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Monthly Web Magazine Apr.2021


■ 蟇股あちこち -12 中山辰夫

 

鎌倉後期の1300年に入る予定でしたが、高野山の「金剛峰寺不動堂」と「金剛三昧院多宝塔」が未紹介でしたので、今月紹介しますと同時に、高野山全般についても触れます。従い、今月は高野山オンリーとなります。

金剛峰寺 不動堂
和歌山県伊都郡高野町

     
不動堂の屋根の治め方の巧みさは古建築中の随一と評されています。優美な姿の仏堂で、屋根はこれ以上に間単には出来ない単純な形といわれています。
堂は縦長の方一間を母屋とし、周囲に庇をめぐらし、左右に一間の孫庇としての小室が設けてあります。

「縋破風造り」
 
屋根は、本堂に支えられる形で外側へ飛び出しているため、母屋に縋る(すがる)と書いて「縋破風造り すがるはふうつくり」と呼称されます。
平安期から鎌倉初期の構造物に多用された様式で、貴族の寝殿像に取入れられました。寺社の堂舎や殿舎にも取り入れられました。

この堂は、周囲縁側の前後左右の高さが違ったり、一隅が欠けたりして変化が多くあり、屋根も含めて、平面立面共に変化に富んだ珍しい堂といわれています。
これは建物の四隅に変化を持たすために工匠4人が別々に計画してそれを寄せ集めて造ったことによるとされています。
各小室と蟇股
     
北面西端間の中備に用いられている蟇股の輪郭は幅が広く、力強い形に造られています。輪郭内には蓮唐草が左右対称に彫られています。
蟇股
        

向拝の蟇股
  

舟肘木の間に置かれている蟇股 8全部で12個あります)
     
蟇股の脚間に左右相称系の唐草彫刻が彫られていますが、各蟇股の彫刻はいずれも相似な形に見えますが、子細に観察すると各々少しずつ意匠が変わっているとされます。

不動堂の建設には、重慶につながる東大寺工匠加わったという資料を散見しましたが未調査です。。
東大寺工匠である根拠は、向拝の細部、蟇股内繰物、須弥壇の細部形式などから推定できるとされています。
因みに金剛三昧院の多宝塔は栄西につながる建仁寺工匠の手によるとされています。

次は檀上伽藍です。

高野山に見る蟇股
世界遺産・高野山は、標高1000m前後の峰々に囲まれた標高約820mの盆地状の平坦地の総称です。
その平坦は東西4km、南北2.3㎞の広がりを有し、中央部を西から東に御殿川が貫流します。
西部に壇場伽藍、東部に奥之院があり、檀上伽藍・奥之院を除く平坦地には高野十谷と呼ばれる谷々がひろがっています。

国宝の金剛峯寺不動堂・金剛三昧院多宝塔以外の社殿に用いられている蟇股を巡ります。
境内を、壇場伽藍ブロック・金剛峯寺ブロック・奥の院ブロック・その他に分けて紹介します。

檀上伽藍ブロック
弘法大師が高野山を開創された折、真っ先に整備に着手された場所です。古来より奥之院と並んで高野山の二大聖地として信仰を集めています。
19のお堂や塔があります。鎌倉時代の遺構は不動堂のみで、再建されて新しいものが多いです。
  

中門 創建:810年 再建:2015年 五間二層の楼門 桧皮葺 大きさ:東西25m、南北15m、高さ16m 現在は8代目
    
創建以後焼失を繰り返し、1843年の焼失を最後に建て直しがされなかった。高野山開祖1200年を記念して172年振りに再建されました。

金堂 再建;1932年 創建:838年(推定) 奥行30m 横幅23.8m 高さ23.73m 入母屋造 竹田吾一の設計による。高野山の総本堂です。再建7度目
      
弘法大師空海が開創した当時は「講堂」と呼ばれていましたが、平安時代後期より改められて「金堂」に。年中行事の大半がここで行われます。
内陣の左右に、平清盛が奉納した両界曼荼羅の複製が掛かっています。清盛が自らの血で中尊を書かせたとされ、「血曼荼羅」ともよばれます。
 

