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Monthly Web Magazine Feb.2021


■ 蟇股あちこち -10 中山辰夫

飽きずに続けています。初期蟇股がどのように伝播していったか、なかなかつかめません。厳島神社には伝播の証?が見られます。
難しい事は避けて、ともかく並べて行きます。
本堂や本殿で、是非撮りたい板蟇股や蟇股が撮影禁止なのが残念です。
今月は、厳島神社関連と海住山寺文殊堂、西明寺本堂、高山寺石水院、明通寺本堂です。

厳島神社本社 (含む・末社)

本社は神社の中心にある入江の奥を占めます。社殿は北西を正面とし、陸から海に向かって本殿、幣殿。拝殿、祓殿の順に一直線上に並んでいます。
そしてその軸線の先には朱色の鳥居が立つっています。潮が満ちて社殿の床下が海中に没すると、あたかも海上に建てられている感じがします。
1166年頃平清盛が造営した社殿は、それまでの社殿形式を一変させ、安芸の一の宮ではあるが地方の一大社でしかなかった厳島神社を全国一の壮大で秀麗な宮へ改修するものでした。その後度々焼失を繰り返し、その都度造営されてきました。現在の社殿は1571年に完成したとされます。
厳島の社殿は、本殿・幣殿・拝殿・祓殿という四棟の主要社殿からなっております。本社同様に四棟からなる摂社客神社が本社に向かって左側に建っています。
社殿からは蟇股・組物などの細部に平安末あるいは鎌倉期とみられるものが混入して残り、旧状に従って再建されました。蟇股が多く見られます
    

本殿 国宝 再建:1571年 桁行八間 梁間九間 一重 両流造 檜皮葺 現在の形式の成立年代は1166年頃
本殿の全貌を見渡せる場所はありません。屋根が両流造の破風の曲線は平安時代の建築の特徴、本殿の正面は、細部の朱、小壁の胡粉、建具の緑青、菱格子、など優雅な意匠が施されています。蟇股は明治の修理の時に入れられたようです。
本殿の中に六基の玉殿が納まっています。玉殿は屋根を持った本格的な本殿形式で神体を奉安します。玉殿が神体を守るので、外側の本殿が開放的になっています。
菱格子の建物が本殿です。御簾の向こうに神様がおいでになります。客神社も同様の造りです。本社本殿の見取図です。(清盛と宮島より引用)
       

拝殿 国宝 再建1571年 桁行十間 梁間三間 一重 両端縋破風付入母屋造 桧皮葺 現在の形式の成立年代は1166年頃
廻廊左側のすぐ前が拝殿です。内部は、身舎中央に一列に柱が並び、その前後に梁を架けてそれぞれに蟇股を置いた化粧屋根裏天井です。
   

祓殿 国宝 再建:1571年 桁行三間 梁間六間 一重 入母屋造 妻入 桧皮葺 現在の形式の成立年代は1166年頃
祓殿は社殿群の中心に位置し最も目立つ建物です。
 

拝殿の前面に広がる平舞台には神社の前庭に相当し、正面には舞楽を演ずるための高舞台が設けてあります。
高舞台は大阪四天王寺・住吉大社の石舞台と共に「日本三大舞台」です。
 

蟇股は、祓殿、幣殿から本殿までの廊下や各間に多く見られます。
       
蟇股は内部が刳り抜かれた本蟇股です。平安末期の形を踏襲しています。蟇股の右脚と左脚が別木、左右の足の合わせ目に継手があります。鎌倉時代からは左右が一体となって一木造となります。全国で4例しかない平安式蟇股がここでみられます。摂社客神社本殿も同じです。

蟇股が張り付いている白壁
  
木目が見えます。板壁です。神社建築には、土壁は使ってはならないという大原則があり、板の上に白土を塗ります。その板壁の中には板の表面をチョウナという大工道具で削った痕(円いくぼみ)やヤリガンナの痕が多数残っているものがあります。当時の職人さんたちの巧みな手仕事の記録です。

左(ひだり)・右門 客 神社(みぎかど まろうじんじゃ) 再建:1241年 1999年 切妻造 平入 桧皮葺 
  

能舞台 国重文 創建:1605年 切妻造 一重 桧皮葺
   
能は、室町時代に京都から観世大夫を招いたのが最初で、その時の舞台は仮舞台でした。1605年に常設の舞台が出来ましたが、50年後に腐食し、1680年に再建されました。それが源氏の能舞台です。全国で四番目に古い舞台です。

