JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Oct.2021


■ 蟇股あちこち 18 中山辰夫

法隆寺と東大寺(蟇股あちこち16~17)の報告も終わりましたのでもとへ戻ります。今月は、住吉神社、平清水八幡宮、清水寺、福龍寺、古熊神社、今八幡宮です。

1400年代のトップは山口県の住吉神社と決めていましたので、二回に分けて山口県下の社寺を報告します。主要な社寺から年順を考慮せずに進めます。(蟇股が見込める先の一部です)
室町時代、大内氏という強大な勢力が君臨し、京都を範とした大内文化が栄えました。当地方独自の中世建築文化が育まれ、蟇股も室町期の特徴を有したものが多いです。



住吉神社


山口県下関市一の宮住吉1-11-1

住吉神社は、長門国一の宮として古くから延喜式にもある由緒ある神社です。当社の創建は伝説では神功皇后の三韓征伐まで遡るとされます。
当社は少なくとも十世紀には朝廷加太崇敬された有力大社へ成長していたとされます。平安時代末期の中世一の宮制で、長門一宮に認知されています。
本殿は大内弘世により1370年に建立され国宝です。1539年再建の拝殿は、毛利元就の寄進で国重文です。
当社の境内・社殿・宝物の全てが文化財といっても過言ではありません。朱塗りの楼門をくぐると、拝殿と本殿が威容を誇って建っています。
本殿は今も創建当時の面影をよく残し、室町時代初期の神社建築として貴重です。意匠も優秀で、山口県内の国宝建築2棟のうちの1棟です。

神門と板蟇股
    

拝殿 国重文 再建:1539 正面一間 側面三間 組物出三斗 妻虹梁大瓶束 二軒繁垂木 切妻造 妻入り 桧皮葺 毛利元就の寄進です
     
本殿正面中央に接して直角に建てられ、本殿とは丁字型の構成です 縦長拝殿の例 大瓶束に蟇股状の装飾がありますが額で見えません
本殿と比べ縦長です。柱間装置がなく吹き放たれた状態になっています。細部意匠は一風変った手法が用いられています。

幣殿 家紋の蟇股・ほか
   

本殿 国宝 建立:1370年 九間社流造 正面五カ所千鳥破風付 桧皮葺 附 玉殿五基(各一間 入母屋造 妻入 桧皮葺) 大内弘世が寄進
    
本殿は玉殿を保護する覆屋を形式的に整えたもの。九間社流造で九間にも及ぶ流造は例がありません。玉殿あり
意匠も優秀です。千鳥破風が玉殿の存在を象徴します。正面部分は、軒が身舎、向拝ともに二軒繁垂木、浜床・浜縁付。
独特の佇まいで、千鳥破風のある所が神座で、それを相の間で連結してこのような形になりました。

平面図と蟇股配列例
   
向拝柱は頭貫と長押を九間にわたって通し、各柱間に蟇股を置いていることも、各神殿が独立しつつ、全体を一つにまとめあげる効果を高めています

蟇股は9個、各神座正面柱間に置かれています。両端のみ大内家の家紋、他は毛利家の家紋。大内氏を滅ぼした毛利氏が本殿を修理した時からです。
        

側面蟇股
 

大内家の『大内菱』と毛利家の『長門星』
 

儀式殿の蟇股 表・裏
   


平清水八幡宮 本殿


山口県山口市吉田2244

室町前期 

平清水八幡宮は、古熊神社、今八幡宮の社殿とともに当方面における神社建築の優れた特色のある遺構です。
創建は809年、もしくは859年、宇佐八幡宮から勧請されたとされます。境内に平清水という名水があり、常に水面が水平で、旱魃にも水量に増減の無い所から社名にしたといわれます。建築手法から見て、山口の神社の中では一番古いもので、室町時代前期の建築とされます
拝殿・幣殿の奥に本殿があります。本殿にある前室と幣殿の間に板壁があるため、本殿が拝殿や幣殿と一体になっているように見えます。
  

石段を登りきると魚と波をかたどった特異で優れた手狭を向拝に配した拝殿があります。
拝殿
     

向拝正面の蟇股 (表・裏)
  

本殿は拝殿・幣殿の奥にあり、一体に見えますが別々の建物です。

本殿 国重文 建立:室町前期 三間社流造 身舎側面二間 庇前室とします 浜床付 銅葺
   
本殿は三間社造りで、向拝および外陣、さらに本殿の両側面、斗栱間にそれぞれ蟇股があり、輪郭だけの繰り出しの一枚板で古風な造りです。
縁高も身舎・庇で差をつけています 

