Monthly Web Magazine July 2021
■ 蟇股あちこち 15 中山辰夫
今月で南北朝~室町前期の1300年代を終りにしようと、少し詰め過ぎました。
鎌倉後期から室町初期に当たる1400年までは、天台宗・真言宗の寺院の勃興が中心となり、密教本堂が大きく発展し、構造や意匠に工夫を凝らした建築が建てられました。地方寺院の台頭が目覚ましく、勢力を得た地方武士の庇護や、経済的発展の著しかった近畿から瀬戸内沿岸地方で目立ち、地域における差異も出始めました。
志那神社(滋賀県1298年)・小野篁神社(滋賀県1324年)・出雲大神宮≪京都府1346年)・常楽寺(滋賀県1360年)・錦織神社(大阪府1363年)・六波羅蜜寺(京都府1363年)・住吉神社(山口県1370年)・弥勒寺(兵庫県1380年)・十六所神社(奈良県1384年)・平清水八幡宮(山口県室町中期)・天皇神社(奈良県1396年)・鶴林寺(兵庫県1397年)・布施神社(滋賀県鎌倉後期)
・生和神社(滋賀県室町前期)・相楽神社≪京都府室町前期)・矢田坐久玉比古神社(奈良県室町前期)について紹介しています。
1298 志那神社 本殿
滋賀県草津市志那
滋賀県における中世の小型神社本殿の数は、全国第一に位するほど多いです。全国で国重文の遺構が百数十棟あり、滋賀県内では鎌倉時代の社殿だけで九棟の遺構があります。建立順に紹介しますが、追来神社本殿(あちこちー11)・苗村神社本殿(1308年 あちこち―14)・春日神社本殿(1319年 あちこち―14)・御上神社本殿(1332年-あちこち14)は紹介済です。 志那神社もその走りです。 今後滋賀の報告が多くなります。
本殿の創立時期はつまびらかでないですが、前身建物の遺構から平安時代中期迄遡るとされます。唐様式を交えない純和様建築です
本殿 国重文 再建:1298 一間社 身舎側面一間 土台建 流造 桧皮葺 正面飛 中規模な一間社流造の本殿
組物舟肘木 庇連三斗 中備蟇股 庇繋虹梁 妻扠首 正面飛檐打越二軒背面二軒繁垂木 身舎格子内陣板扉天井格天井
破風は腰折れが深く、妻飾りの豕扠首と共に古式です。外部の柱頂や内法長押上の欄間に彩色の跡がありま
蟇股
細部
平安時代の本殿礎石
末社春日神社 本殿
社務所
1324 小野篁神社 小野道風神社 天皇神社
滋賀県大津市小野
607年に入唐した遣唐使小野妹子は本貫地を小野とする土豪でした。妹子の子・小野毛人の墓は京都市左京区上高野の崇道神社裏山にあります。
平安時代の参議・小野篁は妹子の末裔です。篁も外交に通じ、遣唐副使に推されましたが、拒否したため隠岐に流刑となりました。
『三蹟』の一人として有名な能筆家、小野道風は篁の孫に当たります。
妹子やその祖神を祀る小野神社は妹子の生まれた場所ともいわれ、境内には、小野神社よりも立派な末社、小野篁神社があります。
さらに南約500m先には末社道風神社があり、北500m先には末社天皇神社があります。これほどの近距離に中世建築が集中するのは珍しい事です。
南北朝 小野篁神社 本殿 国重文 建立:南北朝 桁行三間 梁間二間 向拝一間浜縁付 切妻造 桧皮葺
正面格子 内陣三間内々陣一間 向拝連三斗 中備蟇股 道風神社と形式酷似 年代も近いです
蟇股
1341 道風神社 本殿 国重文 建立:1341 桁行三間 梁間二間 切妻造 桧枝葺 組物隅柱のみ舟肘木 妻扠首 二軒繁垂木
正面は格子 内陣内々陣三間 向拝三斗 中備蟇股 浜縁付
蟇股
1324 天皇神社 本堂 国重文 建立:1324 桁行三間 梁間二間 土台建 向拝一間浜縁付 切妻造 桧皮葺
組物 陬柱のみ舟肘木 妻扠首組 二軒繁垂木 内部方一間内陣を造る 蟇股有り
蟇股
1346 出雲大神宮 本殿
京都府亀岡市千歳町出雲