舞台正面の装飾は大瓶入笈形と蟇股
   

多宝塔 国重文 建立:1523年 二重塔婆(宝塔) 杮葺 塔高:15.6m 創建は僧侶の周歓(しゅうかん) もとは大願寺子院の伽藍
    


軒反り(のきそり)の屋根 和様と大仏様が混合されています。貫の先の部分(鼻)の形状が「拳鼻(こぶしばな・渦巻き模様)」となっていますが大仏様の特徴です。
初層の壁面の組物である間斗束や蟇股にも和様の様式が見受けられます。
16世紀らしい形の蟇股が飾られています。本社祓殿の平安風の蟇股と比べると、脚の太さが均一となり、足首の締りがなくなり、内部に彫刻が入って華やかになります。密教で仏を示す梵字や草木の透し彫りが刻まれています。梵字の部分だけがきれいに色が残っていますが、神仏分離令で梵字の部分が削り取られたため後々忠実に復元されました。

宝物館 登録文化財 1934年竣工 コンクリート造 漆及び白亜塗装 銅版葺屋根 コンクリート造では全国最古級
    

末社千畳閣(豊国神社) 国重文 建立:1587年 桁行十三間 梁間八間 入母屋造 本瓦葺 畳875枚分の広さがあるとされます。
豊臣秀吉が戦没将士を慰霊するため、1587(天正15)年安国寺恵瓊に命じ建立した大経堂。畳875枚分の広さがあるとされます。その広さから俗に千畳閣と呼ばれます。秀吉の死後建設中止。創建当初の金瓦に復元されています。1872(明治5)年豊国神社と改称。厨子は明治の創建です。
        

末社・荒胡子(あらえびす)神社本殿 国重文 創建:1441年 再建:1591年 一間社流造 千木鰹木を置いた檜皮葺 朱塗りの御本殿 拝殿 石段
 
もとは大願寺に属した神社。美しい小建築。棟札には室町時代島田三郎左衛門尉宗氏が造立した旨が記されています。
元は寺院本堂内に建てられていた本殿のため、室町時代前期の建築ながら、全国でも最も保存状態が良い例とされています。本殿はすべて円柱とした珍しい例よくです。
室町時代(15世紀前半)造立の例として和様と禅宗様が混交しており,その中でも破風の曲線、扉口上の蟇股の股内彫刻絵様が左右対照をわずかに中心でくずしたところ、向拝の丸柱と遊離した手挾(たばさみ)の工法等にこの建物を特色づける手法が見られます。

蟇股
        
配置されている蟇股は、板蟇股が一般的ですが装飾的な本蟇股が使われた全国初の例です。
蟇股は全部で四個あります。向拝頭貫上と正面の板扉上に小振りな蟇股が置かれ、両妻面の虹梁上に大振りな蟇股が置かれています。
このうち、向拝頭貫上の蟇股は内部に彫刻のない蟇股で、他の三個は透かし彫りした蟇股です。彫刻は仏教的で、蓮華座に載った極彩色の火炎宝珠を唐草で包んだ物に入れた蟇股です。明治の神仏分離を奇跡的に逃れた貴重なものとされています。ほかの社殿の朱より落ち着いた赤色の弁柄塗りです。

末社 大元神社本殿 建立:1523年 現在の形式の成立1443年頃
広島市廿日市市宮島町
大元神社は厳島の地主神とされ、創祀は厳島神社よりも古いとされます。1443年建立の現本殿は三間社流造で内陣後方の一間が祭壇です。玉殿は三基です。中央殿、庇中備に蟇股を載せています。
大元神社玉殿は1443年という建立年代の古さや、流造であること、身舎、庇共に角柱を用いること、中央殿に三斗組、左右殿の舟肘木の点が着目されます。
    

