Monthly Web Magazine Dec. 2020
■ 蟇股あちこち—8 中山辰夫
前回まで原始蟇股~板蟇股の遺例を時代順に並べました。今回からは「透かし蟇股」を年代順に並べることにします。
組物と組物の中間におかれる中備(なかぞなえ)は、上からの荷重を下の架橋材に伝える部材です。その形状によりいくつかの種類があります。
これらは建築様式などで用い方に違いが出ると共に形状も変わってゆきます。
間斗束(かんとずか)撥束(ばちずか)蓑束(みのつか) 双斗(そうと ふたつと) 花肘木 人形割束 蟇股
双斗(そうと ふたつと) 花肘木
人形束 板蟇股 蟇股
これらは、構造材だったものが構造材と装飾材を兼ねたものとなりついには専ら装飾材というものに変わっていきました。
奈良時代以降は間斗束が用いられていました。平安時代後期になると、間斗束に加え蟇股が中備に用いられるようになりました。
この時期の蟇股は、板蟇股の内部を刳り取ってカエルの後ろ足を開いたような形をしたもので本蟇股又は刳抜(くりぬき)蟇股と呼ばれました。
平等院鳳凰堂 板蟇股の起点。
1053年に建立された平等院鳳凰堂の身舎の虹梁に用いられた板蟇股が、平安後期以降の板蟇股、蟇股の基本とされています。(3度目の登場です)
平安後期に、本格的に使われた最初の遺例は4件とされています。
醍醐寺薬師堂(1121年)・中尊寺金色堂(1124年・一乗寺三重塔(1171年)・宇治上神神社本殿南殿・北殿(平安時代後期)の建築です。
醍醐寺薬師堂
京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
醍醐寺は874年に理源大師聖宝が笠取山の山頂に観音像を祀り草案を営んだことに始まります。907年に醍醐天皇の菩提寺となり、山頂に薬師堂が建立されました。続く朱雀・村上天皇に保護され定額寺となり、下醍醐に伽藍を完備した大寺院となり、十一世紀後半から次の興隆期を迎えました。
現存する薬師寺は1121年に再建されました。中世に二度の火災に出合いました。現在の金堂は火災から100年経過した1598年に秀吉の命で再建されたものですが、他所からの移築によるもので、12世紀後半に建立されたものとされます。
薬師堂 国宝 建立:1121年 桁行五間 梁間四間 一重 入母屋造 桧皮葺
峰の先端の僅かな平坦地に建っています。醍醐寺に現存するものでは最古の建築物です。乱石積みの基壇 桧皮葺の屋根は山岳寺院に共通の建築パターンです。奈良時代末から平安時代前期にかけて山岳の中に密教系寺院が多く創建されました。それらを知る上で、上醍醐の厳しい立地に建てられた薬師堂は貴重です。平安時代初期の創建時に上醍醐には、薬師堂のほか同じ規模の3棟(准胝堂、如意輪堂、五大堂)の伽藍が建っていました。
蟇股
本蟇股は薬師堂内陣に見られます。平安後期から現れた現存最古の蟇股です。組物と組物の間は、下段を間斗束、下段を蟇股とする新しい意匠です。
蟇股は二つの材を中央で合せて作られ、肩が大きく脚部が細すぎて弱弱しい欠点がありますが、建築細部を賑やかにする約を果たしているともいわれます。
中尊寺金色堂
岩手県西磐井群平泉町衣関202
金色堂 国宝 建立:1124年 桁行三間 梁間三間 一重 宝形造 本瓦葺
藤原清衡が平泉の居館に近い関山に中尊寺を創立し、1124年に総供養を行う際に金色堂が建立された。清衡と妻女を檀主とし、大工物部清国らによって造られた。四天柱で囲む方一間の内陣に庇をめぐらせて側廻りは方三間となる一間四面堂で、1124年建立の棟木銘が残ります。
この棟木は内陣上にかけた切妻形の内屋根のもので、日本の棟木銘としては最も古いです。
金色堂は、清衝・基衝・秀衝藤原三代の葬堂の役目を果たしています。
建物の構造は、丸柱に平三斗の組物を用い、軒を半繁垂木の二軒をする比較的簡素な形式で、中備の蟇股が僅かに装飾となるだけです。
金色堂の真価は、清衝の財力をバックに実現した絢爛豪華な建築装飾に尽きます。内外すべてに黒漆を塗り、金箔を施し、さらに螺鈿装飾が施されています。
蟇股 日本列島の北から西へこの精巧な蟇股が平安時代後期にどのように伝播されていったものか。鉄筋コンクリート造のシェルターの中に鎮座しています。
