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Monthly Web Magazine June 2021


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■ 蟇股あちこち -14 中山辰夫


今回は鎌倉時代後期の社寺が対象です。多くの地域にまたがりますが、それぞれ特異性があり、つながりも見えます。
1286年 大山寺阿弥陀堂・大神山神社奥宮(鳥取)、1308年 苗村神社 西本殿(滋賀)、1318年 春日神社本殿(滋賀)、1320年 宇太水分神社 本殿(奈良)、1321年 明王院 本堂(広島)、1327年 浄土寺 本堂(広島)、1332年 御上神社 本殿(滋賀)、鎌倉後期 讃岐国分寺 本堂(山口)、孝徳寺 観音堂(大阪)、西明寺 本堂(滋賀)が今月の内容です。


1286年 大山寺 阿弥陀堂   
鳥取県大山町大山

大山寺は天台宗の古寺で、山陰一の名峰大山の麓にあります。718年に開山されました。
全盛期には1000を越える寺院と3000人以上の僧兵を抱え、高野山の金剛峯寺や比叡山の延暦寺と並ぶ日本屈指の大寺院でした。
戦国時代には中国地方の諸将の崇敬を集めていました。
しかし、明治の神仏分離・廃仏毀釈により大山寺の号が廃され、大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡しました。
これにより大山寺は急速に衰退しました。1903年に号が復活されました。数多くあった寺も現在は4つの参拝堂と10の支院を残すのみです。
本堂は天台宗の古刹で、1928年の火災で焼失したものを1953年に再建されました。阿弥陀堂は本殿から徒歩約半時間、林の中にひっそりと建っています。

門前町の石畳の道を登りつめると、山門の楼門が見えてきます。
  

山門 蟇股は使われていません
   

本坊・西楽院跡
   
大山寺は慶長年間(1596~1615)以来鳥取藩の中で一種の治外法権的な地域をなしていました。この大山領を治めていた役所が本坊西楽院で
大きな石垣と石階段が残り往時の壮大な建物を偲ばせます。

水盤舎、不動堂、錫杖型の総輪塔状のもの、宝篋印塔、牛の像、鐘堂を過ぎると本堂です。

本堂 再建:1951年 桁行五間 梁間六間 宝形造 向拝三間 1928年に焼失 遠目には中世建築に見えます。
      
木割も太く、堂々とした建物 木鼻の意匠も古風 内部は2間を外陣、一間の内陣、その奥に内々陣を置いています。折衷様式です。

蟇股は向拝に3個並んでいます。
    

護摩堂・鐘突堂は省略

阿弥陀堂へは本堂から30分ほど歩きます。

阿弥陀堂 国重文 建立:1286年 桁行五間 梁間五間 向拝一間 寄棟造 こけら葺 本尊の阿弥陀如来坐像は平安末期の作で国重文です。
    
全体の意匠は和様をベースとし、鎌倉時代の和様仏堂の伝統を守っています。
正面二間分を外陣、三間に二間の内陣をその奥に設け、一間幅の脇陣や後陣で囲みます。蟇股は向拝正面にあります
向拝は江戸時代の補加で組物は出三斗、中備は太く素朴な感じです。木鼻は大ぶりで力強いですが最初のものと違うようです。

大神山神社奥宮
鳥取県大山町大山寺

大神山神社は大山の中腹のあって、もと大山権現と称して、大山寺と一体の修験道の霊場として栄えていましたが、現在は明治の神仏分離で別になっています。
平安時代後期の創建と伝わりますが、その後火災消失を繰り返し、1805年に現在地に復興しました。
奥宮はともに同時期に再建されました本社と末社下山神社とからなり、江戸時代後期を代表する壮大な権現造の神社建築です。

大山寺山門近くに分かれ道があり、この自然石を敷き詰めた700mほどの石畳の参道は国内最長とか。立派な銅製鳥居を経ると左側に西楽院跡が見え、栄えた時の伽藍がうかがえます。

神門 県指定 再建:1857 四脚門 入母屋造 軒唐破付 檜皮葺 高さ84m 元大山寺本坊西楽院表門 1801年刻印のある狛犬 逆門ともよばれます
    
間口が5mを越える巨大な四脚門 蟇股が見えます
石段を登ると拝殿です

本社本殿・幣殿・拝殿 国重文 再建:1805年 本殿:桁行三間 梁間二間 入母屋造 向拝三間 拝殿:正面三間 側面三間 入母屋造 妻入り 軒唐破風付 左右翼廊各八間付 幣殿:正面三間 側面四間 両下造 桧皮葺 大工:三輪平太
      
本殿とその前方に接続する拝殿幣殿からなります。本殿は平入の入母屋造ですが、拝殿幣殿は長大な入母屋蔵の妻入りで、本殿と棟を直交させています。
さらに拝殿両側に翼廊を出し、屋根の重なり合う複雑な社殿構成で目を見張ります。こうした形式はこの地方に多いですが、当社の規模は比類なく大きいです。

