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Monthly Web Magazine Feb.2021


■ 蟇股あちこち -11 中山辰夫

いよいよ鎌倉後期に入ります。その前に、塔にも多様な外形があり、内部空間にもそれなりの変化があります。祀られる仏像や絵画は教養を反映し、時代によって変わります。仏教の教養や法会を反映した建物の塔-国宝・国重文に指定されているものが約130件あります。(北海道・九州・沖縄には国重文はありません) 
蟇股を用いている塔も多くあります。勿論最古は法隆寺の五重塔です。別の機会にまとめて紹介しますが、ここで国宝の多宝塔を一件紹介します。

慈眼院 多宝塔
大阪府泉佐野市日根野

慈眼院は、673年天武天皇の勅願寺、日根神社の神宮寺として、覚豪阿闍梨が創建した古刹です。
その後、聖武天皇の勅願寺となり、815年、空海(弘法大師)によって多宝塔、金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝えます。
1586年の豊臣秀吉による根来寺攻めで、金堂、多宝塔以外全山焼失しました。1602年、豊臣秀頼によって伽藍の再興が始められました。
国宝の多宝塔は石山寺多宝塔、金剛三昧院多宝塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとして知られています。

多宝塔 国宝 建立:1271年 三間 檜皮葺 高さ10m 頭貫の墨書より建立年が判明しました。
  
塔は高欄のない縁をめぐらし、中央間には扉の大きな板唐戸、脇間連子窓、組物は二手先。中備では中央間のみ蟇股を置いています。
上重は円柱、四手先組物です。 
 
蟇股
   
蟇股は片蓋とし下層中央間の中備に用いられています。輪郭は足元の繰形を大きくして表面に小さな瓢箪形の彫り込みを施し、足元の巻きあげの部分には茨を付けています。また、輪郭内には左右対称の平面的な透かし彫りを施していますが、中心飾りは大きく、両脇から中心飾りの下方に延びる蔓状の繰形も幅を広くしており、蔓上の繰形上部や輪郭上部の内側には連続させて繰形を付けています。

金堂 国重文 建立:鎌倉時代後期 方三間 単層 寄棟造 本瓦葺 別名:毘沙門堂または一願薬師堂
  

鎌倉前期の本殿に使われた蟇股や斗栱はその形や性質がよく似ており、特に宇治上神社のものや円成寺のものも、遠く離れた厳島神社のものも同様でした。
細部の取り扱いは簡素で変化も少なく、地域性・地方性も少なかったようです。これは設計と施工が分離しておらず、すべてを棟梁が行っていたからとされます。
鎌倉後期では、構造や意匠の面で従来とは異なる技法の出現が見られます。蟇股もさることながら建築面からも興味深い内容が含まれます。

鎌倉時代後期 1275年~1332年

泉穴師神社 摂社住吉神社本殿 (含む春日神社本殿 泉穴師神社)
大阪府泉大津市豊中町1-1-1

国重文の泉穴師神社本殿は35年振り、摂社住吉神社本殿・香住神社本殿は56年振りの平成大修理が終わり、2017年(平成29年)に竣工しました。
工事は主に檜皮葺屋根の葺き替えと塗装の塗り替えで、塗装の塗り直しでは、褪色した柱や蟇股、組み物等部材について、復元彩色が実施されました。
 

摂社住吉神社本殿は、泉穴師神社本殿の西隣に建つ小社殿です。

摂社住吉神社本殿 国重文 建立:1273年 一間社春日造 檜皮葺 正面に軒唐破風付 背面は入母屋造 大坂府内最古の神社本殿

一間社春日造の小社殿ですが、正面の庇に唐破風を付かせ、斗栱は頭貫鼻を肘木に造出し連三斗とし、中備に蟇股を配置しています。
母屋は斗栱を出組としています。普通の春日造では背面を切妻造としますが型を破って入母屋造としています。
和様の実肘木を用い、正面唐破風、蟇股などとともに装飾性が強く、意欲に満ちた姿に造られているとされます。
    


蟇股

蟇股は、片蓋、身舎正面の中備に用いられています。輪郭は足元を大きく広げた軽快な形で、足元はにぎやかな繰形を付けています。
蟇股は力強く感じます。輪郭内の平面的な透かし彫りは左右対称で、花を半裁した様な形に彫られていますが、このような意匠は他に類例がないようです。
修理工事報告書に記載されている蟇股と本殿
    