六角経蔵 再建:1934年 創建:1159年二重六角造 鉄筋コンクリート造 鳥羽法皇の皇后・美福門院が法皇の冥福を祈るために建立されました。
    
経蔵の基壇付近に把手があって引廻しが出来るようになっています。一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳を得ると云われました。

御社(みやしろ 山王院本殿)) 国重文 再建:1594年 桁行21.3m 梁間7.8m 入母屋造 両側向拝付 桧皮葺 総社は「三間社見世棚造」 彩色 彩色された蟇股が用いられています
            
空海は高野山 開創の際、山麓の丹生都比売神社より、二匹の犬とともに空海を高野山へ導いた神谷明神と空海に高野山を授けた地主神の丹生明神の二神を勧請し、高野山の鎮守としました。高野山の堂塔で最も早く開かれた神社です。
社殿は三つあり一宮は丹生神宮、二宮は鋼の明神、三宮は総社 丹生、高野明神は春日造、総社は三間社流見世棚造で、いずれも檜皮葺屋根です。

山王院 国重文 再建:1594年 創建:816年「推定」 桁行21.3m 梁間7.8m 両側面向拝付入母屋造 桧皮葺
      
御社の拝殿として平安時代に建立されました。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味です。

西塔 再建:1834年 創建:886年 二重多宝塔 擬宝珠付多宝塔 高さ27.27m 
    
光孝天皇の勅命で建立。根本大塔と一対となる重要な塔です。

孔雀堂 再建:1983年 創建:1200年入母屋造 平入 桧皮葺 素木造 同社の四辺に縁が回る。本尊は快慶作の孔雀明王像(国重文)
     

准胝堂 再建:1883年 創建:887年(推定)入母屋造 平入 正面向拝付 小松天皇の御願により創建。973年頃お堂が完成しました。
    

御影堂 再建:1848年 桁行三間 梁間四面 向背付宝形造 桧皮葺 紀州藩を壇主に再建 堂前には「三鈷の松」と防火用のドレンチャー設置
        
屋根の勾配曲線が美しい建物です。弘法大師の持仏堂として建立されましたが、入定後は大師の御影像を奉安し、御影堂と名付けられました。
四面に蟇股が配されています。向拝の裏側に蟇股が、その下の貫には龍の彫刻が見えます。

三鈷の松
 

根本大塔 再建:1937年 創建:816~887年 二重多宝塔 朱塗 鉄筋コンクリート造 四面はそれぞれ幅約23.5m 
    
空海が唐から伝えたとされる日本最初の多宝塔。堂内は立体曼荼羅の世界
建設に多くの時間がかかり空海は完成を見ずに入定しました。以後落雷など5度の焼失と再建を繰り返しました。
板蟇股が用いられています。

大塔の鐘 創建:819~91年 再建:1547年 入母屋造 本瓦葺 梵鐘の大きさ:直径:2,12m 屋根は八脚で支えています。
   
火災などで三度ほど改修(改鋳)されました。日本で4番目に大きいことから高野四郎と呼ばれます
蟇股は、「貫」の上に用いられています。木の形が模られ、根っこの部分が大きく上に向かって彎曲を描いています。

愛染堂 再建:1848年 創建:1334年 後醍醐天皇の綸命で建立されました。何度も罹災しました。
  
蟇股は四面に配されています。計2枚
        

不動堂 別に記載
  

三昧堂 再建:1816年 創建:929年 方形造 四辺約2m 桧皮葺 
   

西行桜

 

貴族であった西行が僧侶へ転身。1149年に高野山に足を入れました。当寺の高野山は落雷の被害を受け、復興の寄付を求める「高野聖」が活躍中でした。
西行も加わって諸国と高野山を含め30年を過ごしました。三昧堂新築の時に手植した桜は、三昧堂が再建された江戸時代後期に涸れたようです。

