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Monthly Web Magazine Apr.2022


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■蟇股あちこち 24 中山辰夫

今月は、郡山八幡宮(鹿児島1559)・古四王神社(秋田1570)・土佐神社(高知1571)・桑実寺(滋賀・1588)水戸八幡宮(茨城1598)
玉村八幡宮(群馬・1610)です。すべて重要文化財指定です。
今月は1500年代後半を集めました。室町から安土・桃山への移行時で、蟇股も過渡期を表わすものが多く出てきます。
この時代に腕を上げた宮大工が1600年代に入ると全国の諸大名から招聘を受け、各地の建築にあたり、地方の文化を高める役目を果たすようになります。


1559 郡山八幡社 本殿・宮殿
鹿児島県伊佐市大口太田1549

郡山八幡神社は、室町・桃山様式に琉球の建築様式が融合した美しい朱色の社殿で、鹿児島県では最初の重要文化財に指定されています。
1954年の修理工事の際に、日付入りの大工の落書きが発見され、「焼酎」という言葉が確認された日本最古の資料となっています。
そのことから伊佐市は「焼酎発祥の地」とも呼ばれるようになり、郡山八幡神社は「焼酎神社」として親しまれ、町おこしにも貢献しています。

伊佐市は肥後(熊本県)に通じる要所で、領主菱刈氏が支配していました。
 
1194年に菱刈氏の氏祖である菱刈重妙が神託により宇佐八幡宮より勧請した神社と伝えられています。菱刈家の氏神として崇敬されてきました
鹿児島県下で知られている唯一の古建築で、九州における最も南端に位置します。
1616年、1880年、1897年に修理が行われ、1994年(昭和29年)にも修理が行われました。
社殿
     

本殿に入る前に関連する情報を紹介します。

国重文指定まで
地元で、1935(昭和10)年頃から文部省担当者に国宝指定のアプローチを始めました。下調査に訪れた調査員は「桃山時代の大和文化と琉球大工の合作と云うべき本殿」と称賛、当時の国家建物調査員に伊藤忠太博士がおられ、博士の指示でさらに詳しい調査が行われました。
ところが1941年の大戦勃発でとん挫。
終戦後、指定認可の運動を再開、1949(昭和24)年指定の運びとなりました。約14年間にわたる地元民の苦しい努力の結晶で得られたものとされています。
認可については、蟇股の彫刻に「永正四年丁卯2月吉日」(1507年)の墨記が付記されていたことがカギとなりました。

「焼酎の落書き」
1954年の解体修理の際、本殿北東の柱貫の先端から大工二名の名前入りの落書きが発見されました。大工のグチが記されている珍しいものです
   
それには施主の寺僧がケチで、大工に一度も焼酎をご馳走しなかったのに腹を立てて書き残したものとあれます。わが国における「焼酎」という文字の初見であるとされて、1559年当時、すでにこの地方では焼酎が飲まれていたことが裏付けられ、民俗資料としても従来の説を覆す重要な資料となりました。
落書きを残した大工は意気盛んな優れた技量の持ち主であったこと、多くの実績を重ねた宮大工であったことが彫られた彫刻からもわかります。
今から460年程前から薩摩に焼酎文化が根付いていた証しとして、2021年に町おこしを目的にしたポスターが作成されました。
  
向拝柱に奇抜な彫刻が施されています。室町及び桃山形式の手法と琉球建築の情調が強く加味されている点も見ものです

本題に入ります

本殿 国重文 再建:1559 桁行三間 梁間三間 向拝付 入母屋造 柿葺
      
前面一間通りは吹き流しの広縁拝所として柱は方形、格天井を造り、身舎の部分は円柱を使用し、上方に二筋長押を打ち、軒回り斗栱が三斗、斗栱間に蟇股を置いています。
      
奥2間を内陣として、そこに宮殿を置き、神功皇后を祀っています。内陣は中央を両開き扉とし両脇に格狭間風の窓を付けています。

拝所の前に一間の向拝があり、ぎっしり彫刻が施されています
          
奇抜なのは向拝の柱や頭貫で、全体に雲や奏楽天人などを彫り、さらに上方の向拝虹梁の彫刻と一体になっています。木鼻も手狭も雲文彫刻化しています。
素朴でありながら力強く彫られており、実に見事です。そこからは明るい地方色か南国気風が感じられます。

