Monthly Web Magazine Mar. 2023
■蟇股あちこち 35 中山辰夫
今月は、岐阜県の南宮大社(重文)、真禅院(重文)、名奈波神社(県文)、善光寺、岐阜東照宮です。
加えて飯野八幡宮(福島県 いわき市 重文)と境内社の若宮八幡宮(重文)です。
八幡宮は極彩色の蟇股が並びますが、蟇股の形式は福島県やその近辺県でよく見られた「蓑束式蟇股」です。
1642 南宮大社
岐阜県不破郡垂井町宮代1734-1
街中に建つ国重文の石造大鳥居を過ぎ、朱塗りの大鳥居から約600mゆくと周囲を杉の大木に囲まれた雨宮大社が見えてきます。
崇仁天皇の時代に創建されたとされます。「延喜式神名帳」に名神神社に列し、美濃国一宮とされました。
1600年の関ヶ原の戦いで社殿を焼失、1642年に徳川家光が再建、現在の社殿が造営されました。再建には家光の乳母・春日局の力添えがあったようです。
1868年の神仏分離で神宮寺が分離移転しました。これが真禅院です。戦後、雨宮大社と改称されたのは戦後です。
境内を巡ります
□楼門 国重文 建立:1642 三間一戸 入母屋造 檜皮葺 蟇股は四面に10個並んでいます
某社
手水舎
□高舞殿 国重文 桁行三間 梁間三間 一重 宝形造 檜皮葺 十二支の「刳り抜き蟇股」が配されています。
蟇股 一面三個で四面に並んでいます。
正面
右側面
背面
左側面
□拝殿 国重文 建立:1642 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 妻入 正面唐破風付 檜皮葺
妻飾り
□幣殿 桁行一間 梁間一間 一重 唐破風造 妻入り 檜皮葺 よく見えません
□本殿 国重文 建立;1642 桁行三間 梁間四間 一重 入母屋造 向背一間 檜皮葺 ほとんど見えません
本殿、幣殿、拝殿側面(南面)
□回廊 国重文 建立1642 左右とも桁行十一間 一重 唐破風造 銅板葺
西回廊 蟇股は全部で十個配されています
東回廊 全部で十個配されています。
□勅使殿 桁行七間 梁間五間 一重 入母屋造 妻入 桟瓦葺
□摂社高山神社本殿 国重文 建立:1642 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
□摂社隼人神社本殿 国重文 建立:1642 一間社流造、檜皮葺
□摂社南大神神社本殿 国重文 建立:1642 一間社流造、檜皮葺
□摂社樹下神社本殿 国重文 建立:1642 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
■徳川家との関わり
南宮大社は、関ヶ原の戦いの際にほとんどの社殿を焼失しました。
高須藩藩主徳永寿昌と竹中半兵衛の従弟竹中伊豆守重孝は社殿再建に尽力し、1611(慶長16)年に仮社殿が出来、大社の経営に尽力しました。
竹中伊豆守重孝は関ヶ原戦のとき、徳川家康の代参として雨宮大社に戦勝を祈願、桃配山を陣地にするよう進言、1615年の大坂夏の陣での戦勝祈願
1634年の家光病気祈願、1639年春日局代参による「若君誕生祈願」などで、徳川家と大社との因縁浅からぬ関係が続きました。
そうした結果、1642年に幕府の費用で現社殿が造営されました。
1642 真禅院
岐阜県不破郡垂井町宮代2006
南宮大社脇の坂道を西へ1kmほどのぼると樹間に三重塔が見えます。そこが朝倉山といわれている真禅院です。
前身は739年行基により創建された象背山宮処寺とされます。延暦年間に最澄が雨宮寺と改称しました。
真禅院は天台宗の寺院で、山号は朝倉山。山号にちなみ朝倉山真禅院、朝倉寺、とも呼ばれます。かつての雨宮大社の僧坊でした