佐々井厳島神宮本殿内玉殿 県重要文化財 5基 五基とも中備に蟇股を組み込んでいます。
広島県安芸高田市八千代町
    

建立年代は1殿 14世紀前半 2殿 14世紀後半 3殿 1445年 4殿 15世紀前期 5殿 1353年
解説 (広島県広報より)
南北朝から室町時代初期(14世紀前半)にかけて造られた5基の玉殿(宮殿くうでん)で,14世紀前期に造られた第一殿は神社本殿形式の現存する玉殿としては全国でも古いものである。墨書によって第五殿は文和2年(1353),第三殿は文安2年(1445)の建立であることが知られる。5基に共通している点は,切妻造で平入りであること,柿葺であること,柱は丸柱で土居桁の上に立てていること,組物は連三斗として禅宗様式であることなどがある。
玉殿は社殿内に安置される建物であるが,この玉殿は規模も大きく,また,細部も細かく作られ,保存状態も極めて良好である。また,柿葺の屋根も葺き替えは受けておらず,広島地方の鎌倉,室町時代(12世紀~16世紀)の建築技法を知る上で,貴重な存在である。

神社玉殿は、神社の本殿内陣に安置される本殿形式をした小建築です。平安時代後期頃に成立し、現存例は鎌倉時代後期以降のものが殆どです。
安芸国(広島県西半部)には14世紀から16世紀にかけての中世の玉殿が多く残っています。現在残っている34基の中世の玉殿は、建立当初の部材をほぼ完存しているとのこと。今後の研究が待たれます。

大聖堂
宮島最古の寺院 清盛時代は「水精寺(すいしょうでら)」を名乗り弥山の頂上にありました。豊臣秀吉はここで何度も歌会を開き、神仏分離令までは厳島神社の別当寺として祭祀を司り、社僧を統括してきました。806年空海の開基とされています。1877年の火災で大部分の堂宇を焼失し、その後整備されました。
厳島神社近くに本坊があり、ここには仁王門、御成門、勅願堂、観音堂、摩尼殿、大師堂、霊宝館など多くの堂宇があります。
蟇股が随所に使われていますが、今回は省略します。

厳島神社 客(まろうど) 神社本殿 厳島神社含む
広島県佐伯市宮島町

厳島神社客(まろうど)神社
客神社は摂社の中で一番大きく、本社同様に、本殿、幣殿、拝殿、祓殿は国宝に指定されています。 
本社の東北方にあって、本社と直角の東西報告にあります。社殿配置は本社と同様、本殿、幣殿、拝殿、祓殿を一直線上に配置されています。回廊は拝殿と祓殿の間を通ります。社殿は国宝です。
本殿 建立:1241 桁行五間 梁間四間 一重 両流造(りゅうながれずくり) 桧皮葺
    

蟇股は各所でみられます。左の参拝入口から厳島神社の回廊を歩くと最初に通るのが客神社です。
拝殿
    
身舎内部は、上部の大梁を架け、中央に蟇股を置いて化粧棟木を受け、化粧屋根裏天井とする。板蟇股は1430年の改修時のもの

幣殿から見た本殿の正面と蟇股
   
緑色の格格子、御簾の向こうに玉殿が祀られており開放的な形の本殿です。本社本殿も同じです。

正面中央の蟇股
   
柱上の肘木などいかにも鎌倉風に、硬く、知力ら強い感じがします。

蟇股は社殿の周りに配置されています。
   
蟇股の説明
片蓋、正背面の組物の中備に用いられており、内部は間斗束としています。輪郭は幅が広く力強い形に作られており、内側には一カ所だけ茨を付け、茨を中心にして繰形を彫り出しています。また輪郭の中央下部に花形の繰形を彫り出し、繰形以外の余白部分は平坦に彫り窪めています。
尚本社および本社の祓殿にはこれと同じ形で、中心飾りのない蟇股が用いられていますが、輪郭は2材を組み合せたものとしています。

海住山寺文殊堂
京都府木津川市加茂町例弊海住山20

寺の創立は奈良時代、良弁僧正の開基と伝えられるが定かでない。1208年に笠置寺から移住してきた貞慶によって中興されました。
透かし蟇股は文殊堂でみられます。

文殊堂 国重文 建立:1214年 桁行三間 梁間二間 一重 寄棟造 銅板葺(元は檜皮葺)
 
本堂の右手前、五重塔と向き合うように建つ文殊堂は、五重塔と同じく鎌倉時代に建てられ、元は経蔵だとされるがやがて経蔵の機能を失い、文殊堂になったといわれます。
透かし蟇股
    
