Monthly Web Magazine Feb. 2023
■桜づくしの動画編集 瀧山幸伸
今年の正月からほぼ毎日1本、桜に関連した動画をYouTubeにUPしている。Japan Geographicの動画は、視聴者数や再生数を追及しているのではなく、他では得られない価値を提供するのが目標だ。
格好よく言えばそうだが、要するに、視聴者数も再生数も少ないし、営利は追求していないし、自分一人が編集を担当しているのだから、開き直って自分がやりたい動画編集をしているに過ぎない。
昨年末、未編集の桜動画を数えたら百数十か所ほどあったので、1日1本の動画UPであれば各地の桜開花に間に合い旅行を企画している桜好きの方々の参考になるだろうと思ったのだ。
これらの中には知られざる一本桜も多いが、そういう桜に限って鳥の声、水の音、風のそよぎなどがすばらしく、撮影時の感動が蘇って来るから編集がとても楽しい。今の桜も百年後には枯れるものが多いだろう。ましてや千年後には数本しか残らないだろう。外来の病害虫などで日本から桜が無くなるひが来ないとも言えない。日本の文化のほとんどは春の桜と秋の紅葉と共にある。桜がない日本はレイチェル・カーソンの「沈黙の春」のような世界なのだろうか。
■久しぶりの遠出(和歌山) 大野木康夫
2月5日の日曜、久しぶりに遠出の日帰り撮影に行きました。
行先は和歌山県北部とし、昨年12月に重要文化財に指定された角長(加納家住宅)(湯浅町)、紀北の特徴である極彩色の社殿を持つ且来八幡神社(海南市)、名手八幡神社(紀の川市)、差し上げ撮影に挑戦したい野上八幡宮(紀美野町)、宝来山神社(かつらぎ町)などを組み込んだ行程表を作成しました。今回の門限は19時なので、最終目的地である宝来山神社は17時には出発することとし、野上八幡宮の撮影が終わった段階で間に合わないと判断すれば、十三神社(紀美野町)と三船神社(紀の川市)は割愛することとしました。
この日の夜明け時刻は7時なので、第一目的地の施無畏寺(湯浅町)までの移動時間をネットで調べ、5時に京都市の自宅を出発しました。
京都東インターから名神高速道路、近畿道、阪和道を通って有田インターで高速を降り、施無畏寺に着いたのは7時ちょうどでした。
施無畏寺(7:00-7:23)
明恵上人の従弟が開いた寺で、和歌山県指定有形文化財の建造物が5件あります。
石造宝篋印塔(室町前期)
本堂(江戸中期)
開山堂(江戸前期)
鎮守社(江戸中期)
鐘楼(江戸中期)
施無畏寺から山道を少し上ったところに国指定史跡の明恵上人白上遺跡(指定名称は「明恵紀州遺跡率都婆」)があります。
大半の道はみかん栽培のためのコンクリート舗装道なので手軽に訪問することができます。(駐車場所がないので車は施無畏寺の駐車場に停めたままです。)
西白上遺跡(7:40-7:55)
若い頃の明恵がはじめに草庵を建てて修行したところで、明恵の死後、弟子が木造の笠塔婆を建てた八カ所の一つです。約百年後の室町前期に石造笠塔婆に造り替えられたものが「明恵紀州遺跡率都婆」として史跡に指定されています。
山頂には磐座があり、湯浅湾を一望できます。
東白上遺跡へのアプローチ
東白上遺跡(8:02-8:09)
西白上では湯浅の町が近く修業がはかどらないので明恵が移ったところで、西白上と同じく、「明恵紀州遺跡率都婆」として史跡に指定されています。
明恵はここで右耳を切り落として修業したということです。
高い断崖になっていて遠くに太平洋が見えます。
施無畏寺から「街並みの駅湯浅」の駐車場に戻り、湯浅重要伝統的建造物群保存地区を見学しました。
施無畏寺の参道は急坂なので慎重に運転しました。
角長(加納家住宅)(8:32-9:26、9:52-10:01)
湯浅の地場産業たる醤油醸造業を営む加納家の住居と醸造施設で、十一棟が重要文化財に指定されています。
創業の天保12(1841)年以来、大仙堀に面した現在地で営業を続けています。
北町通の南側の建物
辰巳蔵(江戸末期)
角蔵(明治後期)
