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Monthly Web Magazine Mar.2022


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■蟇股あちこち 23 中山辰夫

いよいよ1500年代に入りました。殆どが本蟇股です。単純な彫刻唐次第に複雑になって行きます。それが桃山時代になると彫刻がそれまでよりも際だって立体的になって行きます。 
蟇股の完成は日光東照宮とされますが、それ以前に建立された優れた彫刻の遺構も目白押しにあります。今月は1500~1550年の遺構ですが、既に報告済の遺構も多くあります。
今月は矢川神社楼門(滋賀・重文)・地主神社(滋賀・重文)・明王院(滋賀・重文)・島田神社(京都・重文)・白山宮(富山・重文)・龍正院(富山・重文)・八幡神社・諏訪神社(長野・重文)・久久比神社(兵庫・重文)・遠昭寺釈迦堂(長野・重文)・泊西神社(奈良・重文)・三明寺(愛知・重文)です。



1482 矢川神社 楼門
滋賀県甲賀市甲南町森尻

矢川神社は滋賀県の南東部、鈴鹿山脈から琵琶湖に注ぐ野洲側の支流である杣川の下流右岸に所在します。創設は、社伝では聖武天皇の紫香楽宮造営の時と伝えます。
「延喜式」に記載されている甲賀八座のうちの「矢河神社」に比定される古社です。中世から戦国期は地域の結束を固める場として機能しました。1842年の〈天保一揆〉の合図に神社の早鐘が撞かれました。
境内南端にある鳥居をくぐり、参道を進むと正面に太鼓橋があり、太鼓橋の奥の石段を上ると楼門があり、更にその奥に拝殿、本殿が一直線上に続きます。

楼門は、室町時代後期に建立された建物で、上階が欠失しているものの下層や小屋組の当初材が残っています。
室町時代に雨乞いの返礼として大和国布留郷より奉納されたとされます。

楼門 国重文 建立:1482 三間一戸楼門 入母屋造 茅葺(上層を欠く)
   
雨請祈願成就の返礼として寄進建設されたものと伝え、その後慶長年間の大風地震に上層が飛散し、1593年に一重に改め、茅葺にしました。
下層部分はよく当初の材がのこされており、彫刻絵様意匠技報とも近在の新宮神社表門と類似するところが多いです。
組物は和様三手先組で、柱通利の通り肘木は三段通っています。中備は間斗束(蓑束)を入れています。虹梁上に板蟇股を置いています。

蟇股
  
蟇股はヒノキ、間斗束はカヤ、斗はヒノキです。

隅行木蟇股と梁間方向蟇股
    

蟇股実測図
 


新宮神社表門 (国重文) 建立:1485 三間一戸八脚門 寄棟造 茅葺 墨書より建立ん片が藩命蟇股や頭貫二時代の特徴が出ています。
 
建立時から現在まで改造もなしで、未完成のままで伝えられてきた特異な建物です。

拝殿と蟇股
      

本殿 –市指定文化財 再建:1755 三間社流造鋼板葺 八幡の大工、高木但馬が再建]
        

甲賀地方には多くの社寺があります。この地域は琵琶湖に面してはいませんが、甲賀山の東大寺造営や石山寺増改築用材は矢津川(現在の甲南付近)等から野洲川の水運を利用して移送されており、これらの国家的造営事業のため、奈良大工が移住させられた結果、甲賀杣大工が発生したことによるとされています。


 

1502 地主神社
滋賀県大津市葛川坊村町116

地主神社は比良山背後の僻地、明王院と明王谷川を隔てた入口の右奥にあって、中世以来明王院の守護神、葛川の鎮守神として崇敬されてきました。
地主神の思古淵明神を祀っています。思古淵明神は水の神とされ、安曇川流域に多く祀られ、同流域の開拓の祖神とされています。
明王院は渓を隔てた向かい側に鎮座しています。地主神社は西面して拝殿、幣殿、本殿の三棟が一列に並んでいます。
    
今回は「蟇股」を軸に並べます 蟇股は全部で12個あります。素晴らしい彫刻です

拝殿~幣殿 幣殿は国重文 建立:1571 桁行一間 梁間一間 向拝唐破風造 桧皮葺  拝殿と本殿の間に建ち
  
本殿の前に桁行一間梁間一間方柱吹放し、向唐破風造檜皮葺の軽快な廊のような幣殿が設けてあります。方柱上斗ト実肘木で桁を受け、前と後ろに細い虹梁を渡し、輪垂木で唐破風形屋根裏を造り、前後虹梁上には彫刻蟇股を置いて棟木を受けています。蟇股は牡丹に唐獅子です。