撮影できた蟇股を並べます
     
斗遽間には蟇股彫刻があります。

拝殿正面の蟇股
    

拝殿内部
            
内部は美しく彩色され、幣殿の格天井には華麗な花鳥風月が描かれています。
柱等の金色は日本最大級の白檀塗り。彫刻や彩色壁画が囲みます。白壇塗りは、銀箔を貼った上に生漆を塗ってその化学変化により金色を出す技法です。
欄間等に使われることはありますが、これだけ大規模のものはまれとされます。

この立派な社殿の造営は京都から招かれた名匠三輪平太です。余りの腕前を地元の大工がねたみ、立柱の時に柱の長さを切り縮めてしまい,その責で自害して果てたと伝わっています。

末社下山神社本殿拝殿幣殿 国重文 建立:1805年 本社の縮小型です。
本殿:桁行三間 梁間二間 入母屋造 向拝三間 拝殿幣殿 正面三間 側面五間 入母屋造 妻入り 軒唐破風付 左右翼廊一間付 桧皮葺
     
入母屋の反り屋根の曲線がうつくしいです。、


蟇股彫刻 軒唐破風彫刻 「撮影:酒井英樹氏」
     

賽の河原
   
大山から崩れた安山岩がたまっている佐陀川の河原。置き土産のようなケルンを方々に見かけます。厳しい岩肌をおらわしてそそり立つのが北壁です。


 

1308年 苗村神社 西本殿 東本殿
滋賀県湖南市竜王町綾戸467

苗村神社・御上神社・大笹原神社は琵琶湖の南東に広がる平野に立地し、現本殿が建立された中世には地域の有力大社として各々重きをなしました。
三社の本殿は、ともに平面規模が正面三間、側面三間で、柱の配置も大体同じですが、それぞれに特徴があります。

苗村神社は近郷三十三カ村の総鎮守、氏子圏は東近江市、近江八幡市におよびます。正月の門松に使う松の苗を禁裏に献じた事で苗村の字を写したとされます。
苗村神社は敷地の東西二社からなり、境内に十禅師社があることから、中世は延暦寺と関係があったとされます。
  

西本殿 国宝 建立:1308年 三間社流造 向背一間 桧皮葺 附 厨子 1476年に大修理。 県内に多くある中世本殿の中で、この本殿が最も古く、全体の形態、意匠に最も優れた代表的な本殿です。
    
塀で取囲まれているので全体は見えません。左に八幡社(国重文)、右に十禅師社(国重文)が建ちます。中央が三間社流造の本殿です。
正面側に菱格子の部分が外陣、後方2間の縁の高い部分が内陣。屋根の勾配は緩やかです。内陣廻りの組物は舟肘木を用いる簡素な造りで、向拝と外陣廻りを三斗や蟇股で飾っています。

蟇股
     
蟇股は正面中央間の庇の中備に用いられたもので、輪郭は太山寺本堂の蟇股のように幅が広く、堂々とした形に造られていますが、足元の繰形は扁平な形となっています。
輪郭内の透かし彫りは左右対称に蔓唐草を彫っていますが、蔓は中心飾りの下で左右に分かれて巻き上がるような形に彫られ、中心飾りの瓢箪形は3つの宝珠を杉形に重ねた形で、向い合った2本の蔓で表現されています。 

東本殿 国重文 建立:室町時代後期 一間社流造 桧皮葺 正面に蟇股が用いられています。
   
飛地の東境内に、この建物が一棟のみ所在しています。一間社としては背の高い大型本殿です。正面に4個の吹き寄せ格子戸をたて、少し入った所に内外陣境をつくり幣軸に付いた扉を立てます。

蟇股は室町時代の様式を備えています。
 

楼門 国重文 建立:1522年 三間社一戸楼門 入母屋造 茅葺 板蟇股が用いられています。
      
西本殿と直角に折れ曲がった参道に面して建っています。

手水舎
   

境内社

八幡社本殿 国重文 建立:室町時代後期 一間社流造 桧皮葺 西本殿の西脇にあります。
    
小型の一間社、組物出三斗に蟇股を入れた華やかな建物、正面柱間に装置を付けず、それにより奥に内外陣境の板扉を付けています。蟇股は左右対称に唐草と花が彫られています。

十禅師社本殿 国重文 建立:室町時代後期 一間社流造 桧皮葺 西本殿の東脇にあります。
  
八幡社よりされに小規模な一間社。身舎は舟肘木、向拝は連三斗の簡素です。

参考
1476年の棟札によると、造営には「九村の老少男女一人残らず人別廿文(にじゅうもん)ずつ持って出作」とあり、塗師は八日市赤金、大工は横関、鍛冶大工は綾戸、という具合に、すべて近郊の工人によって修復がなされたとなっています。村民が鎮守の維持管理に関与を深めていた様子がわかります。


 