樽蔵(江戸末期)
醤油蔵(北)(大正)
醤油蔵(南)(明治)
北町通の北側に面した建物
主屋(江戸末期等)
醤油蔵(江戸末期等)
大仙堀に面した建物
土蔵(明治中期)
穀蔵(江戸末期)
麹室(明治後期)
仕込蔵(江戸末期)
深専寺の行き(9:27-9:31)帰り(9:46-9:51)、駐車場に帰るついで(10:02)に湯浅の街並を撮影しました。
深専寺
湯浅の熊野街道沿いに建つ行基開基と伝わる寺です。
三棟の建造物と総門前に建つ「大地震津波心得の記」碑(記念物)が和歌山県指定有形文化財に指定されています。
惣門(江戸中期)
大地震津波心得の記」碑(江戸末期)
本堂(江戸中期)
庫裡及び玄関(江戸後期)
書院(江戸後期)
湯浅を出発したのが10時、阪和道を通って海南インターから海南市の且来八幡神社に着いたのが10時35分でした。
且来八幡神社(10:35-11:08)
神功皇后、応神天皇が凱旋のときにこの地に立ち寄られ、神功皇后が「あした(旦)来よう」と言われたことから地名が「且来」、鎮守社も八幡三神を祀る且来八幡神社(文化財指定名称は「且来」、神社ホームページでは「旦来」)となったそうです。
県指定有形文化財の本殿は平成に改修され、鮮やかな姿となっています。
本殿(桃山)
且来八幡神社は海南市北部に位置し、紀美野町に近かったので、11時27分に野上八幡宮に着きました。
野上八幡宮(11:27-12:04)
本殿、拝殿、摂社三社の本殿の五棟が重要文化財、絵馬殿が県指定文化財です。三度目の訪問ですが、今回は本殿の差し上げ撮影に挑戦しました。
摂社高良玉垂神社本殿(祭神は高良玉垂命、桃山)
拝殿(桃山)
本殿(祭神は八幡三神、室町後期)
摂社武内神社本殿(祭神は武内宿禰命、室町後期)
摂社平野今木神社本殿(祭神は今木皇大神、室町後期)
絵馬殿(桃山)
野上八幡宮で12時を過ぎたので、既に二度訪問し、撮影対象が変わらない十三神社と三船神社を割愛し、粉河寺に向かうこととしました。
粉河寺(12:44-14:06、十禅律院を含む)
紀の川右岸、葛城山系の山裾に位置する西国三十三所第三番の札所です。
大門、中門、本堂、千手堂の四棟が重要文化財、童男堂が県指定有形文化財です。
大門(江戸中期)
中門(江戸末期)
本堂(江戸中期)
千手堂(江戸後期)
童男堂(江戸中期)
十禅律院(13:38-14:00)
粉河寺の塔頭十禅院でしたが、18世紀末に天台宗安楽律院派の十禅律院として独立しました。
四棟が県指定有形文化財で、庭園(市指定名勝)も有名ですが、御住職によると手入れができていないということなので、建物のみの見学としました。
塗上門(江戸後期)
本堂(江戸後期)
護摩堂(江戸後期)
庫裡(江戸末期)
粉河寺から国道24号経由で旧名手本陣妹背家住宅へ行きました。14時19分に到着しました。
旧名手本陣妹背家住宅(14:19-14:38)
名手の大庄屋である妹背家の住宅で、紀州藩の参勤交代の時には本陣とされました。
三棟が重要文化財に指定されていますが、前回訪問時(平成24(2012)年)、敷地の南西部が工事中だったので再訪問しました。
工事範囲が縮小されていて、南倉の南側を見ることができました。円柱の柱が四本、梁一本があり、珍しい造りでした。
主屋(江戸中期)
米蔵(江戸中期)
南倉(江戸中期)
ここからほど近い名手八幡神社に向かいました。車で3分ほどです。
名手八幡神社(14:43-15:16)
もともと丹生都比売大神を祀る神社があったところに神功皇后が凱旋の折に立ち寄られたため、誉田別命(応神天皇)も祀られました。後世に天満大自在天神も祀られて三棟となった本殿が県指定有形文化財となっています。(三棟並立であれば丹生明神、狩場(高野)明神、八幡大神のような気もしますが、変遷の経過はわかりません。)
八幡神社本殿(明治)
丹生神社本殿(江戸中期)
天満神社本殿(明治)
国道24号経由で最後の目的地、かつらぎ町の宝来山神社、神願寺へ行きました。車で20分ほどの距離です。
