聞いたことがある。「津山で石を投げると医者にあたる」そうだ。その津山で中島病院は最古の病院である。明治11年(1878)、市内の高野本郷で初代中島大次郎によって開院された。大正3年(1914)には元魚町で大次郎の長男中島琢之が市立中島病院を開業し、大正6年(1917)に現在地に移転した。琢之はその後、県医師会会長、衆議院議員、市議会議長、市長を歴任した。

現在、その本館は津山市に寄贈され、喫茶店などに再利用されている。

城西浪漫館(旧中島病院本館) 大正/1917/2009改修 (田町 122)
東正面にポーチを付け、その屋根をドーム状につくる。壁は小豆色のモルタル掻き落としで、コリント式の柱や窓飾り等を人造石とする。建物の横に中島琢之先生之像がある。
       

少し南に下ると東西に出雲街道がある。少し、西に行くと、あまり見栄えのしない橋があるが、昔はモダンの先端であった翁橋である。

翁橋 大正/1926 (西今町)
鉄筋コンクリート造、橋長9.9m、幅員9.7m
旧出雲街道沿い、藺田川に架かる橋長9.9メートルの小規模な鉄筋コンクリート造T型桁橋。四隅に位置する大型の欄干親柱に,当時日本に盛行したアールデコ的デザインが施されている。
       


翁橋の背後、出雲街道沿いの大きな洋館がある。もとは銀行だったが、現在は作州地方の民芸品や郷土玩具が展示されている。

作州民芸館(旧土居銀行津山支店)明治/1909 (西今町18)
明治30年設立の土居銀行の社屋として建てられた。ルネッサンス様式を基本としながら,多様なモチーフを用いる。木造であるが西洋古典様式風のオーダーが付く石造風の外観である。その特異な外観からひときわ目を引く存在である。
     


出雲街道をしばらく東に進むと、南北の幹線道路にでる。奴通り(県道68号線)である。
それを南へ、知新館の表示に従い左に折れる。

現在は非公開であるが、元内閣総理大臣平沼騏一郎(1867-1952)の生家を再現した住宅である。つい先刻、安国寺でお墓を見てきたばかりだ。平沼騏一郎は検察の総帥として、大逆事件、帝人事件などで暗躍し、念願の首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約に遭遇して「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して退陣した。戦時中は和平派の重臣として活躍したときもあるが、降伏反対の立場を主張したり曖昧な態度をとり、昭和天皇に「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評された。

知新館主屋・表門・塀・土蔵 昭和前/1937 (南新座26)
平沼騏一郎に郷土や法曹の人々等が,古希の祝いとしてその生家を再現して贈ったもので,主屋は,棟を段違いにつくり座敷,台所,玄関を備えた武家住宅らしいつくりになる。
     


現役の旅館である。乃木希典が泊まった乃木の間という特上和室があるという。

あけぼの旅館 明治/1868-1911 (戸川町31-1、32-1)
津山市内で現存する旅館の中で最も古い旅館建築とされる。表側は道路拡幅のため1階に改造されているが,奥の2階建部分は水廻りを除いて書院造風の内部造作をよく残す。
     


現役の写真館である。大正末期から昭和初期の津山の風景や建物などの貴重な古写真が約10,000点所蔵されている。また、応接間「山下茶館」でもてなすグリーンカレーが美味しいと評判だそうだ。

江見写真館 昭和前/1929 (山下 18-13)
津山における草分け的存在の写真館。正面を西に向け,玄関の右手に半円形の応接室を張り出し,玄関上部には背の高い縦長の2連アーチ窓を開ける。北面には屋根面に達する高窓を設けるなど写真館建築の特徴をよく伝える。設計は地元の原田(熊二郎)工務所。
     

参考資料
文化遺産オンライン


■今そこにある危機 (その2) 酒井英樹

 しばらく那覇市に滞在していたので、時間を見つけて首里城(グスク)を訪れた。
 1年前の令和元年(2019)10月に発生した火災で正殿他中心部分を全焼した後の状況を見るのが目的。

 現在、正殿は6年後の令和8年(2026)の再建を目指して整備が始まっている。その他の焼失した建造物も正殿完成後順次復元されるという。
 しかし、火災の原因は1年たった現在でも判明しておらず、原因不明と結論付けられている。
 だが、首里城火災と同じような火災は予見できた・・いや、予見していました。