1319 春日神社 本殿 佐久奈度神社 御旅所 八幡神社 
滋賀県大津市大石富川町

大石地区は、大津市の南端にあります。南・西部を京都府宇治市・宇治田原町に接し、東南部を甲賀市信楽町、北西は南郷町、田上地区に接しています。標高200~400m前後の山地、丘陵が地区の大部分を占め、平野部は僅かに瀬田川と信楽川と大石川が合流する地点にあるだけです。
位置関係
 

八世紀以降、緒木材の供給地として緒寺造営用の「杣」が設置されました。大石山より檜皮を大量に収納したことが「正倉院文書」にも見られ、石山寺増改築の諸材供給地として重要な役割を果たしました。
紙本著色石山寺縁起
 
大石地区といえば、赤穂藩家老大石良雄を出した大石家の本拠地として知られています。

春日神社 本殿

富川の磨崖仏を過ぎた先、信楽川に沿って建つ古社。
  

本殿 国重文 建立:1319年 桁行二間 梁間二間 一重 入母屋造 向拝一間 檜皮葺 二間社入母屋造の最古の建築物です。
写真
屋根は急勾配で、正面二間の向拝が付いています。身舎の正面は格子戸を引違いとし、内外陣境は幣軸板扉構え、内陣は板壁で左右2室に区画しています。身舎と向拝をつなぐ虹梁は後世海老虹梁に替わっていますが、当初部材の残存率が高いです
  
鎌倉時代の入母屋造の神社本殿は遺構が少なく、特に貴重とされる二間社入母屋造の遺構はさらに数少なく、滋賀県は御上神社とここの春日神社とに当代の優秀な遺構を残しています。特に当社の二間社はめずらしく、二間社のため本殿中央に柱が位置する構造は、全国的に類例が少ないです。
他には、群馬県の雷電神社境内に建つ八幡宮・稲荷神社社殿(国重文)があります。 (瀧山幸伸氏撮影)
 
蟇股
本殿及びその周辺の蟇股が素晴らしいです。 
向拝中央の蟇股
    
二個の蟇股は中の彫刻が欠損していますが、一部残る断片から実相花唐草であったとわかります。室町末辺りの作と思われます。

中門周辺の蟇股
    

本殿の蟇股
栱間に並ぶ二個の蟇股は輪郭も流麗で、脚内彫刻も初期蟇股の伝統を伝える実相花唐草の見事な意匠で、当代蟇股の代表的な実例です。

   
向かって右側の蟇股です。彫刻は中央に実相花の開花を置き、左右の上方より茎の唐草が垂下して中心花を擁しつつ巧みに脚内の空間を満し、さらに中心花の上には二匹の鳳蝶が向い合せに配されています。この彫刻は左右対称で、宇治上神社本殿蟇股から当麻寺曼茶羅堂閼伽屋軒廻り蟇股彫刻と全く同じ図案意図からなっています。
実相花に蝶は美術工芸の意匠としては古くから用いられてきた題材で、正倉院御物にも多数実例がります。平安時代にも鏡文様や螺鈿装飾などに用いられ、中尊寺金色堂の須弥壇羽目にも見られます。しかし、建築彫刻に於いては実相花に蝶は比較的に珍しく、しかも建築彫刻全盛の桃山時代に至っては実相花が牡丹に置き換えられた結果、その伝統は殆ど廃れてしまい、たまたま、二条城唐門に牡丹と蝶の大きな彫刻を見る程度になってしまいました。
鎌倉時代の双蝶と実相花の組合せ蟇股は尾道浄土寺多宝塔に好例がありますが、左右相称の図案意図は当本殿と全く同様です。

   
左の蟇股で、図案配置としては、右側のそれと全く同じです。ただ実相花の中心花がここでは蓮花上の宝珠になっています。蟇股の中心彫刻に宝珠を用いた実例は珍しくないですが、本蟇股の宝珠の部分は後補とも思われます。最初は梵字が入っていたのを近世になって仏寺的なものを忌むところから取り去ったのでないかと思われます。これに似た例は、小野浄土寺の八幡神社本殿の蟇股にあります。神社に梵字や蓮は差支え無かったです。

図柄について、同じ地区の佐久奈度神社御旅所の蟇股との類似が指摘されます。(後述)

明治の建立とされる拝殿と蟇股
       


佐久奈神社御旅所社殿
滋賀県大津市大石中町三丁目

佐久奈度神社から東南の方向の山裾に同社の御旅所社殿があります。
この社殿は、江戸時代佐久奈度神社の本殿造り替えの時に、鎌倉時代の古い本殿の部材を用いて建てられたもの。
御旅所社殿 切妻造 一重 茅葺 平入
 
向拝の虹梁や木鼻も古い形式のものが残っています。旧本殿の建築を知る上で貴重とされます。

蟇股
      
上部の斗を欠損していますが、ほとんど完形に近い形で残っています。彫り方は左右対称で、牡丹と蝶の組合せなど、古い形を残しています。
透彫りの蟇股の図柄は、中央に牡丹の花を、その両側に蕾や葉などを対照的に配し、さらに牡丹唐草や花の両側には蝶を対に彫り出しています。
この図柄が、近くの春日神社本殿のものと類似しているとされます。彫刻の意匠の変遷を知る上で貴重とされます。