丹波国分寺跡の北方、御影山山麓にあります。式内社で丹波国一宮、709年の創建と伝わります。本殿背後の御影山は古くから神体山として崇められ、山麓には後期古墳があって、奈良時代以前から御影山を中心とした信仰があったとされます。古絵図には鳥居のみで、神殿を常設する前が描かれています。
本殿は足利尊氏の造立とされますが、異説もあるようです。
中門周辺
本殿は見えにくく、撮りにくいです。
本殿 国重文 建立:1346 前室付き三間社流造 桧皮葺
滋賀県下に広く見られます前庇を前室とした形式の三間社流造です。正面に向拝一間を付けます。妻は扠首組、規模が大きく、木割も太く、簡潔な意匠でまとめられた丹波一の宮に相応しい本殿とされます。
蟇股は前庇と向拝野中備に用いられ、極彩色の華麗な蟇股です。
板蟇股が社務所に用いられています。
息抜き亀岡市内で見つけた蟇股
称名寺
京都府亀岡市西堅町20
称名寺は、浄土宗の僧・袋中上人が1606年琉球から戻り、その後布教の中で多くのお寺を開創し、1611年亀岡篠町に草庵を築いたのが始まりです。1643年に1643年現在地に再興されました。
現在の築地塀に埋め込まれて保存されている蟇股です。この大きな蟇股は以前の称名寺の建物に使われていたもの
サイズは幅約125cm、高さ約78cm
谷性寺(とくしょうい)
京都府亀岡市宮前街猪倉土山39
湯の花温泉からほど近い古刹。その創建は古く平安時代とされ、本尊は不動明王。
谷性寺は明智光秀ゆかりの寺であり「光秀寺」とも呼ばれ、また光秀の家紋である桔梗が初夏にかけて咲き乱れることから「桔梗寺」ともいわれています。
明智の家紋が彫られた板蟇股が残されています。
1360 常楽寺 本堂
滋賀県甲賀市石部町西寺
8世紀の紫香楽宮や石山寺の造営に伴って、平城京から工匠が大挙して甲賀の地に移住しました。当地に住みついたその子孫が多く、彼らを総称して甲賀杣大工と呼ばれます。古代杣大工の後進が甲賀大工で、その活躍は別項で触れます。
古代工人の苦心の作である紫香楽宮の建物は残っていませんが、当地には彼らの末裔の手になる中世の名建築が今なお壮麗の備を誇って残っています。
湖南三山と称される、安楽寺・長寿寺・善水寺がそれで、いずれも国宝です。
常楽寺は西寺と通称され、東寺(長寿寺)の西にある天台宗の古刹です。
良弁僧正が708年~14に開創した阿星山五千坊の一つで平安末期に再興されました。鎌倉時代の大火までは三十もの堂舎があったとされます。
本堂は1360年の全焼後に再興されました。その時の勧進帳(国重文)が残り、その本堂が現存のものです。
本堂 国宝 建立:1360 桁行七間 梁間六間 向拝三間 一重 入母屋造 桧皮葺 和様の大建築 天台古仏堂
正面は両脇を除き蔀に、両側面は扉構え。前方二間が外陣、次の二間が内陣、最後方は裏堂です。
外陣は二面の組入天井、内陣は折上格天井、内陣は柱間三間分の須弥壇、上方にある一間の厨子は禅宗様詰組の出組で室町頃の特色を持っています。
蟇股
向拝ある蟇股は内部彫刻が古く、輪郭は造り替えているようですが、内部の彫刻は最初のものを再用しています。
三重塔 国宝 建立:1400 三重塔婆 本瓦葺 和様
本堂の斜め後ろのやや高所にあり、この位置は天台宗仏寺の伽藍配置の一典型です。
型通りの三重塔で、四方に縁が付いています。造営時期は勧進帳によると1360年に勧進を始め、1362年に完成しました。
各重組物は三手先で中備は間斗束を各重に用いています。
内部の四天柱・天井廻り・板壁には仏菩薩・天人・宝相華・雲・唐草などが極彩色で美しく描かれており、保存も良好です。
その他の蟇股
薬師堂
鐘楼
1452年建造の門
園城寺(おんじょうじ 三井寺 大津市)に移築され、現在仁王門(国重文)として健在です。
その他の湖南三山
長寿寺本堂 『蟇股あちこちー9 2021-01』に紹介しております。 蟇股は多く用いています。