宝来山神社(15:38-16:11、神願寺を含む)
桛田(かせだ)荘の中心的な神社で、神願寺は神宮寺に当たります。
本殿四棟が重要文化財、東西の脇殿が県指定有形文化財です。
以前は瑞垣が低くなっている東西から撮影しましたが、今回は南側から差し上げ撮影に挑戦しました。
手持ちの一脚で差し上げてもぎりぎりの高さでしたがなんとか撮影できました。
第一殿(祭神は八幡大神、桃山)
第二殿(祭神は菅原大神、桃山)
第三殿(祭神は大山祇大神、桃山)
第四殿(祭神は猿田彦大神、桃山)
東殿(祭神は素戔嗚大神と大国主神、江戸前期)
西殿(祭神は蛭子大神と少彦名大神、江戸前期)
神願寺(16:01-16:11)
宝来山神社の神宮寺として、多田満仲が創建したそうです。
本堂が県指定有形文化財です。
本堂(江戸後期)
撮影後、京奈和道、阪和道、近畿道、名神経由で18時10分過ぎに帰宅しました。
予定から2箇所を割愛しましたがおおむね満足できる撮影結果となりました。
特に紀北の社寺建築は、根来、粉河、高野といった大寺院が並立する中で培われた木工、漆工などの技術が存分に生かされ、目の保養にもなるような鮮やかな色彩のものや見事な彫物が多く見られ、十分堪能できました。近年、多くの建物で保存修理が行われたおかげであると思います。
先月の西本願寺に続いて、東本願寺、真宗大谷派の本山です。
親鸞聖人の御真影を安置する御影堂と、御本尊・阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂を中心とする境内は約93,000㎡(約28,000坪)の広さです。
江戸時代に四度の火災に遭いその度、江戸時代以来の建築構成・様式を踏襲して再建されました。
現在の建物は、明治時代に順次再建されたもので、御影堂・阿弥陀堂・御影堂門など六棟が国の重要文化財に指定されています。
■ 雪だるま??をつくろう・・♬ 酒井英樹
大阪の街中・・積雪にほとんど縁のない所で生まれ育った私にとって、幼少期のころ真っ白で大きな雪だるまを造ることが小さな夢の一つであった。
それから約半世紀経過・・その間その小さな夢をかなえ・・かまくらをつくり、雪山を登り、滑り降りるなど・・一時期は雪を堪能した。
しかし、この20年ほどは雪を避け続けている。JAPAM GEOGRAPHICの取材もなるべく雪の時期を避けている。
原因は雪山での遭難・・膝のケガで身動きが取れず山岳救助隊のお世話になって以来・・ドクターストップもあり・・雪の降る地域をご無沙汰である。
だが、積雪を見てしまうと雪と戯れたくなる。
そして今年も先月わが家でも積雪があったこともあり、幼い時からの小さな夢であった雪だるまを作るべく・・花火も上がることもあり5年ぶりに雪だるまを造るべく京都府南丹市美山北地区を訪れた。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている 美山町北集落
かやぶき屋根の北山型民家が数多く集結している。
北山型民家の代表例
石田家住宅(樫原集落、妻入型)
小林家住宅(下平屋集落、平入型)
美山の一部では前週まで雪害で通行止めとあり、ノーマルタイヤしか持たない我が車(一応数年来使ったことのない・・巻き方の忘れかけているチェーンがトランクの肥やしとなっているが・・)では不安であったが、全くの気宇に終わった。
目的地の北地区も田んぼの中には雪が積もっているが通行に支障がなかった。
雪景色の美山町北集落
茅葺屋根に積もる雪が少なく・・時折雪が大きな音を立て自然に滑り落ちる・・残念なこともあるが、お昼前につき腹ごしらえを終えると、いつもは街並みの撮影だが今回は雪だるまの一択
設置場所は美山北地区撮影スポットの定番・・赤いポストの横を陣取ることに・・。
駐車場で雪灯篭用のバケツとスコップを借りて制作にかかる。
今年はウサギ年ということで・・まずはうさぎ型の雪だるまを・・モデルは「ピーターラビット」「バックスバーニー」「ミッフィー」を退け、我が家ではウサギといえば・・「マシマロ」・・白うさぎで作りやすさもあって決定。