本殿向拝と三つの蟇股
 


本殿向拝左端蟇股と詳細 表・裏 中央蟇股 表・裏 右端蟇股 表・裏
   
薄手で出来ており、薄い一平面の彫刻がこの時代の特徴をよく発揮していると、当代傑作の彫刻とされています

中央蟇股 表・裏
  

右端蟇股 表・裏と詳細
   

中央は雲に宝珠、左右は牡丹の透彫がしてあります。中の彫刻は極めて薄肉に彫られ、しかも牡丹に似た写実風の中に左右対称の古式を伝承している興味深い、優秀な彫刻です。

側面における絵画蟇股の一つ。外部にあるため絵は殆ど剥落しています
     
両脚内は平に削って彫刻をせず、そこに胡粉地に潤達な筆致で実相花が描かれています。彫刻の実相花同様牡丹風の写実的な実相花を幾分対象に図案化したものです。

≪注≫ 挿入画像は1938(昭和13)年に撮影されたものです



1493 清水寺 観音堂 せいすいじ
山口市宮ノ下1127

寺の創建は寺伝によると大同元年(806)といわれ、千手観音菩薩立像を本尊とする真言宗の寺院で、山口盆地最古の寺院といわれています。
はじめ天台宗でしたが、室町時代に真言宗に改宗したと言われます。
鐘楼、山王者、観音堂、庫裏などが建っています。自然石で固めたブッキラボーの石段、約200段の石道は結構堪えます

山門
  
県下の数少ない仁王像の傑作といわれる金剛力士像(県指定)が安置されています

蟇股
   
大内家の家紋が彫られています

山野中腹にある観音堂まで石段の参道が続きます 途中に鐘楼が建っています
   

登り切った右手の山王社本殿
山王社本殿 県指定 建立:1566 桁行1.4m 梁間0.95m 棟高:2,5m 一間社流造 浜床構え 全体覆屋の中
   
山王社は清水寺の鎮守として1374年に大内弘世により創建されました 現在の建物は1566年に修造されました

観音堂 県指定 建立:1493 桁行:13.18m 梁間9.39m 一重 寄棟造 鉄板葺(元は柿葺)
        
大内政弘が建てたものといわれ、残っている様式や組物には室町時代の禅宗様式の特色がよくでていて貴重な建物です。

境内一杯に拡がる紅葉の美しさ―その時期が想像できます
 




龍福寺


山口市大殿大路119

龍福寺は、1206年大内満盛が創建した臨済宗の寺で瑞雲寺と称していました。1336年大内弘直が再建して弘直の菩提寺となりました。
1454年大内教弘が雪心和尚を迎え中興開山し、寺号も龍福寺と改めました。その後大内義隆が重建しましたが、1551年の兵火で焼失してしまいました。
その後1557年毛利隆元が義隆の菩提寺として、龍福寺を大内館跡に再興しました。ところが、1881年に火災にあい禅堂と山門を残して焼失しました。
そこで再建に際し、元大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築したのが今の本堂です。

山門と蟇股 1881年の火災時に焼け残りました
    

鐘楼
   

本堂 国重文 建立:1521 桁行五間、梁間五間、入母屋造、桧皮葺。建築手法は和様で、室町時代の代表的な寺院建築
  
興隆寺は大内氏の氏寺で、その本堂(釈迦堂)の規模は大内氏の財力勢力を示すに足る大建築です。
柱や梁の材は巨大なものが使用され、やがておとずれる戦国時代の城郭建築をおもわせるものがあります。
様式は和様を主とし、わずかに禅宗様の手法が見られます。
2011(平成23)年に、6年に渡る本堂修復工事が完了し、修理前の桟瓦葺きの屋根を解体調査による痕跡や文書等から桧皮葺きに復元されました)

宝玄霊社
       
慶⻑10 年(1605)⽑利輝元が多賀社境内に大内義隆、公卿等を祀りために創建。その後龍福寺境内に移転、⽂政11 年(1828)この地に移りました。

【龍福寺資料館】
龍福寺の敷地内にある資料館。貴重な資料が所せましと並んでいます。
 



1618 古熊神社 本殿

山口県山口市古熊一丁目10-3

天神川のほとりの小高い丘の上に鎮座しています。
1373年大内弘世が北野天満宮より勧請を受けて創建しました。数度の遷座を経て毛利秀就が現在地に1618年社殿を移しました。
本殿の木材のところどころに赤い染料が残っているところから、当初は全て赤色で染められた社殿でした。
楼門と本殿が接近して建ち、その間に幣殿があって相の間として両者を接合し、楼門には床の間が設けられて拝殿の役目を兼ねています。
連結社殿の珍しい一形式で、山口地方には多く、今八幡宮、八坂神社も同じ形式です。
現在境内には拝殿・幣殿・本殿が並んで建っています
  