佐久奈度神社
滋賀県大津市大石町56

大石の玄関口の鹿跳橋を渡ると右側の高台に社殿が見えます。瀬田川の清流が直角に右へ曲る所に位置しています。1964年に現在の位置に移転しました。
社旗よれば、669年に天智天皇の勅命で社殿が創建されたとあります。平安時代から「七瀬の修祓」の一つと知られています。
【本殿〕三間社流造 間口四間 奥行二間
〔拝殿〕入母屋造正面唐破風付 間口四間 奥行三間
〔その他〕幣殿 北門 神饌所 斎館 参集殿 神輿庫 休憩所 相撲殿 手水舎 御旅所(市文) 社務所 社
         



八幡神社蔵蟇股・欄間
大津市大石龍門三丁目

現在の八幡神社には旧八幡神社に用いられたと推定される蟇股三枚と欄間三枚が保存されています。

蟇股
   
完存品で計測すると、脚の長さが79cmです。
いずれも中心上部の円形内に梵字を、その周囲に牡丹唐草または蓮華唐草を彫った透蟇股です。いずれの彫りも凹凸の少ない古式です。
図柄は左右対称で、両肩から中心に向かっておりてきた茎が中心で一つになって花を咲かせ、その上に梵字を飾る形です。

欄間
 
長いもの(141cm×40cm)1枚と短いもの(118cm×40cm)2枚あります。長い方は蓮華唐草、短い方は牡丹唐草です。大体左右対称で、彫りは扁平です。
長い方に墨書が残されて、1354年奈良東大寺の工匠が造ったことが判ります。
蟇股・欄間はともに手法が共通していることから同じ工匠の手になるものとされます。

旧八幡神社は、948年に創立された椋本神社を産土神として崇敬してきましたが、1352年に龍門庄開発神の椋本大明神(くらもと)・大石大明神・稲荷大明神三神が一社に合祀され、新しい社殿を建立されました。
社殿修造に際して、その度に龍門庄々民が基金を出した記録がのこります。庄民の基金のあり方に、この八幡神社が龍門地域の重要な精神的紐帯の役割を果たしていました。

現在の八幡神社
当社は1502年に八幡神社と改称しました。
〔本殿〕 三間社流造千鳥破風唐破風付 間口三間 奥行二間 【拝殿〕入母屋造 間口二間三尺 奥行二間 【その他〕中門 神輿庫 手水舎 社務所
 
境内社として椋本神社を祀っています。


1320 宇太水分神社本殿 (うだみくまりじんじゃ) 
奈良県宇陀郡菟田野町古市場

水分神社は水分の地に水徳の霊を祀る社です。当社は上水分宮と称し、この水下の榛原に近い下井足の宇太水分神社を下水分宮と相対しています。
古建築のある宇太水分神社を式台社として水分の本社とsuることには異論があるようです
毎年10月21日に行われる「御渡」は1000年以上の歴史を持つ、奈良の代表的な祭りです。

大きな鳥居が立つ参道を進むと樹齢500年のケヤキや杉に囲まれた境内、sono荘厳な雰囲気の中に先ず割拝殿が姿を見せます。
   
その後方に山を背にして石垣積の瑞垣をめぐらした中に五棟の社殿が並立します。
向かって左側の大きな三棟が本殿、右が摂社です。摂社のうち、左側が春日神社本殿(国重文)、右側が宗像神社本殿(国重文)です
   
三棟が並列する本殿は、向って右から第一、二、三殿と称し、いずれも規模、形式が同一であり、等間隔に一列に並び均整のとれた美観を呈しています。
三殿連結は水分神社に多い形式で、水分造と称されます。宇多水分の本殿は連結様式の源をなす社殿として建築史上重要視されています。
同時に当社殿は、彫刻装飾その他の意匠において、見るべきものが多く、当代の神社建築の興味深々の神社とされます。
第一殿の棟木墨書から1320年の建立です。創立は崇神天皇7年の時代で、2003年の社殿塗り替え時にわずかに残された色彩をもとに復元されたようです。

1320年 本殿 三棟 国宝 建立:1320年 三棟 各一間社 第一・第三殿は隅木入春日造(最古) 桧皮葺
 
三棟は全て同規模の隅木入春日造です。隅木入春日造は、春日造の一種で、正面両端の屋根を見上げた時、柱筋45度の角度をなす隅木が入る形式です。
宇太水分神社は、建築年代が分かっている最古の隅木入春日造社殿で、三棟は脇障子でつながっています。
斗栱は庇を連三斗実肘木で繋ぎ、母屋を出組とし、庇の斗栱の裏側に手挟を用い、中備は各柱間に蟇股を置き、大仏系の頭貫鼻をつけています。
母屋の架橋は、出組、軒支輪付で、正面・側面とも、中備に蟇股を入れています。
各社殿とも丹塗りで木口は黄土、頭貫や内法長押し、柱上部、組物などには文様が描かれています。建築彫刻と相まって極彩色の華やかな社殿です。