マシマロ
鋭意作成中
続いて・・美山ということで・・茅葺屋根に雪がないのなら・・雪で茅葺の家を・・、モデルは近くの家・・
モデルにした??北山型の家
再び鋭意制作中・・熱気が籠ったのか・・上着を脱ぐほど・・
モデルの家にくらべ屋根を少し高く作ってしまった印象の茅葺の家が完成
最後はウサギの相棒といえば・・亀・・・茅葺の家制作中に声をかけていただいた地元スタッフの人のリクエストに応え・・モデルは頭に浮かんだ亀・・
トラブルもあったことから2時間弱かけ3体の雪だるま??が完成・・と思いきや・・予想外に気温が上がったため・・最初に造ったウサギが解け始め・・形が崩れるのを何度も補修しているうちに原型と違ってしまった・・
尻尾・・・後姿も一応再現・・後に評価してくれた人が多かった・・
完成が間近になるころにはうれしいことに、記念に??写真を撮ってくれる人々が集まってきた・・。
日が暮れ始めて・・雪灯篭用の蝋燭を点火・・雪灯篭に変身???・・
亀に関しては甲羅の上に蝋燭を載せようかと思ったが、周りの意見で前に置くことに・・
花火の時間が近づいたので行ったのその場を離れた。
わずか10分程度の花火であったが、茅葺屋根と花火のコラボに撮影者が撮影スポットに殺到??・・雪だるま制作の為(言い訳)準備できていないため・・花火の撮影は散々・・しかし、肉眼で見る茅葺き越しの花火は素晴らしく・・次回挑戦・。
戻ってみると、予想していた人以上の人だかり・・
彼らのアングルの世界には、ろうそくの光が幻想的に照らした世界を醸し出している・・(某撮影者の方の談引用)
やがて1つ1つのろうそくは燃え尽き・・、全ての火が消えたことを確認して車に・・。
多くの人に見てもらい、前回よりクオリティのあがったという感想もあっての満足感・・そして来年もという気持ちをもって美山の地を後にした。
前回(5年前)のナンチャって茅葺の家(屋根の形状がほぼ寄棟で異なる印象・・・)
****追伸****************
拙作を載せていただいたインスタやTWITTERの一部を載せて、拙作を撮影していただいた方にこの場を借りて感謝を申しあげます。
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■福岡・天神の水鏡天満宮が移転 田中康平
福岡市の中心部である天神地区の再開発(天神ビッグバン)の優遇措置適用は2022年12月まで申請の分まで、と期限を切られたことから年末に駆け込みの申請が幾つかあったようで、その中に水鏡天満宮の移転というのが含まれていて少々驚いた。よく見ると、現在の位置から川べりに向かってビル一つ分数十メートル移動するだけのようで大したことでもないようだ。
水鏡天満宮は菅原道真が讒言で筑紫に追いやられ博多で船から上陸した時、水面に映る己の姿をみて嘆き悲しんだことにちなんで上陸地点に造られた神社と伝えられている。
古くは海岸線が今より後退しており、現在の住吉神社のラインが海岸線で、その西の今の薬院新川(当時の四十川)沿いに容見天神(すがたみてんじん)というのが古地図に見える。これが当初の水鏡天満宮だったようだ(現在はその場所に容見天神跡の標識が残されているようだ。地図参照。古地図とは少し違うようだが)。
その後福岡城築城にあたって鬼門を封じるため現在の位置に水鏡天満宮として移されたと伝えられている。昔からそのくらいの重みだったようだ。今のこの地域の天神という呼び名は水鏡天満宮からきているのだが、そんな由緒にもとらわれずに今またあっさり移動してしまうところが福岡らしい。昔から古いことにはとらわれないそういう街だったという気もしている。調べるともう少し南にも容見天神が今もあってここも40年くらい前に近くの丘の上から移されたようだが、菅原道真が博多に着いた後、天を仰いで嘆いたところとの話が伝わっているらしい。そんな話はあまり聞かないが、言い伝えとはそのような漠としたものなのだろう。