中備に入れた蟇股は一本の木のものと、二つの木を中央で合わせたものとあり、輪郭の曲線は鈍重いとされる。蟇股も螺鈿や飾り金具が使われています。
蟇股は片蓋で組物各間の中備として用いられており、側廻りでは壁板の内外、内陣廻りでは壁板の外側に合計24個使用されていますが、2材を組合せたものは4個だけで、塩の田は全て一木造り、この蟇股は内陣廻りの壁板の外側に用いられたもので、螺鈿を用いた華麗な仕上げをほどこしている
形は、内陣外陣ともに同じです。
内部を刳り貫き両脚で斗を支える本蟇股は、平安後期から現れました。金色堂はその流行をいち早く取り入れています。
参考資料 「国宝 中尊寺展」 「蟇股」より引用しました。
宇治上神社本殿内殿
京都府宇治市宇治山田59
宇治橋東方の仏徳山の麓に建ちます。 1994年に世界遺産に登録されました 隣接する宇治神社を離宮下社、宇治上神社を上社と両社一体の神社として宇治離宮明神「八幡社」と総称されていましたが、明治初年に分離されました。境内及びその周辺には巨石が有り、磐境信仰により創祀された神社ともいわれます
醍醐天皇の勅による創始と伝えられます。境内には本殿・拝殿・及び春日神社社殿の古建築が現存します。
特に本殿は平安時代後期の建立で、神社建築に於いては全国最古の遺構であり、同時に優美な姿の装飾用蟇股で知られています。拝殿向拝の蟇股
本殿 国宝 建立:平安時代後期 桁行五間 梁間三間 一重 流造 檜皮葺の多い屋の中に、各一間社流造の内殿―右殿・中殿・左殿が並ぶ。
現存最古の神社建築 左右殿の蟇股は日本三蟇股の一つとされ古様を見せます。左殿は平等院鳳凰堂に次ぐ頃、右殿は時代がやや下がるとされます。る。
蟇股は格子障壁越しに拝観します。
母屋の斗栱を舟肘木、庇の角中を頭貫で繋ぎ、平三斗を組み、中備蟇股を置き、繁垂木とします。内殿3社の細部には違いがあります。中殿は庇・母屋共に斗栱を舟肘木とし、細部に蟇股などの装飾的な要素はないです。左右殿は中殿に蟇股を置いています。
本殿左殿の蟇股
蟇股は庇組物の中備に用いられており、繰形を付けた2材を扠首状に組合せている、蟇股としては最古の遺例とみられます。外形は足元に花形の繰形が付けられている他は平等院鳳凰堂の板蟇股とほぼ同形 輪郭内には別材で造った平面的な彫刻が篏込んであるが、これは後入れで、もとは輪郭内だけであったとされます。 平安後期の他の蟇股には輪郭内の彫刻はみられません。 輪郭内に彫刻を入れる時期は鎌倉前期頃とされるます。
本殿右殿の蟇股
蟇股は左殿の蟇股と比べて風蝕が少なく、各部の繰形も異なっているため、後世に造りかえられたとされます。 蟇股は2材を組合せたもので、輪郭内には別材で造った花形の彫刻を入れていますが、同時期のものとされます。 左殿と大きく違うのは輪郭内の内側に茨がなく、内側に花形の繰形を造り出しているほか、肩から下方の輪郭が同じような幅で、足元の繰形も大きく表面の猪の目が彫込まれている点 足元の繰形表面に彫込みを施したものとしては1271年の慈眼院多宝塔の蟇股にも見られます。
拝殿、春日神社拝殿・本殿
拝殿 国宝 建立:鎌倉時代前期 桁行六間 梁間三間 一重 切妻造 両妻一間通り庇付 向拝一間 桧皮葺
本殿 国重文 建立:鎌倉時代後期 一間社流造 桧皮葺
横長の切妻風造の建築の左右に、庇を付加し唐破風で処理して独特の形にまとめている。建築は木割が細く住宅風の趣がうかがえます。
蟇股
宇治神社は後にまとめます。
一乗寺三重塔
兵庫県加西市坂本町821-17
兵庫県南部のほぼ中央に位置する加西市の南部で、南が加古川市、西が姫路市都市域を連ねる山中にあります。650年孝徳天皇が勅命で法道に建てさせたと伝わります。法道仙は伝説的人物で、法道仙人開基の伝承を持つ寺院が兵庫県頭部地域に集中してあり、この地域一帯は早くから仏教文化が栄えた地とされています。御嶽山清水寺・書写山円教寺・一乗寺は播磨を代表する天台宗の大規模な山岳寺院です。
境内には国宝や国重文の三重塔・護法堂・弁天堂・妙見堂などの古建物があります。行者堂、本堂を経て200m程先には法道仙人を祀る奥の院開山堂があります。ご詠歌にも「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる法の花山」とあるとおり、春、秋の時節には桜、紅葉の名所としても知られています。