国宝 建立:1182~1333 桁行五間 梁間五間 一重 寄棟造 桧皮葺
蟇股の線様から鎌倉中期頃の建立とされ、虹梁上の蟇股は古様を呈しています。
白山神社 拝殿 本殿
鎮守の白山神社拝殿 国重文 建立:室町後期 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 桧皮葺 長寿寺本堂に近接しています。
白山神社の創立年代は未詳。拝殿の造営時期は内部に掲げられた三十六歌仙の裏に1436年の銘があることと、細部様式からこの頃とされます。
全体として棟や軒などの反りが美しく、縁の大きさも適当で、美しい姿をしている中世・室町時代の優れた拝殿です。
それ以上に建築史上重要なのは、三十六歌仙の額が竪挽き鋸(大鋸)で挽いた現存最古の板で、1436年の銘があって、土佐光弘の筆であることです。
室町初期にこの地で製材が行われていたことが判明し、甲賀大工座の先進性が推察されます。
善水寺本堂 蟇股は用いられていません
国宝 建立:1364年 桁行七間 梁間五間 一重 入母屋造 正面軒唐破風付 桧皮葺 蟇股は用いられていません
1363 錦織神社 本殿
大阪府富田林市宮甲田町9-46
神社のある地域は,太古は「錦部(にしごり)部」と呼ばれていました。
織物の技術を持つ人々が百済より渡来し、この地域に住みついたとされ、神社はその氏神でした。
創建年代は不明ですが、発見された瓦から平安中期頃と推定されています。古くから河内国水分(みまくり)社として広く信仰を集めていました。
現在の社号は1907年に改称されました。本殿の屋根形式は錦織式で南北朝時代を代表する社殿です。屋根の装飾が目立ちます
鳥居~割拝殿~本殿
本殿 国重文 建立:1363 桁行三間 梁間二間 入母屋造 向拝三間浜床・浜縁 正面中央に軒唐破風と千鳥破風をもちます。
細部
斗栱は出三斗、実肘木、中備は向拝と母屋正面に蟇股、背面に間斗栱をおきます。妻大瓶束 二軒繁垂木
向拝柱は虹梁状頭貫でつなぎ、向拝と母屋は海老虹梁で繋いでいます。頭貫には木鼻が付いています。
現存する本殿の中で最古の千鳥破風とされます。
その意匠は全体的に派手で、細部は大仏様か禅宗様かの区別が出来なく、またその必要もないほどに装飾化が進んでいます。
蟇股 撮影がし辛く、まとまりに欠けます。室町時代の特徴を表わす蟇股には牡丹と唐草、桐や橘などが彫られています。
正面中備に用いられているもので、輪郭は全体を同じような幅として肩の丸味を大きくし、両肩間は短形に近い形に造られています。
また輪郭内には左右対称の牡丹・唐草の透かし彫りが施されています。
尚、中心飾り上部の円形枠内には本地仏の種子が彫られていたとされますが、明治初期の神仏分離令に伴って欠き取られたようです。
参考
摂社は二社です
摂社天神社本殿 国重文 建立:1363 二間社 流造 桧皮葺 身舎側面一間 見世棚 組物舟肘木
小規模ですが流見世棚本殿の好例です
摂社春日社本殿 国重文 建立:1363 二間社 流造 桧皮葺 身舎側面一間 見世棚 組物舟肘木
境内天神社と規模形式同一です
境内の飾り物
1363年 六波羅蜜寺 本堂
京都市東山区松原通大和大路東入ル轆轤町
西国三十三カ所観音霊場の札所 963年に空也が建立した仏堂を起源とします。平安末期から鎌倉にかけて、この地は平家,源氏及び北条氏の興亡に巻き込まれ、目まぐるしい変貌を経ました。
空也上人は、貴族でなければ、人間らしく扱われなかった時代に、庶民の中に溶け込んで、その汚れ、傷み、苦しみを共に味わいながら、具体的な強化活動をした聖です。
六波羅蜜寺は、京都では、千本釈迦堂と通称される大報恩寺本堂(1227年)や三十三間堂(1266年)に次ぐ古さです。