蟇股 各殿背後の一個は板蟇股で、その他の三方及び向拝蟇股には種々の彫刻が施されています。
室町から江戸にかけて順次付け加えられたものです。各殿とも左側面は中世的な左右対称の彫刻が施されていますが、それ以外は近世的で、立体的です。


それ以外は「龍」「竹に雀」「雲に瑞鳥」「水鳥」「竹にトラ」「南天に鷹」、鯉に乗る仙人を描いた「琴高仙人」「牡丹に獅子」等、いかにも近世的です。
向背にも彫刻の入った蟇股が置かれています。いずれの蟇股も立体的にできています。

第一殿と蟇股
  
向拝に龍、身舎正面に鯉上老人、西面は実相花唐草模様、

中央殿
    
向拝は葦間に鶴、身舎正面に竹に虎、西面に宝珠を有する実相唐草

第三殿
     
向拝は龍、身舎正面に竹に雀、西面には実相花、東面は雲と瑞鳥

蟇股は殆ど撮影できません。説明に 第一殿「菁龍」 第二殿 「白鷲」 第三殿 「菁龍」 とあります。
蟇股の説明2件です
 
この蟇股は当初の片蓋の蟇股で第三殿の左側面に用いられており、輪郭内には牡丹唐草と思われる左右対称の透かし彫りが施されています。この蟇股も図柄の表面は平坦のままで、このような透かし彫りは鎌後期の宇治神社本殿(京都府・重文)の蟇股に類型が見られます。

 
この蟇股は片蓋の蟇股で第二殿身舎の左側面に用いられており、輪郭は足元の繰形を長くしており、輪郭内の透かし彫りは左右対称の蓮唐草とし、中心飾りは宝珠を矩形にかさね、宝珠の周りを蔓で囲んだ形としています。茎・葉・花などは彩色によってあらわしていました。・

末社春日神社 国重文 建立:室町時代中期 一間社隅木入春日造 桧皮葺
    
本社本殿と同じ形式ですが、規模を一回り小さくし、身舎組物を出三斗にするなど内部を簡略化しています。

末社宗像神社 国重文 建立:室町時代後期 一間社流造 桧皮葺
   
 
手水舎
   


1321 明王院 本堂
広島県福山市草戸町

明王院については「蟇股あちこちー6 2020-10」の板蟇股の項で紹介しております。
ここでは補足と、関連を紹介します。

広島県の福山市と尾道市には鎌倉時代から南北朝にかけての優秀な古建築が多くあり、中でも明王院(福山市)と浄土寺(尾道市)とはよく対比されます。
明王院:本堂【国宝】 建立:1321年 浄土寺:本堂【国宝】 建立:1327年 明王院:五重塔【国宝】 建立:1348年 浄土寺:多宝塔【国宝】 建立:1329年
建立年代がさほど離れていませんが、両者の建築様式、装飾内容、他に差異がみられ興味深いです。

明王院の創立は奈良時代に遡ります。もと常福寺と号し空海が開基と伝わります。江戸時代から明王院と改称。本堂、五重塔、山門は常福寺であった頃の建物です。境内には本堂・五重塔・山門のほか、江戸時代初期の客殿、庫裏があり、中世地方密教寺院の景観をよく留めています。
現在の本堂は鎌倉時代の1321年に、五重塔は本堂に引続き1348年に建立されました。
  

本堂 国宝 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺
   
桟唐戸の形式やその内部に扉より背の低い明障子を入れている事、中備に用いられた花肘木、二斗、板蟇股の組合せなどが特徴です。
和様と唐様、天竺様の3様式を巧みに融合させた折衷様の代表とされます。

蟇股は向拝の中央に用いてあります。ここだけです。
  

五重塔 国宝 建立1348 三間五重塔婆 本瓦葺
   
全くの和様の造りです。軒に禅宗様的な手法が入っているとされます。蟇股は用いてないです。心柱を受ける盤の材は中国からの輸入とされます。本堂に見る特殊な宋様式は中国から直接輸入されたともいわれます。


1329年 浄土寺 多宝塔
広島県尾道市東久保町

浄土寺については、板蟇股の紹介の中で報告をしています。(蟇股あちこちー6 2020-10)」に紹介済みです。個々では五重塔がメインです。

浄土寺は古建築の多い尾道のうちでも、建築では質・量ともに第一位に位する寺院です。
階段を登って室町時代の山門を入ると、正面に本堂と阿弥陀堂が並び、その右手に多宝塔があります。他に三畳大目の茶室露滴庵があります。
  