三重塔 国宝 建立:1171年 三間三重塔婆 本瓦葺 建立年代が明らかな塔としては日本で珍しいようです。
塔身部の低減率「初層から三重に向かって小さくなる率」の大きいことが特色。中央の板扉の回りは曲面の、幅の広い古式の弊軸が見られます。
軒を支える三手先組物の斗の丈が高く力強い感じがするのは平安時代末期の特徴とされます。初・二重の組物の真ん中に本蟇股がみられます。
蟇股
初重と第二重との軒廻り斗栱間に用いられた蟇股は、上醍醐寺や中尊寺金堂における蟇股と全く同性質の、両脚別々の木片からなります。
その内外の繰形線が多く輪郭線が複雑になっている所、両脚の末端ちかくの左右に開いて曲がるところたまたま力が抜けて勢いが弱くなり、また両肩の捲きこんだところが猪ノ目形に彫り込んでいる所など、年代の差がでています。
平安時代後期の現存する蟇股4カ所のまとめです。
その中の3種の他のものは年代ほぼ近接し、一乗寺のものだけは少し離れた末期に属するため、蟇股の変遷経過を知る上に重要な存在です。
蟇股が構造としてではなく意匠として用いられるようになったその最初期のものであり、塔に蟇股が用いられている最古の例です
一乗寺では他の堂宇にも蟇股が見られます。三重塔に似た刳抜蟇股が用いられている堂宇が。あります。
太子堂
宝物館
常行堂・法輪堂・鐘楼には蟇股の使用個所はなし
護法堂 国重文 建立:鎌倉時代 一間社隅木入春日造の社殿 仏法守護の毘沙門天を祀る
弁天堂と妙見堂は並んで建ってます。
妙見堂 国重文 建立:室町時代 三間社流造 本堂裏手に建つ
本堂の後方、弁天道に接して立っている。三間社流造浜床(まはゆか)付で、高欄(こうらん)を欠きます。
蟇股と扉構えに古様を留めて木鼻・組物・妻飾など大部分が後補になっています。建立年代は明らかでなく室町と見なされます。
弁天堂 国重文 建立:室町時代 一間社春日造の社殿
上記三つの鎮守諸堂は、中世の神社建築の様式の変遷を伝える貴重な建物とされます。
開山堂(奥の院) 建立:1667年 宝形造 奥の院にあり、開山法道上人を祀る。獅子・龍・竹に雀・紅葉に鹿・栗鼠などの蟇股彫刻を施した上質の建物。
奥の院にあり、開山法道上人を祀ります。獅子・龍・竹に雀・紅葉に鹿・栗鼠などの蟇股彫刻を施した上質の建物です。
《参考です》
宇治神社
京都府宇治市宇治山田1
宇治神社は「ウジノワキイラツコ」を祭神とする神社、宇治上神社は「応神天皇」「仁徳天皇」「ウジノワキイラツコ」を祭神とする神社です。
社伝によると、かつてこの地には応神天皇の離宮があり、その皇子であるウジノワキイラツコが住んでいました。皇子の死後、異母兄の仁徳天皇が住居跡に祠を建て、その御霊を祀ったというのが両社の歴史の始まりとされています。両社はとても近い場所にあり、昔は「宇治離宮明神」「離宮八幡宮」などと呼ばれ、宇治上神社を上社(本宮)、宇治神社を下社(若宮)としていました。
琵琶湖から山間を抜けて宇治川が流れる宇治の地は、平安時代王朝貴族の別荘地でした。藤原道長が889年源融の別荘宇治殿を入手し別荘としました。その死後、藤原頼道は別荘を寺院に改め、1052年に本堂を建立、平等院と号し、宇治のこの地に、極楽浄土を創り出そうとしました。この鳳凰堂が建立されると、宇治神社・宇治上神社ともに鎮守社となり、関係が益々深まりました。
明治維新後に分かれ、現在の名称になりました。境内には、本殿(国重文)・中門・拝殿・絵馬堂・神楽殿・神楽蔵・社務所・末社が並びます。
境内
本殿 国重文 建立:鎌倉時代後期 三間社流造 桧皮葺
三間社流造の堂々とした社殿。斗栱は庇を連三斗、母屋を出三斗とし、中備は庇と母屋正面に蟇股を置く。母屋背面の頭貫先に木鼻を付ける。この木鼻は、猪の目を伴った挙鼻は大仏系です。
蟇股
中門
拝殿(桐原殿) 桁行三間 梁間三間 桧皮葺
神楽堂・社務所・摂社・春日社・ほか
次回は鎌倉時代に入ります。
参考資料≪国宝 日本の国宝 寺社建築の観賞基礎知識 蟇股 修理工事報告書 小建築の細部文様、ウィキぺデイア、他≫
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