本堂 国重文 建立:1363 桁行七間 梁間六間 一重 寄棟造 向拝三間 本瓦葺
本堂は修造勧進によって再建されました。前方梁間二間を拭板敷の外陣とし、後方四間の梁間を内陣・脇陣・後陣にわかれます。密教仏堂の古い形式を継承しています。
内陣、外陣共に、虹梁上の蟇股で支持された組入天井を張り、内・外陣境は蔀戸・格子戸で厳格に区分されています。
総体的に中世京都における伝統的な和様の建築様式を伝えています。
蟇股は向拝や本堂に用いられています。 近年復元されましたので彩色も鮮やかです。
向拝蟇股 3個
向拝は三間で、各間の虹梁上に彩色された蟇股が用いられています。1605年の修造とされますが後世に改造された部分があるようです。
向拝南側 表面・裏面
向拝中央 表面・裏面
中央の蟇股には梵字がきざまれています。ハスの花に抱かれているように梵字がある蟇股です。虹梁には龍が描かれています。梵字はキャで十一面観音の表現とされています。
向拝北側 表面・裏面
本堂外陣、内陣の虹梁に板蟇股が用いられています。見応えがあります
内部と外陣、内陣の板蟇股
黒ずんだ板蟇股の並びは三十三間堂本堂の板蟇股を彷彿させる立派なものですが、残念ながら撮影禁止です。是非撮りたい遺構です。
類似した板蟇股の並びです。(場所:広隆寺講堂)
1380 弥勒寺 本堂
兵庫県夢前町1051
長保2年(1000)、書写山円教寺を開基した性空上人が草庵を建てたのが始まりとされます。
長保4年(1002)に巨智延昌が花山法皇の勅命により弥勒堂、護法堂、護摩堂を建立し通宝山弥勒寺と称しました。
現在の本堂は、1380年に赤松義則によって再建されたものです。再々修理を受けたことが残された墨書から判ります。
山門と蟇股
本堂 国重文 再建:1380 桁行三間 梁間五間 向拝一間 両側面後部三間及び背面庇付 中備蟇股 入母屋造 本瓦葺
細部
前方部の桁行3間、梁間2間を開放の外陣とし、内陣の両脇および後面に各1間の廂間を付属し、中央に唐様須弥壇を配置します。
組物二手先 中備蟇股 二軒繁垂木 妻虹梁大瓶束
細工が施された内陣の折上小組格天井など各部の形式手法は南北朝時代の標本とされます。外陣天井は礼堂形式の名残を留めます。
向拝と蟇股
本堂の軒庇や堂内に多くの蟇股彫刻が見られます。
蟇股
赤松家の家紋 二つ両引き 三巴紋
護法堂
開山堂
日本一大きな布袋像
1384 十六所神社 本殿
奈良県奈良市中町
十六所神社については『蟇股あちこちー11 霊山寺 2021-03』で紹介しております。重複しますがご了承下さい。
十六所神社は霊山寺本堂背後の山手にあり、もと霊山神社の鎮守でしたが、明治維新の神仏分離の際に神社から独立しました。
本殿は棟木銘から1384年の上棟があきらかです。境内社の住吉社にも1386年の銘があり、龍王社も同じころの建立とされます。
この3棟に江戸時代建立の大神宮と春日社を加えた5棟が、桟瓦葺の覆屋に納められて一列に並びます。
本殿 国重文 建立:1384 一間社春日造 身舎側面一間 縁三方 浜縁付 土台建 組物出三斗被災連三斗 中備蟇股 庇繋虹梁 妻扠首 桧皮葺
身舎部分のみ井桁状の土台をおいて丸柱を立てる。組物は身舎が三斗組、向拝が連三斗 背面妻飾に見える虹梁䑓瓶束の形式は斬新で、身舎、向拝の頭貫木鼻には若葉を彫っています。木鼻は若葉を深い陰影をつけて彫ってあります。若葉図案は秀作とされます。
蟇股
身舎の4方と向拝野中備に蟇股が用いられています。その5つの蟇股を見ますと、足下の形から向拝、身舎正面と身舎側背面(3つ)の2グループに分類が出来、前者の方が古いようです。前者が奈良系で、側背面は京都系とされます。
境内社住吉陣屋と境内社龍王神社はいずれも本殿の約二分の一の規模を持つ一間社春日造で、身舎だけでなく向拝も土台上に立て、縁を正面の身に付けるなどは本殿と異なります。