蟇股 (多くありますが一部を抜粋しました。)
  
輪郭内に種々の彫刻が施されています。波に鯉、宝珠に輪宝、竹に虎、牡丹に唐獅子、山茶花に鳩、枇杷などがほられています。
但し背面斗栱間の蟇股のみは輪郭のみを彫り出して内に彫刻を造らず、そこに草花の絵を描いています。
        

内陣宮殿 国重文 桁行一間 梁間一間 単層 入母屋造 とち葺
     
1940年、文部省担当者の調査で、この宮殿は本殿の雛形戸判明、国重文に指定されました。
高さ:120cm 宮殿幅:60cm 御神鏡:直径24cm 古い御神鏡は紛失、残された箱書によると立派なものとか。

狛犬
  

琉球と聞くと残念なことになりました首里城を思い出します。
    

今回の報告のまとめには、現在、地元の文化財の開発・維持に活躍されています菱刈資料館の皆様にお世話になりました。


1570 古四王神社 本殿
秋田県大曲市大曲古四王際30

2002年から2003年にかけて修理事業が行われました。
奥羽本線大曲駅と飯詰駅の中間地点、広い田園に囲まれ天を仰ぐ老樹の中にある小さな社です。飛騨の工匠「大工・甚兵衛」の作とされます。
境内には、拝殿~幣殿~本殿の順に社殿が並びます。
 

1906年にこの社殿を調査した東大の伊藤忠太郎博士は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆され、又、京大教授の天沼俊一博士も「和、唐、天を超越した天下一品の建築」と激賞されました。この建築の棟梁は、1930年野解体修理の際に見つかった墨書から古川村(岐阜県飛騨市)大工甚兵衛と分かりました
所々に珍奇な意匠を施した建築手法が特徴です。
拝殿
 

幣殿全体と向背
   

幣殿側面の蟇股
  

本堂前向拝正面尾蟇股
  
菊の浮彫りの彫刻は「稀に見る傑作」といわれています。

向拝水引虹梁蟇股・斗栱 藤野菊のぁらくさの彫刻と、その菊の浮彫りの上にある鴛鴦を図案化した蟇股
 

本堂 国重文 建立:1570 一間社 身舎側面一間 中備間斗束 入母屋造 こけら葺 向拝一間 大工:飛騨名大工:(甚兵衛)
    
建物には、細部まで優美な彫刻が施される反面、荒削りな太い材木の堅牢な土台など、繊細さと豪快さをあわせ持つ建築手法が最大の特徴といわれています。
屋菜下の組物は、クギを一本も使わず、木材の組合せで重い屋根を支える仕組になっています。

見事な細部組物
     
室町末期の特色を濃厚に見せています。桟唐戸を含め四方に施した“結界”を意味する襷桟、大型の蟇股や擬宝珠などの意匠は他に類例がありません。
擬宝珠は木目を利用した一木造で、大変珍しいです。

喰う右殿正面と蟇股
  

本堂の正面・側面部材名称

 


1571 土佐神社 本殿
高知県高知市一宮しなね2丁目16-1

「日本書記」や「土佐国土風土記」の記述で知られるように古代から祀られている古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知を代表する神社です。1871年に「土佐神社」に改称されました。
代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の本殿・幣殿・拝殿は戦国大名の長宗我部元親による造営です。
楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されています。

本殿 国重文 再建:1571 正面五間 側面四間 組物出三斗 二軒繁垂木 入母屋造 妻二重虹梁大瓶束 こけら葺
   
前面中央三間に向拝一間が付いています。外面は全体に極彩色で彩られ随所に彫刻が施されており、本殿内部は内陣・外陣に分かれています。
全体的に寺院の本堂に近い造りになっています。