春日神社本殿 国重文 建立:1273年 一間社春日造 檜皮葺 正面に軒唐破風付 背面は入母屋造 大阪府内最古の神社本殿
     

泉穴師神社

泉穴神社は異論もありますが672年の創建。この地方の古社で、和泉五社の一つで、大鳥大社に次ぐ和泉国二宮とされており、格式の高い神社です。加えて大阪府最古の神社建築や神像など、非常に多くの貴重な文化財を今に伝える神社でもあります。
1602年に豊臣秀頼が片桐旦元を奉行として社殿を再建しました。本殿は国重文 灯籠は楠木正成が寄進したもの、拝殿は豊臣秀頼が再建しました
   
正面に見えるのは二基の鳥居と拝殿、本殿はその奥です。拝殿は大規模で、平入の入母屋造理に千鳥破風と唐破風が付いています。慶長年間威建立されたものです。拝殿から奥の空間は塀で仕切られており、そこに本殿や多くの境内社が配置されています。撮影が難しいです。

本殿 国重文 建立:1602年 桁行三間 梁間二間 三間社流造 正面千鳥破風二ケ所付 階が左右二ケ所 桧皮葺
   
一間社流造二つを相の間で連結したもの。母屋の三方に縁をめぐらし、各神殿の前に階段を設け、下に浜床を間口一杯に造っています。
彩色並びに装飾的細部によって極めて華麗です。妻飾りの二重虹梁大瓶束、蟇股、脇障子の彫刻に桃山時代の特色が見えます。
彩色は和泉・河内地方に特有の極彩色文様を描いています。

蟇股は正面の各柱間や向拝に配置されています。向拝西側の蟇股(裏・表)と東側の蟇股(裏・表)
      
妻部
  

拝殿・社務所・手水舎・他の蟇股
           

長久寺 本堂
奈良県生駒市上町


長弓寺の創建にはいくつかの説がありますが、縁起には聖武天皇が発願、僧行基により造立されたとあります。
富雄川の谷筋にある長久寺本堂は、霊山寺本堂とともに、鎌倉時代中期の奈良地方における密教本堂の好例です。
 「万世をすめる亀井の水やさは、とみの小川の流れなるらむ」 富尾川は竜田・飛鳥とともに万葉の歌に良く出てくる小川で、いくつかの著名な古歌があります。
神仏混淆の時代に設けられた大きな石の鳥居をくぐると境内です。
  

本堂:国宝 建立:1279年 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋蔵 向拝一間 桧皮葺 大工:狛宗元 檜皮の大屋根が美しい
       
桁行五間、梁間六間を前後三間ずつに菱欄間と引違格子戸で仕切り、内外陣に分けている。狛姓の大工を通じて、長寿寺本堂とのつながりが考えられます。

蟇股は正面五間の各間と向拝の中備として用いられています。
向拝の蟇股
    
向拝の中央に用いられたもので、牡丹唐草の薄肉の透かし彫りが施されています。
組物は出三斗で、正面だけ彫刻入りの蟇股を置き、他は間斗束。蟇股の中心飾りはかなり発達していますが、堂内部のものはやや簡略されています。

各間の蟇股は、中心部を残して内外両面に薄肉彫りの彫刻を施しています。
その一
      
正面中央に用いられています。輪郭内には左右対称に蓮唐草を彫刻しており、上部両脇から中央の蓮花下に茎が伸びています。
唐草風の彫刻の中では最もすぐれたものとされ、唐草風の彫刻を施した最古の遺例です。
その二
  
左右対称蓮唐草の薄肉彫刻が施されています。左右対称とはいっても、幾何学的な左右対称でなく、子細に見れば輪郭を含めて若干の違いがあります。このことが自然さを感じさせない由縁でしょうか。
その三
  

本堂内部の蟇股及び板蟇股
     

絵巻に見る蟇股
「正徳絵巻縁起」に描かれている長弓寺本堂。筆者は長谷寺(桜井市)の第十世隆慶僧正で1715年(正徳5)にかかれたもの。隆慶僧正は長谷寺に入寺する前の貞享年間(1684~88)頃には長弓寺の住職をしていました。 蟇股が描かれています。
 