浄土寺は聖徳太子開基と伝える当地方きっての古寺です。鎌倉時代末、定証上人が堂塔を再建しました。この時の伽藍は1325年に全焼し、直ちに再建されたのが現在の本堂、阿弥陀堂、多宝塔です。これらは全て国宝です。この時の再建は尾道の道蓮、道性夫妻が大願主で、尾道の繁栄の様子が知れます。
南北朝に入って足利氏との関係が深くなり足利の家紋「二つ引紋」を寺紋としています。その後停滞しますが、近年に入り尾道在住の豪商から外護を受け、
1690年の方丈(国重文)、護摩堂・経堂、1719年食堂(現在の繰り・客殿 国重文)が建立され、庶民の信仰を中心とする寺院へ変貌しました。

本堂 国宝 再建:1327 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺 大工:形部丞藤原友国、左近将藤原国定
   
密教本堂の代表例の一つです。福山市の明王院本堂と並んで折衷様建築の典型です。朱・緑・白と色の美しい建物です。
外陣・内陣・脇陣からなります。外陣には力強い架橋が見られ、折衷様の醍醐味が感じられます。
内陣は和様の落ち着いた雰囲気を見せ、その対照が見事です。向拝の手狭は現在最古の遺構です。
蟇股は向拝の正面に用いられています。
向拝の蟇股
 
その他注目点です。
    
向拝の簡単な輪郭を有する手挟は最古の遺構、象の顔に似つつある木鼻は発達変遷の一つの資料、花肘木ha長久寺系統と同じ大仏系

多宝塔 国宝 建立:1329 三間多宝塔 本瓦葺 
    
石山寺及び金剛三昧院の多宝塔と併せ中世多宝塔の白眉です。特に意匠装飾の点では最優秀な塔です
初重軸部は方柱面取、二手先斗栱に軒枝軸を備え、斗栱間には彫刻入蟇股を用いています。
塔には宋様式が入らないのが普通とされますが、この塔では、頭貫木鼻・実肘木・拳鼻・花肘木等に宗様の影響が見られるとされます。

蟇股
         
蟇股は各斗栱間に9個あって一部は失われています。彫刻はいずれも実相花唐草を主とし、花を中心として両方から唐草が寄ってこれを支え、唐草に蝶や宝珠の透かし彫りを施しています。
彫刻手法は平面模様的な薄肉彫りで、しかも左右対称的な初期蟇股彫刻の特色を伝えており、鎌倉時代の典型で美しいです。

阿弥陀堂 国重文 建立:1345 桁行五間 梁間四間 寄棟造本瓦葺
     
本堂と並んで建っています。形式は密教本堂です。屋根の反りが穏やかで、均整のとれた蔀戸と共に洗練された美しさの和様建築です。

護摩堂
 

子安堂
   

庫裏と客殿 国重文 再建:1719 庫裏部分は切妻造 大寺院の大規模な庫裏の例として重要 庫裏と客殿は繋がっています
     

唐門
   

客殿・方丈・露滴庵・庭園
       

 


御上神社 本殿
滋賀県野洲市三上838

湖東地方で国宝に指定されている中世の神社建築は三棟あります。
南から順番に御上神社・大笹原神社・苗村神社の各本殿で、御上、苗村社は鎌倉時代の造立です。
造立された中世には地域の有力大社としてそれぞれの地域で重きをなしていました。
さらに、各社に残る宮座組織と行事は国宝建築を現代に伝えた原動力であり、重要な無形の文化財として引継がれています。
数多くの国重文を含めると滋賀は中世神社建築の宝庫です。

 
御上神社は、近江冨士といわれる三上山を神体山とする古社で、717年の創建と伝わっています。
神仏習合の色合いが濃く、本殿の柱の礎石には、仏教的な蓮華文が刻まれています。
古来鍛冶の祖神と崇め浄火守護の神として尊信されてきました。
境内には、国宝の本殿のほか、拝殿、楼門、摂社若宮社本殿の四棟が古建築として国重文に指定されています。

本殿 国宝:建立:1332 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 向拝一間 桧皮葺 厨子 漆喰壁 連子窓 棟に千木勝男木
    
本殿は飾り気が少なく、組物も隅柱の上にのみ舟肘木を、向拝の柱上を乗せ、その中備として蟇股を入れる程度です。
入母屋造本殿は少ない特殊な本殿形式です。屋根の反り、柱の高さ、縁の高さが絶妙のバランスを取って優れています。
中央方一間四方を内陣として、内陣の正面と側面を外陣、後方の一間通りを祭器庫とする。このような平面形態は他にないようです。
辛うじて屋上の千木と堅魚木が神殿である証しです。仏教的手法として、椽束の礎石に蓮花彫刻があります。ハスは仏教から来たものです。さらに東南隅椽束の礎石には1337年の彫銘があり、本殿の年代を明確にしています。

蟇股は向拝に用いられています。
       
向拝の蟇股は内部彫刻を失っていますが秀逸で、力強いとされます。

拝殿:国重文 建立:鎌倉後期 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 桧皮葺 
  
正方形で、建具は一切使われていません。この拝殿はもとの本殿の部材を使用して建てられたといわれています。
従い今の本殿より古いです。
蟇股
  

楼門 国重文 建立:1365年 三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺 和様、一部唐様 
  
楼門は二階建ての門ですが、腰組で廻縁を支え屋根は一重で、二重門とは区別されています。建立年は墨書銘よりわかります。
数ある近畿圏の楼門の中で均整がよく白眉とされています。