  再建準備を始めた首里城 正殿跡地
     令和2年(2020)9月撮影
         

 首里城の火災の半年前に発生したフランスのノートルダム寺院火災を重く見た国は、5月に国宝・重要文化財建造物所有者(管理者)に対し、説明会(私もオブザーバーとして参加)を行い緊急アンケートを実施し、今後3箇年かけて重要文化財建造物(世界遺産構成建造物を含む)の活用とともに対策を行う予定でした。
 そのアンケート結果が、8月に出ています。

 因みに平成年間(1989-2019)の30年間に火災で焼失し指定解除された国指定重要文化財建造物は5件である。しかし、指定解除にまで至らなかったが火災にあった建造物は41件に及ぶ。

平成6年(1994)8月焼失(原因不明) 全焼のため指定解除
 大恩寺念仏堂(重要文化財 愛知豊川市 平成5年撮影)
 


平成24年(2012)12月焼失(火の不始末) 全焼のため指定解除
 金山寺本堂(重要文化財 岡山県岡山市 平成17年撮影)
 

 火災の原因には、不審火(放火)や遊興用花火(ロケット花火)に起因する火災など不届き者による火災が15件存在する。
 現在、重文建造物の43%以上が不特定多数の者が常時接近できる。

平成2年(1990)7月焼損(茅葺屋根、柱等損傷) 修復
 旧太田家住宅(重要文化財 神奈川県川崎市 日本民家園 平成24年撮影)
  原因:若者によるロケット花火が屋根に直撃して炎上
 


平成21年(2009)3月焼損(格子戸など損傷)
石上神宮摂社出雲建雄神社(国宝 奈良県天理市 平成22年撮影)
  原因:放火
 


平成28年(2016)1月(障子損傷) 
瑞聖寺大雄宝殿(重要文化財 東京都 平成26年撮影)
  原因:放火
 

 アンケートの結果、国宝(非国宝指定の世界遺産構成建造物を含む)消火施設はほとんどの建造物で設置されています。しかし、設備自体が30年以上前のもので稼働に支障のある不具合が多発しています。
 首里城は消火施設はそろっていました。それでも残念ながら焼失を免れませんでした。
 夜間の管理体制は脆弱なことも火災を大きくした一因です。

 木造建築(重文建造物の92.8%は木造もしくはノートルダム寺院のように一部木造)は火に弱い、火災要因を近づけないことが一番。しかし重要文化財の建造物内で火の使用するものは全体の30%以上に及ぶ。
 大半は現住民家(囲炉裏など)や宗教施設(蝋燭、線香など)でやむを得ないもの。

 しかし、避けられるものもある。
 重文建造物の側にある初期消火用のバケツの廻りの吸い殻をよく見かける・・。たまに残り火が・・そのようなものさえ存在している。
 また、周囲に緩衝帯を作るのが望ましいとある、その一方で土地の有効利用からか常時車両(ガソリンタンク)を駐車しているケースも多く見られ、ここ1月数件遭遇・・これも危険性がある。

重文建造物のすぐ側に駐車場を隣接しているケース
Y神社絵馬堂(重文答申 2020年9月撮影)
 

O村役場旧庁舎(重文 2020年9月撮影)
 

 一度、亡くしてしまうと二度と戻らない・・あるいは同じように再建しても元の価値を失うであろうことを忘れてはならないと思いながら・・首里城を後にした。


 


■ 蟇股あちこちー7 中山辰夫

国宝・国重要文化財を中心に訪れた際に撮りました画像を並べています。対象とする物件はまだ僅かです。さらに、訪れた所での見落としも多いかと思いますが、ボチボチと進めます。一人での出歩きが日々狭まってくるのが残念です。
来月からは本蟇股に入ります。内容がガラーと変わります。併行して板蟇股も登場します。

先月で鎌倉時代を終りとしましたが、少し戻って、鎌倉時代後期~江戸時代までの板蟇股を年代順に並べます。(若干入り繰りがあります)

八幡神社本殿・拝殿 
兵庫県小野市浄谷町2094
    
小野市の浄土寺境内に鎮座しており、 いずれも国重文です。板蟇股は拝殿で見られます。本殿では透かし蟇股が見られます。

拝殿 国重文 建立:1333~92年 桁行七間 梁間三間 一重 寄棟造 本瓦葺 割拝殿形式
       
本殿の蟇股
   

室生寺
奈良県室生区室生73

「女人高野」と呼ばれ、神秘的な如意宝珠の信仰と石楠花で知られる古刹。一説には役小角(役行者)が一宇の堂を建て、弘法大師が再興したとも伝わります。鎧坂と呼ばれる自然石積みの石段を上った所に古代中世の伽藍が展開されており、5月には石楠木花が華やかです。
境内には平安時代初期の金堂、屋外に建つ日本最小の五重塔、鎌倉時代に興福寺から移築した弥勒堂、本堂、御影堂が点在します。
      