蟇股
幣殿前部の蟇股
   

幣殿後部の蟇股
  

本殿 国重文 建立:1502 三間社 隅木入り春日造 一間向拝桧付 桧皮葺 正面及び両側面に縁を設け、勾欄、昇勾欄を備える
  
蟇股彫刻の優れていること、構造手法上に見るべきものが多いとされる。
正面及び前面の廂と向拝の柱は面取方柱、他は円柱、軒は二重繁垂木、二手先斗栱を組み、斗栱間には彫刻蟇股を置いています。
廂の正面は中央間格子戸、左右間は吹寄菱格子戸を引違いとし、その下に取り付けた二条の長押の間には盲連子を彫った格狭間となっています。

本殿向拝の蟇股
   
向拝にあるのは両面彫りで、前面に花相花、裏は実相花に瑞鳥を彫っています。り、廂は正面中央に蓮唐草、蓮の花を中心に左右から対称形に唐草が取り巻き、蓮花の上には円中に薬師如来の梵字が彫られ、その左右には蓮の葉が出ています。


本殿の蟇股
本殿正面詳細
 
庇の正面です。方柱に長押を打ち、格子戸及び吹寄菱格子戸を立て、三斗の間に彫刻蟇股を置いています。
斗栱と蟇股の間は壁を造らず吹き放しとしていますが、庇の左右両側面は引違板戸を立て、上の楯と長押との間に竹節欄間が設けられ、斗栱間には板壁が造られています。

正面蟇股
   
正面中央に蓮唐草、蓮の花を中心に左右から対称形に唐草が取り巻き、蓮花の上には円中に薬師如来の梵字が彫られ、その左右には蓮の葉が出ています
三個の蟇股の裏面は輪郭内を平らに彫り窪めてそこに簡単な薄肉彫で左右対称の形の唐草が表されています。

側面の蟇股
       
左右両側面の蟇股には牡丹唐草、実相花唐草、桐唐草、蓮唐草、実相花唐草に瑞鳥、牡丹に唐獅子があり、多くは左右対称に構図されています。
初期蟇股彫刻の伝統を示し、図様としても平面的肉彫りの中にやがて来る写実の兆しが認められるものもあります。


1715 明王院

大津市葛川坊村町

明王院は、比良山地西側に位置し、明王谷川南側には鎮守の地主神社があります。

明王院は、延暦寺回峰行の開祖とされる相応和尚が9世紀中期に開かれ、その後天台宗の修験道場として栄えました。並ぶ伽藍は、古くより修行の行場として栄えた歴史を伝えています。

境内には、室町時代から江戸時代にかけて建立された本堂・護摩堂・庵室・政所表門の主要建物4棟を始め、石垣・石塀・石段などが往時のままのこり、行場としての景観を今日に伝えています。主要建築物4棟及び境内地9,500㎡が一括して國重要文化財に指定されています。

 

回峰行者の夏冬両度の参籠のほか、一般信者も明王院に参籠祈願する風が、既に平安末期からあり、昔は瀧参籠の翌日に卒塔婆を書く習いがあり、これが葛川参籠の起こりとされます。1204年の札を最古に足利義満や日野富子の参籠札(国重要文化財指定・長さ約4m)も現存しています。

政所表門 国重文 建立:1526 棟門 切妻造 銅版葺  強い反りの垂木や板蟇股など、古風な処方をもつ楼門

  

本柱両脇に取りつく貝形は当初のものです。

蟇股

  

当初材で、総幅4.16尺ほど、全成2尺程度、厚み3.6寸程度のヒノキ材よりなる板蟇股

護摩堂 国重文 建立:1755 桁行三間 梁間一間 宝形造 向背一間 鉄板葺 内部は柱を立てず、入母屋造・妻入りの一間厨子を置いています。

  

庵室 国重文 建立:1834 桁行8.7m 梁間4.9m 入母屋造 鉄板葺 正面玄関付属 行者が参篭する住宅風の簡素な建物

 

本堂 国重文 建立:1715 桁行三間 梁間五間 入母屋造 西側唐破風造 向拝一間 鉄板葺 向拝は唐破風造

明王院の境内地は、山裾の傾斜地に三段の平地をつくり、本堂は最上段に建っています。一間四面の正堂(内陣)の前に梁間二間の礼堂(外陣)が付きます。 

本堂前面~側面~妻飾り

      

本堂唐破風向拝全景

  