コンサートを聴きに近くに行ったついでに今の水鏡天満宮の写真を何枚か撮っておいた。変わり続けるのが街というものなのだろう。
添付は1:博多古地図(元寇の頃の地図を江戸時代に再現したもの)、2:現在の福岡市中心部の地図、3-5:水鏡天満宮(2023.1.18撮影)
■流山 川村由幸
流山市は私の住んでいる柏市に隣接しています。2005年のつくばエクスプレス開業に伴い流山おおたかの森駅周辺の開発がうまく進み、今では子育てのしやすい町として注目を集めています。住みたい町のアンケートにも度々登場し人気の地域となっています。
そんな流山市の江戸川沿いにある流山本町には江戸時代の面影が残る町並みがあります。
ほとんどが国の登録有形文化財に指定されている建造物です。
流山市もこのあたりを流山本町江戸回廊と名付けて観光PRをしてはいるのですが、これらの建造物が建つ界隈はともかく道が狭いのです。
その上、流山おおたかの森周辺の開発発展のせいか車がとても多く、撮影していて危険を感じてしまいます。
さらにこれら建造物の修繕がトタン板でされているのに気が付き、いささか興覚めしてしまいました。
そして感じたのは、この景観を失うのももう間近だとの思いでした。流山市の関心は流山おおたかの森周辺でしょう。
しかも残っている古い建造物の規模では多くの観光客を呼び込むことも難しそうです。
2016年に撮影に出かけていますが、その投稿を再確認しましたら、その時から修繕箇所はトタン板でした。
なんとなく物悲しい思いで撮影を終了、JGへの投稿もしないことにしました。
リターンに対して、掛かるコストが大きければやはりそのコストを掛けることは出来ないのが道理。
近い将来、この町並みも失われてしまいます。
■ グランドパスで小さなバス旅 野崎順次
通勤にグランドパス70という高齢者用バス定期を使っている。半年定期が25,400円だが、尼崎市がほぼ半分助成してくれて、自己負担は12,900円である。自宅近くからJR尼崎まで片道210円、往復で420円、1ヶ月に20日通勤するとして8,400円、半年で50,400円となるので、ほぼ4分の1となる。また、尼崎市内路線は、2016年3月20日から阪神バスに移譲されて関係から、阪神バス全路線に使える。それだけではなく、今や阪神と阪急は経営統合されているので、阪急バス全線にも使える。ということは、京都府南西部、大阪府北部、兵庫県南東部の広い範囲で、極めて安価にバスが利用できる。そうでなくとも、私はバスに乗るのが好きである。自動車免許を持たないので、バス利用に慣れているし、昔から「ながら族」でバスに乗りながらの方が、読書やICレコーダーの録音再生に集中できる。あるいは、考えごとをしたりしなかったり、車窓の風景を見ているのも好ましい状況である。
というわけで、1月28日(土)の午後にバスの小さな旅に出かけた。とりあえず、有馬温泉に行こうと思う。仕事じゃないので、前もって時刻表を調べたりしない、行き当たりばったりである。距離は宝塚経由で20km余りか。
グランドパスと今回の最終ルート
家の近くのバス停で阪神尼崎市内線乗って、「武庫の郷」へ行く。
13:38 阪神バス尼崎宝塚線「武庫の郷」出発
最後部の席で後方の景色を撮影した。バスは尼宝線(兵庫県道42号線)を北上し、国道171号線と山陽新幹線のガードをくぐり、中国道西宮ICへの分岐を過ぎて、大きく西に曲がりつつ、国道176号線と合流する。
この辺りの176号線は宝塚大通りとも呼ばれ、歌劇場に近い。
14:10頃
宝塚に着いた。JR宝塚駅と阪急宝塚駅が並列し、その間にバス停がある。次に乗る阪急バス停に行くと、有馬温泉へのバスは1時間後である。外は寒いので、阪急百貨店食品売り場に入り、あれこれ見る。
15:00 阪急バス「宝塚」45 有馬温泉方面(JR西宮名塩、下山口経由)出発