身舎の組物は舟肘木、向拝は三斗組とし中備の蟇股は向拝の身に付きます。背面妻飾は豕扠首としており、本殿よりも簡略にできております。
十六所神社境内社 住吉神社社殿 国重文 建立:1386 一間社 身舎側面一間 前方縁 土台建 春日造 桧皮葺
十六所神社境内社 竜王神社社殿 国重文 建立:1386 一間社
身舎側面一間 前方縁 土台建 春日造 桧皮葺 住吉社に酷似 身舎平面横長
1396年 天皇神社 本殿
奈良県天理市備前町251
奈良県下には春日大社本殿を代表とする春日造の遺構が数多く残っています。天皇神社の本殿も春日造ですが、独創的な細部が随所に見られ傑作の一つとされます。
天皇神社は備前町の東辺に鎮座する小社で、素戔嗚尊を主祭神とする神社で、1272年の創祀とされます。天皇とは牛頭天王の意味です。現在の本殿には1396年の棟札が残っています。
本殿 国重文 建立:1396年 一間社春日造 身舎側面一間 縁三方 妻扠首 脇障子は身舎前面柱筋 身舎正面両脇と内法上欄間 桧皮葺 室町時代初期の特徴を残しています。
梁行方向にも絵様付実肘木を重ねて梁を受けています。内法長押上には飛貫を通し、桁の間に蟇股を飾っています。身舎正面扉口の上部及び左右に透彫彫刻をはめ込むのは奈良では他に見られない。
身舎正面扉部 春日造社殿の基本的な形式に倣う中で独創的な細部とされる一例です。
上部及び左右に透彫彫刻をはめ込んでいます。奈良県下では他に古例がありません
蟇股は飛貫と桁の間に用いられています。
向拝の蟇股
写真10~11
正面蟇股
この蟇股は片蓋で、身舎正面の中備に用いられています。輪郭はほぼ同じで、堂々とした形です。
輪郭内の透かし彫は左右対称で、中心飾りは雲形の台座上に火焔宝珠を乗せており、その両脇には隙間が無く、雲の薄肉彫りを施している。
このような意匠は従来の蟇股には見られなかったもので、雲を隙間彫りに取り入れた最古の遺例です。
右側面にも雲の透かし彫りが施されていますが、左側側面には後補で異なった彫刻が施されています。
割拝殿
1397 鶴林寺 本堂
兵庫県加古川市加古川町北在家424
鶴林寺の本堂・仁王門については、板蟇股の部で紹介済です。「蟇股あちこちー7 2020-11」 重複しますが少し並べます。
鎌倉時代より和様、唐様、天竺様という三つの建築様式がそれぞれ発展を遂げ、同時にそれらの折衷様式を生じて建築界を賑わしました。
その折衷案の最も典型的なものに観心寺金堂がありました。和様を基調とし双斗・海老虹梁などの混じる折衷様の代表例とされます。
観心寺金堂 国宝 建立:1346~70 桁行七間 梁間七間 一重 入母屋造 向拝三間 本瓦葺 蟇股はなし
組物出組 中備双斗 二間繁垂木 妻虹梁大瓶束
木部が赤く塗られています。正面に三間の向拝を設け、三斗組などの和様を基調とし、中備の大仏様双斗、禅宗風の桟唐戸などを採用した折衷様式です。
室町時代に入ると折衷様式は益々発展し、その代表が鶴林寺の本堂とされます。 建立年は内陣に安置されている厨子の棟札より推定
鶴林寺本堂 国宝 再建:1397 桁行七間 梁間六間 一重 入母屋造 本瓦葺
組物二手先 中備双斗蟇股 二軒繁垂木 妻虹梁大瓶束
強い屋根の反り、組物中備の双斗、桟唐子、これだけでも大陸の建築です。しかし下は床張り、やはり日本建築です。四面とも前間に新様式の扉が吊られ、組物も二手先という複雑な形式を取入れ、軒下を華やかにしています。「新しいもの」を作り上げる意気込みが外観からも感じられます。
内部構造
内部の架橋は、大仏様の豪壮さ、禅宗様の装飾性が大胆に取り入れられています。
中央4本の入側柱から内外陣境の柱に大仏様の断面円形の虹梁が架け渡され、その上に板蟇股、三斗を置いて組天井を受けています。