蟇股は唐破風造向拝の中備、正面虹梁上に極彩色を施した彫刻付の蟇股が据えられています。(東面側と西面側)

     

本堂内
  

蟇股は、内外陣境境蔀部上に置かれています。中央間蟇股(外陣側 当初材)
   
東側と西側
  

本堂内陣厨子・須弥壇正面全景(厨子は国重文)
 


1502 島田神社 本殿

京都府福知山市字畑中1772番地1

中世の豊富庄の総社とされます。現本殿は墨書より建立年が分かります。1934年の覆屋改築・拝殿新築時に改造がありました。

丹波地方に現存する室町時代神社本殿の遺構は和様で統一された保守的な技法により構成されているものるが殆どです。

当社もその類ですが、細部意匠に様々な工夫が行われており、工匠の創意工夫が見られます。

当社は2006年から7年にかけて修理工事が行われました。

本殿 国重文 建立:1502 三間社流造 正面軒唐破風(改築) 

   

身舎・庇の頭貫は端部の木鼻に絵様を施しています。手挟み、蟇股・花肘木・拳鼻の彫刻は丸鑿で内側に付き彫りしたものです。

       

欄間・脇間も見ものです。

   

蟇股 全幅::二尺六寸三分 厚み:一寸 全成:七寸 釘留め

身舎正面三間に配されています。外形の繰形の形式は脚を踏ん張らずに、跳ねあげる形で、他に類を見ないものです。内部に薄肉彫りが施され、両脇間の彫刻は「桐」を主題にしたものです。中央間の植物名は特定出しません。彫刻には彩色、脚には赤色の彩色が施されています。

東脇間~中央間~西脇間

   


1502 白山宮 本殿
富山県南砺市上梨

五箇山の上梨地区に鎮座しています。普段は未公開、秋祭りには公開されます。富山県最古の木造建築物です。
本殿内に白山権現菊理媛命(はくざんごんげんきくりひめのみこと)が祀られており、33年毎の開帳です。
奈良時代初め、泰澄大師が人形山の山頂に建立したものを上梨白山宮に移築したとされています。

本殿 国重文 建立:1502 桁行一間 梁間一間 見世棚 組物舟肘屁出三斗 中備蟇股 妻叉首組 正面打越一軒背面一軒垂木 流造 厚板葺 
    
向拝は面取方柱に三斗を用い、蟇股、木鼻、手狭があります。木鼻は天竺様の象鼻化したもの 手狭も鎌倉系の単純な輪郭に形のいい猪ノ目を彫られています。様式的な崩れも少ないです。

蟇股 一本を刻んだものとされています。
 
輪郭も脚内の彫刻も優秀です。

白山鞘d宗は。本堂の工法に建っています。
  

白山宮鞘堂 国登録文化財 建立:1760 入母屋造 茅葺
 
軸部は角柱に絵様肘木を載せ、軒はせがい造とし、正面を虹梁と蟇股で飾る。内部は土間の内陣に本殿を安置し、外陣は板敷で格天井に天井絵が描かれています。
五箇山に残る茅葺きの宗教施設では最も古く、唯一の神社関連施設として貴重とされます。豪雪地帯における信仰形態を反映した宗教施設です。

こきりこまつり
 
毎年9月25日26日に発祥の地上梨地区の白山宮境内にて「こきりこ祭り」が開催されます。


1504 龍正院 仁王門
千葉県成田市滑川1196

838年 滑河城主の小田将治が発願し、慈覚大師円仁が開山したと伝わります。滑川観音として広く知られています。

仁王門 国重文 再建:1501 三間一戸 八脚門、寄棟造 茅葺 飛騨大工の作といわれます。
     
桃山期の建築様式 柱は十六角で強さと素朴さがにじんでいます。板蟇股が用いられています。立派な注連縄は龍を擬しています。
   

観音堂 県指定文化財 建立:1696 徳川綱吉の寄進 入母屋造
     

木鼻・手狭
  

蟇股 甚五郎の作といわれるものも含みます。 蟇股が多く用いられています。じっくり撮影したく思っています。
      

欄間彫刻
  

天井絵 迦陵頻伽
 


1507 八幡神社本殿 摂社諏訪神社本殿
長野県下伊那郡阿南町古城

創立が室町時代の応永間年間と伝えられる古社です。
応永年間この地に下條頼氏が居館を構えた時に、鎮守として八幡社を勧請のち、信州の地主神として諏訪明神を勧請資摂社諏訪神社本殿を整えました。
現存する八幡神社本殿及び摂社諏訪神社本殿は、形式・手法が近在の大山田神社本殿と極めて酷似していることからほぼ同時期と推定されています。
修復工事が1991年から1993年にかけてされました。
   
