Monthly Web Magazine Nov. 2021
■ 蟇股あちこち-19 中山辰夫
先月に引き続き今月も山口県内です。八坂神社、阿弥陀寺、正八幡宮、周防国分寺。周防天満宮です。
大内家・毛利家に支えられ、栄えた約200年間の文化はここに紹介しました以外に多く残っています。蟇股は両家の家紋が目立って多かったです。
1570 八坂神社 本殿
山口市堅小路
京の文化へ傾倒の激しかった大内氏が、弘世の代に京都八坂神社から勧請したものとされ、現在の本殿は、大内義興が再建したものとして知られています。
社殿配置では本殿の前部に拝殿・楼門を並べる、この地方独特の特色を見せています。
この建物の蟇股は全て優秀とされます。本殿の周囲及び向拝の斗栱間に全部で13個の変化に富んだ蟇股が見られます
楼門~拝殿 重層の楼拝殿
向拝虹梁上には三個の蟇股が並びます 左端~中央~右端
左端は「桐」 中央は「宝珠三つ」 右端は「松」
1520 本殿 国重文 建立:1520 三間社流造 桧皮葺
組物は側面中央平三斗、隅柱上連三斗、正面・背面出組で、中備には本蟇股が身舎四面、向拝虹梁上に組み込まれています。
本殿の蟇股
身舎の周りの蟇股には、「蓮に大根」「蓮に梵字」「雲」「天体に雲」「雲に梵字」「芙蓉」「水仙」などの文様の蟇股が並びます
外陣にも蟇股は三個あります 左端は「桃」、右端は「枇杷」、中央は「大内菱に唐草」です
本殿後方(浦側)の蟇股
左右の身舎妻部にある蟇股
蟇股はそれぞれの股内に変化に富んだ室町時代の彫刻が施されています。
周防阿弥陀寺
山口県防府市牟礼上坂本1896
1187年俊乗房重源上人が、東大寺再建のため、周防国務管理滞在中に建立された由緒ある古刹です
阿弥陀寺の住職は周防国の国司がその任に当たりました。1484年に焼失し、大内氏の援助で再興されました。かつては多くの塔頭を有していましたが、火災や倒壊などの災難が多く廃寺隣、現在はただ本堂のみが残っています。
1975年よりアジサイの植樹が始まり、現在では80種・約4000株のアジサイが育ちアジサイの寺として知られるようになりました。
山門 市指定 再興:1731 三間一戸 八脚門 仁王像安置
往古の門は1565年に破壊、120年間最高なく、1685年毛利就信公が原型に倣って再興されました
金剛力士像は国重文 堂々たる容姿や力強い表現は鎌倉時代の特色を表わし快慶一派の作とされます 像高:2.7m 檜木寄木造(彩色)
蟇股
古色溢れる石道を登ると中門です 四脚門 1731年に建立
本堂 再興:1731 毛利弘政公が再興
細部
蟇股は向拝に多く配されています。
蟇股1
蟇股2
1740 正八幡宮
山口市西秋穂街西337
宇佐八幡宮を勧請して814年に創建された秋穂・秋穂二島地区の氏神。
当地方きっての大社で、古くから大内氏や毛利氏の庇護を受け隆盛を誇ってきた神社です。
1493年に大火に遭い、1501年に大内義興が現在地に移転して再建、さらに現在の社殿は1740年に毛利宗広が造替しました。
この地方に独特な楼門および庁屋をもち、同時代に建てられた本殿、拝殿がそろっており、山口県の近世神社建築の代表例として貴重な存在とされます。
一の鳥居から社殿の達系小田今ではかなりの距離があります。二の鳥居は330年前に建立、県文化財です
楼門 国重文 建立:1740 一間一戸楼門 入母屋造 向背一間 唐破風造 庁屋:左右各矩折利桁行七間 桧皮葺
柱間一間の楼造形式で、正面に唐破風造の向拝をつけ、扉を設けない。この左右に拝殿を囲むような形の庁屋(翼廊)が取付いています。
石清水八幡宮の社殿に倣ったもので、石清水の四面回廊を簡略させた翼廊を左右に従えます
細部
全体を拭板敷とした楼拝殿で、側面三間中二間が後方に突出しています
蟇股と笈形
拝殿 桁行三間 梁間三間 入母屋造 桧皮葺 天井中央各天井
拝殿は、本殿の前に接して建つ畳敷の建物で、後方に張り出し部をもった比較的簡素な建物です
四隅に大瓶束を立て上に組物を置きます 本殿との間を切妻造の幣殿でつないでいます
本殿 国重文 建立:1740 桁行三間 梁間三間 三間社流造 本殿周囲三方に縁をめぐらし高欄を付す
規模の大きな三間社流造で、各部に用いられた彫刻等は質が良い。現状は、軒下に霜囲いが付加されており、屋根以外は見えません。
身舎側面左右の開口部を撮影しました 本殿の撮影は出来ません
