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Monthly Web Magazine Jan.2021


■  蟇股あちこち—9 中山辰夫

 
「初期透かし蟇股」の遺構として、平安時代後期の四例の紹介が終わり鎌倉前期に入ります。蟇股がどのように伝播し、形状変化してゆくのか興味津々です。
ここからは平安時代後期から鎌倉時代前期に創建された社寺の代表例を羅列します。すでに板蟇股で紹介しました社寺も含みます。
順序については、建立時期と再建時期が交錯しているケースがあり、順不同と思ってください。
訪れた社寺を軸に紹介しておりますが、未訪問の社寺は画像を引用させて頂いたもので紹介しております。

笈形―彩色文様
興福寺北円堂内部の間斗束両脇の壁画に描かれた彩色の笈形文様です。この文様は蟇股と直接関係は無いですが、蟇股の脚元、懸魚、蓑束の形はこのような彩色を基にして形作られたと考えられています。構造物の装飾的な繰形には彩色文様を基にしたものが多いように思われるとされています。
その遺構ともされてものを紹介します。

興福寺北円堂
奈良市登大路町

興福寺は、710年の平城遷都によって造立されました。721年の北円堂をスタートに、次々と伽藍が整備されましたが、数回の火災で奈良・平安時代の建物はなく、鎌倉時代再建の北円堂・三重塔と室町時代再建の東金堂・五重塔・大湯屋(国重文)を残すのみで、中金堂、南円堂は近世のものです。
前述の四堂が国宝であることは、興福寺が古代、中世を通じて保ってきたその偉大な勢力を物語っています。

北円堂 国宝 建立:1210年 八角円堂 一重 本瓦葺
  
北円堂は藤原不比等の追善供養のために造営されたもので、一周忌にあたる721年に完成しました。その後数回の焼失に遭遇し、1210年に再建されたのが現在の建物です。土壇は奈良時代創建時のもの、基壇は1049年再建時のものです。
八角形花崗岩製基壇上に八角形の建物が建っています。3段に出された垂木が軒を支えています。屋根の一番高い所に華麗な露盤、宝珠が据えてあります。

笈形彩色文様
    
内陣の天井は組入天井で、平らな天蓋を吊り、彩色を施しており、絢爛彩色の笈形文様は、間斗束左右の壁面に描かれています。

彩色の笈形は天平創建の東大寺大仏殿にも描かれていたようですが(信貴山縁起絵巻)、現存のものとしては、法界寺阿弥陀堂に残っています。

法界寺
薬師堂は、「蟇股あちこちー8 2020-11」に紹介しております。

阿弥陀堂 国重文 建立:1221年直後 方五間の身舎の周りに一間の裳階をめぐらした形、屋根は宝形造 桧皮葺 本尊阿弥陀如来坐像を安置 
法界寺阿弥陀堂とその内部と笈形文様 資料<笈形は稲崎喜代子氏論文より引用・他>
     

蟇股に戻ります
シンプルな蟇股からはじめます。鎌倉時代前期の遺構としては、奈良の円成寺春日堂・白山堂、香川の神谷神社本殿(1219年)、広島の厳島神社摂社客人神社本殿(1241年)、などがあります。

円成寺(えんじょうじ)春日堂・白山堂 含む≪円成寺≫
奈良市忍辱山町273

円成寺は柳生街道のほぼ中間部に位置します。境内前部に中島を有する池庭が広がり、境内には日本最古の春日造の社である春日堂・白山堂が並び、国重文・本堂には運慶の初期の作品・国宝・大日如来像が祀られています。
   
「袖板壁」でつながれている春日堂と白山堂は2棟とも同規模・同形式です。1228年に春日大社の本殿を移築したもので、春日造社殿の現存最古遺例として国宝に指定されています。
両堂は円成寺鎮守社として春日大権現、白山大権現を祀ってきましたが、廃仏毀釈で明治以降社殿を堂に改称されました。
表は入母屋、裏は切妻、桧皮葺。棟木、千木、堅魚木をのせ、蟇股・懸魚・勾欄・斗栱などは鎌倉初期の社殿の特色を表わします。

春日堂 国宝 建立:鎌倉前期(1227~9) 一間社春日造 桧皮葺
      

白山堂 国宝 建立:鎌倉前期(1227~9) 一間社春日造 檜皮葺
       
蟇股
両堂とも、宇治上神社南北殿と同様に、母屋の斗栱を舟肘木、庇を頭貫でつなぎ、平三斗を組み、中備に蟇股を置き、繁垂木を配しています。
用いられている蟇股は宇治上神社本殿(国宝)の系統に属し、鎌倉時代前期を下らない優品とされます。一木の作ですが、輪郭内下部の繰形は別材です。