伊弉諾神社(いざなぎ)

長弓寺の境内東側に鎮座。寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守社として建てさせたものといわれます。
平安時代の『延喜式』神名帳に「伊射奈岐神社」として掲載され、『長弓寺縁起』では鎮守として
牛頭天王を祀ったとされ。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治以降伊弉諾神社と改称されました。

本殿は石段上に鎮座しています。


境内

舞殿と蟇股 舞殿は桟瓦葺 妻入 切妻造
     

割拝殿(平入 切妻像 銅板葺)から石段を上ると本殿
  

本殿 一間社 春日造 銅板葺
      

本殿を背にした左側に建つ建物(平入 切妻像 桟瓦葺) 内容は不明で神事の詰所?『座小屋』?蟇股がふんだんに使われていました。
   

蟇股
     

 

霊山寺本堂
奈良市中町3879

霊山寺については「蟇股あちこち-6 2020-10」の所で板蟇股を紹介しています。

霊山寺は長久寺と同じ谷で、長久寺の南方5㎞の距離にある。草創は聖武天皇、開山は行基と伝える。行基が創立した登美院の後身ともいわれます。
国宝の本堂のほか、南北朝時代の三重塔(国重文)や室町時代の鐘楼(国重文)を温存します。1384年の鎮守十六所神社(国重文)の建物もあります。

本堂 国宝 建立:1283年 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺
   
蟇股
    
蟇股は2か所見えます。向拝に一カ所、ここには薬壺が彫刻されています。本尊が薬師如来からでしょうか。もう一カ所は本堂前です。

本堂の棟木銘からこの本堂を造ったのは南都の工匠で、本山寺本堂(国宝1300年建立 香川県)や薬師寺東院(国宝 1283年建立 奈良」も建てたようです。
南都の先進的な建築技術が地方へ伝播する様子が分かります。

霊山寺で見かけた蟇股を並べます。

幸せを呼ぶ鐘~本山社務所
     

聖天堂?
  

白金殿・黄金殿
    
金殿は1961年に建立された総漆塗り金箔押のお堂で大辧才天を祀っています。白金殿は大龍神を祀っています。日本では珍しいプラチナのお堂


    

鐘楼 国重文 建立:室町初期 桁行一間 梁間一間 袴腰付入母屋造 桧皮葺
   
梵鐘は1644年の鋳造で、霊山寺の沿革と鋳鐘の由来を伝える。

手水舎
   

霊山神社の境内にあります「十六所神社」を紹介します。南北朝時代の本殿(建立:1384年)です。この時代の遺構は 約20棟あって、滋賀・京都・奈良・大阪に多く分布します。
細部の多様化がさらに発展し、地域性が顕著になるとされます。

十六所神社
奈良市中町3879

十六社神社は、霊山寺の本堂裏手にあって、霊山寺の鎮守です。
5つの社殿が蓋屋で保護される形で横並びに建っています。
 
中央の3社殿は室町時代の1384年建立とされ、蟇股・木鼻に華麗な装飾が施されています。他の2社は江戸時代の建立です。
左から春日社・住吉社・本社・龍王社・大神宮の五社です。
一間社流造、春日造の様式をもつ重厚感のある中央3社殿は国重文に指定されています。
明治までは鎮守神の役割を果してきましたが、明治の神仏分離で「十六社神宮」として独立しました。

社殿
春日社 住吉社
 

本殿

斗栱を三斗とし、庇・母屋とも柱間に蟇股を置き、頭貫先に木鼻を付ける。背面の妻飾りは虹梁大瓶束。庇の蟇股・虹梁、母屋正面の蟇股、背面の虹梁大瓶束に奈良系・大仏系の特徴がみられます。
木鼻は若葉を深い陰影をつけて彫ったもの。背面妻の大瓶束は上部が大きく膨らんで逆花瓶形をしている。
向拝の透かし蟇股


本殿蟇股
     
蟇股の脚元の曲線が庇・母屋正面のものは奈良系、側背面のものは京都系と異なっているといわれます。

龍王社
 

大神宮
 


法隆寺聖霊院 厨子
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1

厨子(国宝)は聖徳太子像が安置されている聖霊院内陣の奥にあります。
 
聖例院内部は表から外陣、内陣、後陣に分かれています。平安末期に
外陣と内陣の境は、透かし格子が嵌められています。内陣の奥は聖徳太子像と侍者像4体が治められた三間幅の大きさです。
軒に優美な唐破風や繊細な蟇股で飾られています。当時の優れた意匠感覚がうかがえます。
唐破風は平安時代からあったとされますが、遺物としては、これが一番古いとされます。