鐘楼 建立:1740 神社にある鐘楼で、神社の歴史的景観上重要 桁行一間 梁間一間 袴越付 軒付 一間疎垂木 入母屋造
宝殿
太師堂
社務所
手水舎 境内に入ってすぐにあります
少し郊外にあるためか参拝者が少ないとのこと 本殿を拝観することもできないためなのか―理由は不明です。
彫刻に優れており、本殿内部が見られず残念でした
1779 周防国分寺
山口県防府市国分寺町2-67
741年聖務天皇の勅願により、国家の鎮護と国民の慶福を祈願するために国ごとに建立された由緒ある官寺の一つです。
国分寺は宗教によって国家を統治する勅願所で皇室とも因縁深く七堂伽藍と二十五ケ寺の塔頭と末寺を擁し、その規模は壮大であったといわれます。
創建以来の寺地を大きく変えずに現在に至っています。現在の金堂は毛利重就を施主として1596年に建立されました
大規模な金堂が残ることでは全国の国分寺の中でも珍しく、貴重な存在です。
現在の主要伽藍としては金堂(本堂)・持仏堂(客殿)・聖天堂・仁王門などです
巨木が目印
仁王門(楼門) 県指定 再建:1596 三間一戸 重層 入母屋造 本瓦葺 下層:桁行三間 梁間二間 上層:桁行三間 梁間二間 中央間は桟唐途
1417年に焼失後1596年に毛利輝元が再建、1767年に毛利重就が大改修を行いました。大伽藍の威容を誇る楼門です。
細部
金堂 国重文 再建:1779 桁行七間 梁間四間 二重 入母屋造 本瓦葺 四方に擬宝珠高欄の切目縁 正面・背面一間向拝 各唐破風 天井格格子
屋根を二重にしたヴォリーユムの大きな仏殿で、内部は天井の高い大きな空間とし、古式の須弥壇を置いています。内部は天井の高い大きな空間とし、古式の 須弥壇を置いています その規模と堂々とした立面は寺地とともに創建以来の由緒を感じさせます。
内陣には大小五十余軀の仏像が安置され、国重文の仏像も多く含みます
唐破風の向拝1
蟇股 毛利家の裏家紋「オモダカ」の彫刻もあります
向拝2
持仏堂 毛利吉弘により1707年に修築された客殿
が1702年に建立
聖天堂 毛利吉弘画1702年に建立
周辺の蟇股・ほか
防府天満宮
山口県防府市松崎町14-1
菅原道真が無くなった翌年の904年の創建、「日本最初に創建された天神様」と名乗っています。松崎天満宮から1953年医防府天満宮に改称
道真が九州大宰府に流されてゆく途中の宿泊先の一つが防府とされ、京都の北の天満宮、福岡の大宰府天満宮と並んで、日本三大天満宮とされます
防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市で、年間を通して天満宮の行事で賑わい、市外からの来訪者も多い。
以前の社殿は江戸中期の建立でしたが、1952年に焼失。現社殿の設計は山口県出身の京都大学教授村田治郎の指導で、工業博士の
杉山信三が設計を担当、1958年に完成しました。2009年に国登録文化財に登録されています。
結構きつい石段をのぼります
手水舎と蟇股
楼門
拝殿
春風楼
春風楼と名付けられた楼閣式の参籠所です 当初は、長州藩第10代藩主の毛利斉熙が、1822年から五重塔の建立に着手しましたが、1831年に不慮の支障によって工事は中断、幕末の動乱などが妨げとなって五重塔は完成しなかったものの、当時着工されていた組物を床下に組み入れる形で、1873年に造られました。春風楼からは防府市街地が一望できるほか、御誕辰祭などの行事でも利用されています
神輿庫
天神本地観音堂
説明
松崎天神縁起 国重文
鎌倉時代末期1311年に製作されました 全編6巻が完本です 一巻から五巻までは北野縁起と大同小異ですが、第六巻は当宮創建の由来を描いた独自のもので在地縁起の先駆けとされます
山口県の社寺と大内家・毛利家のかかわりについて
大内弘世 -住吉神社 八坂神社 古熊神社
大内義弘・盛見 -瑠璃光寺五重塔 宇佐神宮(大分県)園城寺(滋賀県)一切経蔵 洞春寺
大内政弘 -常栄寺 雲谷庵跡
大内義興 -山口大神宮 今八幡宮 岩見銀山
大内義隆 -龍福寺 山口ザビエル記念聖堂 筥崎宮(福岡県)不動院(広島県)
毛利輝元 -広島城(広島県)
毛利重就 -防府天満宮 周防国分寺 阿弥陀寺
毛利敬親 -住吉神社 八坂神社 古熊神社
山口県下多く廻れてませんがこれで終わりとします。
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