蟇股
  
正面・背面中央間にあります。

本殿の左右に摂社が並んでいます。右側馬三宮神社、左が若宮神社です。向拝に蟇股が配されています。
  

摂社 三宮神社本殿 県文化財 建立:室町時代 一間社流造 桧皮葺蟇股などから室町時代を下がるものでないとされます。
     
本殿に向かって右に並列して建っています。向拝柱上に連三斗を組み中央に蟇股を飾り、正面は板扉構えとしています。
蟇股は向拝正面にあります。秀麗です。牡丹の透かし彫りです

摂社若宮神社本殿 県文化財 建立:鎌倉時代後期 一間社流造 桧皮葺
       
本殿に向かって左側。身舎柱上に舟肘木を組、中央に蟇股を飾ります。正面は板扉構え、妻飾りは豕扠首組です。

社務所
   

手水舎
  

花を刻んだ縁束石
  

応仁・文明(1467~87)の大乱により破壊された御上神社の社殿や天文15年(1550)の野州川氾濫による被害時の修復・整備に際しては、地域内に形成していた大工・石工・鍛冶などの諸職の技術集団や、社家・諸名主を中心とした三上荘各部落の村人達の手で行われました。
地元民の厚い信仰心によって中世の御上神社は支えられてきました。その信仰心は今に引き継がれています。


鎌倉後期 讃岐国分寺 本堂 西国88ケ寺第70番札所
香川県綾歌郡国分寺町国分

讃岐国分寺は、寺伝では737年の創建です。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、讃岐国国分寺の後継寺院です。高松市西部、国分台丘陵の南に建ち、讃岐国府跡推定地の東方2㎞に位置します。一帯は讃岐国の中心地であったことから多くの遺跡が発掘されています。
1391年の文献から、鎌倉末期までには西大寺の末寺になっていたと推定され、現存の本堂の建造は西大寺系の僧が関わっていたと推定されています。
天正の兵火で、本堂・本尊・銅鐘以外を焼失し、江戸時代には讃岐高松藩主に崇敬され、本尊の寄進を受けました。

現在の境内は、創建当時の国分寺の伽藍と重複しており、保存状態も良好で、国の特別史跡に指定されています。
本堂・本尊・銅鐘が国の重文に指定されています。
    
浄土寺や明王院は彩色がなされ華やかでしたが、この本堂はどっしりと豪快な感じです。同じ律宗が復興した寺院でも印象が違います。

本堂 国重文 建立:鎌倉後期 桁行五間 梁間五間 一重 入母屋造 本瓦葺
    
古代の国分寺講堂の位置に建っています。この本堂も浄土寺や明王院と同様、間口五間、奥行き五間の平面で、前二間が礼堂(外陣)で、その後方に内陣、脇陣、背面に後戸がある中世仏堂です。鎌倉後期の建立で、江戸時代に幾度か修理が行われ、屋根の形-勾配は中世と異なっています。柱回りは鎌倉時代の形式を伝え、長押を使わない点や、桟唐戸に折衷様の特徴が見えます。虹梁、斗栱、蟇股、間斗束などの細部様式から鎌倉期の建築とされます。

礼堂隅の架橋
 
隅柱と側面の柱から内側に架かる虹梁は、ふつうは大虹梁の上の蟇股か、組物と組み合わされます。この本堂では蟇股や組物と側柱の高さに差があるので、水平な虹梁を使うには、大虹梁に二本の虹梁を胴差しにせざるを得ない。このようなルールからはずれた技法を使う処に折衷様の妙味があるとされます。

蟇股は礼堂内部に用いてあります。独特の形状の蟇股です
  
天井の高い空間に四本の太い大虹梁が架かり、豪快な印象を受けます。大虹梁上の蟇股は円弧浄の曲線を繰り返す独特の形状で、大仏様の影響を示しています。 (参考資料 塔と仏堂の旅 山岸常人著)

 


 
従い観音堂の画像は、大野木義夫氏・他が撮影されたもの(孝恩寺観音堂JAPANGEOGRAHIC)を中心にまとめました。

国宝指定の観音堂は奈良時代行基の開祖と伝え、木積の釘無堂の名で知られます。寺は明治時代に廃寺となり、この堂だけが残っていたのを、1914年孝恩寺に合併されました。多くの平安時代の仏像を所有する、創立の古い寺院です。
屋根が寄棟で向拝が無いのも古風で、瓦は行基瓦です。行基葺は元興寺極楽坊にも一部残っていますが、屋根全部を行基瓦で葺いているのは類例がないです。
  

観音堂 建立:鎌倉-南北朝 桁行五間 梁間五間 一重 寄棟造 鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な社寺建築 大阪府下最古の木造建築
   