板蟇股は金堂、薬師堂、灌頂堂(内部)、他に見られます。

御影堂 国重文 建立:室町時代初期 桁行三間 梁間三間 一重 宝形造 厚板葺 各地にある大師堂の中でも最古の堂の一つです。
およそ300の石段道を上った奥の院にあります。
  
建立以来幾度かの改変・修理を経て1975年からの修理で当初の姿に復元されました。四方に板扉を設け、周囲を縁が廻っています。
建立年代は、柱頭の大斗肘木、板蟇股、頭貫鼻の殿様式から鎌倉時代末唐南北朝時代頃までとされます。

板蟇股
 

灌頂堂(本堂) 国宝 建立:1306年、桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺
 
組物が尾垂木を用いた二手先、中備は間斗束で和様を示しますが、頭貫の木鼻や 桟唐戸には大仏様が混じります。
 蟇股は内陣の中央にある厨子に見られます。厨子には如意輪観音像を安置します。
  

金堂 国宝 建立:平安前期 桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、正面一間通りすがる破風付葺きおろし、こけら葺
 
根本堂・薬師堂と呼ばれ、江戸時代に真言宗になって金堂と称される様になりました。四周に庇を廻し、その前に懸造の礼堂が付きます。

板蟇股が礼堂の東西に見られます 薬壺の線彫が施してあります。当初薬師堂と称されていたことの名残りでしょうか。
  
薬壺の板蟇股は内陣の天井面にも見られます(特別公開時のみ) 「撮影:民宿むろうさん」
 

蟇股は修円僧都廟に蟇股が見られます。室生寺は興福寺僧・賢ぎょうが創建、その弟子の修円が寺観を整備したと伝わります。
  

鶴林寺
兵庫県加古川市加古川町北在家424
     
伝承では、創建:589年 開基:聖徳太子が物部氏に迫害されていた高麗僧・恵便のために建立させたと伝わっています。
1112年に鳥羽僧正の勅願所に定められて「鶴林寺」と改めました。鎌倉・室町時代は、太子信仰の高まりもあって、寺坊だけで三十数ケ所を有する規模でした。
戦国時代は戦火から逃れましたが江戸時代に衰微、明治の神仏分離で塔頭は3カ所となりました。現在、主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有しています。

建ち並ぶ堂塔に板蟇股や蟇股を多く見ることが出来ます。ここでは板蟇股だけを並べます。

本堂 国宝 再建:1397年 桁行七間 梁間六間 一重 入母屋造 本瓦葺 屋根は宝形造 桧皮葺 
    
堂内の宮殿の棟札銘から建築年が分かりました。和様に禅宗様や大仏様が用いられた折衷様の傑作です。扉は桟唐戸 組物は肘木を前方に二段持ち出した「二手先」とし、組物間に置く中備は板蟇股と双斗を組み合せています。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(ともに国重文)を安置しています。

外部から見える板蟇股
   
外陣の大虹梁と板蟇股
   
渦文が1個省略されたものや一個多いものがあります
   

鶴林寺の仁王門(1624年に再建)や親薬師堂は江戸時代の所で紹介します。

法界寺
京都市伏見区日野西大道町19

京都市伏見区日野に所在します。日野は『方丈記』の著者・鴨長明が住んだ地、親鸞の生誕地です。
この地は、藤原北家の一族・日野家の領地でした。日野家は儒学や歌道をよくした家柄で、1051年に日野資業が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされています。日野家の氏寺で、日野薬師あるいは乳薬師の別名で知られます。阿弥陀堂と薬師堂が残っています。
        
親鸞は、1173年日野有範の子として法界寺で生まれたとされ、生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院が近くにあります。

薬師堂(本堂)国重文 建立:1456年 寄棟造 本瓦葺 1904年奈良県斑鳩町竜田にあった伝燈寺の本堂を移築したもの。
 

板蟇股
   
組物は出三斗、木鼻や藁座に禅宗様式の影響が見てとれます。中備は両側面の板扉上にのみ板蟇股を配し、それ以外は全て間斗束です。
両側面前端間の中備として用いられている板蟇股葉、上部に斗、実肘木を載せて軒桁を受けており、蓑束と板蟇股を合せた形に作られています。
蟇股の繰形や間斗束の斗絵様からは、南北朝以降の手法が確認出来るとされます。