覆屋の中に二棟の社殿が並んでおり、向かって右が八幡神社本殿、左が摂社諏訪神社本殿です。いずれも一間社流造、柿葺の社殿です。
  

八幡神社 本殿 国重文 建立:1507 一間社 身舎側面一間 浜床付 組物連三斗・蟇股 妻虹梁大瓶束 流造 杮葺 京都の工匠:吉村惣右衛門
  
一間四方で正面に扉構えを設けています。正面と両側面に縁を廻し高欄を付けています。庇は浜縁を設け、木階を構えています。覆屋の内部にです

向拝 
   
八幡神社本殿の特徴の一つは、向拝の柱の上部にある象の鼻のように上に丸まった木鼻の独特な形です。
 

二つ目の特徴は本蟇股です 
  
正面中央にある蟇股の彫刻が二羽の鳩が向かい合った左右対称形になっている点です。


摂社諏訪神社 国重文 建立:1506 一間社 身舎側面一間 浜床付組物連三斗 中備変形双斗・蟇股 妻扠首組 流造 杮葺
  
本殿は八幡神社と同形式ですが、やや小さく、全体に構造形式、装備を簡略にしています。
向拝の蟇股 正面と見返し
    
八幡神社本殿と構造形式がほぼ同じですが、向拝の木鼻が具象的でない点、虹梁に渦・若葉の絵様が施されている点、蟇股の彫刻が鷹一羽と橘で左右非対称である点などに特徴があります。
 
大山田神社
 
八幡神社の厄。5㎞西北の下城村に所在します。


1507 久々比神社 本殿  くくひ
兵庫県豊岡市下宮

豊岡駅の北東3Kmほどの下宮に鎮座。鳥居を二度くぐると割拝殿、その後方に本殿があります。

本殿 国重文 再建:1507 三間社流造 身舎側面二間 浜床・縁付 組物出三斗 中備蟇股 こけら葺 
   
三間社流造で室町時代末期の建立。蟇股を多く用い、妻飾を二重虹梁太瓶束の制にするなど社殿建築としては割合にぎやかな意匠とされます。
手の込んだ彫刻が多く見られます
    

向拝の蟇股
    

身舎の蟇股 三つの蕊「蕊」の桐、他(順不同)
      

蟇股の彫刻が優れ、東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻されている。棟札および墨書によると元禄15年(1702年)に向拝および縁回りの修理・正徳元年(1712年)にも修理が行われている

割拝殿と蟇股
  


遠照寺釈迦堂
長野県伊那市高遠町山室2016

方三間の小堂ですが、和様を基調とし、大仏様、禅宗様の構造・意匠を多く用いています。
中部以東で大仏様系の意匠が採用されるのは極めてまれで、その技術の導入経路を含めて興味の尽きない異形を放つ建築とされます。

釈迦堂 国重文 建立:1538 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 向拝一間 銅板葺
     
組物は出組で、肘木には絵様繰形が付き、木鼻には動物様の絵様が付きます。堂内に安置する多宝塔は墨書により1502年の建立です。
堂内は大仏系大虹梁をかけています。その上に方一間の鏡天井を張り、その周囲は化粧屋根裏です。

釈迦堂内部
   
太い断面円形の虹梁、肘木木鼻などは大仏様形であり、須弥壇・高欄・実肘木・鏡天井は禅宗系。多宝塔を安置しています。

多宝小塔 国重文 建立:1502 長野県最古の多宝塔 三間多宝塔、瓦棒入板葺。心柱に墨書がある。
      

蟇股
  

遠照寺本堂 821年創建と伝わる古刹 開基:最澄
 
境内には、山門・鐘楼堂・本道・釈迦堂・七面堂・庫裏・土蔵が並びます。


博西神社
奈良県北葛城郡新庄町寺口

博西神社が所在する寺口は、中世に台頭し在地支配を行った大和節布施氏の拠点で、氏寺であった置恩寺の門前集落として発展したと伝わっています。
当神社は布施郷の号鎮守であったとされます。
現在の本殿は東向きの春日造を南北に二殿並立させた形式で、細部の手法に室町時代末期の様式を示す貴重な遺構とされ国重文に指定されています。
 