妻部 二重虹梁大瓶束 地方色豊かな大蟇股
    

向拝の組物 蟇股、魚や龍の彫刻 繰形の大きな木鼻 
    

蟇股 蟇股は斗栱の間に置かれています。
実相花や梅に鳳凰を配したもの、竹に虎、ハス、龍、鯉に水藻、中国故事など彫刻蟇股の古式を伝承しつつ既に桃山彫刻へ発展の兆しが出ています。
              

鼓楼 国重文 建立:1649 二重 入母屋造 柿葺 下層は板葺の袴腰 上層は桁行三間、梁間二間
 

蟇股
   
初層と二層目に蟇股が配されていますが、画材は異なっています

初層目
            

二層目
         

楼門 国重文 建立:1631 桁行三間 梁間二間 三間一戸 二重 入母屋造 銅板葺 左右に随身像 
 
中央間棟通りに山内家の家紋、三つ葉柏が彫り込まれた蟇股が置かれています(画像なし) 虹梁下に藻蟇股が配されています


幣殿・拝殿 国重文 建立:1571 一重 拝殿:二重 切妻造 柿葺 幣殿・拝殿は十字形の平面
    


桑実寺本堂
近江八幡市安土町桑実寺

安土城の峰続きの繖山(きぬがさ)の中腹に位置し、薬師如来を本尊とする天台寺院です。678(白鳳6)年開山、1333~92年の間に本堂建立。
現在の本堂は室町時代前期に建てられたものです。
1588年近江侵攻を果たした信長は桑実寺に約60町の境内地及び四百十五石の水田を与えると共に、荒廃していた堂宇を修理再興しました。

山門と板蟇股 長い石段道を登ってたどり着きます
   

本堂 国重文 建立::室町前期 桁行五間 梁間六間 一重 入母屋造 檜皮葺 外陣、内陣、後陣に分かれています。
      

中備には優美な蟇股が配されています。正面中央間のみに見られ、あとは間斗栱です
   

地蔵堂と鎮守社の蟇股
    

国重文 桑実寺縁起
桑実寺縁起絵巻は天文元年(1532)足利義晴より奉納されました。縁起絵巻写しは元禄9年(1696)奉納にされました。
天文元年(1532)2月、義晴は宮廷絵師土佐光茂に桑実寺縁起絵の製作を命じる。光茂は3ケ月を費やして完成しました。
絵巻は桑実寺の創建の由来、及び薬師、日光、月光の本願功徳を説いています。
 

安土城の侍女が桑実寺に参拝した事件は信長公記に記載があり有名です。
1582年には、安土城の女中たちが自分の留守中に禁足を破って参拝に訪れたことを信長が咎め、女中たちと彼女らを擁護した桑実寺の高僧たちを殺害するという事件が起きました。


1598 八幡宮 本殿
茨城県水戸市八幡町8-54

佐竹義宣が水戸城主となった翌年の1592年に城内総鎮守として常陸太田市の八幡宮から勧請した神社を創設したのが始まりです。
1694年に他所に移遷されましたが1709年に現在地に再移遷されました。
本殿は佐竹義宣の寄進に寄りますが、建築に関わった工匠はいわゆるお抱え大工によるもので習熟度も高く、彫刻絵様などは常陸地方の中世末期の特徴をよく表しており、本殿全体の完成度も高いと評価されています。
  

本殿 国重文 建立:1598 桁行三間 梁行二間 一重 入母屋造 正面一間通り庇付 杮葺(現在は檜皮葺)
    
身舎の組物は出組で、室内側は野造りです。絵様肘木・挙鼻・中備の蟇股など相まって非常に賑やかな雰囲気を創造しています。材種は用途別に欅・桧・松が採用されています。用いられています。