法隆寺東院南門 国重文 再建:1459年 三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺 
 
東院南門は東院伽藍の南大門に当たります。この門は「不明門」といわれ、現在は閉ざされたままです。中門が礼堂に改造され、門としての機能を失った以後のことで、いつから閉ざされたかは明らかでないようです。(写真は大野木義夫氏撮影)

板蟇股は二重虹梁蟇股式の架橋部に用いており、斗載面の脇には先端の尖った巴状の彫り込みを施し、足元先端の斜めの木口には膨らみを持たせています。
   

八坂神社 
京都市東山区祇園町北側

八坂神社は疫病消除の神、御霊信仰の神として全国各地に勧請された祇園社「八坂神社」の総本社。
創祀時期は諸説あるようで、天智天皇五年(656)とも、876年に南都の僧円如が創建したともいわれます。創建当時から神仏習合の色彩が強く、初期には興福寺、10世紀後半からは延暦寺の支配下にありました。現在の本堂は1654(承応3)年に再興されたものです。10月国宝に指定されました。
      
蟇股は西楼門、本殿、に見られます。

西楼門 国重文 建立:1497 三間一戸楼門 切妻造 本瓦葺 四条通りに向かって石段の上に建ちます。正門は南にある楼門です。
写真0073
上下層の均整翼、古風を示す安定感と屋根の流れや軒の反りに動的な平安朝ともいうべき形態を示しているといわれます。
楼門には珍しい切妻造で三棟造の古式を伝えます。軒の反りが美しく、優美で安定感があります。南北の両妻は二重虹梁蟇股式の構造様式です。その壁面から屋根が外方に突出した度合いが大きい点が奈良平安の古様式です。この門を中心にして翼廊が左右に延び、更に前に折れている形は、平等院鳳凰堂や平泉の中尊寺に見られる様式と一致しています。

板蟇股
      
両妻にある板蟇股の改修前までの表情-おどけた顔-泪を流すもの・横目を使うもの・怒りを表わすもの・嫉妬深げなもの・など-が豊かに表現されていると評判でしたが、改修後は今の処そうした表情は感じられません。

最近国宝に指定された本殿は、1654年に再建されたもので、その正面・向拝にある蟇股には、白虎・龍・獅子が彫刻されています。
  
国宝指定は、本殿の両側面と背面に庇があるのが構造的な特徴。建物としての価値に加え、祇園祭を担う市井の人々よって維持されてきた深い文化的な意義も評価されたともいわれます。

竜正寺 
千葉県成田市滑川1196
   
838年滑河城主の小田将治が発願、慈覚大師円仁が開山。県指定文化財の観音堂は徳川綱吉の寄進です。

板蟇股 
仁王門 国重文 再建:1501~04年 八脚門 寄棟
  
挙花付の三斗二虹梁を載せて板蟇股を載せています。和様を基調に禅宗様を加えた建築です。 

法隆寺北室院表門 国重文 建立:室町後期 国重文 建立:室町後期 一間一戸 平唐門 桧皮葺 (瀧山幸伸氏撮影分含みます)
 
伝法堂の裏にある北室院の表門。前面に切石積基壇、石段三級を造り、左右は築地塀につながります。円柱の本柱上に女梁・男梁を、柱間中央に男は白を載せ、その上に板蟇股を据えています。表門の造立年代について全く文献がないですが、蟇股の形、面の大きさなどから、1436年頃とされます。
現在の表門は1602年の棟上げとなっています。

板蟇股
     
この門の構造は唐門として普通の形ですが、輪垂木や蟇股の形が美しく、現存する最古の平唐門で、最も優れたものとされます。

救王護国寺(東寺)9
東大門(不開門) 国重文 改修:1605年 三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺

現在の建物は1198年に文覚上人の大勧進で再建されたもの。1336年、東寺にいた足利尊氏を新田義貞が攻め、危機に瀕した尊氏がこの門を閉ざして難を逃れた故事から不開門と呼ばれるとか。1596年地震で損壊し、豊臣秀頼が1605年に大改修しました。
 

板蟇股
      
両妻の二重虹梁蟇股形式の架橋部に用いられています。

鶴林寺新薬師堂 建立:1678年頃
   
大坂の医師・茶人であった津田三碩が大願主となって堂宇、仏像を寄進。本堂の薬師如来が60年毎の開帳のため、毎日拝める薬師如来を奉納。

板蟇股が堂内外に多く用いられています。本来の構造材的な使われ方です。
     
堂内には巨大な薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将の15体が祀られています。その中の摩虎羅大将の像は、片目をつぶった、憎めない表情をしており、ウインクされてるようにも見えることで有名とか。