蟇股
   
輪郭は足元を軽快に広げた優美な形で、内側には3カ所茨を付、足元には円弧を連続させた形の繰形をつけている。
輪郭内には繊細ながらも左右対称の瀟洒な透かし彫りが施されています。

聖霊院 国宝 再建:1284年 桁行六軒 梁間五間 一重 切妻造 妻入 本瓦葺 正面一間通り庇付き 向拝一間 檜皮葺
   
回廊に囲まれた西院伽藍の東側、東室の南にある。12世紀初頭に東室が倒壊ししたのち、1121年の再建時に柱間六間分が改造されて聖霊院となり、聖徳太子像が安置されました。
そして約160年後の1284年に全面的な改造がなされ、現在の姿になりました。この時の改造はほとんど新築で、古材はつかわれなかったようです。
内陣の奥は聖徳太子像と侍者四体が治められた三間幅の造り付の厨子があります。

向拝の蟇股
  



大野神社 楼門
滋賀県栗東市荒張

旧中山道沿いに鎮座しています。

959年嵯峨天皇の勅願で僧願安が建てた狛坂寺(元亀年中に廃寺となった)の鎮守社で、金勝山の守護神でした。
菅原道真・大己貴命を祭神とし、呼び名は度々変わり、現社号は1869年に改称、現在に至ってます。
中世には武家の信仰を受け栄えました。
寺域は広く社殿全体を写せません。
2014年には25万人ともいわれるアイドルグループ「嵐」の聖地として、ファンが国内外から押し寄せ話題になりました。
  

蟇股は楼門(国重文)・中門・本殿・手水舎・摂社に見られます

楼門 国重文 建立:1274年 三間一戸楼門 入母屋造 檜皮葺 楼門としては、滋賀県内の遺構の中で最古です。
  
本殿の正面に東向きに建つ楼門は、鎌倉時代初期の建築で、屋根は楼門では最も多い入母屋造。
規模は比較的小さく、桁行三間、梁間二間、技法から鎌倉初期の件稚気とされます。下層の柱や沓石は後世のものですが、扉構(とびらかまえ)の形式は当初のまま。上層にも当初の柱や組物が残っています。建立時の木材はマツが主で、中央通りの4本の柱は直径30cm、前後の8本の柱は直径27cmで大斗(だいと)底面の四隅が柱からはみ出しています。

蟇股
   
片蓋で、上層正背面の中央間の中備に用いられており、輪郭は内角に面がなく、足元には賑やかな繰形を施しています。
輪郭内は中心飾りを欠如していますが、左右対称の平面的な透かし彫りに鎌倉時代の特徴があります。

海住山寺 文殊堂の蟇股と同系統と思われます (蟇股あちこち 2021-02 に記載済」
 

幣殿と初期板蟇股
   

本殿 三間社流造 間口三間三尺 奥行三間三尺 創建については未詳です。<南北朝~室町時代には将軍足利義尚や青地城主>が社殿の造・修営を行ったと社伝に残っています。
向拝と本殿前室
  

向拝の蟇股
   

本殿前室の蟇股 透かし彫り 極彩色の造り 室町時代のものと推定されます?

      

境内社追来神社 本殿
滋賀県栗東市綣

当社は、旧中山道沿いに鎮座する大宝神社(国重文)の境内に鎮座しています。
大宝神社は大宝年間(701~04)の創建とされる古社で、芭蕉が「へそむらの麦まだ青し 春のくれ」と詠んだ所です。
大宝神社本殿の右側に追来神社、左側に稲田神社が鎮座しています。
  