両端の虹梁上の組物から入側柱上の組物にかけて虹梁を受けています。
境内に建つ社殿を並べます
太子堂 国宝 再建:1112 桁行三間 梁間三間 正面一間通り庇付 一重 宝形造 庇葺きおろし 桧皮葺 蔀戸をもつ住宅風の意匠で、完全和風です。
本来は法華堂で天台系の法華堂建築としては最古の遺構。 内部は須弥壇を構えます。後世、主屋の天井は小組格天井に改変されました。
護摩堂 国重文 建立:1563 桁行三間 梁間三間 組物無し 一間繁垂木 妻扠首組 本瓦葺
外観簡素な小堂です 内部は大仏様系虹梁を架渡し海老虹梁も使用しています。
常行堂 国重文 建立:平安時代 桁行三間 梁間四間 妻入 組物大斗肘木 二軒繁垂木 寄棟造 本瓦葺
一間四面堂庇付形式 屋根は永禄時代に本瓦に改めました
行者堂
新薬師堂 化粧屋根裏の虹梁に板蟇股が数多く用いられており、見惚れてしまいます。
60年毎に開帳されます御本尊薬師如来の代わりに毎日拝めるようにと、江戸時代に大坂の医師により建てられました。
脇侍の日光・月光両菩薩の他に勢ぞろいしています十二神のうちの1将がウインクしているとNHKで紹介されました摩虎羅大将の像です。
観音堂 再建:1705
鐘楼 国重文 再建:1407 朝鮮鐘
三重塔 三間三重 本瓦葺
初重は1816~30年の大修理の際に新材で補修、二重、三重の軸部及び斗栱部、軒廻りは古材を伝え室町時代の作です。
鎌倉時代後期 布施神社 本殿
滋賀県長浜市八日市布施町
八日市市の南方に連なる玉緒山の山麓近くに鎮座する布施集落の氏神です。付近には『梁塵秘抄』に出てきます布施のため池があり、古くから開けた地です。
小規模な建物3棟が並び、各本殿はその祭神により、春日、日龍、十禅師と称されます。この地が過去に興福寺や延暦寺の荘園であったことが偲ばれます。
建物は,布施神社本殿に規模・構造様式がよく似た一間社流造の小さな本殿です。
覆屋内に三棟の本殿が並んでいます。向かって左に第一殿(十禅師社)、中央に第二殿(日竜社)、第三殿(春日社)が西面して並んでいます。
本殿 国重文 建立:鎌倉後期~室町前期 3棟とも一間社流造 身舎側面一間 浜縁付 組物舟肘木庇連三斗 庇繋虹梁 妻虹梁板蟇股 こけら葺
正面飛檐打越二軒背面一軒繁垂木
建物は正面の柱間約1.06m、奥行きは身舎と向拝(庇)合せて約1.07mと小規模なもの。正面は弊軸板扉構えで、三方を羽目板が囲み、小規模のため内部は1室としています。柱足元は礎石建てです。見舎軒下には舟肘木、向拝は連三斗を組み、両者を虹梁でつなぐ古式です。
蟇股 板蟇股 おおらかな曲線の蟇股が一面に彫り出され、華やかさを醸し出しています。
写真12~14
側面、屋根の三角部分は幅広い割板(厚さ約2.5cm)を立て、その面に鎌倉様式を示す蟇股を彫り出しています。このように、妻(側面)の破風内の壁面を壁板と蟇股を一材で造り出している様式(彫刻でいう「一木調成」)は非常に珍しく、これはごく小さいからこそできたとされます。この材は極めて良質のようです。
垂木、組物、蛙間の様式から建立年代を推定されています。のちの解体修理などで、構成部材は多く取り換えられていますが、ほぼ建立当初の姿を踏襲しているとされます。
棟札1 1675年に比竜社の修理が行われました。
棟札2
社殿を覆う覆屋は1831年に造営されました。
手水舎
室町前期 生和神社(いくわ) 本殿
滋賀県野洲市富波乙
神社は、朝鮮人街道を野洲から少し北進し祇王川に接する小さな社に鎮座します。この周辺には古寺が多くあり順に紹介します。
神社の草創は平安時代に遡ります。 本殿は社のほぼ中央にあり、右に春日社、左に日吉神社の2末社が並んでいます。
中門と蟇股
本殿 国重文 再建:室町前期 一間社流造 桧皮葺
規模の大きい一間社流造です 引違格子戸4枚 弊軸板扉構えで内陣と外陣に区画し腰板羽目板に見事な格狭間を刻み出し飾っています。