神仏習合の雨宮大社が、明治の神仏分離に伴い、神社内にあった三重塔、本地堂が現在地に移され、朝倉山真禅院として再出発しました。
表参道は緩やかな石段道。山門をくぐると境内で、正面に本地堂が見えます。
□本地堂 国重文 建立:1642 一重 入母屋造 妻入 檜皮葺→桟瓦葺 明治初年に移築
妻飾 2001年撮影分と2022年撮影分
蟇股 見舎4面に14個配されています
蟇股
□三重塔 国重文 建立:1642 明治初年に移築 長押しなどに極彩色の文様が見られます
蟇股 4面に12個配されています
南側
北側
西側
東側
□梵鐘 国重文 無銘ですが撞座の一、龍頭の取り付き方などに古代鐘特有の形式を示し、奈良時代から平安時代前期の制作と推定されます
観音堂
不動堂
伊奈波神社
岐阜県岐阜市伊奈波通1-1
金華山の麓に鎮座しています。社伝によると、創建は景行天皇の時代とされます。
1539年、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在地に遷座。この際、その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守としました。以降も、岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けてきました。
現在の社殿は近現代に整備されたもので文化財指定のものはありませんが、楼門や拝殿などの社殿が並び建っています。
神社の境内は西向きで珍しいです。社務所です
二の鳥居の先に神橋と楼門があります。鳥居は石造の明神鳥居
手水舎
□楼門 三間一戸、楼門、入母屋、銅板葺。下層。柱はいずれも円柱。
柱間は三つあり、内一つは通路となっています。柱上の組物は三手先。桁を介して上層の縁側を受けています
蟇股と木鼻
中備の蟇股、はらわたの彫刻は植物の葉ヲモチーフにしたと思われる抽象的な意匠。蟇股の股の部分左右の端)にも葉の意匠が付いています
神門 一間一戸 四脚門 切妻造 銅板葺
蟇股の彫刻は龍とおもわれます。笈形にも精巧な彫刻が施されています
妻飾り
笈形付き大瓶束です。 破風板の金具にも菊花の紋、懸魚は三花懸魚、桁隠しは雲の意匠
回廊
神門の左右は回廊付。右手のものです。柱は円柱、柱上の組物は舟肘木、妻飾りは笈形付大瓶束 破風板から下る懸魚はH型の独特な形状です
拝殿 桁行五間 梁間四間 入母屋造 銅板葺
神社建築に珍しい土間の床です。
細部
蟇股 五個並んでいますが、二種類しか見えませんでした。
本殿は見えません左庇(拝殿)・中央( 神楽殿 )・本殿と並びます。
神輿庫 木鼻は龍です
扉部の彫刻
彫刻は亀、虎、鶏、龍です
末社 岐阜東照宮は別に掲載します
善光寺
岐阜県岐阜市伊奈波通1-8
伊奈波神社の門前に鎮座している真言宗醍醐派の寺院です。別名は善光寺安乗員、岐阜善光寺、猪奈波善光寺と称されます
創建は安土時代、善光寺(長野)の善光寺如来が織田信長によって当地に移されたことに由来します。
その後各地を転々とし、織田秀信(信長の孫 三法師)が当地に善光寺如来の分身を祀った堂を作ったのが始まりとされます。
現在の堂は大正期に再建されました。
善光寺の境内は西向きです 伊奈波神社の参道の直ぐ隣にあります
本堂 入母屋造(妻入り) 向拝一間 軒唐破風付 桟瓦葺
向拝
中備の蟇股は龍 その上に笈形付大瓶束
唐破風の破風板拝みに下がる兎毛通は鳳凰
向拝は角柱、上端が絞られています、
組物は出三斗と出三斗をベースに、二段目を長い肘木で連結したもの 木鼻は側面だけに付いていて、獏が彫られています。
軒下 左が向拝側、右が母屋側
頭貫木鼻は波の意匠で、風変わりな意匠です
正面の妻飾り 背面も妻となっています
破風板の拝みは三花懸魚で、入母屋破風の内部は二重虹梁になっていて蟇股や軒支輪が見えます