宇賀神本殿
    
春日堂・白山堂に次ぐ春日造の現存例です。軒唐破風を付け、向拝三斗様で蟇股を置き、白山堂や春日堂より装飾性を増しています。
蟇股の脚内彫刻の発達や正面を唐破風にした点は時代が下がることを示し、鎌倉時代後期の建立とされます。

円成寺
756年唐の僧虎滝和商が十一面観音を祀ったのを開基とし、1026年に僧命禅が春日神所の造った十一面観音像を祀る堂を建てたのが中興とします。
応仁の乱の兵火で堂塔伽藍の大半を焼失、その後再興されました。
境内には鎌倉時代の建造物(春日堂・白山堂)・楼門(国重文)以外に、室町時代再建の本堂(国重文)、平成に再建された朱色の多宝塔が建っています。
蟇股は楼門、本堂厨子に見られます

本堂(阿弥陀堂) 国重文 再建:1472 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 妻入 向拝三間 桧皮葺 
 
春日造社殿に両廂付で、局・宝蔵・経蔵・籠堂・御堂を設け、向拝に舞台があります。

本堂厨子 蟇股
本堂 国重文建立:1472年 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 妻入 向拝三間 銅板張
    
蟇股は厨子正面の中備に用いられています。輪郭内には左右対称の簡単な彫りが施されています。

楼門 再建:1468年 三間一戸 入母屋造 桧皮葺 
     
上・下層ともに和様三手先を使い、下層出入口の上に、正・背ともに花肘木を入れています。

手水舎
   

東門 板蟇股
    

蓮華王院(三十三間堂)本堂
京都市東山区三十三間堂廻町657

本堂の板蟇股は「蟇股あちこちー5 2020-9」に紹介しております

1001体の御本尊を安置する総欅造の仏堂内は、余分な装飾の無い簡潔な空間で、独特の荘厳な雰囲気に包まれています。現在の建物は、1266年頃再建の二代目です。分厚い柱にも床板にも歳月が黒く光りひそんでいます。応仁の乱にも残った建物はしっかりした美しさを有しています。鎌倉彫刻のいきいきとした二十八部衆の個性美に劣らず、化粧屋根裏の二重虹梁にのる板蟇股は古色に溢れ、仏像同様に魅力的です。撮影できないのが残念です。
       

本堂の向拝 建立:1650年
  
正面にある向拝は1650年に改築されたもの。桁行七間 梁間二間と規模も大きく札堂としての性格をもっています。
創建当初から現在と同じ形式の向拝が取りつけてあったようです。正面は全て板扉とし、組物は出組と簡素ですが鎌倉時代中期における和様の造りを伝えています。

蟇股
         
向拝には7ケの蟇股が彫刻されています。サイ・獅子・キリンが彫られています。

南大門 国重文 建築:1600年頃(鎌倉時代前期)方広寺の南門として建立された豪壮な三間一戸の八脚門 切妻造 本瓦葺
   

板蟇股
板蟇股が両妻の虹梁上に設けられています。 肩の丸味を小さくし、斗載面脇から足元にかけての繰形は反転曲線に彫られています。
   

鐘楼
  

久勢稲荷大明神
  

峰定寺(ぶじょうじ)本堂・ほか
京都市左京区花背原地町772

本山修験宗の寺院で 1154年鳥羽上皇の勅願により観空西念が開基。修験道系の山岳寺院です。京都中心部からバスで約1時間半の距離にあります。
桂川の源流の一つである寺谷川沿いに仁王門が建っています。大悲山(747m)の中腹に位置します。修験の行場として著名な大和の大峰山に対し、大悲山は(北大峰)とよばれました。
樹齢約1000年といわれる杉の大木があります。カメラ持参は山門まで、貴重品とハンカチ以外は受付に預け、本堂まで山門から約400段の石段を歩きます。
      
現在見る社殿は1350年に再建されたものです。

仁王門 国重文 建立:1350年 入母屋造 杮葺単層の八脚門
     
蟇股
 

本堂 国重文 建立:1350年頃 寄棟造 杮葺 舞台造(懸造)の仏堂。わが国の舞台造の起源は定かではないですが、密教が流行して深山遠谷に堂塔が営まれるようになってからのようです。最古の舞台造は三仏寺投入堂で、本堂はこれに次ぐものです。
  