方五間の内、前二間を外陣、後三間を内陣とし、菱格子欄間と蔀戸で仕切られます(当初は格子戸) 内陣は三間の大きな厨子をつくり左右の廂を脇陣としています。外陣は前後に四本の虹梁を架け、中央に三斗をおいて通肘木で庇と区別し、中に鏡天井を張っています。花肘木様の繰形は複雑な形です。

蟇股は正面五間と内外陣境三間の中備に片蓋の蟇股が用いられています。蟇股は堂内にも用いてあります。
    

蟇股
      

  
この蟇股は内外陣境の中間に用いられているもので、輪郭は肩の丸味を強くし、緊張感のある形に造られています。また輪郭は左右対称の蓮唐草の透かし彫りが施されていますが、両脇上部から中心飾り下へ延びる茎杖の繰り方は幅が広く蓮唐草はその繰形から上部だけに彫られており、形抜したような平面的なものと唐草風のものとを合わせたような透かし彫りとしています。

  
この蟇股は内外陣境の左脇間に用いられているもので、輪郭内には左右対称の菊唐草の透かし彫りが施されています。
透かし彫りに菊唐草を用いたものとしては早い時期のものとされます。


鎌倉後期 西明寺本堂
滋賀県犬上郡甲良町池寺26

西明寺本堂については「蟇股あちこちー10 2021-02」に紹介済です。重複しますが補足します。

本堂 国宝 建立:鎌倉初期1182~1333 桁行七間 梁間七間 一重 入母屋造 向拝三間 桧皮葺 国宝建築第一号です
     
西明寺は仁明天皇の勅願で834年に街きされました。中世には17の仏堂と300の僧兵が要る大寺院でした。後に織田信長の焼打ちに遭い、幸い本堂・三重塔・二天文は難を逃れ、現在に至っております。
本堂は鎌倉前期に建てられましたが、この時は五間堂の小堂でした。室町時代になって建物の周囲を一間ずつ拡張して七間堂になり、正面に三間の向拝を付けて現在の姿になりました。鎌倉と室町時代のふたつの様式が各所にみられますが、中でも組物を飾る蟇股は、その時代の様式を如実に語るとして有名です。
平面は七間堂の規模を持ちますが、前身部材を再使用していることから、柱の太さ・長さ・等の木割は五間堂が基準となっています。
この本堂は千歳・優美の代名詞になっていますが、その秘訣は改造修理の技術によるもので、優美な仏堂に造形された巧妙さは一級品とされます。

向拝の蟇股
      
華麗な牡丹唐草の彫刻が施されています

側廻りと礼堂の入側の正・側面や礼堂内部の組物の間に配置されています
     

三つの蟇股の変遷
   
鎌倉時代の五間堂の蟇股と南北朝時代に七間堂に拡張した際の蟇股

湖東三山
鈴鹿山脈が湖東平野に接する山麓に、三つの天台宗の古寺が点在しています。百済寺(東近江市)・金剛輪寺(愛荘ッ町)・西明寺(甲良町)です。
総称して湖東三山と呼びならわされ、古建築や仏像に恵まれ、孝養の名所として名高いです。

百済寺本堂 国重文 再建:1650 桁行五間 梁間五間 背面庇付 正面軒唐破風付 入母屋造 桧皮葺
       
百済寺は、606年聖徳太子の創建と伝わります。鎌倉・室町時代は隆盛を誇り、湖東の大寺院として名を轟かしました。応仁の乱では被災を免れましたが、室町期の連続火災や、1573年の織田信長による全山焼き討ちで、伽藍や坊舎全体が灰燼に帰しました。
再建は1650年で、現在の形です。西明寺・金剛綸寺の本堂より人和割り一回り小さいです。
中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築。元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。
大工は郡志所載の棟札写により、当寺の総大工である彦左衛門とあります。
蟇股
本堂入り口正面と本堂内にあります
    

蟇股は本坊表門と鐘楼にも用いられています。
    

三所権現
  
本堂と同時期に建立された一間社流造の社殿 

金剛輪寺本堂 国宝 建立:室町前期 桁行七間 梁間七間 一重 入母屋造 桧皮葺 蟇股は用いられていません
    
737年聖武天皇の勅願寺として行基が建立。多数の堂塔や茅舎を設け僧兵も常駐していたとされます。
信長の兵火で山麓から山門に至る諸伽藍は焼かれましたが、住職の機転をきかし「本堂付近で信長の放火と見せかけ火事を起こし」たため、本堂・三重塔は焼かれずに済んだとされます。
   
ほぼ正方形に近い平面を持つ大型の七間堂です。向拝は付いていません 堂々とした勇姿は滋賀県内仏堂の中でも屈指菜ものです

明壽院表門
   

三重塔 国重文
    

以上で鎌倉時代後期(1275~1332)を終了とします。次回は室町時代前期(1333~1392)を一気に終えたいと思っていますが・・・。
あくまで当方が訪れた先を、勝手気ままに羅列しております。対象の社寺について、すべてを撮影したものでないことをご承知下さい。

 


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