拝殿 国重文 再建:1661~73 桁行一間 梁間一間 楼造 入母屋造 向拝付 左右翼廊:各桁行一間 梁間二間 切妻造 銅板葺
    
1547年あるいは1599年に建立された拝殿の古材を用いて寛文年間(1661~73)に再建されました。
構造的には楼造の建物で左右に翼廊が設けてあります。
この拝殿はもともと楼門として建築されました。それを後の時代になって床を張り、拝殿として活用したのです。
これを「楼拝造」といって、山口地方の神社に多く見られる特徴です。
幣殿
  

1618 本殿 国重文 再建:1618年 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺(現在は銅板葺)。
  
現在の本殿は1373年に建立された建物の古材を一部転用して1547年に再建され、1618年に現在地に移る際に大々的に手を加えられたとされます
三間社で縁及び組勾欄を付きです。円柱に長押内、軒回り二重繁棰、三斗を組み、正面三間の斗栱間に蟇股が置かれています。
正面各間は蔀を下げ、側面の外陣にある板扉が開かれています。

本殿の正面には拝殿や幣殿および障害物が多く撮影がむつかしいです。
古熊神社の建築物としては、正面斗栱間に並ぶ三個の蟇股が重要です。但し蟇股は外部から見えません。外陣に入っても撮影禁止です。
1938年(昭和13)年に撮影された資料を引用します。
 
蟇股に松竹梅の彫刻が刻まれた最古の例として注目されています。

本殿正面部分 
 
蟇股は中心飾りとして左端は「鳳凰」、中央部分は「大内菱」、右端は「鳳凰」、
中央を向いた鳳凰、右端は左を向いた鳳凰を入れ、脚内残りの空間の中央は「梅」、左は「松」、右は「竹」を充たしています。
各々別になっていますが、いわゆる「松」「竹」「梅」の三つが現れており、まことに珍しいこととでこれまでに例がなく、以後も江戸初期まで稀にしか出会えません。
以後も松竹梅は、松梅は多く描かれていますが竹は極端に少なく、申し訳程度に沿えてあるのが多いです。

詳細図 1938年撮影されたもの 脚内残りの空間が松・梅・竹で充たしています。
正面左端蟇股 表側-裏側 「松に鳳凰」 中央を向いた鳳凰 松で埋めています。
  

正面中央蟇股 表側-裏側 「大内菱」 梅で空間を埋めています
  

正面右側蟇股 表側-裏側 「竹に鳳凰」 左を向いた鳳凰
  

この「松竹梅」となっている蟇股の彫刻は、我が国に現存する最古の松竹梅として有名です。
松竹梅という組み合わせは今でこそ大変馴染みの深いものですが、庶民の間にも浸透したのは江戸時代に入ってからとされます。
当社が建てられた室町時代はまだ京の貴族の間のみの流行でありました。
そんな中、当社を創建された大内弘世卿は、社殿を造営するにあたり、都の最先端の文化であるこの松竹梅を彫刻として取り入れたのです。
その後、応仁の乱により京の神社仏閣がほとんど焼失してしまい、結果戦の少なかった山口に建てられた当社の松竹梅が、我が国で最も古いものとなった、といわれています。




1503 今八幡宮 本殿

山口県山口市八幡馬場

八坂神社から東にほど遠くない所にあります。創建年代は不明ですが,大内氏が山口に移る以前からあったとされます。
現在の社殿は室町時代後期の建立で、当時の山口地方独特の社殿配置とされ、楼門、拝殿、本殿が一直線に並ぶ形式となっています。
この形式は近郊の各所で見られますが、今八幡宮が最も古いものです。
全景
  

楼門 国重文 建立:1503 一間一戸楼門、入母屋造、向拝付、左右翼廊 各桁行二間、梁間二間、一重、切妻造、こけら葺
   
正面に向拝一間を配し、頭貫上には本蟇股が、天井は小組格天井です。上層の連子窓には意匠的に興味ある輪宝や大内菱が使用されています

1503 本殿 国重文 建立:1503 三間社流造、身舎側面二間 庇前室 組物平三斗 中備蟇股 庇繋海老虹梁・手狭 向拝一間、柿葺
      
本殿は向拝付三間社流造です。周囲及び外陣や向拝の斗栱間にはそれぞれ多くの蟇股を用いています。
山口地方で見られる室町時代の様式の美しい本蟇股が多く組み込まれています。

蟇股
本殿正面左裏面~正面中央表面~正面中央裏面~宝珠
本殿及び拝殿上部の蟇股は、天体や宝珠など類例の多くない図案で構成され、形も室町期特有のものから厚みのある桃山期へ移行する過程が表れており、美術史の見地からも貴重な資料とされます 
    
中心飾りとして大きな花、その左右に小さな花を配しています。

身舎妻部
   

本殿周りには蟇股が多数配されていますが撮影をミスしました



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