続けて176号線を走る。武庫川沿いに上り、生瀬の町を通過する。その昔、武庫之荘に自宅から、篠山盆地までサイクリングしたことがあったが、帰りはずっと176号線で、ここらの下り坂が快適だったことを思い出した。
下山口あたりから寝てしまったようだ。起きると有馬温泉はたいそうな雪だった。
さてと、宝塚に戻るのは面白くないので、三宮に行こうと思った。おもむろにバス停の時刻表を見ると、最終の16:30発のバスに間に合う。ところが、時刻の横に神マークがついている。これは神姫バスで運行するという意味で、おそらくグランドパスは駄目だろう。何と、本日の小さな旅で最長の路線にグランドパスが使えないとは。
行き当たりばったりだからとあっさりあきらめて、三宮までの運賃710円を払うことにした。出発まで半時間くらいあるので、少しぶらぶらして、土産物屋をのぞいてみた。
バス停に戻る。バス停の横に袂石がある。
16:30 神姫バス「有馬温泉」6 三宮駅前(谷上駅、新神戸駅経由)出発
運転手さんの横の最前席で前方を撮影した。まだ雪がちらつく。
有馬街道に入る。神鉄有馬線とほぼ並行して三田と神戸を結ぶ兵庫県道15線である。逆光で夕景を撮るのは好きだが、注意力が落ちてきた。(実は有馬で地酒を飲んだ。)
谷上駅を過ぎて新神戸トンネル(阪神高速32号線)に入った。
この後、強い尿意を催し、万一の惨事に至らぬよう新神戸駅で降りてトイレに走った。そこから三宮までは阪急バスも阪神バスもないようなので、地下鉄を使った。
三宮センター街東出口あたりに阪神バスのバス停がある。その近くでストリートミュージシャンを鑑賞した。たまに実に上手なシンガーに出会うがこの二人はどうだったかよく覚えていない。
18:02 阪神バス西宮神戸線「三宮駅前」阪神西宮方面へ
この後は写真の記録がないが、阪神バスの国道2号線と尼宝線を乗り継いで、最初出発した「武庫の郷」に行くつもりだったが、しんどくなった。手前の国道芦屋で降りて、阪急芦屋川駅まで歩き、21:20頃、自宅に戻った。
■『パチンコ・ノ・とどめ』 柚原君子
父と弟は男湯の下駄箱にサンダルを入れた。私と妹は女湯の下駄箱にサンダルを互い違いに伏せて入れて下足札を取った。桶の中には石鹸とタオルと櫛とあかすりが入っている。抱えたバスタオルの中には着替えのパンツ。
父と弟、私と妹が男湯と女湯の引き戸を同時に開ける。番台のおばさんが「みんな一緒ね。大人が一人で23円、子どもが三人で24円、シャンプー代が10円。えーと、えーと」と計算をしていく。父が100円玉を出す。
入り口の脇に積んである目の粗い大きな籠を二つ持ってきて床の上に置く。小さな庭に面して木の長イスがおいてあり、近所のおばさんが裸で座ってコーヒー牛乳を飲んでいた。
妹が「お父さんコーヒー牛乳代を持ってきたかな」と言う。
「持ってきたでしょ。あとで番台のおばさんに聞いてもらおう」と私が言う。
銭湯にはお湯から出てきた赤ちゃんを引き取って面倒をみてくれるおばさんが働いていて、洗い上げられた赤ちゃんを受け取り、ベッドに寝かせて、タオルで拭いた後におしめをつけてくれる。備え付けの天花粉をあごの下から上半身一面にぬられて真っ白になった赤ちゃん数人が足をバタバタさせている。
浴場内で洗ったり湯船に沈んだりしていると、やがて男湯のほうから「きみちゃん!出るぞぉ~!」と父の声がする。
「うん、私たちも出る!」と妹が大声で答える。使い終わった木桶を伏せて積み重ねて、ぬれたタオルをきっちり絞って体を拭く。それから自分の籠のところに歩いていく。
番台のおばさんにコーヒーを飲んでもいいかと父に聞いてもらう。父がいいよと答えているようだ。ついでに妹が男湯にいる父の方に行きたいと言うので、番台の前の戸をあけてもらってすばやく妹を押し込む。
やがて父と弟と妹ががやがやと出て行く気配。番台のおばさんが卓球場に行くの?それともこれ?と親指を手の内側に曲げたり伸ばしたりした。
★