御香宮神社 
京都市伏見区御香宮門前町
創建年は不詳。初めは御諸神社と称しました。豊臣秀吉の伏見城築城の際に、鬼門除けの神として勧請「ふしみ守護神」とされました。
平安時代862年、境内から香りのよい水が湧き出る奇譚により、清和天皇から御香宮の名を賜りました。この名水は伏見七名水の一つで、1985年、名水百選に選ばれました。現在も生活水としても使われています。
  

大ぶりな表門、徳川頼宣から寄進された割拝殿、1605年に徳川家康が造営した本殿、小堀遠州ゆかりの石庭が続きます。
      
割拝殿も徳川頼房の寄進で、三つ葉葵・菊・五三桐の紋が輝く見事な彫刻で極彩色、本殿は徳川家康寄進で豪華絢爛、桃山文化を代表する建築物で国重文です。幕末の「鳥羽伏見の戦い」では官軍(薩摩)の本所でしたが戦火を免れ現在に至っています。

板蟇股は表門にみられます。
表門 国宝 元伏見城の大手門 三間一戸 切妻造 単層門 本瓦葺 1622年に水戸の徳川頼房が寄進して移築したもの。
  
大手筋通りに面して立ち、幅約9m、高さ8m弱の大振りな薬医門です。

妻飾りに板蟇股が用いられています。
    
この板蟇股には、板の面に円く穴をあけ中に彫刻を施す桃山時代に生まれた方法が取られています。その後あまり発達しなかったが、時代蜀を残す貴重なものとされています。

表門の正面に大ぶりな「二十孝」を彫った蟇股が並びます。
    

割拝殿(京都府指定文化財)の正面と周囲三面に豪華な蟇股が見られます。
    

本殿(国重文)には極彩色の蟇股が、堂宇の周囲を取り巻いています。
      

板蟇股の変遷
  

ここで板蟇股は終わりとします。これまで長々と並べてきましたが、板蟇股は時代とともに変遷を繰り返してきました。
板蟇股の形の変遷は、次の透かし蟇股の内部彫刻がないものとして輪郭を辿ってゆくと、それによっても板蟇股の変遷も分かるようです。
透かし蟇股の所でも記載します。

 

 


■ 観世音寺のコスモス   田中康平

福岡近郊のコスモスの名所の一つに太宰府・観世音寺周辺というのが挙げられている。70万本というから、結構な景観のはずというので10月下旬(10/27)に訪れてみた。
見頃は10月上旬から下旬とネットにあったがほぼその通りで盛りはやや過ぎていたもののまだ楽しめる。
観世音寺の周辺が一面のコスモス畑となっていて景観がちょっといい。
ここの梵鐘は現存するものでは日本最古とされて誰でも見れていたのだが、残念ながら現在は九州国立博物館で展示されているという、張り紙があった。除夜の鐘までには戻るのだろうか。
以前来た時は金堂が修復中だったが現在は終了している。
落ち着いた雰囲気があり、カササギやモズの姿もあって、秋の日を過ごすにはいい場所のように思えた。


写真は順に1-8:コスモス、9:梵鐘、10、11:本堂、金堂、境内の野鳥 12:シジュウカラ、13,14:カササギ、15:モズ、16:キジバト 
                

 

 


■迦陵頻伽  川村由幸

成田市の龍正院に撮影に出かけてきました。ここは仁王門が重要文化財なのですが
それ以外に天女(いままで天女と思っていた)の天井絵と欄間彫刻があり、私はこれが大好きです。
  


作者は「狩野柳元」と署名されていますが検索してもヒットする情報はありませんでした。名もない狩野派の絵師ということでしょう。
私は、これをいままで天女の図とばかり思い続けておりました。
調べてみると「迦陵頻伽」カリョウビンガと読むようです。上半身が人で下半身が鳥という極楽浄土に住む
声の美しい想像上の生物とのこと。
そう言われて上の画像を見直せば、下半身は人でなく鳥なんだと納得する表現になっています。よく見ると翼もあります。
天女は翼ではなく羽衣で飛ぶのでしたよね~。


    

この天井絵以外に上の画像のような欄間彫刻があります。これも迦陵頻伽です。
彫刻の方は翼が大きく描かれており、天女と思うほうがおかしい構図です。鳥が協調されていますね。
でも観世音の額のある中央右側の迦陵頻伽には人の足が描かれているような気がします。勘違いですかね。
ともかく、好きな天井絵と欄間彫刻の正体がはっきりし、間違っていた認識が正しく訂正されたことを喜んでいます。