追来神社は、現在、国重文に指定されている一間社流造113棟ある本殿建築の最古の遺構です。

本殿 

国重文 建造:1283 一間社流造 檜皮葺 小規模であるが身舎は内陣と外陣に分かれている。古来は意布伎神社と称されていました。
      
社殿は、大宝神社本殿に向かって右手に鎮座します。
流造本殿の正面につく階段や縁を省略し、浜床を高床とした形式を見棚形式と称し、地方の小社殿にみられます。
小規模な一間社で土台建、舟肘木、疎垂木の素朴な意匠ですが、一般の神社の原形はこのような簡素な小社殿であったとされます。
鎌倉時代の特徴をよく表し、桧材で造られた最古の遺構とされます。側背面の蓑束は鎌倉時代のものではないようです。
稲田神社建立時(1375年)に向拝や縁廻りなどの修理が行われた際に当初の形式を失ったものもあるとされます。

蟇股
     
庇・母屋とも斗栱を連三斗とし、中備は母屋の正面に蟇股、側背面に蓑束を置く。蟇股の彫刻は左右対称の図案的な薄肉彫りで意匠的にも優れています。

境内社稲田姫神社 再建:1375年 改修:1692年 一間社流造 檜皮葺 1692年の棟札が残っています。

大宝神社本殿に向かって左側に建つのが境内社稲田姫神社。
規模、形式共に追来神社とほぼ同じですが、安土・桃山時代の棟札が残っています。彫刻や装飾が少なく、中世の伝統様式を意識した建築です。
蟇股は母屋正面にあります。
      

大宝神社
滋賀県栗東市綣

大宝神社は旧中山道沿いに位置します。疫病が流行した大宝元年(701年)に素戔嗚尊を地主神追来神社の地-現在地に遷座し大宝天王社と称したとされます。他に、文武天皇の代(697~705)年に、突然の大雨があり、その後に粟の木の老木に二人の奇人が現れ素戔嗚尊と稲田姫命であると告げ、これからは徳神となって、篤信の者を擁護すると告げて天に飛び去った。このことを奏上された文武天皇が「大宝天王」と社名を定め崇敬したと、諸説あります。
  
境内は西面し、表門・拝殿・本殿が中軸線上に並び、本殿前方に向かって追来神社が、左に稲田神社が配されています。
本殿、拝殿には蟇股は使われていません。

表門 国重文 建立:1718年 四脚門 切妻造 総欅造 本瓦葺 左右築地塀付 扁額は徳厳親王のもの。
   
由緒ある古門の正門にふさわしい構えを見せています。全体の木柄も太く、建物の建ちも高いことから堂々とした感じを受ける。宝鏡寺宮より寄進をうけたという社伝がうなずけます。絵様操形がかなり発達した様相を示し、一見した所とても享保の作には見えません。
大工は地元の西田小兵衛と地元の住人とされますが、京大工であったとおもわれます。
板蟇股と蟇股
            
         
参考
現在国重文に指定されている本殿建築は494棟で、その約60%が流造であり、その半数が三間社流造で最も多く、一間社流造113棟がこれに次いで多いです。地域的には全国にわたって分布しています。
現存する平安時代の遺構は唯一宇治上神社本殿があるだけです。 他は全て鎌倉時代以降です
宇治上神社本殿 (京都府 宇治市)
 

中世になって本殿に初めて現れる変化の一つは、前後に二分された平面を持った本殿の出現です。
「一間社流造」の本殿形式で、その変化の最古が追来神社の本殿です。
追来神社本殿 滋賀県栗東市綣 国重文 建立:1283年 一間社流造 桧皮葺
  

「春日造」の変化の早い例は天皇神社本殿です。
天皇神社 奈良県天理市備前町251 国重文 建立:1396年 一間社春日造 (大野木康夫氏撮影)
     

一室の本殿形式が内部を仕切って二室にし、さらに母屋の前に庇を付設することで「三間社流造」となりました。
神谷神社本殿は建立年代の明らかな三間社流造の最古の遺構です。
神谷神社本殿 香川県坂出市神谷町 国宝 建立:1219年 三間社流造 (瀧山幸伸氏撮影)
    
母屋は円柱、船肘木、庇は角柱三斗組で繁垂木を用い、礎石建で浜床を設けていません。蟇股などの装飾的細部もありません。向拝を取り付ける技法が十分に発達していなかった段階の建築です。

中世における社殿の発展は、建築技法、手法、技巧の発展を軸に捉えることが出来るといわれています。
中世には技術と意匠を誇った国宝本堂が多く残っています。順序を追ってまとめて行きます。
追) も長久寺、霊山寺については「板蟇股」で紹介しています。


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