身舎側面一間 浜縁付 組物三斗 中備蟇股 庇繋虹梁 妻扠首組 正面飛檐打越二軒背面二軒繁垂木
向拝の蟇股
身舎正面お蟇股
身舎妻蟇股(表・裏)
見舎蟇股(表・裏)
背面中備に蟇股を飾ることや、切目縁を回して脇障子を備えることはこの程度の本殿としては例が少ないようです。
蟇股や肘木及び格狭間の彫刻は、大笹原神社本殿や大行社本殿より古式を示し、室町時代前期の再建とされます。
末社春日神社本殿 国重文 建立は鎌倉時代 桧皮葺 舟肘木や妻飾りの豕扠首が古式で組物、手狭の構造手法から鎌倉時代とされます。
規模の小さな一間社流造 柱は土台の上に建ち、その土台を正面側にさらにのばして浜縁としています。蟇股、木鼻は近世のものとされます。
1751年の頃の向拝の蟇股、今は外されています。
末社日吉神社本殿
手水舎
南北朝 相楽(さがなか)神社 本殿
京都府木津川市相楽清水
木津は古くから河川交通・陸上交通の要塞として栄え、南山城地方において重要な位置を占めていました。当社は東流して木津川に注ぐ山田川の南岸、大里集落の東北にあります。本殿は丹塗りの三間社流造です。本殿の南側に末社若宮神社本殿があります。
本殿外周
本殿 国重文 建立:室町前期 三間社流造 身舎側面一間 浜縁付 組物出三斗 中備蟇股 庇繋虹梁 妻大瓶束笈形 桧皮葺
組物詳細
虹梁大瓶束笈形・中備大斗花肘木からなる妻の架橋が見ものです。
身舎正面の鴨居上の繊細な欄間彫刻も見ごたえがあります。
身舎正面の蟇股(表・裏)
庇正面の蟇股
蟇股 身舎正面及び庇各間の中備として用いられており、輪郭内にはいずれも左右対称の繊細な意匠の藤の透かし彫りが施されています。
この蟇股は身舎正面の左脇間に用いられているもので、藤蔓は従来の蓮唐草と同様上部両脇から伸びており、中央上部には円形の枠が彫られていますが、枠内には本地仏の種字が彫られていたと思われます。
透かし彫りに藤を用いたものは1372年建立の法隆寺地蔵堂「奈良・重文」の正面中央間の蟇股にも見られますが、地蔵堂正面の蟇股の透かし彫は写実的で、室町後期の初頭頃の可能性もあるようで、相楽神社のものが最も早い時期の遺例とされます。
室町前期 矢田坐久志玉比古神社 本殿
奈良県大和郡山市矢田町965
神社は大和郡山市の西郊外、奈良盆地と矢田丘陵の境に位置します。
鳥居をくぐると楼門が建ち、この門を過ぎ参道を進むと拝殿に導かれます。
拝殿奥の石垣積の上、一段高く透塀に囲まれた所に本社本殿を中心に3棟の本殿が並列します。
延喜式にも記された古社で、矢田の大宮と称し、矢田郷五箇村の総鎮守で、6世紀前半までは畿内随一の名社として栄えたとされます。
祭神の櫛玉彦命が天降る時、放った矢がこの地に落ちた所からこの地が矢田となった。
また、天孫降臨の際、天の岩船で飛来したという神話から飛来の祖神としても知られ、楼門に巨大なプロペラが飾られています。
境内には末社八幡神社本殿も鎮座します。室町期の本殿と末社本殿が共に現存するのは珍しく、当時の本殿形式を知る上で貴重とされます。
楼門
蟇股
拝殿と奥の石垣積の上、透塀にかこれた本社本殿を中心に3殿並びます。
本殿 国重文 建立:室町前期 一間社春日造 身舎側面一間 縁三方 土台建 桧皮葺
組物は出三斗庇連三斗、中備蟇股 庇繋虹梁 妻飾りは扠首組大瓶束立、屋根棟飾りは箱棟で千木、勝男木をおいています。
末社八幡神社本殿 国重文 建立:室町中期 一間社春日造 身舎側面一間 前方縁 土台建 桧皮葺
組物は舟肘木庇連三斗 中備蟇股 妻飾りは豕首組 屋根飾りは瓦棟で両端に獅子口があります。
王磐舟石 三本の矢のうち二本の矢が落ちた所
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