蟇股は一木から造られ、側廻り組物各間の中備として用いられています。輪郭の上部は幅を広くしていますが、下方は細くして軽快に見せ、足元には賑やかな形の繰形を施しています。透かし彫りの繰形彩色文様から形作られたもので、本格的な透かし彫りを施したものとしては最古の遺例とされ、美しい意匠の蟇股です。

鐘楼の蟇股
    

納骨堂の蟇股
  

本堂の蟇股
 

西明寺 本堂
滋賀県犬上郡甲良町池寺26

鈴鹿山脈が滋賀県の湖東平野に接する山麓に、三つの天台宗の古寺が点在しています。百済寺、金剛輪寺、西明寺で、総称して湖東三山と呼ばれ、古建築や仏像に恵まれ、紅葉の名所としても有名です。いずれも1571年信長の焼打ちにあい、苦渋を味わいました。蟇股は西明寺に見られます。

西明寺は、伊吹山を開いた僧三修が834年に仁明天皇の勅願により開基したとされます。中世には17の仏堂と300の僧坊があり寺領2000石の天台大寺院として栄えました。信長の焼打ちから逃れた鎌倉時代の本堂・三重塔(いずれも国宝)・仁王門(国重文)は現在に至り、建造物の国宝指定第一号に指定されました。純和様の建物で、どっしりした美しさがみものです。

本殿 国宝 建立:鎌倉時代初 桁行七間 梁間七間 一重 入母屋造 向拝三間 桧皮葺 室町時代前期改造
    
密教寺院の本堂は、一般地方では桁行五間が普通で、七間のものは一級に属し、寺格が高いことを物語ります。
純和様の均整の取れた姿、洗練された細部の手法、周囲の白壁と蟇股が印象的です。傑作の多い鎌倉和様のうちでも第一に位するとされます。
鎌倉時代の建物をベースに、室町時代にそれまでの五間堂を七間堂に拡張し、向拝を付加する大改造をうけて現在の姿になりました。

蟇股
向拝の蟇股
        
大面取の角柱を用い、柱上には植物を彫った手挟、中備には華麗な牡丹唐草の彫刻が施された蟇股を配しています。
柱上の出三斗、中備の蟇股は外陣内部の化粧屋根裏、蟻壁付折上小組格天井とともに、いかにも和様らしい簡素で繊細な落ち着きを見せています。

側回りと礼堂の入側の正・側面の蟇股 礼堂内部の組物の間にも華麗な蟇股が配置されています。
     
優美な蟇股です

礼堂内部の組物の間にも華麗な蟇股が配置されています。
  

三つの蟇股の相違-彫刻の時代差 
五間堂、すなわち鎌倉時代前期の五間堂の時の蟇股①、と 南北朝時代、七間堂に拡張した時の後補の蟇股②③ 
   

楼門の蟇股 未確認です
  

≪参考≫
湖東三山のうち、金剛輪寺、西明寺は門、塔、本堂が中世の姿で残っています。これらを造った大工は、江戸以降に甲賀大工、甲良大工と並び称されました。甲良大工の名匠・甲良宗広の祖先にあたる工匠がいくつもの甲良大工の痕跡というべきものを残している。
佐々木一族の総社である沙々木神社(1514)の棟札に大工「藤原五郎左衛門吉光」とあり、1554年の棟札にも大工「藤原五郎左衛門吉宗」とあり、1566年の油日神社楼門の棟札に「棟梁大工御子息甲良五郎左衛門殿」とあり、甲良一族の工匠と見なされます。これらより、戦国期にはすでに湖東・湖南で甲良大工の活躍があったと思われます。沙々木神社・油日神社共に彫刻豊かな神社です。

高山寺 石水院
京都市右京区梅ケ畑栂尾町

京都の西北、紅葉の名所として知られる栂尾や高雄に高山寺や神護寺があります。高山寺は鎌倉初期、明恵によって再興され、「鳥獣戯画」や「明恵上人像」など多くの優れた絵画を所有し知られます。