内陣後方に須弥壇があり、厨子が安置されています。そこに使用されている勾欄や格狭間、装飾蟇股などは、鎌倉時代の細部手法がみられるようです。

閼伽井屋(供水所)国重文 建立:1350年 桁行三尺三寸 梁間二尺四寸

小建築ですが 上に優美な唐破風造の屋根を架し、その正面の虹梁の上下に、蟇股と二つ斗を置いた見事な装飾を行っています。
 
蟇股は、脚内に唐草彫刻を有し、中央は欠けて失われていますが、鎌倉式をよく表す実相花唐草です。

花背の三本杉
 

本堂周辺は撮影禁止のため、パンフレットより転載。写真は一部大野木義夫氏撮影のものを含みます。

当麻寺本堂(曼荼羅堂)閼伽屋
奈良県北葛城郡当麻町当麻1263

当麻は大和と河内の境界をなす二上山の東麓にあって、古来、交通の要所でした。古代豪族の当麻氏が本拠を置いて支配していました。古墳や寺院の築造に多く使われた凝灰岩は二上山から切り出され、当麻氏はその供給に関与して勢力を伸ばしました。当麻寺は当麻氏の氏寺として691年に創建されました。

本堂閼伽棚 本堂建立は1161年 1268年の本堂屋根修理の際に増築されました。
    
本堂背面北方に付設されており本堂の設立当時には無かったとのこと。面取り角柱に出三斗をのせ、中間に足の長い蟇股が置かれてます。虹梁で本堂と繋ぎ、その上に両端は蟇股をのせ、中間は合掌を組んで棟木を受け木瓦葺とします。本堂の屋根が1268年に修理されており、この時に増築されました。

蟇股
      
虹梁の上に背高く且つ両脚のよく伸びた板蟇股が置かれ、その下に刳抜式の彫刻蟇股が用いられています。又軒桁下の各斗栱間にも置かれています。
板蟇股は三十三間堂内の虹梁上や新薬師寺東門の妻にもありますが、一般に両脚があまり開かず、ここにあるような左右に長く伸びたものは少ないです。
反して、彫刻蟇股には両脚の左右が伸びたものが多いですが、ここのように流暢に長くのばされたものは珍しいです。脚内の彫刻は左右より垂下した紐状の柄によって中心飾りを支えた形、これは宇治上神社本殿の蟇股に直ぐ続くもので、彫刻蟇股変遷の初期における一過程を示すものとして貴重とされます。

当麻寺全体については、別途紹介する予定です。

浄土寺
兵庫県小野市浄谷町2094

浄土寺は東大寺再建の重源和尚に縁故のある寺で、東大寺領大部荘の土地に浄土堂と薬師堂を建て寄付しました。その建物には大仏殿と同様式の天竺様が採用されました。重源によって創立された七カ所の別所の一つで、播磨別所と称されました。浄土堂は別所の中心建物で、巨像「阿弥陀三尊立像」・国宝を祀っています。
天竺様は東大寺再建に大きな功績を遺しましたが、その優れた構造的特色と建築美は一般に理解が得られず、東大寺及び重源縁故の寺院に少数用いられた程度で衰微し、従いその遺構は少なく、東大寺南大門・開山堂のみです。

浄土堂(阿弥陀堂) 建立:1194年 一間四面堂 方一間の内陣の四面に庇部が付く形式 宝形造 本瓦葺 大仏様 仏師快慶作の阿弥陀三尊像
    
重源が南宋より伝えたという大仏様の典型的な遺構であり、同じ様式で建てられた東大寺南大門よりも和様の趣が少なく、宋風が色濃く残っている建物であるとされ、平面も、構造も他に例を見ない鎌倉初期の大仏様建築の傑作とされます。簡単な外観を有する建物。
軒下組物
    
外観は比較的地味です。側面は一辺に柱が四本、柱間が三つの方三間。三間とも桟唐戸。組物は三手先の挿肘木で、隅扇垂や遊離垂木などに特徴が見られます。
板蟇股が用いられています。

内部講架
      
撮影禁止のため参考資料を引用します。内部は天井を張らない巨大なスペースの広がりで、貫や梁などをそのまま見せたいわゆる「大仏様建築」の特徴が出た、豪快で力強い造りです。像の周囲に四天柱が立ち、それに三方から太く円に近い断面の繋虹梁が3段に掛かっています。
柱が少なく、柱間は広く、中央に向かって高くなる広大な空間を、巧みな構造によって造り出しています。
内部に用いられている板蟇股は、外部軒下に用いられているのと同様に見えました。

本堂(薬師堂) 国重文 再建:1517年 桁裄五間、梁間五間、一重、屋根宝形造、本瓦葺 浄土堂とほぼ同形同大の建物
  
浄土堂に相対しています。重源に大仏様建築として建てられましたが、焼失して再建されました。再建に当たっては大仏様式を基本として禅宗様も取入れた折衷用建築となりました。
正面は桟唐戸、側面の火灯窓は禅宗様、垂木の配付けは隅扇垂木、組物は大仏様三手先、中備は和様の撥束と舟肘木
     