大会堂(だいえどう) 再建:1848年 建立:1175年 入母屋造 向拝付 桧皮葺 集会場
           
鳥羽上皇の皇女と春日野局が上皇の菩提を祈り、1175年に建立した蓮花乗院を、1177年に西行法師が伽藍の地に移建した同院の後進堂です。
堂の東に西行桜と伝承のある老桜が今も花を咲かせています。

東塔 創建:1127年 再建:1984年 二重多宝塔 1843年の高野山大火の際に焼失
   

鐘楼
  

御供所
  

大門 国重文 創建:1141年 再建:1705年 五間三戸 二重門 高さ25,1m 銅瓦葺(瓦棒葺帰姉がy一階部分と二階部分の二つ屋根
      
高野山の入口に聳える一門の総門。左右に金剛力士像を安置。この仁王像は東大寺南大門に次ぐわが国二番目の巨像です。
門前大河三手先の出組 長押や貫には禅宗様を示す渦巻き模様や、極彩色で描かれた波文様や牡丹と思われル花模様が描かれています。

金剛峰寺

総本山 金剛峯寺
高野町高野山132
全国約3600ケ寺ある高野山真言宗の総本山 高野山の中心寺院です。
現在の建物の前身は、豊共秀吉が母の菩提寺を弔うために建てた、「青巌寺」と呼ばれていた寺でした。
1869年に隣接の興山寺と統一して「金剛峰寺」となりました。もともと「金剛峰寺」は高野山一山の総称です。
金剛峰寺の名称は、空海が『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祗経yugayugiきょう』途いうお経から名付けられたとされます。

正門 再建:1593年
         
金剛峰寺の建物の中では一番古い建物です。昔は天皇や皇族、高野山の重鎮しか門をくぐることが許されず、一般の僧侶は脇の小さなくぐり戸(右側)を使用していました。

境内全景
     
主殿、別院、書院、経蔵、鐘楼、阿字観道場などが建ち並びます。
境内は約4万8300坪の広大な敷地、東西約60m、南北約70m 日本最大の石庭を有しています。

主殿 再建:1863年 東西54m 南北63mの書院造建築 桧皮葺 檜皮葺の屋根と意匠を凝らした堂々たる佇まいです
高野山真言宗管長(座主)の住坊であり、高野山で最高にして最大の格式と威厳を有する僧坊客殿です。
山上寺院では最大規模の建造物で、和歌山県指定文化財です。 境内地は国指定史跡です。

主殿の表玄関と左右の小玄関
          

大玄関(表玄関)の彫刻
       

天水桶
 
火災で幾度も焼失した教訓から、類焼を防ぐため、雨水をためておきます。

経蔵 国重文 建立:1679年 桁行6.26m 梁間4.30m 塗籠造 唐破風付三間四面の入母屋造 桧皮葺 覆屋の中に建つ。
   
火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟に建てられた。前身の青厳寺より移築。

鐘楼 再建:1864年 桁行三間 梁間二間 袴腰付入母屋造 
       
前身の青厳寺より移築 

会下門(よかもん)
    

主殿、他の内部は省略します。


次は高野山 霊屋です

奥の院ブロック

高野山 霊屋(たまや)
ここでは、高野山独特の霊廟建築(国重文)を紹介します。

奥之院は、入定後1200年経った今も、禅定を続けているとされる弘法大師空海の御廟がある聖地です。世界最大規模の墓地ともいえます。
約2㎞の参道の両側には、多くの五輪塔や墓石、霊屋等が建立されています。
「 父母の しきりに恋し 雉子の声」 松尾芭蕉の句碑 「・・・・ありがたや 高野の山の岩かげに 大師は今も おわしますなり」 枕草紙

上杉家霊廟 国重文 造立:1615~60年 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺 木造、小規模な霊屋として典型的。
     
奥之院参道、中の橋の手前に建つ上杉謙信、景勝の廟墓です。謙信の名は1574年、45歳で上洛し、高野山を訪れた時に贈られた法名といわれています。
隅々まで極彩色が施された17世紀初頭の木像霊屋で、高野山の大名霊屋としては最古です。蟇股が配置されています。