■ 看板考 No.93 「中山道案内板」 柚原君子

2011年3月に東日本大震災があり津波の映像が頭から離れず、0メートル地帯に住むことの怖さを実感。東京を離れることはできませんが、とにかく海抜の高い方に引っ越そうと決心。
2013年春、板橋区に引っ越し完了。町に慣れた頃、中山道の第一宿である板橋宿が近所にあることに気付きました。巨大なマンションの前には本陣跡碑。商店街になっている旧中山道は緩やかに曲がり、中宿の地名も残り江戸払いされる罪人の縁切り松も残っていて、江戸時代の匂いがした感じがしました。中山道をたどってみたいな、と思いました。
当初は同居の孫もまだ小さく手がかかり、時々にふらり、と行くぐらいでしたが、碓氷峠越えの辺りから本格的に計画を立て始めました。途中、息子の死やコロナなどで通算2年間ほどのロスがあり、始めてから7年が過ぎた今年の2020年秋には残すところ10宿までこぎ着けました。
宿歩きの計画はグーグル中山道マップや中山道歩きの先人のHPなどで時間を読んだりしますが、現地の駅を降りて歩き始めると頼りになるのはやはり「道案内道標」です。どちらに行くの!とキョロキョロ探すと店の軒先に看板のようにかけてある場合や、畑の端にこのあぜ道を行くと自前で書かれたものもありいろいろです。

■一番きれいな看板(道案内)
馬籠宿をぬけて落合宿の手前に一里塚と茶屋があり、そこは信濃の国と美濃の国の国境となりますが、程なく歩くとこの看板が見えてきて、ああ長野県から岐阜県に入ったのだと実感できます。絵柄は二種類ですが岐阜県内の中山道はすべてこの看板です。統一の色彩で安心します。
  


■ややこしい看板(道案内)
関ケ原宿……戦国時代の歴史も数々ある故でしょうか、中山道歩きと戦国時代史跡とが一緒の案内で中山道歩きのみの現旅人にはややこしく感じます。
 


■ホッとした看板(道案内)
和田宿から下諏訪宿の間には和田峠があります。登りも厳しいですが、下りも幾重にも曲がって行く「七曲がり」があります。膝がガクガクし始める最後の下りに「ここで終わり」と書いてあるのを見たときは、ありがたぁい~気持ちになりました。
 


■今時一番怖い看板
「熊出没」。今年は熊出没のニュースが多くビビリます。民家の庭にも出てきているようで、ドングリの実の不足ばかりでなく、人を恐れない第3世代の熊が成獣になっているそうで、中山道の少しの山道でも笛を吹き、ラジオをつけ、熊鈴を数個ぶら下げて歩きます。経験では体育の先生が持つようなホイッスルが高音で良く響く笛で、ピィピィ吹きぱなしで歩きます。
馬籠を抜けて落合宿に入り十曲峠にあたる長い石畳み道はけっこう薄暗く、怖いのでビィピィ吹いて下山していたら、元茶店のような古い家から、仙人のようなおじいさんが出てきて私たちを待ち受けました。「こんにちは♪」と私たち。「何の音かと思って出てきたら笛か。熊は出ない。中山道の路には出たことがない!」と断言。
この仙人さんはこの薄暗い元茶店をやっていた場所にもう20年くらいの間、一人で住んでいるそうで、昔はこの落合の石畳みは行列で、お茶や団子が売れに売れたそうです。自身も中山道が大好きで、かあちゃんはみっともないからやめてくれと言ったけど、ちょんまげを結って草鞋で中山道を9日間で踏破したとおっしゃっていました。ちょんまげではありませんでしたが髪は後ろで一本に結わき草履白足袋で水戸黄門のような服装に杖でした。
清潔感のある中山道大好き仙人さんに熊は出ない!の太鼓判を貰ってお別れ。ちょっと安心して続きの薄暗い石畳を下りました。

 


■ おばちゃんカメラマンが行く  JG事務局

 

★今月のニャンコ 岩手県平泉町 中尊寺本堂横

菊祭りの仕立て棒にスリスリ

  



■■■■■■■■■■■■■■■■■

Japan Geographic Web Magazine

https://japan-geographic.tv/

Editor Yukinobu Takiyama

info at japan-geographic.tv (atを@に入れ替えてください)

■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中