浄土寺の境内に鎮座する「八幡神社本殿・拝殿(国重文)」については、「蟇股あちこち7 2020-10」に紹介しております。

浄土寺のすぐ近くにあって、現在日常管理をしている、塔頭二寺院の蟇股・ほかです。
塔頭 歓喜院
           
塔頭 宝持院
       

長寿寺本堂
滋賀県湖南市東寺5丁目1-11

滋賀県の湖南三山・常楽寺・長寿寺・善水寺中のひとつで、阿星山北麓に、阿星五千坊と呼ばれる大仏教文化圏がありました。安楽寺から約1km離れた所にあります。常楽寺・長寿寺ともに阿星山の山号を共有しています。長寿寺(通称東寺)は聖武天皇の勅願で良弁が建立したとされます。往古には七堂伽藍のほか二十四の僧坊が集中して建っていたとされます。現在は閑寂な境内で、樹林を背景に本堂が建っています。

本堂 国宝 再建:鎌倉時代 桁行五間 梁間五間 一重 寄棟造 向拝三間 桧皮葺
  
和様の建物で優美な外観を示しています。檜皮葺で照り起こりの屋根が柔らかにうねる曲腺を描いています。
堂内は外陣を化粧屋根裏として、内陣に国宝春日厨子が配置されています。向拝は1336年に付加付されたものですが、正面の蟇股・手狭の彫刻は華麗な装飾です。平安末から鎌倉初頭にかけての新旧の技法・意匠の混在が随所に見られる移行期の仏堂です。

蟇股は向拝に用いられています。向拝 建立:1336年
       
鳥獣による国宝の被害が各地で起こっています。長寿寺も向拝にある蟇股の被害が大きいです。股間の彫刻が三つとも無事でなく、被害の様子が明らかです。金網を張って防御している所もあります。

本堂内部の板蟇股は 「蟇股あちこちー4 2020-8」に紹介してます。
  
本堂以外の蟇股

本堂の板蟇
弁天堂の蟇股 弁天堂 国重文 建立:1550年
  

薬師堂
  

鐘楼の蟇股
   

1454年建立の三重塔は安土城・總見寺に移築されました。
安土・總見寺・三重塔(国重文)
     

白山神社 国重文 拝殿 鎌倉時代 1453年建立 三間四方 入母屋造 桧皮葺 内部に1436年の板絵三十六歌仙図(県文化)を有しています。
    
平安時代以降、神仏習合が進み長寿寺院内に鎮守社が設けられるようになり、その鎮守社です。
長押(なげし)に掲げられていた三十六歌仙の額は竪挽き鋸(大鋸)で挽いた最古の板で、1436年の銘が残っています。絵は宮廷絵所預りで、土佐光弘の筆です。
これによって、室町初期にはこの地で製材が行われていたことが判明し、甲賀大工座の先見性が推察されます。

大報恩寺本堂 (千本釈迦堂)
京都市上京区七本松通今出川上ル

千本釈迦堂の名で親しまれます。1221年に小堂に釈迦如来を安置したことに始まり、1223年、摂津尼崎の材木商の援助で現存の本堂が完成したとされていますが、
上棟は1227年のようです。応仁・文明の乱の際、この一帯は焼け野原となりましたが、千本釈迦堂だけは奇跡的に類焼を免れました。
鎌倉時代以前の建物で、創建当時の本堂が仏像と共に現存する数少ない例で、京都で最古の木造建築です。鎌倉時代以前の遺構で残るは醍醐寺の五重塔と広隆寺の講堂のみです。

本堂 国宝 建立:1227年 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 桧皮葺
    
組物は出組とし、中備は間斗束、軒は二間繁垂木。向拝は当初からのもので遺構として残る最古のもので、鎌倉初期の和様を代表する仏堂です。

向拝の蟇股
  

本堂内部では板蟇股が本来の目的で用いられています
  

平安時代末期から鎌倉時代前期の一部を並べました。鎌倉時代前期の1185年から1274年は古代の奈良・飛鳥時代に建立された大寺院の復興・修理を中心に、従来とは異なる技法の出現など新しい時代の始まりであったともいわれます。古代建築の持つ特徴及び特性が中世に受け継がれましたが、京都だけは平安時代の院政期における形だけを模倣した建築の濫造により、構造的な理由から急速に建築が消滅して行ったともいわれます。
来月も蟇股を有する遺構を紹介します。


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