佐竹義重霊屋 国重文 建立:1599年 桁行・正面三間 背面一間 梁間一間 一重 切妻造 桧皮葺
     
常陸の国(茨城県)の戦国大名 柱に残る刻銘より造立時期が明らかです。
木造の五輪塔型卒塔婆の角材47本を柵状に建て並べ壁にと多珍しい意匠です。

次に紹介します「徳川家霊台」は、奥之院から少し離れた場所にあります。
日光東照宮とほぼ同時期の寛永年間に造営されました。徳川家康と秀忠の位牌堂 内部は豪華絢爛の須弥壇と厨子が安置されています。
東照大権現を祀る建物には幕府の許可が必要で、装飾技法の粋を極めた霊屋を造ることで徳川幕府の忠誠を誓う証しとしたとされます。
構造材に1633年、彫刻に1642年の墨書銘が残され、落成は1643年とされます、建造に十年の歳月をかけたようです。
霊屋や厨子の見事な彫刻は経の彫師、塗師の手になると記録にあるようです。

山門と蟇股
        

徳川家霊屋 正面が家康 左側に秀忠
  

家康霊屋 国重文 建立:1643年 桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、向拝一間、軒唐破風付、銅瓦葺
          
正面の蟇股の彫刻は「虎」です。

秀忠霊屋 国重文 建立:1643年 桁行三間 梁間三間 一重 宝形造 向拝一間 軒唐破風付 銅瓦葺
         

正面の蟇股には「うさぎ」が彫刻されています。


        

 

金剛三昧院 多宝塔
和歌山県伊都郡高野町高野山425

高野山内で、金剛峰寺が管理する以外で、唯一世界遺産に登録されているお寺です。
国宝の多宝塔は北条政子が源頼朝と子・実朝の菩提を弔うために建立されました。
やや奥まった所にあるため、幾度もの大火から免れ、創立当時の伽藍を始め鎌倉時代の遺構が残っています。


多宝塔 国宝 建立:1223年 檜皮葺 高さ14.9m 日本で石山寺の多宝塔に次いで2番目に古い多宝塔 高野山で現存するもっとも古い建立物です。
   
石山寺のものと同じく裳層を広くとり、安定感に富んでいます。
石山寺の多宝塔には台輪を用いていますが、この多宝塔は頭貫だけです。この方が多宝塔本来の姿を示すともいわれます。

蟇股
        
勾欄のない縁をめぐらし、中央間板唐戸。脇間連子窓、中備は三間とも美しい蟇股を用いています。


金剛三昧院

1211年北条雅子の発願により源頼朝菩提のために、禅定院として創建されました。
1219年源実朝菩提のため、禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰されました。
鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院であったため、高野山の中心的寺院の役割を担いました。
諸々の経緯のあと、金剛峰寺の院家として扱われるのは江戸時代初期からとされます。

境内には本堂・位牌堂・護摩堂・多宝塔・三門・経堂・本坊などが並びます。天然記念物指定のシャクナゲ、樹齢800年を越えるご神木があります。

経蔵 国重文 建立:1223年 校倉造 桧皮葺 
   
多宝塔と同時期の建立とされ、数少ない鎌倉時代の校倉造として貴重とされます。

本坊・客殿・台所・車庫 国重文 建立:江戸時代
    

四所明神社本殿 国重文 建立:1552年
        
高野山の守り神である丹生神社・高野神社・気比神社・丹生御息の明神様を祀っています。
山門 建立:江戸時代後期 重層

本堂 
       

表門 建立:江戸時代後期 重曹
  

昨年10月に訪れた日は雨で撮影できませんでした。今回は、コロナの真最中。さすがに参拝者は少なく、お店も締まった所が多かったです。
電車の乗継で行きましたが遠く、途中でへばりました。其のため、欠けるところが多かったようです。

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