南北両殿 国重文 建立:1538 各一間社 春日造 檜皮葺 東面 両殿間背面柱筋を障壁で繋ぐ 縁三方 組物舟肘木 庇出三斗 檜皮葺
   
二殿が南北に並立しています。いずれも一間社春日造で、規模、形式とも全く同じです。建立も同時で、室町時代末期とされます。

蟇股 内部は植物文を彫刻した本蟇股。 ヒノき材を用いたヤリカンナ仕上げです。
北殿 題材はフジ
    

南殿 題材は牡丹
    

蟇股寸法詳細
 
大きさは幅84.3cm、成19.7cm、厚みは上面で8.2cm、で足元に向かい厚みを薄くして下面巾4.6cmとし、敷面高は16.7cm。
間斗敷面の両脇には目違が造りだされており、上面から側面にかけて縞が付けられています。
蟇股の厚み中央を下面から間当敷面にかけて彫り抜き、表裏で別々の彫刻を施すことで彫刻を二重にしています。


同規模の春日造を並列し障壁で繋ぐ形式としては、四殿を連結したものに春日大社本殿(国宝)、三殿を連結したものに大神神社摂社率川座大神御子神社本殿「奈良県指定」などがあります。
二棟を並列するものとしては円成寺春日・白山堂(国宝・鎌倉)が代表です。


1554 三明寺 本堂内宮殿
愛知県豊川市豊川町波通

豊川弁才天の通称で知られる曹洞宗の寺院です。702年文武天皇の勅願で建立されたと寺伝にあります。
兵火で焼失し、荒廃していましたが、応永年間に諸堂を復興、三重塔(国重文)も建立されました。
その後、1531年に三重塔が再建され、1554年に弁才天宮殿が再建されました。現在の本堂は1712年に再建されました。

蟇股は宮殿向拝と本殿向拝に見られます

宮殿は、堂内にあったため軸部、組物は勿論、破風、懸魚、鬼板などにいたるまで完存しており、室町末期の様式を各細部にまで知りうるものとして貴重です。
「宮殿」は「厨子」とほぼ同義ですが、当寺の宮殿は神社本殿と同様の流造とする点が特色でした。

本堂内宮殿 国重文 建立:1554年に上棟 桁行一間 梁間一間 一間社流造 棟梁は熱田大工の藤原甚左衛門吉定 
   
和様を主体としながら、最新の唐様の細部意匠を豊かに示しています。近世の東三河の地方的な特色を備えた仏堂で、地元大工の優れた技量を示す作例とされています。
宮殿に見られる彫刻は向拝蟇股のみで、その他は全て絵繰形とし、装飾的には簡素な建物です。(絵様 繰形と鬼板を並べます)
   

向拝蟇股  宮殿唯一の彫刻 墨書が残っています
蟇股正面と裏面及び墨書
    
蟇股脚は総幅1.8尺、肩高5寸 厚1.82寸 檜材 台カンナ仕上 
蟇股中央には脚部とは別木で牡丹唐草の彫刻を配しています。蟇股脚部表面には黒塗りを施していますが、牡丹唐草には塗られていません。

三明寺
本堂 県指定文化財 再建:1712 桁行五間 梁間五間 寄棟造 本瓦葺 格子天井で、極彩色画が描かれています。
 
木鼻は麒麟、格子天井は極彩色画
   

向拝蟇股 表と裏
   

三重塔 国重文 建立:1531 高さ14.5m 1・2層を和様、3層を禅宗様としているのが特徴
 

三明寺は、熱田神宮の造営を行い、古来建築技術に優れた伝統を持つ熱田工匠を支配するようになった岡部又右衛門一族の建築です。
室町時代の熱田工匠は、主として尾張・三河の東海地方で活躍、観音寺多宝塔や1554年上棟の三明寺が彼らの作品です。
これらの優秀な技術陣を揃えた岡部又右衛門は安土城築城を担当、京都・奈良・堺の大工緒職を結集し行いました。

礫石経
2005年の本堂保存修理工事の際に本堂床下の宮殿直下において、大量の礫が確認され、その礫の一つ一つに墨書がされていました。
今回取り上げられた礫石経の総数は10,392点で総重量は290,340g。総数6万点あまりの礫石経があると推定されています。
  
建物に伴う礫石経の検出数は少ないです。

信長の御大工、岡部又右衛門は百艇走の快速船を建造して有名です。熱田神宮の造営後熱田工匠たちを支配しました。 
熱田工匠は室町時代尾張、三河の東海地方で活躍し、観音寺多宝塔、三明社などを建立しました。

安土城は、 岡部又右衛門父子を中心に、京都・奈良・堺の大工緒職を結集して行われました。

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