石水院 国宝 建立:鎌倉時代(13世紀前半) 桁行三間 梁間前面三間 背面四間 正面一間通り庇 一重 入母屋造 妻入 庇葺きおろし 向拝一間 杮葺
      
石水院はもと金堂の東にあったものを明治23年現在地に移しました。 元は経蔵で、そこに春日、住吉両明神を祀った建物でした。明治以降に住房らしく改造されました。
従って現状は鎌倉時代建立当初とは似ても似つかぬものです。部材には古いものがあって、旧状を察することができるとされています。
三角形をした妻の側が正面で、木階を覆う向拝がもうけてあります。低く張られた縁には高欄も無く、周囲に自然と融け込んでゆく佇まいを見せています。

蟇股
     
ゆったりとした懐を持つ拝所を外部と区切りするものは吊り上げの蔀戸と透けた菱格子の建具。蟇股の置かれている所も壁がなく、蟇股自身の脚内も抜かれており、御堂の内と外とを滑らかに繋いで一体化させる空間をつくっています。
西庇、拝所軒回りある蟇股には、鎌倉初期の唐草文様が彫刻されています。

蟇股細部
     
精巧なつくりがよくわかります。板厚70mm程の内部にはチョウナヤヤリガンナなど ?で削られた痕が線状に残っています。

蟇股は金堂でも見られます。
金堂 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 銅板葺 
  
もとの本堂の跡に建っています。本堂は焼失。江戸時代に仁和寺の古御堂をこの地に移築しました。
蟇股
  

(▼全て表示)(▼全て表示)明通寺 本堂
福井県小浜市門前

小浜は今では京都との交通も便利になりましたが、徒歩が全ての昔は、古くから京都までの道が開けており、そのため京都文化との接触に恵まれました。
従って、この若狭地方は早くから文化が開け、建築や彫刻の古くて優秀なものを所有する中世の寺院が多く、どの寺院も中世仏堂形式を取り、近江、瀬戸内に並ぶ中世仏堂の宝庫で、明通寺はその代表です。

明通寺
     
真言宗御室派 806(大同元年)坂上田村麻呂の建立と伝えられ、同市内の神宮寺(714年草創)と共に北陸路に数少ない古刹の一つ。
中世は国衙の祈祷所や幕府・当国守護の祈願所で、元冦」の折りには異国降服の祈祷がここで行われました。
当初の建物は火災で焼失しましたが、鎌倉時代に復興されました。1270年に建立された三重塔は鎌倉期の数少ない仏塔です。 
松永皮の谷筋にあり、急な石段を登ると、山門、鐘楼、本堂、三重塔などが建ち並びます。

本堂 国宝 建立:1258年 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 檜皮葺
     
屋根は緩やかに反り、正面の建具は全て蔀で、優美な住宅風の外観、蟇股以外に彫刻を施した装飾部材は無く本格的な和様の建築様式です。
組物は出組、中備は外部正面のみ本蟇股、のこり三方は間斗束を用いて純和様で造られています。
礼堂内部で、蟇股が三斗の上に蟇股を置くという変わった手法が取られています。

向拝の蟇股 
  
参詣者の目が最初に触れる向拝の蟇股は大変装飾性の強いものを持っています。向拝はもとからありましたが、現在のものは桃山時代のものです。

本堂蟇股
    
蟇股は片蓋で、中備は正面のみ蟇股を入れ、他は間斗束です。いずれも同じ意匠の透かし彫りが施されています。 輪郭の内角に面取りを施したものとして最古の遺例です。
力と張りのある両脚内に、実相花唐草が両方より中心飾りを擁する形、すなわち初期蟇股彫刻の特色を示し、その唐草の形状と勢い、中心飾りの輪郭と中に彫られた猪ノ目の形など、鎌倉中期の本堂の年代をよく裏書するものとなっています。

本堂外陣の板蟇股
   
板蟇股に虹梁が取り付けられた仕口 外陣の虹梁を受けて板蟇股を構造材に使うアイデアの奇抜さが注目を浴びています。 各柱上毎の通肘木上に板蟇股を置いて軒桁を支えています。

その他境内でみられる蟇股

山門 再建:1772年 三間二重門
 

蟇股      
板蟇股
   

地蔵堂
    

撮影ができてなくて飛んだ遺構が多くあります。飛ばしたところはまとまりしだい挿入します。
次は鎌倉後期の遺構を中心にまとめます。

お断り
画像については、文献などからの引用は別にして、当方で撮影したものを主体に掲示しておりますが、中にはJAPAN GEOGRAPHIC より引用させて頂いたものを含んでおります。


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