妻飾 移築時に改造を受けていますが、すべて当初材です。
     
移築時に改造を受けていますが、すべて当初材です。虹梁大瓶束形式。

庇・大床
身舎と庇のつながり・正面柱間装置と大床杉戸
  

手狭・大和・頭貫木鼻・木鼻彫刻
      

大床杉戸
  

蟇股は身舎廻りに配されています
     

個別
          

足元には若葉彫刻が、両肩には箕のような彫刻が付いた蓑束式蟇股で、地方色的な蟇股の形式です。
当社の蓑束式蟇股はプロポーションや彫刻の題材・表現などが非常に洗練されており、地方色が中央色に影響を受けた一つの完成した様式といわれます。
蟇股の内部には透彫(はらわた彫刻)が施されていますが、この彫刻は造出しで股の中に完全に収まっており、中世的です。
題材は、酒呑童子、竹・菓子・鶏、葡萄・栗鼠、花・尾長鳥、桐・鳳凰、竹・虎。桃の花・実・竹、葦・コウノトリ、など在ります。
参考
   

蓑束式蟇股について
足元には若葉彫刻が、両肩には箕のような彫刻が付いたもので、茨木・栃木・福島県内に類例の多い地方的色合いの濃い蟇股です。
この種の蟇股は、水戸周辺では建物の種類を問わず室町時代中後期から近世初頭にかけて多く見られますが、寛文頃には無くなり秋田地方において新しく発展して行きます。
肩に蓑状の彫刻が付随する蟇股を、重要文化財に指定されている本殿建築は26棟あります。 
時代別では、室町前期3棟・室町中期1棟・室町後期7棟・桃山2棟・近世13棟)あります。近世13棟のうち9棟は秋田県です。

遺構例
西明寺楼門 栃木県 1491
  

善光寺楼門 茨城県 室町後期
  

  


1610 玉村八幡宮 本殿
群馬県佐波郡玉村町下新田1

玉村八幡宮は、1195年に鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請され、1610年に現在地に移されました。
朱塗りの美しい本殿は、室町様式と江戸初期様式が融合した建築物で、重要文化財に指定されています
江戸時代、日光例幣使道の一番目の宿場町として賑わった玉村宿の中心地に鎮座しています。現在は幣殿、拝殿を併設しています。
近世以後行われた改修の部分と、創建当時の違いを対比でき貴重とされています。

本殿 国重文 建立:1610 三間社 身舎側面二間 組物出三斗庇出組 中備蟇股 銅板葺
     
細部 本殿被害側面~本殿正面~身舎境
   
本殿の正面には江戸時代後期の拝殿が建ち、本殿は拝殿と幣殿で結ばれています。建物全体は漆彩色で荘厳、華麗な造理です。

蟇股
蟇股は向拝に2個、身舎の各間に1個ずつで計12個。形状、様式は様々で、各時代のものが混在しており、すべてが当初のもので無いです。

身舎正面の蟇股 東(鷹に松)・中央(菖蒲)・西(鷹に松)
   
材質は檜。脚は若葉の彫刻で頭貫には釘で止めてあります。江戸期のものとされます。

身舎背面の蟇股 東(菊花)・中央(聞く花)・西「桃」
      
材質はヒノキ材 足は若葉の彫刻で頭貫に和釘止め 彫刻は平面的で前部に突出しておらず、中世的な手法を残しており、転用か後補の可能性が高いとされます

身舎東側面の蟇股 南(海馬と波)・北(麒麟と雲)
    
材質は檜。脚は雲の彫刻で頭貫に和釘留めています。当初のものでないようです。

身舎に西側面の蟇股 南(唐獅子と牡丹)・北(虎と竹)
    

向拝の蟇股 東表(菊花)・東裏(菊花)・西表(椿)・西裏(椿花)
    
材質は檜。透彫とし、足は若葉の彫刻で身舎正面の蟇股と酷似しています。江戸中期のものとされます。

随身門 建立:1865 三間一戸の楼門 入母屋蔵 桟瓦葺 組物は二手先 軒は二重垂木 
 
軒支輪・蟇股・木鼻のほか 虹梁や壁面などを彫刻で華やかに飾っています。

随神門をくぐると広い境内。随神門から敷石の参道が続いている。
昔、商人風の男が突然現れ、石工や人夫を雇って参道に石を敷きつめ、名前も告げずに去ったという話が残っている。

拝殿 正面三間、側面三間、背面五間の入母屋造 銅版葺、接続する幣殿:正面一間、側面三間、両下造 入母屋造 銅版葺
      

神楽殿
   


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