銭湯のすぐ近くにパチンコ屋さんがあった。私がまだ小学生の頃だった東京の下町。銭湯に行くのは三日に一度くらいだったように思う。家業の大衆食堂の定休日と銭湯に行く日が重なると父と一緒によくパチンコ屋さんに行った。当時、風紀が悪いとか清く正しく子供を育てましょうとかの厳密な区分は下町にはなかったようで、ここから先は駄目とか、いいとか、大人社会に適当に子供が混ざったり外れたりしていた。
パチンコは立ったまま打つ。もちろん自動ではなく親指で一つ一つはじくタイプである。父は玉が出れば緑というタバコと換える。時折それにキャラメルが混ざる。父の台にたまる玉を父が分けてくれる。弟と妹と私と三人並んで指ではじいていく。台の中側では玉を足していくお兄さんが動いている。増えたり減ったりしていた父の玉が本当に無くなってしまうと「せっかく出始めたのにお前たちが取ってしまうからなぁ」と父が言う。足元に置いてあった銭湯の道具を持ってみんなで一緒に家に帰る。
母と祖母はふるさとの言葉が抜け切れずに名古屋弁で「やっぱりあかんぎゃ、子どもを連れとってはパチンコになれせんでしょう」と言う。
★
結婚をしたあと夫と死別をした。
当時長女が10歳、長男が8歳だった。長男を男として育てる見本をどうしたらいいのか悩んだ。私がいくら威勢良く乱暴に育てても男の考え方と女の考え方は性差からくる基本的なところでもう違っているであろう、と悩んだ。
それで、まだ存命だった父とそれから子育てを我が家と同じような段階で進行中の弟に、「男の目」としての見本や考えを学ばせてもらいながらなるべく意見を聞いた。その上、もし夫が生きていたらさせたであろうと思えることは率先して息子を連れまわした。
魚釣り、キャッチボール、笑われるかもしれないけれど、パチンコにも。
長男を男らしく育てるのに必死だった。
京成高砂に夫のお墓がある。その駅前には二軒のパチンコ屋さんがあって、お墓参りのあとに息子をよく連れて行った。夫が生きていたら息子と仲良く行ったかもしれないパチンコ屋さんへ私が入るのは、私にとっては子育ての一環であったから恥ずかしいこともなかった。
★
年の暮れにお寺さんへ挨拶に出かけた。お墓を掃除してお酒とお花を供えて拝んだ。そのあとは高砂の駅のすぐ脇にあるイトーヨーカドーで買い物をする。高校生になった息子はお墓参りもスルー。もちろん母親と歩くのなどまっぴらゴメンの年令になっていたから、パチンコに息子を連れて行く必要がなくなってからの私の墓参のコースである。
けれどもこの日は何か妙に胸騒ぎがした。パチンコ玉がジャラジャラと出る予感で頭がいっぱいになっていた。10年ぶりに足が向いた。
店内に入る。なるべく人のいないところに座った。ムムムゥお金を入れる場所がない。係りの人がカードでやる機械ですよ、と言う。お金でやるのはあちら、と指差された台に移る。500円玉を入れたら自分が座っている台の隣に玉が流れ出た。父親が頂点の釘の少し左側に当たるといいぞと言っていた事を思い出す。
打ちだしてすぐに台の周囲の赤ランプが派手に点滅した。数字の両サイドが7と7になった。その真ん中に猪八戒のような豚がいろいろな数字を置いては潰してまた置いては潰している。最後に置かれた数字は7だった。
777!係りの人が飛んできた。この間わずか5分。なんだか玉がどんどん入る。下からどんどん出る。あふれそうになってもどうやって大きな箱に入れたらいいのかわからない。
後ろに立ってみていたおばあさんが「初めてなの?いいわねぇ。これって150回も開くやつなのよ。いいわねぇ」と言いながらレバーを横に押して玉が下の箱に入るようにしてくれた。玉が出続ける。箱がいっぱいになった。やがて派手についていた赤いランプが消えた。私は予感が当たったことに感動していた。
★
男の子を育てるためにパチンコにも平気で連れていっていた母親だった私。
必死だったあの頃が何だか懐かしい。27歳になっている息子に今日の777を報告したら「とどめが肝心だよ。ランプが消えたところでやめて正解」と説教された。
息子は……パチンコが嫌いだそうである。
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