手水舎 切妻造 本瓦葺
彫刻の題材は波に千鳥、鳳凰
弘法堂 2013年に再建
2017 岐阜東照宮
岐阜県岐阜市伊奈波通り1-1
江戸時代、岐阜奉行所内に創祀された「東照宮」で、現在は伊奈波神社境内に鎮座しています。創建:江戸時代 第五十番目の東照宮です。
岐阜奉行所に保管されていた徳川家康が発給した「伝馬朱印状」と、美濃国奉行であった大久保長安が発給した「五箇条法度)を「貴重なものである」として、神棚を設け御神体とし、徳川家康の神霊を祀ったのが始まりとされます。
以降、神廟としての形式が整えられ、「岐阜東照宮」と称せられ、尾張徳川藩主や、岐阜の町民から尊敬されてきました。
明治維新後派、岐阜市役所内に祀られていましたが、市民有志の発起で伊奈波神社境内に社殿を造営し遷座されました。
1891年の濃尾地震で社殿焼失。2017年に澤田栄作氏が社殿再建を発願、総工費5000万円で、2021年に完成しました。
社殿 樹齢300年以上の荘欅(白木)造
装飾彫刻 拝殿の蟇股 司馬温公の甕割りの故事を表わした彫刻―命の大切さを教えています。
1616 飯野八幡宮 本殿
1996年修理保存工事完了
福島県いわき市平字八幡小路
飯野八幡宮は1186年に石清水八幡宮から御正骵を奉じて物見岡に勧請したのに始まるとされます。
1204年に社殿を造営、南北朝の争乱などで社殿焼失―再建が繰り返されました。
1602年に現在地に遷宮、火災後1615年に再建されました。
現在、境内には本殿、拝殿・幣殿、唐門、若宮社、仮殿、神楽殿、楼門、宝殿が並びます。
□楼門 国重文 建立:1658 三間一戸楼門 入母屋造 銅板葺 附:宮殿一基
蟇股 周囲四辺に配されています
正面
見返り
側面
□神楽殿 国重文 建立:: 桁行二間 梁間二間 高さ約7㎡の方二間 入母屋造 鉄板葺 四方吹き抜け 格天井
本殿と拝殿・幣殿を取囲む瑞餓鬼の南面半分を占め、唐門の東にあります。当初の形態を引継いでいます。
□唐門 国重文 建立:1746 一間一途の水門 銅板本瓦葺
■若宮八幡神社 国重文 建立:1619 一間社流造前殿付 円柱 仮殿と同規模の建物 素木造 向拝付
本殿玉垣の外、向って左側に雁殿、右側に若宮八幡神社が位置します。仮殿創建に引き続いて平澤内匠助が完成しました。
□拝殿~幣殿~本殿配置
□拝殿・幣殿
破風周辺
□本殿 国重文 建立:1616 桁行三間 梁間三間 一重 円柱と 入母屋造 鉄板葺
外陣見通し と 本殿透視図
妻部
□蟇股
中備は各栱斗間に蟇股を据え、巻斗を乗せています。この結果、正面通りは蟇股が上下二段に入っています。
蟇股は全部で二十枚、正面通り下段三枚、外陣内部五枚、および上段蟇股の側面中央間一枚、背面通り三枚の恵十二枚が当初材で、その他の八枚は延宝(1674)に新補されたものです。材種は当初材、延宝財ともにスギです。
当初蟇股の寸法
足元長さ970mm、肩高さ273cm、厚み45mm、周囲に5mmの輪郭線入りです。
両肩の所に耳のついた「蓑束式蟇股」と呼ばれるタイプで、中世後半の北関東に多く分布し、その影響を受けたとされますが、蟇股の足は細く伸びやかですが、
足元に若葉がつくなど近世的意匠も見られ、内部の彫刻は凹凸が少なく、図柄も簡単なものが多いです。
延宝蟇股は、両肩の耳は無くなり、足も太く、足元の若葉が強調され、内部の彫刻も絵画的要素が見られ、内部の彫刻は輪郭にはみ出しています。
足元長さ1、061mm、肩高さ318mm、厚さ61mmで、当初蟇股より、少し大きめです。
当初蟇股 ・ 延宝蟇股
背面
側面
蟇股を並べます 工事報告書からの転記です。
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